オチを巡るあれこれ

BUMP OF CHICKENに「K」という歌があります。とても綺麗にオチの付く歌です。作品自体の主たる魅力は、そのオチの綺麗さに拠るものというよりは、歌われているよく作りこまれたストーリーに拠るものですが、最後に綺麗にオチが付くことで、作品が思いつきや成り行き任せで作られたものでは無く明確な創作意図に基づいて意識的に構築されたものである事が傍証されてるような気がして、作品に対する信頼度を高める一助となっている感じがします。

創作というのは、現実に対する嘆きや憤懣を思い付くままにだらしなくはき散らかすだけでもそこそこ作れてしまうこともあるのですが、そうした創作は、やはり受け手の心にはあまり響きません。現実を直視し、これを正確に認識・描写・分析した上で、そのように所与としてそこにある現実に対して、自分は世界かくあるべしと考える、それに基づいて、創作という架空世界を構築することによって世界を再構成してやるという、世界転覆・再編成の強い意志を感じさせないと、受け手に向かって一歩ぐいっと踏み出してくる創作にはなかなかならないのです。

オチが直接に作品の魅力の中心になっている訳では無いと言うことでは、落語のオチなんか、まさにそうですね。天狗裁きっていう、バカバカしさを極めた感じの傑作プロットを持つ噺がありますが、あれなんかも、オチは非常に綺麗に付きますけども、ありがちな再帰的入れ子夢オチであり、特にそれがダイレクトに作品の魅力に直結する訳ではありません。

一方、そば清などは、オチが作品の魅力の中心になってるタイプです。あのオチ、最初に思いついた人はすごいなぁと思います。ただ、あのオチ、機知に類するタイプのもので、ミソになってる発想に気づけないと「?」で終わっちゃう危険はあります。でもその辺は噺家さんも凄くよくわかってるようで、オチに落ちこぼれる人を減らすために凄く念入りに枕のところで伏線を張り巡らせて来ます。そういうとこ、落語の枕は凄く丁寧に気が遣ってありますね。時代背景的にわかりにくい前提知識なんかを細心の配慮でさりげなく解説してオチの前振りとかしてきます。

そういえば、川柳はオチが利いててなんぼみたいなところがあるのに対して、俳句だと変にオチが付いちゃうのを意識的に避けて、余韻を残すみたいな姿勢があるみたいですね。一般に大衆文芸はオチを好み、純芸術系はオチの明確化を避けるような傾向があるように思います。