「打つ」と「書く」は別物

先月の誕生日、友人から手紙をもらったので、その返事を書いた。久しぶりに手紙と対峙したら、びっくりした。普段、仕事で四六時中、文字を書いているのに、それとはまったく違うことをやっているように思えた。

便箋を滲ませるインク、そこに込めた思いの丈は、ペン先を離れた瞬間、自分から切り離されていくようで、それはフィルムカメラのシャッターを恐るおそる切る刹那の感覚と似ていた。一度書いたら、直せない。消しゴムで消すことはできても、書く前と同じ状態には戻らない。緊張感が、脳の普段使っていない部分を、焚き付ける。

普段カタカタと原稿を作り上げる時の行為は、やはり厳密に区別すると「書く」ではなくて「打つ」なのかもしれない。同じ文章を紡ぐ作業でも「書く」と「打つ」では、思考が行為として出力されるまでに、通るルートが違う。

ものすごく細かい“動作”レベルの話に下ろすと、「あ」と表記する際にコマンドする行為は、「打つ」の場合は「Aを押す」こと。一方で「書く」の場合は「横棒を書き、縦棒を払い、のっぽいヤツを合わせる」と、少し複雑だ。行為が複雑な分、命令には負荷がかかる。負荷がかかるということは、実行する前に「それをやるべきかどうか」をよく検討する必要性が出てくる。

そんな頭でっかちな話はさておいても、手紙の力はすごい。たった一人を本気で思い、伝えたい気持ちをえいやと紙に込めるとき、紋切り型ではない、極めて澄んだ言葉が出てくることに驚いた。

いざという時のペンの重みと力を、思い知る。書き上げた手紙は、ほとんどラブレターだった。

出してしまった今、そのディテールは覚えていない。忘れるくらいが、ちょうどいいのだと思う。何度も反復して記憶に定着した思案は、良くも悪くも調教されたテンプレート。忘れるのは、さほど重要ではないか、定型化されていない思いの原液だからだ。かぶれるかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。先に手紙をよこしてきた向こうが悪いんだ。

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