太龍寺と大里

Tairyuji and Oozato

大里八幡神社

旧鷲敷町にある蛭子神社は口伝で和奈佐意富曽神社という話が伝えられている。しかし、旧海南町大里にある大里八幡神社の少し南にもその神社はある。ところで、加茂谷はこの大里とは古くから関わりがあるようだ。阿南市史第2巻に記載がある。

和奈佐意富曽神社
阿南市方面の山伏修験道の中心地は中世以降太龍寺とその山麓ではなかったかと思われる。…そのような環境から山麓の加茂谷地域や鷲敷町に修験者が生まれたと思われる。…なお、吉井町には海部郡大里村にいた長福院の弟子で後に菩薩山宝蔵院直同行を称し、…吉井町は大里村と関係が深かったらしく、前期の菩薩山宝蔵院直同行の他に元禄初年ごろ南光院なる山伏が大里村から来て宝性院を継いでいたが、村民の不始末が起き、その責を一人で背負い、現在の愛媛県宇摩郡土居町関川に移った。…なお、海南町でも昭和58年(1983)南光院快盛の顕彰碑が作られている。(p800 – 811)

旧海南町における歴史上の人物である南光院がここで出てくるとは思わなかった。少しビックリした。海南町史を紐解くと南光院のことが出てくるので、馴染みがある名前だ。海南町史下巻p373に記載されている。

法院南光院快盛阿闍梨は、正保元年(1644)年に浜崎で生まれた。先祖は遠く北面の武士であったともいわれる。家筋は大里浜崎では富豪の家であった。壮にして、当山派本山三宝院に学び、霊山入峰して修行を重ね、文武と法力を身に付けた。(略)
元禄初年のある夏のころ、豪雨が降り続き、海部川が氾濫した。上流にあった藩の伐木が下流へ押し流され、大里の人々が流木を拾い集めた。これを知った藩の役人が、「流木を拾った者は厳罰に処す」ということになった。
これを聞いた南光院は、不安におののく住民を救うために、自分の屋敷に木材を運ばせ、村民の罪を一心にかぶって行方をくらました。出発の前夜、村人たちはひそかに集まり、南光院と別れの酒宴を開いた。このとき焼きミソをさかなにして別れの盃を交わした。「わしはこの地を去るが、浜崎の人々の安全は必ず護る」といって旅に出た。浜崎の人々は、南光院の徳を慕い、今も焼きミソは食べない習慣があるという。
(中略)
南光院は、宝永三年(1706)九月五日、難民救済の祈祷をしながら、立ったまま間の姿で入寂(死亡)したといわれる。
(中略)
一の宮神社
出身地の海南町大里住民の尊信は厚く、大里八幡神社境内に小社南光院神社を祀ると共に、浜崎の氏神である一の宮神社にも南光院を合祀している。例祭は、南光院が去ったとされる上半月の十日としており、神前には必ずミソを供える。南光院の後裔長浜家では、日々礼拝を欠く事はない。昭和五十八年二月十三日、大里が郷土の生んだ偉大な修験者の威徳を称え、大里八幡神社の境内に南光院快盛の顕彰碑を建立した。
南光院快盛顕彰碑

さてどうだろう。和奈佐意富曽神社という延喜式の式内社が共通したかとおもいきや、江戸期の修験者もつながっていた。さらに集落の関連を裏付ける古い資料もある。それはなんと香川県にあった。これについてはこの次に。

大里八幡神社へのアクセス

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