理解することを諦めるから主観的になる

子どもたちと一緒にプロジェクトに取り組んでいると、彼・彼女たちの言葉にはっとさせられることがたびたびある。自分が子どもたちに伝えた言葉が、ブーメランのように自分に帰ってくることも少なくない。

ということで、印象的だった場面を思いつくままに紹介していきたいと思う。今日は表題の通り、情報収集から始まった「自分たちはなぜ主観的になるのか」という話。

「2030年の未来」を描くための情報収集

最近、高校生と「2030年の日本・世界はどうなるか」ということを探究している。これに関連する情報を収集するために何を使うか。

例えば本。未来を語るテーマの本はたくさん出ている。私は彼らに「ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉」を紹介した。この本は、テクノロジーの発展など未来に起こりうる変化が描かれるとともに、迎える未来は意志・選択によって変えられることが示唆されている。
私はこのスタンスが好きだ。成り行きに任せれば不幸せな未来が待っているかもしれないが、意思を持って自ら選択を重ねていけば、幸せな未来を創ることができるというのは希望が持てる。ただ、この本はとにかく分厚い。

まずはそれぞれ好きな方法・興味のあるテーマについて情報収集することになった。

1週間後に蓋を開けてみると、それぞれが情報収集に使った方法はインターネットが中心だった。本を読んできた者もいたが、拾い読み程度で読み切った本がある者はいなかった。
そうして集めた情報をメンバー間で共有しながら、2030年への憶測も飛び交った。

一通り聞いていたのだが、どうしてもいくつか気になることがあったので、つい口をはさんでしまった。

「その情報は誰が発信したものか?信頼に足る情報か?」

「自分の主張にとって都合のいい情報ばかりを選んでいないか?自分と異なる主張をしている人の意見も調べたか?」

すると、ちょうど情報リテラシーの授業を受けたばかりだった高校生の一人が、「そういえば、複数の情報を比較・検討するようにと言われました。」と答えてくれた。

そう、何とも情報収集の仕方が偏っているような気がしたのだ。

情報収集から得る結論が主観的になる理由

それに対する、別の一人の発言が今回の主題だ。

「自分たちは、そもそも難しい表現だと文章が分かりにくいから、分かりやすい情報に流れていたのかも。」

そうだったのか。たしかに一次情報は論文など難しくかかれているようなものも多い。まとめサイトなどの方が簡潔に書かれている場合もあるかもしれない。

「分からないことから逃げて、分かりやすいところだけを選ぶから、自分の主張につながる情報ばかりになって、意見がどんどん主観的になっていくんだ。」

たしかに、一理ある。

「自分にとって分かりやすい=自分の主張に合致する・自分の理解の範囲内」の情報を根拠にしていくと、意見は自分の主観に寄っていく。理解しがたい情報も含めて多面的に見ていくことが客観的理解につながるのではないかというのは一理ある。

自分たちの現在の問題はこれだと気付いた高校生は「分かった気にならない」という目標を掲げ、まずはメンバーでいくつかの文献を決めて、それを分かるまで読むことを次の活動として選んだ。

自分が発した問いから、思わぬ方向に気付きが進んでいくのを見るのは面白い。

人とのコミュニケーションも同じかもしれない

ここまで情報収集について書いてきたが、これはもしかしたら人とのコミュニケーションも同じかもしれない。相手の態度や発言を自分にとって分かりやすいように解釈し、相手の言動の背景など分かりにくいものを理解しようとしないから、主観的な理解に陥り、それがときにストレスを生む。

苦手だと思っている人のコミュニケーションにおいても、分かりにくいものを分かろうとすることから始めてみると、その関係性は新たな形に至れるのかもしれない。

高校生の一言は奥が深い。私も日々学ばせてもらっている。

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