アウトプット地獄の遺産

良い話と悪い話がある。悪い話から始めよう。

noteでデザイナーとしての「ゆるやかな死」といった記事が投稿された。

これはあるデザイナーが自身のセンスを使い切ってしまって仕事を辞めてしまったという話。物語の最後でモンブランさんは語っていた。

インプットをやめるな。死ぬぞ。
大きく出た見出しだけど、やることは些細で良いと思う。雑誌、中吊り広告、Webサイト、ネット記事、どんな些細な事でも読んでみること。例え、忙殺されていたとしても。気分転換だよ気分転換。
あと、これも些細でいいのでアウトプットをすること。デザインをおこせとかじゃなく、インプットした記事に対しての自分なりの着地点を話すくらいは出来るようにしておく。

それが大事だと……モンブランさんは記事の最後に「おっぱい」と付けていたのでこの記事の着地点は「おっぱい」なのだろう、きっと。おっぱい。素晴らしい。

着地点はとにもかくにも言いたいことは分かる。

・何かを描くためには何かの刺激を受ける必要があるのだ。

・アウトプットを続けるためには、インプットを続ける必要がある。

・でなければ、クリエイターとして死ぬぞ。

あと記事で書かれていた「センスの枯渇」って台詞が凄く良いです。しっくりきます。


では、どんなときに刺激を受けるだろうか?といったら基本的によくあるのは人と人が繋がるときだ。僕は以前、ひとりでは考えつかないようなことでも複数人が集まって考えれば思いもよらない答えに辿り着くことがある、と書いたことがある。それと同じことだろう。

とはいえ、こんな解答は抽象的すぎるからもっと具体例を挙げるとたとえば食事を取れば作った人の思惑が届くかもしれない。あるいは料理を開発した人の思考の過程を感じるかもしれない。日常的な食事でさえも人々の混じり合いはある。もっとも日常的に行ってしまう食事に対して刺激を受けることのできる人は多くはいないだろう。遠出して美味しいモノを食べたり、誰かからのご馳走を頂いたり、あるいは誰かとの食事。と、普段とは違う何かが必要だとは思うがその全てに人が関わっていることは間違いのない事実である。

僕自身の話をするならば、一番刺激を受ける素材は「文字」で次に「音楽」。そして「絵」の3つが一番大きいように思える。こうして書いている記事だってモンブランさんの『デザイナーとしての「ゆるやかな死」』を読んだときに衝動的に書きたくなっただけにすぎない。

もしかしたら、と。

こんな想像をすることがある。

こうして僕が記事を投稿するのは一種の言葉のキャッチボールに当たるのかもしれない。ある作家の小説の感想を書いたとき「感想もらえると、自分の投げたキャッチボールを見も知らない誰かがしっかり受け止めてくれてることが分かって…こう、なんというか毎回すごくホッとするし有難い気持ちになる」とつぶやいてくれたことがある。こんな風に言って貰えるとやっぱりなんか嬉しいし……べ、別に求めていたわけではありませんけどね?(めちゃ挙動不審)

この記事だって、どこからかの対価が欲しくて書いているわけではない。対価が欲しいならば分かりやすい形として「収益」を得るためにメンバー専用の記事にするし、そうでなければ広告の付くブログに投稿するだろう。だから、これは対価を求めて書いているわけではない。ただの娯楽であり、暇つぶしであり、自分自身に送っている物語でしかない。と、僕はMediumに投稿している記事では未だにメンバー専用の記事を書いていないため全部そうなるわけだが、そのうちメンバー専用の記事書いてみたいよねって思っている。

ちょっと話は逸れるけど、簡単に(いつか詳しく書きます)。Mediumのメンバー専用の記事の品質が高いか、っていうとぶっちゃけ普通。まあ、だってそうだよね。他のサイトだったら月額制にするか広告で収入を出しているのに対して、ここはメンバー専用にしなければ収入が出ないのだから、とりあえずでメンバー専用になってる記事もあるかな。ちょっと調べれば他の場所で無料で読める記事も普通にメンバー専用になっているから、そんなに重く考える必要はないんだと僕は思っています。そのうち、メンバー専用の書きます。気楽に。

ずっと前、といっても今も「ロイター」で人工知能がTwitterで情報を収集して記事を自動で書くといった類いのジャーナリストを殺しに来るのではないか、なんて記事が投稿されたのを覚えている。人工知能は人間以上に想像ができるのだろうか?人間の代わりにクリエイターができるのだろうか?自動で絵を塗ることや、自動で献立を考える人工知能が実在するのは事実だ。

僕はこれに、ひとつの答えを出している。人工知能が人間の無駄に無駄を突き詰めたような感情を理解出来ない限り不可能、だと。

人間の感情を理解するまで、あくまで人工知能は人工知能。……こういってしまうとなんだが、僕自身はちょっと不完全なぐらいが好きだったりする。無駄でも、そこに人の感情が詰まっているとどんどん惚れてしまう。そんなタイプだから、そんな風に思うのかもしれない。 — — ここが好きだから描くの!ってどうしようもないくらい表現を人工知能がしたら見てみたい。彼らは何かを好きになるのだろうか?もっとも僕自身でさえも好きなんて感情は理解しきれていないほど複雑だと思っていますが。

もちろん、得意分野や苦手分野。

というものがあるし、以前僕は、情報の偏りを僕は指摘した

どこかで人工知能の方が効率的になる部分は必ず生まれるだろう。それは事実として考える必要があると思っている。

それに偏った情報から良い刺激を受けるのは難しい。個の味が濃いものは良い刺激を受ける。個の味が溢れ出ているモノを僕は「文字」や「絵」「音楽」だと思っている。素晴らしいよね。

それはさておき、人間の「感情」を理解出来てしまった人工知能も生まれるかもしれない。そしたら素直に認めるしかない。……きっとそれは極限まで観察に観察を重ねればできるのではないか、なんて今更な解答してみる。

かつて人の「嘘」を分析しきった人がいたというし、そこからの応用と発展で同じように人工知能だって人を分析することはできるのかもしれない。


悪い話の着地点

アウトプットをし続けてしまえばいずれセンスが枯渇してしまう。それは先に書いたデザイナーの記事で先輩の退職として実例が紹介されている。そしてセンスのため込みとは決して簡単にできることではない。疲労や病、あるいは時間が足りなくて、その他の精神的な負担が強くかかっているときには何もため込むことが出来なくなってしまう、そんな可能性もありえる。決してインプットは楽ではない。故にセンスの枯渇はどこかで訪れる可能性が常にあるのだということ。

僕たち、創造者(作り手)としての死はすぐ側に潜んでいることを忘れてはいけない。

だが、しかし、と僕は良い話を語ろう。


アウトプットの遺産

僕はさっき「これは対価を求めて書いているわけではない。ただの娯楽であり、暇つぶしであり、自分自身に送っている物語でしかない」と語った。

あえて対価らしい対価をあげるならば自分自身に送ることが対価だったりする。

それは記憶と呼ぶのか、記録と呼ぶのか、遺産と呼ぶのか。人それぞれだと思う。

ちまちまとMediumやnoteではライフログ(日記)を見かける。僕自身もふとしたときに日記を書く。何のために日記を書くのかと言われたら書きたくて書いているとしか言いようがないものだけど、いつか読み返す機会があったらきっとそれは生きていた証として僕は読み返すことができるだろう。……そうはいっても、そうはいっても。中学生時代に日記を書いていた僕はあの頃の日記は目を通すだけで悶え死にそうなので何回も捨てようと思ってギリギリの一線で踏みとどまっているだけにすぎない。パソコンの中身よりもヤバいことがリアル割れどころか、実物として残っているって怖すぎると感じる世代です。

そんな風に日記に関しては「遺産」と呼ぶとちょっと待てと言いたくなるけど、僕自身本好きとして一度は通るであろう道を通っている。自分で小説を書いてネットに投稿するということを。僕もやっていて、今でもその小説は読める。中学生時代も、高校生時代も、社会人になってからも書いた。それらは今でもちょっと苦い思い出込みで読みづらくても読み返すことができる。

これが僕の生きた証。

僕は過去の作品に対してそんな風に表現する。僕はもしかしたら、10年経っても同じように過去の作品を生きた証と語り続けるのかもしれない。そう、生きた証。

こうして書いていることだって生きた証を僕は残したいと思っているから。自己満足。承認欲求。そんなものかもしれない。でも、良い。僕は僕の生きた証が欲しいと思うくらいに飢えている。そんな人は結構いて、そんな人が利益の発生しないメディアを始めてしまうのだろう。もっともそれだけではないだろう。Twitterで無料のつぶやきから大きな収益につながった話もある。本当に、それだけではないだろう。しかし、それだけの話もある。

アウトプットの良い方面についてあとひとつ。

物語の登場人物たちは自分を含めて予想外の動きをすることがある。僕がこうして記事を書いているときだってアウトプットをしながら新しいことが思いついている。予想もしなかった文章が出てきている。アウトプットは新しい可能性を見つける手段にもなりえるのだ。


アウトプットの遺産についてまとめると

アウトプットとは生きた証にもなる。

10年、20年、果てしない未来。もしかしたら、インターネット投稿であるが故に数100年単位で残ることだってありえる。数100年も生きた証が残るのはちょっと嬉しさと恥ずかしさが混じってよく分からない感じになるけど、僕は悪い気持ちにはならない。

何100年単位で昔に生きていた偉人の話を聞くと彼らは現代まで語り継がれると思っていたのだろうか?たとえばおよそ500年前に出版された「ドン・キホーテ」彼の物語が現代の中二病なんて単語で復活すると誰が想像しただろう?きっと誰も想像しなかった。つまり誰もが想像できなかったことが未来で意味を成すこともあるんだって思う。ちょっと痺れる。

たまにMediumの記事に対してコメントや拍手を貰えると、なんとなく意味があったのかな、って思う。なにか意味を成せたのかな、って。狙っていたわけではないと格好付けて言ってしまう部分があるとしても、何か意味を成せたのならばそれは嬉しいし、良い方向の感情がどんどん沸いてくる。それを忘れないようにしていきたい。……批判・批評でも僕は喜ぶゾ?批判・批評ってゾクゾクするよね!!

(Medium内のコメントでもTwitterからのコメントでも大歓迎ですよ!でも、Twitter今はリアル割れ対策で鍵アカ中なのでちょっと届かないかもしれませんが)

アウトプットには悪い方面もあれば、良い方面もある。

このことを忘れないでいようと思う。


最後に、読んでくださった方々ありがとうございます。


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