文章における手癖からの脱却

Takeshi Nishiyama
創食ダイアリー
4 min readSep 8, 2017

「きれいにまとめようとすること」からの脱却、プライベートではそれが目下の課題だ。

ある着想を得た時、それをいかにもコラム的な構成で捉え、いい感じのオチまで脊髄反射のように考えてしまう。実際に、起承転結でパッとアウトラインが引けてしまう。それは、これまで培ってきた技術や経験から生まれる思考であり、誇れることであるのは確かだと思う。

一方でそれは、どうしようもなく手癖だ。「y=2x+1」のような、制御の効いたプログラミングに近い。違う、いま個人的に欲しいのは、すでに持っている計算式ではなくて、もっと解けないエラーだ。

家族のように思っている友人に、写真家がいる。彼は見習いだと言うが、僕にとっての彼はすでに写真家だ。もっとも、出会った時はどちらかと言えば、カメラマンだった。しかも、まだカメラを覚えたてだった。彼は技術を学び、プロ並みに道具を揃え、2年間ほどかけて、商品的な撮影をある程度まで極めていった。そこから徐々に、作品的な写真の世界にシフトしていった。彼の心の中では、もっと違った変遷があったのかもしれないが、僕にはそう見えていた。

彼とはよく、一緒に映画を観に行って、その後に居酒屋でだらだらと感想戦をする。もう1年ほど前のことだろうか、彼は黒ラベルの生中をクッと煽りながら「心の動くままにシャッターを切ることが、こんなに難しいとは思わなかった」と言ったことがある。それは、ちょうど彼がカメラマンから写真家に移行していた(ように僕には見えていた)時期で、投稿した写真が雑誌などに掲載され始める少し前のことだ。

最近、彼の影響を受けて、写真日記を付け始めた。日頃カメラを常備して、毎日、気になった景色や物を、記録的に撮っている。そして、彼が言っていた「心の動くままにシャッターを切ること」の難しさ、その言葉の意味に、少しずつ触れ始めている。

何かにシャッターを向けた際、それは「なんとなく気になった」のか、「画になりそうと思った」のか。「心が動くまま」というのは、前者だ。一方で、後者は厳密に言うと、「心が動くまま」とは少し違う。その少しの違いが、突き詰めていくと、マリアナ海溝のように気の遠くなる隔たりに思えてくる。

「画になりそう」は、「これをこう切り取れば、構図的に見栄えがいい」「いかにも誰かが『いいね』と言いそうだ」という、言わば打算だ。撮られた写真は確かにキレイかもしれないが、そこに撮影者の心、感情の動きが宿る割合は、おそらく少ない。

「画になりそう」という気持ちも、「心が動いた」瞬間と捉えることもできるだろう。でも、やはり、何か違うのだ。それは、景色に撮らされている感覚に近い。それを「撮りたい」と錯覚させられている。これに気付き始めると、いよいよ「じゃあ、本当に心の動く瞬間って、何だ?」と、迷宮に突入する。

これは冒頭の、「手癖」に悩まされている感覚とよく似ていると、最近になって気づいた。求めているのは評価されやすい正解ではなく、今はまだ形にすらなっていない何か、なのだ。

彼は最近、いい写真が撮れるようになってきたと話してくれる。数百枚に、1枚。数百枚に1枚、自意識のフレームから脱却した心のままの写真……かなと思える1枚が、ぼうっと現れる。悩みながら続けていくうちに、それが500枚1枚、490枚に1枚、483枚に1枚と、確率が上がっていく。そういう世界なんだろう、そっちもこっちも。ある日突然、劇的に変わることはないが、重ねた時間は裏切らない。ゴールは見えず、気の遠くなるような、しかし真摯な道のりだ。

「手癖」という表現をすると、いかにもよくないものに思えてしまうが、それは確固たる経験値だ。過去の自分が大事に、大事に培ってきた技術だ。それを手放すことはもの凄く怖いし、物体のようにポイと捨てられるものでもない。手放そうと思う選択、それ自体が正しいのかもわからない。ただ、もう何となくとしか言いようがないのだけれど、手放そうとする意志は、間違いではないのだと、今は感じられている。

彼が彼自身を、一端の写真家だと認められた時には、僕も僕自身を、一端の物書きだと自負できるようになっていたい。

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Takeshi Nishiyama
創食ダイアリー

旅は道連れ世は情け、恩は掛け捨て倍返し、残す仕事に身を削る、湯とり世代の創食系。ばっかじゃなかめぐろ、なにゆうてんじ