ミルキーおふくろプロパガンダ

「おかしのまちおか」は偉大だ。遠足に持参するお菓子を物色する子どもから、今宵の晩酌のジャンクなお友だちを品定めするおじさんまで、幅広い民のニーズを満たしている。

最寄駅からの帰り道、最短を選ぶならば、まちおかの店前を通り過ぎなければならない。一昨日も「定価56%OFF‼‼」と4つ並んだビックリに本能を刺激され、本当はその隣に置いてあった青りんご味のハイチュウを食べたかったのに、めったに食べないミルキーを買ってしまった。いま思えば一緒にハイチュウも買えばよかったのだが、「ソフトキャンディー被せるのはナシ、同じジャンルは1つまで」という自分ルールが無意識下に働いたのだろう。贅沢するのは難しい。

そのCMは、今でもハッキリと覚えている。「ミルキーはママの味」とは、もはや清々しいキャッチフレーズだ。日本人にとって、そんなわけはない。そんなわけがなさすぎるから、頭から離れないのかもしれない。なんとも肝の据わった言葉遊びである。

ふと、実家の近所に不二家の直営店があったが、店前に立っている等身大のペコちゃんが不気味で近づけなかった、そんな在りし日のことを思い出した。舌を出しながら焦点の定まらない目、表情を固め微動だにしないあのマスコットに、幼い僕はチャッキーや喪黒福造と同レベルの狂気を感じていた。表には悪者的なイメージが一切ないから、なおのことだ。どこまで子ども相手に遊ぶのか、不二家には傾奇者のDNAでも流れているに違いない。

「おふくろの味」は、今や政治の道具である。自分には縁もゆかりものないはずの「ふるさと」の歌詞に郷愁を覚えてしまうのも、肉じゃがに家庭的なイメージを持ってしまうのも、実態のない「ニポン的」文脈に染まっているからだ。

今では「おふくろの味」よりも「ママの味」や「母さんの味」の方がしっくりくるだろうし、「パパの味」「オトンの味」の人々だって大勢いるだろう。要は「おふくろの味」という表現の中には、昔から使われてきた名残りでそのまま入っている青色何号よろしく、人工着色料のような「家庭の味=おふくろの味」という固定観念が添加されている。

食卓の在り方、家族の在り方は、言うまでもなく多様だ。「おふくろの味」が「卵を乗せたチキンラーメン」や「オリジン弁当に添えられたインスタントの味噌汁」だっとしても、それは少し心許なくも感じられるが、不幸だとは限らない。「子どもには母親が手料理を作るべき」なんて正しい論が、世間一般の“ふつう”とは違う、けれども直向きで健気な家庭の幸せを、そのバランスを崩してしまうこともある。

そう言えば、僕にとっての「母さんの味」は、と考えてみると、意外なことに思いつかなかった。別に、うちの母が料理をしない、あるいは苦手、というわけではない。むしろ、料理は上手かった。語弊なく言うと、今でも上手い。特別凝っているわけでもないが、カレーもウマいし麻婆豆腐なんかもウマい。ハンバーグもウマいし、米もウマい。炊くのが上手い。

高校時代に持たされた弁当には、冷凍食品が惜しげもなく活用されていたことだろう。それでも、あの頃の母の弁当はウマかった、という記憶が残っている。組み合わせの妙というやつか、毎日飽きることはなかった。

ああそうか、これと言って一品挙げることができないのか、と気づく。幸せなことだな、と思う。今でも実家に帰ると連絡した際に、「なに食べたい?」と聞かれると、困るのだ。明らかに悪手とはわかっていながらも「なんでもいい」と返答してしまう。本当に「なんでもいい」と思っているのだ、どうせウマいから。僕にとっての「母さんの味」は、手作りも出来合いもひっくるめて「母の献立すべて」なのだから。既製品にも選ぶ愛が宿る。こんなこと、面と向かってじゃ、到底言えたもんじゃない。

久しぶりに実家に戻っており、夕暮れ時の街を歩いたら、なんと不二家がつぶれていた。好きではなかったくせに、寂しく感じてしまう。記憶をかすめたのは、ペコちゃんからの虫の知らせだったのだろうか。ずっと同じようにあると思っていたものが、突然消えたりするのは、世の常だということを、私たちはよく知っているのに、都合よく忘れがちだ。

夕飯の食卓には、今年初の秋刀魚が並んだ。家で焼くのは面倒で、臭いが部屋につくんだと、終始ぼやく母。気の利いた言葉は出て来ず、ただ、いつもより心を込めて、いただきますと、ごちそうさまを言った。

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