シンポジウム記録

シンポジウム05|賠償・援助・振興 ── 戦後空間のアジア

戦後空間WG
戦後空間
92 min readJul 9, 2021

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登壇 ─── 宮城⼤蔵|⾕川⻯⼀|曺賢禎|⼩倉暢之|市川紘司(司会)
コメント ─── 尾島俊雄

⽇時:2020年10⽉17⽇(⼟)15時〜18時30分
場所:ZOOM+YouTube live
テープ起こし・原稿作成:和田隆介

1.開催挨拶

松田法子(京都府立大学):戦後空間WGは、現代日本の建築および建設のありようをはじめ、ものごとの状況や課題について考えるために戦後空間という概念を設定し、その空間性を考えるWGである。本WGは2017年2月に発足した。日本の都市や社会建設の急激な成長や国土の変貌において、第二次世界大戦後は大きな画期であった。その時代に構築されようとしていた理念や都市・建築のビジョンを再検討することを通して、それらを相対化し継承すべき普遍的な理念や課題の深部を抽出し明確化していきたい。そのために戦後の都市や建築の建設・活動・計画、それらに関する法制度・政策・出来事・言説、生活体験や文化をふくめ、さまざまな状況を対象とし、かつそれらが緊密に結びつけられた領域の総体を戦後空間と名付けた。それは今日の建築や都市、地域や国土のありようを深く規定してきたのではないかという仮説にもとづいて活動している。

これまで本WGでは連続シンポジウムを開催してきた。簡単に過去のシンポジウムについて紹介したい。

第4回までは1950年代から1990年代までの諸事情を取り上げた。第1回は「民衆・伝統・運動体」として1950年代を取り上げ、建築と文学という運動と、日本とアメリカという地理的空間から東西の軸を描きつつ、その戦後空間性を浮き彫りにした。第2回は「技術・製作・産業化」と銘打って1960年代を対象化し、住宅の現実と可能性について考えた。第3回は「民主化・まちづくり・広場」というテーマのもと、60年代から70年代の革新自治体に注目し、そこにおける都市や建築のレガシーとは何だったかについて論じた。第4回は「バブル・震災・オウム教」と題して90年代を取り上げ、戦後空間の廃墟的な状況について考えた。5回目となる今回は、戦後空間をアジアという地理空間において捉えるという試みである。

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2. シンポジウム趣旨

市川綋司(東北大学):「賠償・援助・振興」とは何かについて説明したい。今回のシンポジウムでは、日本の戦後空間を日本という国で閉じた領域ではなく、東アジアや東南アジアといった地域的な広がりの中で捉えることを目的としている。そのために出てきたキーワードが「賠償・援助・振興」である。1950年代半ばにはじまった戦後賠償、さらに1960年代に活発化する政府開発援助(ODA)、1970年代に始まる沖縄振興開発計画。この3つを捉えて「賠償・援助・振興」とした。「賠償」は主に東南アジア諸国を、「ODA(援助)」は特に日本が冷戦構造下で戦後賠償の責任が果たせなかった韓国や中華人民共和国を、「振興」は沖縄の1972年本土復帰以後を主に対象とした。この3つはいずれも日本国が独立を宣言した1952年のサンフランシスコ平和条約に起因するものである。日本国として独立した空間を成立させることと、その周辺の空間に「賠償・援助・振興」を行うことはコインの裏表である、というという考えのもとに議論を深めていきたい。国際的な政治環境については、この後宮城⼤蔵氏の講演でより具体的かつ詳細にご紹介をいただけるだろう。

「賠償・援助・振興」における建設プロジェクトの位置付けについて簡単に紹介する。賠償工事はインドネシア、タイ、ミャンマーなど独立間もない東南アジアの国々において実施された。通底する特徴としては日本の大手ゼネコンが工事を請け負ったことである。これらの賠償工事は、大手ゼネコン各社にとって外国での実績を積んで進出をはたしていくための足がかりとなった。1970年代末には対中ODAが始まる。無償で技術や資金を提供するという枠組みで、さまざまな方面で実施された。建築や土木に関しては、北京の日中友好病院や日中青年交流センターなどが有名。いずれも黒川紀章や竹中工務店といった日本の建築家や企業に、中国の設計者やゼネコンが参加し、日本が先進的な建築をある種「プレゼント」するという仕組みだった。そうして、中国の現地に新しい技術を導入すること、教育や雇用の創出も期待されていた。JICAが作成した地図などによれば、北京ではODAが様々に実施されており、地下鉄などのインフラから、病院や交流センターなどの上物まで幅広く展開されていた。

沖縄振興開発計画については後で小倉暢之氏に詳しくご紹介いただくが、有名なものとしては沖縄海洋博が挙げられる。本土復帰直後の記念事業として実施された。振興開発という体制は連綿と続いており、最近の2010年代にも、沖縄科学技術大学大学院のような大規模な建設プロジェクトが進められている。

戦後日本の建設業は賠償工事やODA事業を契機として海外に進出していったと言ってよい。具体的な数字をみても、1970年代から海外からの受注が増えている。賠償・ODAをジャンピングボードにして海外進出したという流れが見て取れる。1969年には、日本建設業連合会が「海外工事白書」として市場開拓を後押しするよう国に要望を出していて、国策として外国の建設市場を狙っていたという背景があった。しかしながら、実際に日本の建設業における海外事業の割合を見ると、特別大きいとは言えない。1970年代半ば以降、概ね全体に対して5%程度。これは海外の大手建設業社と比較しても少ない数字である。日本の建設業は基本的に国内需要によっている。とはいえ、1970年代に建設業の海外展開が全体として伸びたことは間違いないだろう。

対照的に、建築業界における言説のなかでは、アジアはある種のタブーとして存在していた。1995年の雑誌『建築思潮』で「アジア夢幻」という特集が組まれた。ここで布野修司氏は戦前まで確かに存在していた研究対象としてのアジアが、戦後には「ぷつっと切れた」と述べ、さらに建築家の磯崎新氏は「日本が侵略をした罪をどう償うのか。その方法や配慮を示せない限りは戦後にアジアを語ったり、プロジェクトを展開することは難しいのではないか」と述べている(磯崎新+原広司+布野修司「アジア建築と日本の行方」『建築思潮03 アジア夢幻』学芸出版社, 1995)。実際、建築史研究においてアジアが対象となるのは、1970年代末以降だった。布野氏らが東南アジアでインドネシアのカンポン研究を始めるのが1970年代末で、その後80年代には旧植民地の建築研究が本格化している。その以前の1950–60年代は、アジアは語りづらい空間として日本の建築界では捉えられていた。

アジアをある種断ち切り、日本という領土内に認識を閉ざしてしまう態度は、建築に限らず、戦後の言説空間一般にある程度普遍的に見られたとも言えるだろう。柄谷行人氏は「戦後の言説空間というものが、アジアを切り捨てた近代化思想やマルクス主義のなかに存在している」と総括的に述べている(柄谷行人「大江健三郎のアレゴリー」『終焉をめぐって』収録、初出1989)。帝国主義・アジア主義への反省・畏怖から、戦後はアジアを語ってこなかったのだ。この柄谷氏のコメントは大江健三郎論からの引用だが、初出は1989年。日本のODAが世界一位になった年でもあることは興味深い符丁だ。ともあれ、ここで重要なのは、「実際には戦前以上の経済的支配に至っているにもかかわらず、意識においてはそのままなのだ」と述べているように、柄谷氏が戦前の植民地支配と戦後の経済的進出を連続的なものとして見ていることである。確かに、戦前の植民地支配、侵略が「アジアの解放」という崇高な思想とセットだったように、戦後の「賠償・援助・振興」は海外協力というお題目と経済進出という実利が表裏一体のものだった。構図としては似ている。このように戦前・戦後を同型に見る視点は、アーロン・S・ムーア『「大東亜」を建設する──帝国日本の技術とイデオロギー』でも提示されているところである。ムーアによれば、例えば久保田豊は、戦前は朝鮮半島での発電所開発に従事し、戦後は日本公営で東南アジアの開発コンサルに従事したという連続性が具体的に示されている。こうした戦前戦後の連続性、あるいは非連続性については、谷川竜一氏、曺賢禎氏の講演で詳しくご紹介いただく。

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3. 報告

1)宮城⼤蔵(上智⼤学)─── アジア国際秩序と戦後⽇本

戦後日本と「3つのアジア」
アジアを俯瞰して捉える際には3つのアジアという考え方を手掛かりとしたい。日本とのつながりから整理すると、①インド・パキスタンなどの南アジア、②ASEAN諸国である東南アジア、③日本にもっとも地理的にも近い朝鮮半島、中国などからなる北東アジア。この3つにわけて捉えることで、それぞれの地域に対する日本の関心、関与の特徴を見て取ることができるのではないか。そこに沖縄も付け加えようというのが趣旨である。3つのアジアに分けることで日本の関与が特徴付けられるが、その区分も実は時代によって流動的であった。日本の官公庁の白書などでも、1950年代には南アジアは東南アジアの一部に含まれていた。東南アジアという地域概念自体が非常に新しい概念で、第二次世界大戦中に日本が東南アジアを占領した頃にできあがった地域概念である。昨今、東アジア共同体などと呼ばれる際の東アジアは北東アジアと東南アジアを含んだ「広義の東アジア」という地域概念で、これは1990年代頃から一般的になってきたものである。

戦後日本がアジア諸国と関係を再構築していく順番は、地理的な距離とは逆でインドなど南アジアから始まった。インドのネルー首相などが日本に対して非常に好意的な姿勢をとった。アジアにおけるふたつの巨大国家のうち、中国が共産主義化したため、そうではないかたちで独立を遂げたインドが当時は世界的に注目を集めていた。日本でも50年代にある種のインドブームが起きている。

東南アジアでは戦争賠償の交渉が難航していたため関係修復が遅れていたが、1950年代半ばから賠償交渉が妥結するようになり、関係が回復し始める。逆に、いちばん地理的に近い北東アジアはさらに関係回復の時期が遅れた。中華民国(台湾)とはサンフランシスコ講和条約の直後に国交を結ぶが、同じ自由主義陣営にあった韓国ですら1965年まで国交がなかった。さらに中華人民共和国とは1972年、北朝鮮とは現在でも国交がない。日本からみた北東アジアは、戦争と植民地支配の過去という問題があり、また、戦後は冷戦の影響で、朝鮮半島と中国・台湾が分断国家になった。過去の問題に加え、二つの分断国家というこの地域のもつ難しさによって、日本との関係回復には多くの時間がかかったのだ。

3つのアジアに対する日本の関心は明らかにそれぞれ異なる力点がある。南アジアは、東南アジアと北東アジアが日本に対して閉じられているときに関心がもたれる。昨今であれば、強大化する中国に対するバランサーとしてインドに関心がもたれる。つまり南アジアそのものに対する関心というより、日本の近隣アジアとの関係の変数として50年代に関心がもたれたが、60年から70年代にかけて、関係が遠くなる。それが冷戦後に中国台頭とのバランサーとして、ふたたび日本で関心がもたれるようになる。南アジアについては、バランサーとして日本の視野に入ったり入らなかったりする。

東南アジアは、戦後に地域秩序がダイナミックに変容した地域である。多くの国が植民地から独立した。イギリスは1970年前後までシンガポールに巨大な海軍基地を置くなど、戦後も東南アジアで大きな影響力をもっていた。非常に国際秩序が流動的かつダイナミックに動いた地域。そのなかで日本も一定の役割を果たそうとする構想やイニシアチブが投影された地域でもある。

北東アジアは、東南アジアと比べると、安全保障上の関心が突出している。それは北東アジアに対する日本の関心・関与の大きな前提、あるいは特徴だ。これは国際政治・安全保障上の問題と地理的要因が結びついた地政学的要因からくるもの。明治期の日本外交は朝鮮半島をめぐる安全保障上の関心を軸に展開したと言える。日本にとって敵対的勢力の影響下に朝鮮半島が置かれないようにすることが、明治の日本にとって大きな課題であった。そのために朝鮮半島への影響力をめぐって清国と戦争をしたのが日清戦争であり、ロシアと戦争をしたのが日露戦争であった。ついには朝鮮そのものを併合し、次には満州が重要になってくる。

東南アジアとの関係再構築
東南アジアとの関係再構築については、サンフランシスコ講和条約の影響が大きい。講和条約を主催した米英は、当初は「無賠償」という方針を掲げた。理由としては、極東で冷戦が本格化することで、日本には早く立ち直ってもらいアジアにおける反共産主義の一員としてしっかりと立ってほしいという方針だった。

ところが最大の戦争被害国のひとつであったフィリピンがこれに猛反対をした。結果として、戦時中に日本の直接占領下にあった国は日本に対して賠償請求ができるとなった。ただし、日本経済の存立を可能にする範囲でとなり、現金賠償は否定され、「役務」(サービスの提供)での賠償が基本となった。役務とは具体的には、東南アジアで戦争中に沈んだ船を引き上げてくず鉄として利用する際の引き上げ労力の提供といったものである。役務はそのようなものとして考えられていたが、現実にはその概念がどんどん拡張していく。

日清戦争では清国が破れ下関条約で清国は日本に賠償を払うことになったが、これは現金賠償だった。かつ清国通貨では日本にとって意味がなかったため、当時の国際的な基軸通貨であったイギリスのポンドで清国は日本に支払いをすることになった。清国はそのような巨額のポンドは持ち合わせていなかったため、調達するためにヨーロッパ諸国に権益を譲り渡すなどして、大変な苦労をした。戦後、中華人民共和国が日本と国交樹立する際に、首相の周恩来は「日清戦争での現金賠償で中国人は非常に苦労した。あのような苦しみを日本人民には与えたくないので、賠償を放棄する」と日本側に伝え、対日賠償を放棄している。ここには中国側の思惑として、日本と台湾の関係を断ち切ること、当時の中ソ対立の下、日本とソ連との関係を引き離して中国側に引き寄せることがあった。サンフランシスコ講和会議では、インドネシアが会議に参加し、条約に調印したものの、賠償が役務に限定されたことへの不満が強く、議会で批准されない結果となった。

賠償問題は、東南アジア諸国と関係回復する当初、大きなハードルとなっていた。日本と相手国との想定する賠償額に大きな開きがあったからだ。フィリピン、南ベトナム、インドネシア、ビルマの請求額を合わせると、当時の日本の国内総生産を超える額だった。くわえて4カ国との交渉だったため、一国に譲歩するとその他の国との交渉にも影響を与えるという難しさがあった。1950年代半ばから妥結をしていくが、賠償として想定する額の開きを近づけるために、当初から経済協力とセットにされていた。これが日本の戦後賠償の大きな特徴であった。「役務」という概念を拡張して「賠償事業」としたのだ。ダム、工場、あるいはホテルなどを日本企業が他国につくることも賠償となった。日本政府が賠償事業を発注し、それを日本の企業が受注して現地で工事を行う。

その結果として、東南アジアへの戦後賠償は日本から見ると経済的再進出の橋頭堡となった。賠償交渉を所管した省庁は当時の通産省だが、当時の担当者は「東南アジアという日本にとっての経済的処女地には、排外的ナショナリズムや日本の侵略に対する疑惑の念といった強風が吹き荒んでいる。そのなかに安全に乗り込むには、賠償という大義名分と結びつけるより以上の良策はないではないか」と述べていた。本来戦争に対する償いであるはずの賠償が、現金ではなく役務となったこともあって、賠償事業ということで日本が経済的に再進出する橋頭堡としての意味をもつようになった。

アメリカにとっても当時の日本を立て直さなければならなかったが、当時の日本製品は安かろう、悪かろうで欧米ではとても売れない。しかし東南アジアであれば需要はあるだろうと考えた。日本の製品が行き渡れば、経済的に東南アジアの状況が改善され、共産主義が広がる前提となる貧困や社会的混乱が改善されるため、アジアにおける反共産主義陣営をより強化するためにも、日本と東南アジアをくっつけようとする考えに向かった。

一方で、この地域に依然として強い勢力をもっていたヨーロッパ諸国(オランダ、イギリス、フランスなど)からすれば、日本の進出は(旧)植民地宗主国の権益や影響力に取って代わる動きだと見えた。当時のインドネシアでは独立を宣言したものの、経済的社会的インフラは依然としてオランダが握っていた。これを取り戻さなければ本当の独立とは言えないと当時のスカルノ大統領は考え、賠償を通じた日本の関与によってオランダを置きかえ、脱植民地化を目指した。日本の進出が、重層的な国際関係とも結びつき、複雑にダイナミックに動いた地域が東南アジアだった。日本からみれば経済的進出であるが、他国からはこのように様々な意味をもった。このことが東南アジアに対する戦後日本の関与の特徴であった。

その後、賠償事業がODAへと変わり、いわゆる「紐付き援助」になってゆく。ただし、欧米諸国から批判を受けるようになると、「紐なし」(アンタイド)に変わっていく。冷戦下におけるODAの意味は、開発によって共産主義モデルに対抗する目的もあった。また、冷戦下には援助競争があり、ソ連や中国は東南アジア諸国に援助を投入して西側諸国と競争した。そのなかで日本のODAは、アメリカの援助が軍事的側面への関与が強かったのに対し、経済水準の向上を主眼として開発体制の正当性を強化した。共産主義化をくいとめるための働きかけにおいて、このような日本とアメリカとの役割分担の色彩があった。

北東アジアとの関係再構築
北東アジアはふたつの分断国家と、戦争と植民地支配の過去をもつ日本からなる、世界的にみても特殊な地域である。東南アジアとの対比でみると、北東アジアの地域秩序は非常に固定的だ。強固な分断線、冷戦の論理が色濃く影響しており、冷戦が終わった現在もなお、国家の分断状態が継続している。

その中で、日本にとってはふたつの分断国家のなかで同じ自由主義[宮城2] 諸国にあるはずの韓国との国交も、1965年まで実現しなかった。もっとも揉めたのが「請求権」問題であり、植民地支配を受けていた間に奪われたものの回復を韓国が日本に求めた。交渉の当初は、韓国側の主張を牽制する意味合いもあり、日本統治時代に朝鮮に在住していた日本人が現地で築いた財産を戦後の引き上げにともなって置き去りにてきたという事実もあるため、請求権は日本側にもあるという主張を日本がおこない、「引き分け」に持ち込もうとした局面もあった。交渉で日本側が日本は戦前良いことをたくさんした、鉄道、工場、ダムをつくった、日本が植民地化していなければロシアに植民地化されていただろう、云々と述べて、交渉が数年間決裂するなど、非常に難航した。

最終的には、経済協力方式が取られた。つまり日本からすれば、韓国と戦争をしたわけではないので、植民地支配に対する賠償は不自然であり、しかし経済協力方式であればよい、とした。他方の韓国の立場からすれば、そもそも日韓併合が強制的だったため、その植民地化には正当な法的根拠がないという主張なのだが、当時の朴正煕政権は、経済協力方式で日本から資金を得ることを優先し、妥協した。名前を捨てて実を取ったと言える。

日本にとっての北東アジアの特徴は、安全保障の関心が非常に強いことだ。そして、この安全保障上の関心は、経済協力とえてして結合しがちである。これが北東アジアに対する日本の関与の特徴であろう。代表的なものは「釜山赤旗論」。北朝鮮が南下して朝鮮半島を北朝鮮主導で統一されるという話。それが釜山に赤旗が立つというもの。日本からすれば釜山は目と鼻の先のため、日本の安全保障にとっても脅威である。したがって韓国を支えなければならない。これが岸信介ら、自民党の親韓国派の論理であった。一方で韓国の軍事政権に対して、日本の左派勢力は非常に批判的だった。日本国内のイデオロギー対立が朝鮮半島への対応にも色濃く反映されていた。

その後、時代が下り、ソ連が1979年にアフガニスタンに侵攻し米ソの緊張が高まるなか、当時の韓国の全斗煥政権が借款を中心とした経済協力の供与を日本に求めた。そのロジックは、韓国は冷戦対立の最前線国家として日本の防衛の肩代わりをしていて、そのため日本は非常に軽い負担ですんでいるのだから、韓国の安全保障上の強化のために日本が経済協力で協力するのは当然である、というものだった。このロジックで日本に協力要請をした結果、日本側の反発を招き、たいへん揉めたことがあった。

沖縄をめぐって
サンフランシスコ講和条約で沖縄が日本から分離され、日本は平和国家の看板を掲げることになる。アジアにおける冷戦という観点から見ると、冷戦の最前線の軍事拠点としての負担は、韓国そして沖縄に置かれた。これによって、沖縄を分離させた日本は、一歩引いたところで「平和国家」という自己イメージをもつことができたのだ。

戦後の北東アジアのキーワードは「冷戦」とそれを反映した「分断」であるが、このことは日本と沖縄の関係にも言えるだろう。アメリカにとって重要だったのは基地が自由に使用できること。在日米軍基地は日本国内にあるため制約があったが、沖縄の基地は日本との協議なしに自由に使用できた。このことがアメリカにとっては重要だった。軍事拠点としてアメリカが利用するために沖縄は分離されたのであり、地政学的要因とは言えない。

今回のシンポジウムのテーマのひとつでもある沖縄振興に少し幅を広げて考えると、日本政府の沖縄に対する経済面の対応については、沖縄にある米軍基地の安定的維持という色彩があった。例えば、復帰後に地主に対する軍用地代を大幅に引き上げて軍用地が維持されるように誘導したり、あるいは振興策と基地をリンクさせた。安全保障と経済振興の結合に北東アジア型の日本の関与を見て取ることが可能かもしれない。

日本の戦後空間の「外部条件」
先程紹介されたように、確かに戦後日本では、アジアについては戦争の経験から語りづらい時代が長く続いた。日本にとっての戦後空間がアジアに広がったのは、アジア自体が開発と経済成長に彩られるアジアへと変貌するタイミングのことだ。言い換えれば、アジアが開発と経済成長という目標を共有できる空間になったとき、日本の戦後空間はアジアに広がったのではないか。時期としては1970年代頃からだろう。まずは東南アジア、それから改革開放に転じた中国へと広がっていったと言える。

では開発と経済成長に舵を切る以前の日本を除くアジアでは、何が至上命題としてあったのか。1950年代には独立、つまりナショナリズムであり、脱植民地化だった。自分が自分の主人公でありたい、という独立の時代のアジア。そこには戦前の日本の侵略に対する批判的な眼差しも含まれている。

また、社会主義もある。独立を可能にするための手段として、社会主義というパッケージが魅力を持った時代があったのだ。独立と革命がセットになっていたからこそ、アジアでは社会主義が影響力をもちえた。ところが、アジアでの独立の時代は1975年のサイゴン陥落で区切りがついた。そうすると社会主義のイデオロギーも魅力を失い、代わって、開発と経済成長のアジアが広がることになる。こうして、日本の戦後空間のアジアにおける広がりと軌を一にすることになった。

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2)谷川竜一(金沢大学)─── 出稼ぎトンネル坑夫集団「豊後土工」と戦後賠償・開発援助

私自身は近現代日本とアジアの関係を建築・都市・土木史の観点から考察してきた。戦後日本はサンフランシスコ講和条約の後、対アジア賠償を通じて国際関係を再構築していくが、賠償やその後のODAの多くは建設工事で構成されていた。最近の研究でも明らかになってきているように、それらは久保田豊をはじめとする戦前に活躍した土木技術者たちによって戦後も引き続いて計画されたものであり、政治的・思想的に戦前戦後が連続していたことが指摘されている。他方で、現場労働者はどうであったか。この点について、「豊後土工(ぶんごどっこ)」と呼ばれる大分の出稼ぎトンネル坑夫集団の歴史を通じて考えてみたい。

発表では、最初にトンネルの建設方法と豊後土工を紹介し、そのうえで次の4つのトピックを順に述べる。ひとつ目は、なぜ豊後土工が大分県の南海部郡のリアス式海岸を中心とした地域(──現在の佐伯市周辺。以下、北海部郡の一部も総称して海部郡とする)で成立したのか、地域史的な観点からの考察である。ふたつ目は、豊後土工が日本の植民地開発といかに関わったのか。3つ目は、戦後の豊後土工と日本国内の高度成長下の開発やアジア賠償工事の関係はいかなるものだったのか。そして4つ目として、それらをまとめてみたときに何が見えるかを考察したい。

トンネルの歴史
ダイナマイトと削岩機でつくった日本最初のトンネルは、1882年に福井県の柳ヶ瀬トンネルであった。以降、徐々にこの手法でのトンネル掘削の時代に入る。トンネルは主に「山岳トンネル」と「シールドトンネル」に分類される。山岳トンネルの具体的な建設方法は「切羽」と呼ばれるトンネル断面に削岩機で穴を空けて、そこにダイナマイトを仕込み爆破し、崩した土砂を運び出しながら、トンネルが崩れないように木製の「支保」と呼ばれるフレームで支える。これを繰り返して掘り進めていく。

近代のトンネル建設史には技術的な画期がふたつある。ひとつは木製だった支保が1950年代に鋼材に変わったことだ。これは大きな変化をともなった。そもそも木材で支保を組むためには高い技術が必要で、通常は大工経験のある「斧指(よきさし)」と呼ばれるトンネル坑夫が行なった。トンネル形状に合わせて木製支保を巧妙かつ密に組んでいたが、支保が鋼製になると少ない支保でもトンネル内部を支えることができるようになり、結果として工事空間が広くなった。こうなると大型の掘削機械であるジャンボを導入できるようになる。映画『黒部の太陽』にジャンボが出てくるが、その理由はここに由来している。

次の変化は、1970年代半ばの「NATM工法(ナトム工法)」の登場である。トンネル壁面にコンクリートを吹き付けて、ロックボルトと呼ばれる巨大なボルトを埋め込んで、地山とトンネル構造を一体化させる工法で、これによりトンネル工事の様相はすっかり変わることになった。安全性が高まったうえに、工事空間がさらに広がって、機械化もより進んだ。こうした歴史のなかで、削岩機とダイナマイトを使って命がけでトンネルを掘る坑夫はどんどん数を減らしていった。

豊後土工の登場
私はこの研究を始める前、トンネル坑夫は日本全国どこにでもいるものと考えていた。しかし、さまざまな施工会社のトンネル施工の記録に「大分県の労働者」や「大分・佐伯のトンネル坑夫」という言葉を何度か目にし、気になるようなった。現地で聞き込みを進めるうちに、次のようなことがわかった。大分県の海部郡には、そこを拠点として活躍した出稼ぎトンネル坑夫集団がおり、彼らが豊後土工という通称で全国の多くのトンネルを掘って回ったということだ。

一般的には豊後土工は1910年代後半に登場し、日本はもちろん海外の現場をも渡り歩いたとされる。そうした状況を反映してのことだろう、1969年には南海部郡の五⼾に一⼾は出稼ぎ世帯であり、⼤半は豊後土工であったというから驚きだ。ただし、1970年代以降は先に述べた工事の機械化ともに集団としての豊後土工は数を減らしていった(現在でも豊後土工をルーツに持つトンネル関連会社は多くある)。南海部郡の郷土史家・矢野彌生は、豊後土工は1910年代から1980年代にかけて延べ20〜30万人いたと推計している。そんな豊後土工に関する既往研究はほとんどないのだが、トンネル工事にともなうじん肺訴訟が1970年代後半から相次いだため、じん肺に関する医学系の論文のなかで、大分県に特にトンネル坑夫が多かったことなどは言及されている。

豊後土工は、記録によれば1910年代の日豊本線の鉄道トンネル工事をきっかけに現れたと言われている。この地域はリアス式海岸で、鉄道を通すためには多くのトンネルが必要だった。そこで地元の人びとが坑夫として雇われ、そのままトンネル稼業に入って行くという流れで豊後土工は成立した。なかでも南海部郡の北部に位置する上浦地域では、夕張炭鉱などで掘削経験のあった松田菅蔵親方を中心とした坑夫集団が早い段階で成立した。その後数十年かけて、トンネル坑夫という職に携わる人々がこの地域で増えていき、さまざまな親方たちを生みながら、坑夫の輩出地域自体は徐々に南へ拡がって南海部郡の蒲江にまで達したと私は考えている。フィールドワークをしていて面白いと感じたのは、豊後土工たちはリアス式海岸が途切れるところでちょうどいなくなることだ。このことは、豊後土工が単純な社会経済的要因によって生まれたのではなく、地理空間や生活環境などの地域固有の要因と密接に絡んでいることを暗示している。それを以下説明するが、結論から言えば、私は豊後土工の成立要因を、①芋食う地域性、②時代のタイミング、③トンネル工事自体の特性が地域性とマッチこと、から説明できると考えている。

1955年の旧南海部郡・蒲江町【出典:西野浦地域づくり委員会『西野浦記』西野浦記編集委員会、出版年不明、巻末付録写真】

芋食う地域性:南海部郡の母体となった旧佐伯藩の人口は、18世紀初頭に34,000人だったが、100年弱で50,000人を突破するほどに急上昇した。20世紀はじめにこの地域を旅した柳田國男は、「狭い浦々に人がひしめき合っている」と驚きを述べている。この稠密な人口に対して、柳田や宮本常一ら民俗学者が指摘するのは、18–19世紀に伝播したサツマイモの力だ。上の写真は戦後の旧南海部郡の蒲江の景観である。山の上まで畑があるが、これらはすべて芋畑である。サツマイモは江戸時代はじめに長崎ないし鹿児島から九州一円に広がる。それによって水田耕作の難しかった瀬戸内海の島々やリアス式海岸の人口が大きく増えたのではないかと、柳田らは推測している。柳田は『海南小記』のなかで芋がもたらした人口増を「カライモの奇蹟」と呼んでいるが、この「カライモの奇跡」によってこの地に余剰労働力が生まれた(「余剰」という言葉は不遜だが、ここではその地域で消費しきれない労働力、という程度の意味として用いる)。結果、南海部郡では多くの人々が食い扶持を求めて出稼ぎに出ることとなった。炭焼きや茸山(なばやま)、樟脳造りなどに多くの人が出かけていったのだ。そしてそんな出稼ぎ文化が形成されていたところに、20世紀になって日豊本線のトンネル工事が入ってきた。つまり、芋をトリガーとした人口増とそれに応じて形成された近世以来の出稼ぎ文化の延長に、近代のトンネル坑夫業が成立したと考えられる。

時代のタイミング:第一次世界大戦前後の日本は、都市の工業化とともに地方も資本主義社会に取り込まれていく時代である。その時代にトンネル工事は現金収入を得られる数少ない手段としてこの地では歓迎された。稼いだ金で豪遊した浦々の坑夫たちの記録も残されており、ある坑夫は真新しい背広とピカピカの革靴を買い込んで佐伯で芸者遊びを楽しんだという。近代的な衣食住に関わる基本的な製品が流通し始め、現金の必要性が高まるなかで、タイミング良くこの工事は南海部郡で始まったのであり、しかも工事が終わって汽車が走り始めると、そうした地域の社会変容は加速したのである。

豊後土工の仕組み[作成:谷川竜一]

トンネル工事の特性が南海部郡の地域性とマッチ:3つ目は、トンネル工事の特性とマッチした地域の生活形態である。この点は、本論では特に重要と思われるので少し丁寧に説明しておこう。当時のトンネル坑夫の給料は、一定の基本給に加えて、掘った量に応じて稼ぎが上乗せされる出来高制が多かった上、落盤の危険と隣り合わせだったために、基本的には高い報酬が見込まれていた。ここで示した図はそんな彼らの仕事の請け方を示したものだ。国などの施主がいて、その仕事を大倉土木のような大企業が請ける。しかし、大企業は自前の坑夫たちを常に抱えているわけではなく、息のかかった豊後土工の親方たちとネットワークを築いていた。親方たちの下に工長、世話役、坑夫たちが続くが、最末端の坑夫たちは流動的・可変的で、工事のたびに顔ぶれや人数が異なった。坑夫たちは同じ村の友人や家族親類でつながっており、世話役が盆や正月に浦々に出向いて声がけをして、数人から数十人単位をまとめて現場ごとに編成し親方のもとに送り込む。働きに出た豊後土工たちは、工事の合間やまとまった休み(必然的に盆正月)に海部郡へ帰ってきて、そこでまた次の仕事を探す、というサイクルで仕事を続けていくのだ。

この仕組みは、仕事や予算規模に応じて人数を調整できる非常に柔軟な編成方法といってよいだろう。ただし、坑夫たちにとってトンネル工事は稼ぎがよいものの、ずっと続くとは限らない不安定な仕事であった。私が彼らに質問をするなかで印象に残ったことは、「仕事が続かなければ家に戻ればいい」と語る、彼らの「自由」な姿だ。自分の浦に戻れば炭焼きや茸山の仕事が戦前には多くあり、戦後であっても遠洋漁船に乗り込んだりして、稼ぐ方法はいくらでもあったようだ。基底にあるのは、まったく仕事がなくても、妻や両親が年中芋をつくっていて、それを食べていれば飢えることはない、というある種の「余裕」である。要するに、彼らは芋を軸とした海部郡の近世以来の生活基盤に依拠しつつ、工事毎に都合良く坑夫の人数を調整したい元請けの希望にうまく対応したのだ。

また、トンネル工事はきわめて危険な仕事でもあったが、そこでも彼らの海部郡を足場とした地縁・血縁がものを言った。私が聞いたところでは仮に自分がそこで命を落としても、郷里の仲間や親戚が同じ現場にいるため、家族を残しても安心だというのだ。このように豊後土工たちは、工事に応じた人数を柔軟に編成するだけでなく、リスクの高いトンネル工事の仕事を支える同郷的・同族的な紐帯を持っていたのだ。こうした地域性が豊後土工成立およびその発展の背景にある。

以上のように、豊後土工たちは、芋による人口増加を背景とした出稼ぎ文化の延⻑として、大正期の日豊本線の工事で成立した。同郷・同族的な紐帯を使いながら、同時に仕事を失っても、そう簡単には飢えないという強みを生かして、豊後土工たちは元請け側の仕事規模や予算に対応できる柔軟な集団性を作り出した。豊後土工の仕事は、そんな芋が支える生活基礎・出稼ぎ的メンタリティの発露ともいえる。柳田にならって言えば、豊後土工は「カライモの奇蹟」が育んだ、この地域における最後の出稼ぎ職と言ってよいだろう。

豊後土工と戦前植民地開発
次に、豊後土工たちはいかに外の現場に出ていったのか。日豊線の建設工事で坑夫を束ねる親方が生まれ、その親方たちは大倉土木や西松組などの有力な建設会社と結びついた。その結びつきをもとに、東海道本線の丹那トンネル(1918〜1933年、7.8km)や榑坪水力発電所の水路トンネル(1922〜1923年、10.7km)など、著名な戦前のトンネル工事に参加していく。こうして豊後土工の本格的な活動が始まるが、ほぼ同時期に植民地へも赴いていた。

ここでは、朝鮮半島でなされた最初の巨大電源開発工事である1920年代後半の赴戦江水力発電所の建設を取り上げたい。この計画は日本窒素肥料株式会社(以下、日窒)が実質的に進めたものだが、プランナーの一人は土木技術者の久保田豊だった。この点は後の議論に関わってくるので、注意しておきたい。さて、その建設は、久保田が懇意にしていた間組や西松組が請け負った。そしてその請負業者の「下請け」として、豊後土工は植民地にまで行くこととなった。

赴戦江水力発電所は総発電能力が20万kWもあり、当時富山県にあった日本最大の水力発電所である蟹寺発電所の4倍の規模であった。なぜこれほどの発電能力を獲得できたのか。その理由はトンネルにある。赴戦江は朝鮮半島北部を北向きに流れる川で、最終的には黄海に注ぐが、これをいったんダムで堰き止め湖をつくり、ダムから26km南側の地点まで水路トンネルを掘って分水嶺の反対側に水を運ぶ。そうすることで日本海側に向けた高落差を獲得し、そこから水を落として大電力を発生させる仕組みである。これにより第一発電所だけで13万kWという巨大な電力を確保した。トンネルによる流路変更がこれを可能にしたのだ。このように川の流域を変えて発電することを流域変更方式と呼ぶ。重要なことは、朝鮮半島北部には長津江や虚川江など、赴戦江とよく似た流路の川が複数存在し、同じ方式で次々に同規模の発電所を計画できたことである。日窒の久保田らはこれに気づき、赴戦江のあと独占的に長津江、虚川江にも30万kWを超える水力発電所を建設した。こうした1930年代の巨大電源開発がトリガーとなり、朝鮮半島の北部は一気に工業化していく。つまり、豊後土工たちは、その流域変更方式の核心を担った水路トンネル工事に参画していたのである。

戦後の経済成長及びアジア開発での活躍
次に、戦後に目を移そう。まず、豊後土工がつくった請負会社を例に挙げたい。南海部郡・上浦出身の親方だった松田菅蔵やその弟子たちは、豊後土工の本家といえる存在で、すくなくとも1930年代後半にはそれぞれ400〜500人を従える親方になったと言われている。戦前には関門トンネル(1936〜1944年)、戦後には北陸トンネル(1957〜1962年)や⿊部川第四発電所建設(通称、黒四。1956〜1963年)などの工事の一翼を彼らは担った。戦前戦後の日本の名だたる建設工事に豊後土工たちの本流が参加したことがわかる。彼らの親分であった松田菅蔵が大倉土木と結びついていたため、弟子たちも大倉土木(戦後の大成建設)との強い結びつきをもっていた。大成建設の社史は「建設業界では「トンネルの大成か、大成のトンネルか」という言葉があり、「難しいトンネルならば大成に」とも言われてきた」と自画自賛している。そんな大成建設のトンネル技術は南海部郡・上浦の豊後土工の親方たちが支えてきたといってもよい。1963年、大成建設からの強い意向をうけて、その上浦の親方たちが集まって成豊建設という「下請け」業者が設立された。

成豊建設の社史によると、同社は設立以後の長きにわたり、松田菅蔵と親族関係にある親方たちで歴代の社長をまわしており、豊後土工の親方連合体と言った方がよいかもしれない。「それぞれアクが強い親方たちが多く、親族とはいえまとめていくのは大変だった」と社史にある。豊後土工に会社をつくらせた大成建設側の意図は、現場の坑夫を親方ごとに直接雇用していた状態から、親方がつくった「下請け」会社をかませて、多くの坑夫を間接的に雇用することで契約や労働の透明性を高めることだった。責任の所在を明確化する意図やコストカットのメリットもあったようだ。こうした動きは、高度成長下で労働環境改善が叫ばれる社会情勢とも連動しており、建設業界の近代化が進んでいたことを示している。労働者の安全が謳われ現場が機械化されていくなかで、ダイナマイトや建設機材を扱うルールや資格が厳密化していくのも、この時代であった。

一方、豊後土工の側からすれば、元請側や社会情勢に応えるために自分たちの同族性を最大限利用しつつ、会社を作り上げたとも言える。地縁・血縁のネットワークを「会社」という近代的な装いの下に紛れ込ませることで、自分たちの強みを温存したのだ。その後、成豊建設は大成建設から安定して仕事を引き受けるとともに、自社の有力な親方たちをまるで戦国大名を差配するように全国各地の建設現場に向かわせた。こうした体制のなかで、親方に付随する豊後土工たちのネットワークが高度成長期も機能し続けたと思われる。

ネヤマトンネル──インドネシア賠償工事と坂本工業
最後に、戦後の対アジア賠償工事との関わりを見ていくために、坂本工業という会社を取り上げる。同社は、1964年に南海部郡・鶴見の豊後土工・坂本芳郎が設立した建設会社だ。坂本工業もいきなりできたわけではなく、もともと坂本を中心とした豊後土工のグループがまずあり、それが会社となった点は先の成豊建設と変わらない。ただし、成豊建設が、南海部郡・上浦に根を張った古参の豊後土工たちの会社とすれば、坂本工業は南海部郡・鶴見の若い新参の豊後土工が作った会社だった。重要であるのは、会社設立前の1959年、坂本率いる豊後土工約40名が、インドネシア人坑夫約300〜500名とともに、日本の対インドネシア賠償第一号となるネヤマトンネルを掘ったことだ。

ジャワ島のクルド山という活火山を取り巻きながら流れるブランタス河は、大きな沼沢地を抱えていた。計画は、トンネルを掘ってその水を南側のインド洋に排水し、農地をつくるというシンプルなものであった。日本工営の久保田豊が設計し、1959年から鹿島建設の施工で建設がはじまっている。このトンネルは建設費がそれほどでもなく、あまり注目されていないが、のちの日本・インドネシア協力の金字塔とも称されるブランタス河流域総合開発計画の出発点でもあり、じつは歴史的には重要な場所である。

ネヤマトンネルを掘った坂本芳郎の歩みから見ていこう。彼は南海部郡の東中浦村出身で、インドネシアに赴いたときは親方とはいえまだ30歳だった。彼が仲間を連れてネヤマにやってきた理由はたいへんドラマチックである。彼はもともと間組に付いていた豊後土工だったが、1955年頃に何らかの理由で鹿島建設の鳴子ダム建設に参加していた。そこで鹿島建設の技術者であった岩橋精一とともに現場を見て回ることになった。その際、トンネルの施工現場で異音を聞いた坂本が、2〜3日で落盤があると岩橋に予言する。岩橋は当惑して聞くばかりだったが、二日後に見事に予言が的中したのである。岩橋はトンネル坑夫としての坂本の能力に驚嘆し、のちにネヤマトンネルの現場所長として岩崎自身が派遣された際、強い希望で坂本を招いたというのだ。

では、坂本はどうやってこのような技術を身につけたのか。彼は1953年頃、熊本県の夜明ダムの仕事で豊後土工としてデビューして以来、田中雅夫という豊後土工の親方に下で仕事をしていた。坂本はこの田中から技術を学んだのである。そこで、田中の足跡を追うと、非常に興味深いことがわかった。

田中雅夫は1901年頃に南海部郡の大入島に生まれ、1915年前後に朝鮮に渡り、西松組配下のトンネル坑夫として働いたという。遺族には、1940年頃、朝鮮の端川にあった西松組の田中雅夫事務所の写真も残されている。端川は、日窒の久保田らが建設した朝鮮半島北部の巨大水力発電所・虚川江水力発電所に近く、まさしくその時期に西松建設が水路トンネル工事に参加していた。田中はこの虚川江の水路トンネルに関わっていたと考えるのが妥当で、さらに時期や遺族の証言を参照すれば、虚川江だけでなく、1920年代の赴戦江から1940年代の水豊ダムまで、日窒のすべての工事に参加していた可能性が高い。

その田中は日本に1947年に引き揚げてきた。そして夜明ダムの工事に参加するのだが、1953年、この田中の下に坂本芳郎が故郷の子分たちを連れて弟子入りするのである。この時坂本とともに弟子入りした坑夫は、自分たちの親方になった田中のことを「架空の人でしたよ、親父は」と語っており、簡単に口をきけないほど雲の上の人だったという。何十人・何百人の坑夫を従えた田中のような歴戦の親方となれば、入りたての若者にとってはそのように見えたことだろう。

ところで、土質力学の専門家である早稲田⼤学の赤木氏は、「トンネル技術はきわめて幅広く、従来、マエストロの匂いが強い分野で、跡を継ぐものは現場における経験を通して親方から技術を学び取ってその技術が伝えられてきた」と述べている。こうしたことからもトンネル坑夫としての豊後土工はきわめて職人的な職業であるとともに、高い技術を同郷・同族集団で共有蓄積していたと考えられる。そう考えれば、夜明ダムの工事を通じて、田中から坂本へ継承されたものは、戦前の植民地開発で磨いた豊後土工のトンネル掘削技術であったと考えるべきだろう。しかも坂本は田中の娘と結婚しており、田中の死後、田中が引き連れていた優秀な坑夫の何人かを自身の配下に置くこととなった。つまり、同郷・同族ネットワークを築くという豊後土工おなじみのやりかたで、植民地において形成された技術や人脈も、戦後の日本への回収・継承されたと考えられるのだ。

坂本はネヤマトンネルを通じて鹿島建設とつながりをつくり、1960年代以降インドネシアのカリコントダム、カランカテスダム、マレーシアのムダ河ダム、台湾の曽文湖ダム、韓国の昭陽江ダムなどに関与していく。国内では東京の営団地下鉄や東名高速道路、青函トンネルなど、重要な工事に参加している。坂本は「岩橋さんは恩人だ」といってはばからなかったという。

結論
最後に、豊後土工の特徴をまとめて結論とする。

ひとつ目は、豊後土工は、芋に育まれた近世以来の豊かな人口を背景に、その出稼ぎ文化の延⻑線上の労働態として成立した点である。豊後土工は海部郡という場所が、芋文化のなかで育んだ最後の出稼ぎ労働者たちであった。

ふたつ目は、豊後土工は、朝鮮半島北部で行われた、久保田豊率いる日窒の水力発電工事という、いわば1930年代の帝国日本における最重要プロジェクトの一翼を担ったことだ。ただし、本報告では触れられなかったが、そうした場所は植⺠地主義や帝国主義が最も先鋭化して現出する場所でもあった。朝鮮に赴いた豊後土工たちは、そこで朝鮮人坑夫を率いて働いており、その種の問題と無縁だったわけではない点は注意しておきたい。

3つ目は、戦後の高度経済成⻑下においては、豊後土工の親方たちは近代的な合理性を求める元請企業(例えば大成建設)の要望に応えて、同郷・同族的なネットワークを活かしながら「下請け」会社という装いを整えた点だ。これはトンネル工事の機械化とともに、そのルールや資格が重んじられるようになる建設現場の状況もまた反映している。豊後土工は日本の近代化において、景気や政治的な変化、あるいはトンネル施工現場がはらむ危険性に対して、自分たちの地域性を最大限活用し、きわめて可変的な組織で柔軟に対応してきたのである。

4つ目は、田中と坂本の関係のように、インドネシアの賠償工事にも、戦前の植⺠地開発の技術や人脈が入り込んでいたことだ。久保田豊のようなトップのエンジニアだけでなく、豊後土工のような最末端の坑夫たちも、戦前と戦後を貫く技術的連続のなかにいた。豊後土工は海部郡という環境に支えられ、育まれた同郷・同族集団であるがゆえに、近代的な建設現場に柔軟に対応できた反面、トンネル工事のリスクなど、工事上の問題の調整弁的役割も受け持った。しかし、そうした生活基盤に即した伸縮自在の可変的な集団であったが故に、高度な建設技術を敗戦他のさまざまな分断線を超えて継承していく集団にもなりえたのである。

最後に本日のテーマに即して付言すれば、私が調査した限りでは、豊後土工たちにとってトンネル工事は稼ぎの良い仕事の一つであって、そこには「植⺠地支配」や、「賠償」・「援助」という意識は感じられなかった。日本政府の賠償は、そのような大きな意識とは関わりのないかたちで、豊後という地方の地縁・血縁に依存して進められた側面もあったということである。

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3)曺賢禎(韓国科学技術院)──解放後の韓国における⽇本建築の遺産[市川紘司 訳]

韓国建築における日本の影響をめぐる問題は、韓国の建築界では長い間タブーとされてきた。大多数の研究者たちは、解放後の韓国における日本建築の遺産(レガシー)についてオープンに議論することを躊躇してきたのだ。このテーマに関する学術的研究のこのような欠落は、韓国社会のポストコロニアル的状況を明らかにしているように思える。しかし、状況は急速に変化している。日本の戦後建築を専門とする韓国の歴史家として、私は、より若い世代がますます開放的なマインドで、ふたつの国の建築の相互作用に注意を払うようになっていることを看取している。今日の発表が、両国建築界の相互理解と学術的協力を促進する出発点となることを期待している。

今日の発表では、1950年代と1960年代にフォーカスすることで、韓国における日本建築のレガシーを検証してみたい。問いは以下のようなものである。韓国建築のなかには日本のDNAがあるのだろうか? 建築における「日本的なもの」なるものは存在するのだろうか? 韓国の建築家にとって「日本」が意味したものとはなにか、そして「日本」の意味は時代とともにどのように変化してきたのだろうか? これらの問いに完全に答えることは今日の発表ではできないだろう。しかし、これらの疑問を念頭に置きながら、植民地時代の韓国近代建築の成立、そしてポスト植民時代における韓国建築のトピックを、とくに日本建築との関係に重点を置きながら検討してみたい。

植民地時代(1910~1945年)
韓国には2000年を超える見事な建築と景観の伝統がある。しかし、その伝統は植民地支配のもとで途絶えた。韓国の近代建築の誕生は植民地時代(1910〜1945年)に遡る。初期段階では、日本の建築家が駅や銀行といった主たる近代施設の建設に重要な役割を果たした。例えば、日本銀行(1896年)や東京駅(1914年)の設計で知られる辰野金吾が、ソウルのダウンタウンではネオバロック様式による韓国銀行(1912年)を手がけている。だが、韓国での建設プロジェクトの需要が高まるにつれ、日本政府は韓国人を建築家やエンジニアとして育成する必要に迫られることになる。1916年、朝鮮総督府は技術と工学の高等教育機関として京城高等工業学校を設立した。植民地時代の建築教育の重点は、優れた近代的建築家を養成することよりも、帝国のために諸種の建設プロジェクトを請け負うことのできる忠実な公務員を供給することに置かれた。この点からして、京城高等工業学校の卒業生のほとんどが総督府技術部の公務員としてそのキャリアを始めていることは不思議ではない。彼らにとって、建築は芸術や文化というよりも技術や工学であったのだ。

韓国における近代的な建築の職能は日本の建築を手本につくられた。それゆえ日本の建築の存在感は非常に大きく、韓国の建築のなかに日本のDNAを分別することは容易ではない。そのなかで、日本が韓国建築に与えた最も基本的な影響の一つとして指摘できるのは、建築という概念そのもの、つまり技術・工学としての建築であろう。歴史的に見れば、明治期の日本は国家を近代化するための実用的な手段として西洋から建築という学問(ディシプリン)を取り入れた。このようなエンジニア・オリエンテッドな建築概念が植民地時代の韓国にも継続され、より強化されたのだ。テクノロジーそしてエンジニアとしての建築という考え方は、ポスト植民地時代において植民地時代のレガシーを批判的に議論することを妨げるとともに、韓国の建築家が社会的責任から逃れることを可能にした。

1945年、解放以後
1945年、韓国はついに日本の支配からの解放を迎えることになった。解放後すぐ、韓国の建築機関は設立され始めた。1946年にソウル大学に建築学科が設立されたのを端緒として、多くの大学が続いた。また、多くの建築団体や雑誌も1940年代後半に登場した。例えば、朝鮮建築協会が創刊した左派系の建築雑誌『朝鮮建築』は、韓国の近代建築の新しい方向性を議論する場となった。この雑誌では韓国建築の正統的な歴史に関するシリーズ記事などが掲載された。他方で、急進的な建築家たちは、解放後の時代における建築分野の新しいアイデンティティと社会的役割の問題を提起した。

解放後しばらくの時代は、建築家たちが植民地という過去の影から脱却し、韓国建築の新しく真正なアイデンティティを構築しようとした時代であった。しかし、38度線による朝鮮半島の分断がその状況を危うくする。植民地時代の遺産を克服することに関心を寄せていた左派の建築家の多くは北朝鮮に向かうことになった。[逆に、]人、教育カリキュラム、規制といった日本の建築的遺物は、植民地時代が終わった後の韓国に長く、大量に生き残っていく。

アメリカのODAとその韓国建築への影響

朝鮮戦争(1950〜1953年)は、1945年の解放それ自体よりも韓国建築の全体的な構造を変えるのに重要な役割を果たすことになった。1950年代の韓国建築は、残存する日本のレガシーと新たに輸入されたアメリカの影響力との間の競争によって特徴づけられる。壊滅的な戦争の後、韓国経済はアメリカの援助に大きく依存するようになった。AKF(American Korea foundation)、FOA(Foreign Operation Administration)、USOM(United States Operation Missions)といった多くのアメリカの援助団体が、荒廃した都市やインフラの再建、あるいは集合住宅の供給に重要な役割を果たした。また、米軍の諸施設は、韓国の建築家がプレファブや鉄骨構造などの最新の建築技術に触れる貴重な機会を提供した。アメリカのODAはハードウェアの構築だけではなく制度やシステムといったソフトウェアの支援も行った。FOAの支援によって1955年から1962年まで続けられたアメリカの援助プログラム「ミネソタ・プロジェクト」は、その好例である。ミネソタ・プロジェクトはソウル大学がアメリカ式の建築カリキュラムを構築するための書籍や施設を提供した。アメリカの援助の影響はすぐに現れた。ソウル大学の建築学部は、植民地時代に設立された3年制のプログラムを、アメリカをモデルにした4年制のプログラムに変更した。加えて、ソウル大学の教員3名がミネソタ大学に留学することも支援した。彼らはアメリカの建築システムを積極的に取り入れると、韓国において実践していく。例えば、金正秀(Kim Jungsoo、1919〜1985年)はミネソタ・プロジェクトの3人の奨学生の一人であるが、カーテンウォールシステムを採用した聖マリア大聖堂(1958年)のデザインに見られるように、ミース的なインターナショナル・スタイルの高層建築を輸入する重要人物となる。金正秀にとっては、個々の建築家のユニークな建築スタイルを示すことよりも、アメリカの新しい建築システムや工業化された生産システムを取り入れることの方が重要だったのだ。

USOMビル(1955〜1961年)
実用主義、効率性、経済的実現性といったアメリカの美徳は1950年代の韓国の建築界において支配的であった。FOAによる支援のもとで1961年に完成したUSOMビルと韓国政府ビルには、アメリカの圧倒的な影響力が示されている。韓国政府ビルは非常にシンボリックな建築だが、設計費を節約するためにUSOMビルと全く同じ設計となっており、アメリカのプラグマティックなアプローチを体現した。USOMビルと韓国政府ビルはともに8階建てで、当時は新しいモダニティの象徴と見なされていた大きなガラス窓が特徴である。設計を担当したのはアメリカのPAE((Pacific Architects and Engineers)だった。彼らは東京での米軍の建設プロジェクトの多くも請け負っている。施工はVinnelという別のアメリカの建設会社が韓国の建設会社と協働で行った。この共同作業により、韓国の建築家はアメリカの建築技術やデザインの傾向をよく理解することになった。

国会議事堂コンペ(1959年)
USOMプロジェクトとほぼ同時に、李承晩政府は国会議事堂のための重要な建築コンペティションを開催した。コンペに勝ったのは、その当時は日本に留学していた3人の若い建築家の朴春鳴(Park Chun-myun、1924~)、康炳基(Kang Byung-gi、1932~2007)、そして金壽根(Kim Swoo-geun、1931~1986)だった。朴春鳴と康炳基は1940年代初頭に日本に移り、解放後も研究を続けていた。彼らは東京大学の名門・丹下健三研究室のメンバーだった。丹下研究室では朴春鳴は香川県庁舎(1958年)など多くの公共建築に携わった。康炳基のほうは有名な東京計画1960に参加した。金壽根は少し違っていた。彼は1950年にソウル大学に入学した。しかし朝鮮戦争が勃発したため、日本に密航すると、東京藝術大学の建築科を卒業し、その後は東京大学の高山英華研究室で研究活動を続けている。日韓両国間の公的ルートは解放後間もない時期には閉ざされていたため、金壽根のようなケースは一般的ではない。さらに、野心的な韓国人建築家の理想的な行き先はアメリカであって、日本ではなかった。

国会議事堂コンペを勝った設計案は当時、センセーショナルなものだった。その洗練されたデザインとよく制作された模型は韓国の建築家コミュニティを驚かせた。評論家たちはこのデザインを東洋的趣味というレンズを通じて表現した。ここで言われた「東洋的」な趣味という概念が、日本的な趣味とは明確に区別されていなかった点は注目に値するだろう。国会議事堂という複合建築におけるオフィスビルのファサードは、しばしば丹下の香川県庁舎と比較された。[だが、]それは日本の伝統的な木造建築の近代化の好例と見なされていたものだった。

日本で学んだ若い建築家たちによる国会議事堂の提案は、日本建築の水準の高さを再認識させることになった。韓国社会の政治的混乱によってプロジェクトは実現はしなかった。しかし、3人のコンペ受賞者は韓国の建築シーンで台頭していくことになる。3人の中で最も年長の朴春鳴は、日本の建築界を熟知し、良好な関係を維持したため、両国建築界の仲介役を務めていく。例えば彼が1968年にコリアナ・ホテルを設計した際には、韓国ではなく日本で生産された良質のアルミサッシを輸入している。また、サムスン本社(1976年)の設計では、同じく日本から輸入したプレキャスト・コンクリートを使用した。当時「メイド・イン・ジャパン」は高いデザイン性、洗練された建材、最新の建築技術を意味していた。

1965年、日韓基本条約
1965年に韓国と日本のあいだで国交正常化条約が締結されると、限られた範囲ではあるが、両国間の人、建材、技術の交流が盛んになった。1965年に条約が締結されるまで、韓国と日本は正式な交流ルートをほとんど持たず、互いに孤立した関係にあった。この条約により、韓国政府は「賠償」として日本から多額の融資と技術支援を受けることになる。

しかしながら、1965年の韓国と日本の間の条約とそれに続く日本のODAは、韓国建築の発展には限定的な影響しか与えていない。これにはいくつかの理由がある。第一に、他の国とは異なり、韓国政府は援助を五カ年計画の遂行を可能にするための社会インフラの建設にのみ使用した。援助のほぼ半分はPOSCOとして知られる浦項鉄鋼会社(1968年)の設立に使われ、20%は昭陽江ダムの建設に使われた。韓国における援助資金の使われ方は南アジアの国々のそれと比較してみるのは有効かもしれない。インドネシアを例にとると、援助資金の多くはモニュメンタルな建物や高級ホテルの建設に使われている。さらに、韓国政府は貴重なドルを外国の建設業者に使うことを快く思っていなかった。日本企業の国内市場への参入を阻止し、建築資材を含む日本製品の輸入には厳しい規制をかけている。

とはいえ、POSCO製鐵所は1965年に締結された基本条約によって日韓両国間の技術や資源の交流が活発化したことを実感できる建築である。韓国ではこのような大規模な施設を手がける機会が全くなかったため、ポスコは八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管という日本企業3社によるコンソーシアム、いわゆる「ジャパン・グループ」に技術協力を依頼した。そして、POSCO製鐵所の建設は、日本企業の支援を受けながら、Hyundai、Daelim、Samwha、Kukdongといった韓国の大手建設会社によって進められた。川崎製鉄に勤務していた日本人技師の上野長三郎がPOSCO製鐵所のマスタープランの設計に重要な役割を果たしたことはよく知られている。上野は戦時中には海軍の将校として台湾の港湾拡張工事に携わった人物だった。

POSCO製鐵所は朴正煕政権の最重要プロジェクトだったため、建設当初からマスコミの注目を集めていた。しかし残念なことに、建築の文脈ではほとんど語られていない。製鉄所のデザインがシリアスな建築プロジェクトとしては認識されていなかったためだろう。さらに製鉄所は非常に特殊なビルディング・タイプであるため、韓国建築の全体に与える影響も少なかったのだろう。POSCOプロジェクトについては私の今後の研究課題としたいと思う。日本人による製鉄所施設に関する研究があるのかどうかにも興味がある。

韓国伝統論争とキム・スグン
韓国と日本の関係は一方では脆弱な政治的関係、他方では強固な経済協力という二重性に特徴づけられた。ここでは1965年の条約に対する韓国側の反応について述べてみたい。政治的には、韓国社会は1965年の日本との国交正常化条約を受け入れようとはしなかった。1960年代半ばには全国各地で反日デモが広がっていた。彼らにとって、日本が「真の」謝罪をしなかったため、この条約は国を売る行為だと非難されたのである。しかし経済的には、援助資金は韓国の産業を活性化する数少ないチャンスとして歓迎された。

金壽根の1960年代における初期のキャリアは、こうした韓国の日本に対するアンビバレントな態度をよく示している。金壽根は日本のODAプロジェクトによって可能となった設計チャンスの増加を享受した。金は前述した1959年の国会コンペの3人のメンバーのうちの1人だった。しかし、1961年の朴正煕によるクーデターの後、金壽根は新しい軍事政権の新星として、「国家建築家(state architect)」の役割を担うことになる。1966年から1969年まで、彼は建築や土木の技術コンサルタントを行う国営企業である韓国技術コンサルタント公社(KECC)の社長を務めた。KECCの目的は、外国企業が韓国産業に参入するのを阻止して、ドル節約することにあった。1960年代後半、金壽根がリーダーシップをとるKECCには野心的なエリート建築家が集まった。彼らは漢江地域の開発、京釜高速道路、POSCO製鐵所、済州島の観光施設、1970年の大阪万博韓国館など、一連の国家規模の建設プロジェクトを手がけた。東大の丹下健三チームを手本にしながら、金壽根はKECCを国家のシンクタンクに育てようとしたのである。

その一方で、金壽根は条約締結直後の韓国社会における反日感情のスケープゴートになった。扶余国立博物館(1966年)は、そのデザインが日本建築を連想させるものだったために、「新日本的デザイン(neo-Japanese design)」と酷評された。扶余国立博物館に批判的な人びとは、アーチ状の屋根や鳥居のようなゲートから、この建物が日本の神社によく似ていることを指摘した。解放から20年が経過したとはいえ、多くの韓国人は植民地時代に強制的に神社に参拝させられたことを鮮明に記憶していた。金壽根の意図に関わらず、彼のデザインが人々に恥ずべき植民地時代の過去を思い出させたことが問題となったのだ。もし、「日本的なもの」が近代的なデザイン、最新の技術、洗練された建築材料と結びついていれば、それは問題がなく、奨励されさえした。しかし「日本的なもの」が伝統的な神社のような民族主義的シンボルと結びついた場合、韓国社会では決して受け入れられなかったのである。厳しい批判を受けて、金壽根は当初、扶余国立博物館のデザインは6〜7世紀に日本の古代文明に影響を与えた朝鮮の古い王朝である百済の芸術に触発されたものだと弁明した。だが、すぐに作戦を変更する。扶余国立博物館は日本や百済の伝統とは関係がなく、モダニズム建築家である自身の独自のデザインであると主張したのだ。このような努力は全て無駄に終わった。

しかしながら、扶余国立博物館をめぐる論争は韓国人建築家の間で伝統論争を引き起こすことになった。彼らは韓国的でありながら現代的でもあるような正統なる建築スタイルを見つけようと試みた。皮肉なことに、ある意味では、解放後の韓国の国家建築家である金壽根に独自のアイデンティティと韓国建築の美について考える端緒として、扶余博物館のスキャンダルは作用したとも言える。このスキャンダルに揺さぶられて、建築家自身が韓国的伝統に関心を持つようになったのだ。金壽根は、日本の木造建築との形式的な親和性を理由に韓国の伝統建築の形式的な要素を採用することには興味がなかった。むしろ、韓国の伝統建築の空間的な要素に注目した。それを再解釈したうえで設計したのが、代表作の空間社屋(1971/77年)である。

結論
建築は単なるデザインに関わるものではなく、その社会の社会的・経済的・技術的資源を反映するものでもある。韓国の経済と産業は日本に大きく依存していたため、韓国の建築家が日本の建築物から絶え間ない影響を受けたことは当然だろう。日本建築の存在感は隅々にまで浸透していたため、彼らがその影響を完全に回避することは簡単ではなかった。解放後でさえ、韓国の建築にとって日本は重要で、しかし隠れた参照対照であり続けた。とはいえ、日本建築のレガシーは残存し続けたにも関わらず、その地位が植民地時代の唯一の排他的な規範から、ポストコロニアル時代の利用可能なモデルのひとつへと変化したことは指摘しておくべきだろう。1950年代以降、アメリカの建築は韓国建築の新しいモデル、新しい基準として登場した一方で、ヨーロッパの建築もまたモダニズムの正統的モデルを提供しました。解放後の韓国の建築家たちは、あらゆる手段を駆使しながら前例のない課題と急速な都市成長に対応しようとし、同時に国の産業の発展にも貢献した。近年、韓国社会は経済的・政治的・技術的に急激な発展を遂げたことで、日本に対する「羨望と妬み」から脱却したかのように見える。建築も例外ではないだろう。21世紀に入り、歴史の影から抜け出した韓国の建築家たちが国際的な舞台で活躍している。そのような現在こそ、韓国と日本それぞれの近代建築の空隙を埋め、両国建築界の未来志向な協力関係を構築するために、日韓両国の建築の関係を客観的に検証する時代であると考えている。

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4)⼩倉暢之(琉球⼤学名誉教授)─── 沖縄の本⼟復帰と振興開発

沖縄の特殊事情
宮城先生の報告でも話されていたように、戦後沖縄は国際情勢の中で常に緊張関係にあった。戦後はアメリカ、そして本土復帰後は日本政府の元に開発されてきた流れがある。

まず、沖縄の振興開発の仕組みにについて。これには三つの特殊事情があった。まず、歴史的事情として、先の⼤戦での苛烈な戦禍があったこと。県民のじつに4人に1人、約9.4万人の方々がなくなった。次に、戦後27年間の⽶軍統治があったこと。これにより、国⼟⾯積の0.6%の県⼟に在⽇⽶軍専⽤施設・区域の74%が集中するという現在に至る異常な状況が生まれた。さらに地域経済の脆弱性がくわわることで、開発の機運が芽生えた。そして3つ目に、地理的事情として、本⼟から遠く隔たり、東⻄1,000km、南北400kmの広⼤な海域に約160の離島が点在する離島県であること。これらが沖縄の日本及びアジアにおける特殊事情として挙げられるだろう。

こうした事情を踏まえて、沖縄振興開発は国の責務としての側面から進められてきた。その振興のためには法律──沖縄振興開発特別措置法、沖縄振興開発⾦融公庫法、沖縄開発庁設置法(開発三法)などが、特別立法で定められている。これらの制度の特色は、沖縄関係予算の⼀括計上、他に類をみない⾼率補助制度、各種地域制度、各種優遇制度、貸付⾦利・融資⽐率に配慮した融資制度などを設定していること。これらによって、沖縄の中で資本の流れが大きく変わっていったのだ。また、県知事に沖縄振興開発計画の原案を提出する権利が与えられており、米軍支配から脱して地域固有の事情を汲み取っていこうとする配慮も、滲み出ている。

特別立法は当初、10年間の時限立法であった。1972年から10年間に沖縄振興開発計画(第1次)が設定され、さまざまなインフラ整備や、⼯業開発地区の創設、⾃由貿易地区の創設が進められた。その後、第2次、第3次とつづくことになる。その目的として掲げられたのは、本土との格差是正、自立的発展の基礎条件整備であった。

第3次計画が終わった後にも、沖縄と本土との格差是正実現には遠く及ばなかった。その結果、沖縄振興計画の名前は第4次、第5次とさらに続いた。現在は第5次の途中だが、第3次までの基盤のうえに、⺠間主導の⾃律型経済の構築にむけて、フロンティア創造型の振興策や、さまざまな特区を創設し実装していくといった具体化が進められている。これらの予算は、第4次までの累計が約10.2兆円である。第5次予算は各年度約3千億円となっており、国家予算(国債費、交付税、社保除く)に占める沖縄振興予算の割合は毎年約1%でもある。このような背景の中で、建設業はその一部を確かに構成している。

軍政と開発
戦後沖縄における建設事情の、本土への復帰前と復帰後を比較してみたい。

1949年、アメリカ議会は朝鮮半島の共産勢力に対抗するために、沖縄基地の恒久化について膨大な予算を可決した。それまでの駐屯的な位置付けから、政治情勢に変化が見られたわけである。くわえて、1940年代には相次ぐ大型台風が沖縄に上陸したことで、かまぼこ兵舎と呼ばれたコルゲート鉄板の簡易な建物の大半が損壊し、基地機能が麻痺するということが起こった。この反省から、コンクリートのしっかりした基地を建設していこうということになり、膨大な予算がつけられたのだ。

弁務官制度が1957年から始まると、アメリカ陸軍中将という高官が⾼等弁務官となって沖縄を統治していく。1952年には地元の統治機関として琉球政府が設立された。しかし、実質的な権限は琉球列島⽶国⺠政府USCARの下にあり、琉球政府につけられる予算は非常に脆弱なものであった。そこに軍事優先の開発(インフラ整備)が進められた。基地施設や国道、パイプライン、空港・軍港・訓練場などの土地を強制的に収用していった。俗に「銃剣とブルドーザー」と言われるような強権を発動した開発が行われていった。牧港ハウジングエリアは、現在、おもろまち新都心として開発されているが、当時は198haの広大な土地に「アメリカ」が出現していた地域だった。

軍工事で重要であるのは、それがアメリカ企業や日本大手企業と地元企業のJV(共同企業体)で多くが実施されたこと。1946年にアメリカの建設会社2社がアメリカ陸軍地区工兵隊のプロジェクトを一括受注した際に、地元業社は下請けで参加したことが始まりと言われている。こうして沖縄の地元業者はアメリカの先進的な技術を習得することになっていく。1950年になると、国際入札で、日本、アメリカ、韓国、そして地元業者が単独またはJVで入札に参加していた。当時はGHQによる対日経済援助の一環として、本土の大手企業の参加が許可されていた。このような入札の仕組みは、沖縄の業者にとっても、また本土の大手業者にとっても、アメリカ式建築生産の技術を学ぶ絶好の機会を用意することとなった。実際、清水建設の180周年史によれば、「沖縄工事からわが国の建設業界はJV方式、大型機械による能率的な施工法、アメリカ式施工管理、物価変動に対するクレーム条項の契約方式など、多くのことを学んだ」とあり、先進技術を学ぶ場になったことが記されている。

また軍関係の建設プロジェクトでは、アメリカ式の設計図書や設計施工分離が採用されていたことも、大きな特色として指摘できるだろう。軍施設は意匠重視ではなくむしろ実用重視のため、「スペック」と呼ばれる仕様書に基づいて設計を進める、かなりオートマチックな設計であった。そこに「インスペクター」による厳格な施工管理がなされる。少しでも図面から間違っていればコンクリートを打ちなおす、という厳しい品質管理があった。一方、アメリカの入札では、良質な製品確保のためにあらかじめ適正な利益を計上することが許されていた。日本における「見積もり」の慣習とは異なる部分である。

米国陸軍病院(1959年竣工)は、アメリカの大手設計事務所SOMによる設計。近いうちに解体が予定されているのだが、当時の近代建築の最先端のデザインがなされ、ここで近代建築の技術も導入された。ブルドーザーやコンクリートの基礎、大型重機を用いた施工技術、大型PCパネル工法などは、その後、本土の大手建設会社によって導入され、コンクリート系プレファヴ住宅の基礎となった。地元の重機オペレーターは1950年代の本土の大型プロジェクト、とくに黒部第四ダムや東京オリンピック関連工事などで活躍したと言われている。

復帰後の沖縄建設
一方で、当時の地元の公共・民間の建設はどうなっていたのだろうか。1950年代初頭に設置された琉球政府は、建築基準法や建設業法などの本土の法律制度に準拠しながら法律を整備していったが、軍関連の建築に適用されるのはアメリカのものである。つまり、日米両方に携わる沖縄の設計事務所などは両方を学ばなければならなかった。沖縄では50年代からコンクリート建築が盛んになっていくが、この生産の主たる担い手は地元の建設業者で、多くは工業高校の出身者であった。大学出身者は数としては非常に少なかった。そうした技術者たちによって、大量で多様な建築需要に対応しなければならなかったことから、標準化された実用本位の建築が主流となり、経済的に合理的なスパンによるグリッドプランが多用されていくことになる。

戦後沖縄におけるコンクリート建築化は学校建築からいち早く進んでいった。当時、琉球政府には経済的余裕がなかったため、全体計画よりも個別のコンクリート教室を毎年数教室ずつ薄く広く配分していく方法をとることになる。こうして、途上国の現場によくみられる「角出し建築」(スラブから柱が飛び出ている)の風景が広がっていった。コンクリート住宅も普及していく。その普及の背景には、琉球復興金融基金や琉球開発金融公社基金などの金融制度による利率や融資額の優遇があった。こうして1960年代には新規建築においてコンクリート造が木造を上回り、1980〜90年代には9割以上がコンクリート住宅になる。

上述したとおり、沖縄振興計画には「格差是正」という大きなテーマがあり、そこでは基礎的なインフラ整備が多く実施されることで、のちの住民生活の利便性の向上に大きく寄与していくことになる。象徴的なプロジェクトとしては、1975年の沖縄国際海洋博博覧会の関連施設として建設された、北部と南部を結ぶ高速道路(沖縄自動車道)がある。これは本島の南北格差の是正に用立てるものだ。この時に実施された県道や国道、空港、港などの整備は、「10割補助」という手厚い補助のもとで実現している。「沖縄タイム」という俗語で示される、定時定刻が守られない沖縄の悪癖も、実際はひどい交通渋滞によるところが多い。こうした経済損失を埋めるためにも交通インフラの整備は必須のものだった。ほかにもダム建設やモノレールなど、さまざまなインフラ整備が進められてきている。

また、復帰後の沖縄経済の起爆剤として組まれたのが、大型イベントの誘致だった。最初の大型イベントは、1972年における本土復帰から3年後に開催された沖縄国際海洋博覧会である。「本土復帰記念事業」として開催され、約100haの敷地を開発している。会期の半年間で約350万人が訪れたという。しかしこの大規模開発は赤土汚染を引き起こし、のちに問題になっていく。その後、1987年の国体(第42回国民体育大会)を誘致していく際には、多くの市町村に新設の競技場の建設、その交通手段の確保のための道路整備が大々的に進められており、これもまた沖縄経済への大きな刺激となった。

本土復帰後の沖縄の建設業界では、本土の大手企業が進出し、地元企業との競争が活発化することになる。特に大型プロジェクトになれば、入札の参加資格が非常に高くなる。技術力や実績がなければ受注ができなくなり、本土大手がキープレイヤーとならざるを得ない。地元の建設業者には大型組織も存在するものの、その数は少なく、大半は個人や零細な中小企業が多い。それらの組織化や競争力の増強が課題となった。そのために行政が措置をして対応していった。JVも一つの技術習得の大切な場となり、沖縄県庁(1990)の設計に際しては、⿊川紀章建築都市設計事務所に、JVとして沖縄県建築設計監理共同組合が加わった。

沖縄県庁は、沖縄の多くの設計事務所が参加した大規模なJVとして知られている。施工についても、大成建設と地元の建設業のJVで進められており、ある種の本土企業の進出を象徴する建物として言えるだろう。

返還問題と観光産業の発達
復帰後、日米政府間の約束では嘉手納以南の返還を順次行うことになっているが、なかなか予定通り進んでいないのが実情である。そのなかで、北⾕美浜地区整備や新都⼼地区整備はうまく進んだ事例として挙げたい。おもろまち新都⼼地区整備は、かつてアメリカ軍のハウジングエリアであった場所が新しい都市機能を備えた拠点として再開発されたもの。元米軍用地に20haほど追加した214haの用地に、計画人口21,000人、総事業費1,110億円という巨額の費用を投入して事業を推進した。事業者は地域振興整備公団、現・都市再⽣機構がになった。こうした開発が進んでいくなかで期待は高まっているが、基地返還は順調には進んでいっていない。返還問題は沖縄経済の発展にも大きく絡んでくる問題である。

他方で、本土復帰後は観光産業が大きくクローズアップされ、自立型経済推進のリーディング産業と目されるようになってきた。復帰前は基地関連収入が15.5%、観光収入が6.5%であったが、復帰後は基地関連収入が5%に減り、逆に観光収入が13.8%に上がるという逆転現象が起きている。実際、観光業の2019年の実績は、来県者数が1,000万人を超えるという驚くべき数字となっている。近隣諸外国からのクルーズ船での来航や、国内観光産業の伸展もあり、沖縄が観光地として注目を浴びているのだ。ここで一つ問題に挙がるのは、観光業に対する水資源をどうするかという問題。慢性的に給水制限がかかる状態に、県と国で大きなダムを北部に建設したが、それも徐々に限界に近づいている。

1992年には、首里城を国営沖縄記念公園の首里城地区に指定し、国営で首里城を運営し、そこにたくたんの観光客を呼び込むことが計画された。残念ながら首里城は2019年に火災に遭ってしまったが、現在、再建事業に取り組んでいる最中だ。また、1987年には4,120席の展示場や1,709席の劇場を備えたコンベンションセンターが開業したのだが、近年これでは不足しているということで、「MICE」(Meeting、Incentive tour、Conference、Exhibition)と呼ばれる数万人規模のイベントが可能な大型施設の建設をめぐって、国と県の綱引きが行われている。

観光業とも関係するが、復帰後の沖縄建築においては新しい「沖縄らしさ」の創出も課題となった。首里城のある⾸⾥⾦城地区都市景観形成地域などでは、⾚⽡などの伝統建材使⽤に対する補助をして、質の高い景観をつくりあげていこうとする努力が沖縄の中で進められており、それを自治体も条例や助成などで推進している。ただし、「沖縄らしさ」の創出は意匠に限る問題だけではない。開発による環境破壊も深刻であり、海洋博会場の赤土汚染や、リゾートホテル建設、石垣空港と白保サンゴ礁の問題、辺野古の基地建設による環境破壊などが日常的に報道されるようになり、環境保全に対する意識が高まっている。現在は、住民生活の質の向上とともに、環境産業の育成などの観点から持続可能な社会の形成がどのように可能かを模索しているところである。

振興計画がもたらしたもの
振興計画が沖縄にもたらしたものとは何だろうか。まず、基礎的なインフラはほぼ整備された。本島の外周の道路と、中南部の主要地域を結ぶ高規格道路や高速道路は整備済みである。他方で、いまだ返還されない米軍用地も多く残されており、沖縄の今後が危ぶまれている。沖縄の航空写真を見てもらうとよく分かるが、白く見えるところがコンクリートの建物や道路に覆われているところで、緑の範囲が少ない。このように、戦後沖縄は非常に密度の高い島になっている。県別の人口密度をみると、日本では8番目に沖縄がくる。7番目までは大都市が並ぶが、沖縄は地方都市でありながら高い人口密度となっているのだ。特に那覇の人口密度は1㎢あたり8,000人を超える高密度であり、地価が高騰し、住みにくい中心部となってしまった。バランスのとれた開発への転換が必要だろう。また、沖縄の建設業界の課題は、振興開発に関わる建設プロジェクトの多くを請け負う本土企業に対する競争力、とくに技術力を高めていくことにある。組織の一つ一つが小さいのであればそれをまとめ上げていく、といったような自助努力が求められる時代になっていると考える。

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4. コメント──尾島俊雄(早稲⽥⼤学名誉教授)

私は昭和12年に富山県富山市に生まれて、現在83歳になる。各先生の話題は私自身の人生体験と重なり感慨深かった。昭和12年は北京郊外の盧溝橋で日中戦争が勃発した年で、この戦争がそのまま太平洋戦争につながり、昭和20年8月15日の終戦を迎える。その2週間前の8月1日に私の生まれ育った富山市は米軍のB29に空襲され全滅全焼。人口10万人のうち2千人が焼死した。向かいに住んでいた一家8人も全員防空壕の中で亡くなった。私の自宅も学校もすべてが焼けてしまった。私も三日市町(現・黒部市)に2年間疎開していた。まさに食べるものもない時期だったが、なぜか子供心に明るかった。

2年間の疎開生活を終えて富山市に戻った。もちろん小学校は青空教室で、家もバラック屋根で、食べるものもない生活だったが、そのなかで「家をつくりたい、学校をつくりたい」と自然に建築家を志すようになり、1955年に早稲田大学の建築学科に入った。1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本でも防衛大学をつくる話があり受験しようと考えたこともあった。そのなかでアメリカから大量の軍事物資が流れ込み日本は朝鮮戦争特需となった。鉄鋼業、建設業、造船業など、重厚長大と呼ばれる平和産業のもとに大躍進を果たした時代であった。

東京オリンピック、大阪万博、沖縄海洋博の経験
それはまた、構造力学や材料、設備工学といった分野に、日本のかつての陸海空軍の将校たちが先生としてのみならず、学生として仲間に入ってきた時期でもあった。陸海空軍の優秀な技術将校たちが日本の建設技術を飛躍的に高めたのではないかと感じる。非常に優秀な先生方がやってきて建築界に寄与した。1年生の授業で東京タワーを設計した内藤多仲先生が東京タワーの設計の苦労話として、「パリのエッフェル塔は鋳鉄でできているのに、東京タワーは戦車の鉄くずの鋼を焼き直してつくったので、エッフェル塔より軽く地震に強いものができた」と講義してくれた。1964年に大学院に進むと、東京オリンピックに向けて、丹下健三さんを中心に代々木オリンピックプール(国立代々木屋内総合競技場)が設計されたが、その設備担当が私の恩師である井上宇市先生だった。

井上先生は東京大学の造船学科を卒業し海軍中尉として潜水艦の設計をしていた。そんな先生の教えを受けながら、丹下さんのオリンピックプールを手伝った。当時、井上先生は東京駅を超高層にしようという話を進めていて、調査費が出てニューヨークのマンハッタンを中心に40日ほど滞在した。私も井上先生のお供として始めて海外に訪れた。その時ちょうど世界博が開催されていて、会場に行くと外は暑いのに室内が非常に冷えていたことに驚いた。その後、大阪万博の設計では地域冷房の提案をすることになる。ニューヨークは当時ヒートアイランドが問題になっており、レヴァーハウスもカーテンウォールで冷房ができない。水不足もあった。風の道が必要だということで、グロピウスの設計によるパンナムビルがパークアベニューの壁になって風を阻害していることが問題となっていた。その後、私自身が東京駅のプロジェクトに関わった際には、八重洲通りから行幸通りに抜ける風の道が必要だということで、三菱地所の協力のもと、東京駅を低層のままにして、八重洲側のビルを二つに割いて風の道を確保した。若い頃のニューヨークの体験は、地域冷房や風の道という点で役に立ったのだ。日本の超高層建築では、サンシャインの設計に関わった。当時井上先生は大成建設と一緒に韓国の超高層にも関わっていた。韓国のソウル大学の先生方が東京大学の卒業生だったことも影響していた。大韓生命ビルの設計に井上先生や大成建設が手伝っていた。韓国は少し日本より遅れていたかもしれないが、一緒になって超高層ビルを設計し施工したと記憶している。

当時の大学院は授業がまったくなく、大学院生はオリンピックプールの設計を手伝ったり、卒業後すぐに超高層の設計に携わったり、あるいは万博の設計も30代の若さで関わることができた。先輩たちがそもそもいなかったし、修士や博士の大学院生も数が少ない。研究活動はほとんど文献研究だった。アメリカ、フランス、ロシア、ドイツの文献を翻訳することがアルバイトになった時代である。文献研究をして、アメリカやヨーロッパに調査にいき、それを日本で習得するという時代だった。大阪万博では100万坪の会場で、いきなり30万坪の建物の設計を担当したが、そのときの私は31歳に過ぎない。その若さでやらせてもらえる時代だった。当時の万博の会場のなかで、冷水の必要量は、アメリカ館で1,500t、ソ連館が2,000t、日本館が2,000t、三井・三菱のパビリオンが5,000t。そのなかでも、中国、韓国、インドネシア、インド、それぞれアジアの地域は全部合わせても1,000t程度。日本館1館にも及ばないパビリオンしかできていなかったことに、アジア全体の力が非常に小さいことが現れていると言える。

1970年の大阪万博の後は、佐藤栄作が総理大臣で田中角栄が通産大臣だったこともあり、1972年の沖縄返還をきっかけに沖縄振興のために沖縄国際海洋博を開催することになった。しかも会場はできるだけ那覇から遠い本部半島とすることで、会場設計もさることながら、沖縄全島のインフラを整備することが目指された。私自身、万博での地域冷房の成功もあり、高山栄華先生のもとでこの沖縄海洋博の手伝いをすることになった。会場のみならず、沖縄全体のインフラを計画せよとのことだった。当時の沖縄海洋博の事務総長が沖縄出身の早稲田大学総長・大濱信泉。大濱先生と高山先生のもと、中曽根康弘通産大臣が直轄で指導され、沖縄全島のインフラ設計に当たった。当時の沖縄の電力需要は小さく、東京電力や九州電力の支社にしてはどうだという話もあったが、私が生意気にも「沖縄のことは沖縄にまかせるべきだ」と言って今日の沖縄電力(株)になった。また水道についても生意気な口を出した。しかしこのことが、その後の沖縄のインフラ機能全体の自立に役立ったのではないかと思っている。

先ほど赤水の問題が挙がったが、沖縄海洋博本部の会場100haのなかで、フクギという沖縄の大切な防災植物が繁茂していた。結果、エコロジーに配慮して、このフクギを守るためクラスター方式で会場計画を行なうことにした。しかし結果として、突貫工事に加えて地元の施工会社を使ったため、いちど会場を丸裸にして工事をし、あとから植樹するというような、生態系に配慮のない施工となってしまった。沖縄の本部までに行くための道路建築にともなう赤土の問題や、会場の建設で設計をかなり頑張ったにもかかわらず、結果として全部会場を丸裸にされるといった経験を通して、私自身、生態系を守るには、開発と保全の大切さを痛感した。日本の都市開発、ニュータウン開発も同様で、とにかく開発は誰でもできるが、環境を保全することは大学にしかできないのではないかと考え、大学で頑張ってきた。

アジアとの交流の本格化──日中建築交流
沖縄海洋博の後、1978年に日中平和条約が結ばれた。鄧小平が日本にやってきて新幹線に乗って感動し、鉄工所を見て感動し、とにかく日本と仲良くしようという話で、まずは青少年交流として「千人交流」が企画されたり、理工系教授の「交換教授」という話が挙がった。ただ当時、理工系教授で中国へ行きたがる人は誰もいなかった。しかし日本から誰かが行かないと、中国からも教授が来れない。私自身は、当時の中国は自転車だけの交通で、緑あふれるその生活に逆に興味をもっていたため、沖縄での経験から中国の生態都市をぜひ見たいということで、交換教授の「日本第一号」として手を挙げた。果たして中国から招待状が届き、1979年に1年間、中国科学院の交換教授として中国に行くことになった。目的は中国の自然都市を視察すること。ただし、中国の先生方は、私の欧米流の設備技術を知りたいということだったと思われる。

北京に着くと、北京飯店に科学院の分室が設けられていた。郊外の盧溝橋など、中国の様子を見せてもらっているうちにすっかり気に入られて、どこかでゆっくり交流をしてほしいがどこが良いかと問われた。私は迷わず、西湖のある杭州でゆっくりしたいと伝えた。すると西湖のすぐそばの杭州飯店に立派な部屋を提供された。当時は浙江大学が科学院の直轄校だったため、そこだけが海外に解放された大学だった。そこに中国全土から各省二人、重点大学二人、計60人の先生方が派遣されて、半年間の合宿で私の週二回の日本の話を聞いていただいた。

また、中国側は私の専門である設備環境分野だけでなく、日本建築の全体的な状況を知ることにも意欲的だった。当時日本で彰国社の『建築学体系』を編集していたこともあり、近代以降の日本の建築学の体系についても話すことになった。加えて、各重点大学に私自身が赴いたりもして、それぞれ1週間ほどの交流をもった。結果として、中国全土をめぐり、50〜60回ほどの講義をしてまわった。

中国滞在を終えて日本に帰っても、中国との関係は続いた。1986年は日本建築学会が100周年を迎える年だった。その2〜3年前に、学会長の芦原義信先生が私の自宅に来られ、自分が学会長になるにあたり、中国を中心としたアジアに開かれた学会を目指したいとおっしゃられた。そして100周年を契機にアジアとの交流の旗振り役をしてほしいと依頼された。私は「アジア担当理事」ということで、日本建築学会を中心に、1989年の天安門事件まで100回近い日本からの交流団を組織した。私自身も20〜30回は、中国をはじめとしたアジアに赴き、交流する機会をもった。

ただ、1989年を契機に、それまで付き合っていた中国の先生方とは疎遠になってしまった。その後の中国では反日教育が行われたこともあり、日中交流に消極的になった。しかし、日本に来ている中国人留学生はまだたくさんいたので、留学生中心の交流を見守る立場に立つようにした。日本の阪神大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)、あるいは建築学会や大学校務のなかでも、そのようなバックアップは続けてきた。

市川:数多くのアジアの方々との交流や仕事をされてきた尾島先生ですが、イントロで触れた「アジアには手を出せないという認識が私のジェネレーションにはある」という磯崎新さんのコメントについては、共有される感覚はありますか。尾島先生と磯崎さんはともに1930年代生まれです。

尾島:磯崎さんとは大阪万博からの長い付き合い。磯崎さんのお父様は中国にいたこともあり、その影響を強く受けている。私も中国や韓国との付き合いにあたっては、自分たちの世代は「ギブ・アンド・ギブ」でなければならない、という意識はあった。私の父も兵隊として満州に行っていたこともある。中国に行って援助しなければいけない、という気持ちは自分の世代までは、確実にどこかにあったと思う。中国人のほうでは、「交換教授第一号」として暖かく迎えてくれたことをよく記憶している。しかし、やはり1990年代から反日教育が始まったあたりから、時代を下るにしたがって、中国や韓国のなかでそうした感情は強まっている。苦しい状況から一生懸命這い上がるときには、互いに対立する余裕がなかった。1960〜80年代まではアジアは一生懸命に食べること、復興することに集中していた。互いに力をつけてきた段階から互いの歴史を意識しはじめた印象がある。

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5. 討議

市川:三先生による報告と尾島先生によるコメント、どうもありがとうございました。これから、時間の許す限り、討議を行いたい。宮城先生の報告で、日本の戦後賠償は役務であることが大きな特徴、というお話があった。これにより、ある種の純粋な賠償行為から経済進出の足がかりとしての性格が、戦後賠償に取り付く。改めて伺いたいのは、こうした役務賠償のなかで、建築や土木はどのような位置付けだったのか、ということ。また、こうした経済進出的性格を帯びた賠償行為に対する評価や批判などは国内外であったのか。

宮城:日本からすると、アジアとの国力の関係が1980年代から2000年代にかけて「垂直的なもの」から「水平的なもの」に変わっていく。尾島先生がおっしゃられていることと関係するが、その頃から、中国をはじめとした東アジア諸国との関係がギスギスしはじめた感覚がある。それが現在のアジアとの関係構築の難しさになっていることは間違いない。

出発点を振り返ると、やはりサンフランシスコ講和が重要だろう。日本にとって「全面講和」か「単独講和」か、つまり冷戦状態のなかで英米陣営とだけの講和か、中国ソ連とも結ぶのかに焦点が当たって、国内でも大きな議論になった。しかし、ここにはアジアがいなかった。中国は招かれていないし、韓国は戦時中に亡命政権が上海にあり戦勝国として参加できそうになるも、イギリスが反対して韓国も来ていない。東南アジア諸国もフィリピンくらいしか来ていない。インドネシアは来たけれど批准しなかった。つまり、アジアの声が欠落したまま講和が締結されてしまった。一方で、ソ連はサンフランシスコ講和で修正案を出してきている。そこでは賠償の決め方を中国とインドネシアとフィリピンなど、アジアの被害諸国の間で賠償や謝罪の方法と額を決めるという案だった。もしこの修正案が通っていたら、日本の戦後はまったくちがった姿になったはずだ。日本はより厳しい賠償をアジアに対して支払い、それによって戦争責任を果たしたかもしれない。下手をすると恨み辛みが日本側に募るような講和のかたちになった可能性もあったのだ。ただ冷戦構造のもとでそうはならなかった。

実際、役務ではとても巨額の賠償を満たすことはできない。日本と各国間の個別交渉の中で、役務では数億ドルという額を埋めることはできないので、結果的に現物賠償に広がっていった現実がある。当時は日本に対する不信の念は東南アジアで強かった。1955年のバンドン会議では、10年前まで「大東亜解放」を唱えていた日本人がどんな顔をして国際会議に出てくるのだという話が出ていた。そうした状況では、ビジネスマンなどは嫌われやすい。しかし技術者であれば、独立したばかりの国家の国づくりへの協力、という側面が強調できるため、日本に対する疑念や不信の念がうずまく東南アジアに入っていくためには都合がいい。これに賠償という大義名分が加わる。こうして建設業はじめとする技術者は、相手国への協力という色彩があるため、相手国からみても受け入れやすかったのではないか。

他方で、イギリスが地域から植民地を解体していくなかで、イギリスの影響力を残すために「コロンボプラン」という枠組みをつくり、技術協力を行った。これが戦後日本が始めた技術協力の最初であった。その重点対象となったインドでは、「これは日本から」「これはアメリカから」「これはソ連から」というようなバラ買いが特徴であった。つまり、1カ国から導入するとそこに従属させられかねない。独立したばかりのアジア諸国にとっては自国の主権がなによりも大事であり、技術導入を急ぐなかで、ふたたびある1カ国の影響下に置かれることは避けねばならない。米ソ冷戦のどちらかにも加味したくない。そこでバラ買いをしていくというのがインドの方針だった。このように、日本から見れば経済進出としての役務であるが、アジアからみれば独立を維持するためにさまざまなところから技術導入をしたいという思惑があり、冷戦構造下の米ソという二国とは少し外れた日本による賠償は、アジア諸国にとっても都合がよかったという側面がある。

韓国については、アメリカからの援助を引き出す意図もあって、ベトナム戦争では軍隊を韓国に送っている。日本にはそのような軍事的な協力は不可能だった。代わりに東南アジアに対して行ったのが経済協力ということになる。

市川:韓国の話題が出たので、曺先生にうかがいたい。今回のシンポジウムでは「日本→アジア」という放射状のベクトルで話題を構成したが、宮城先生の報告で「援助競争」という言葉があったように、戦後アジアの援助−被援助の関係は、本当はもっと錯綜したものと思われる。そもそも日本も、戦後すぐは世界銀行からの支援を受ける被援助国。それが経済復興とともにアジアに対する援助国へと変遷した。ベトナム戦争における軍事的協力のほかには、韓国は建築・土木的な関わりをおこなうことはあったのか。

曺:1960年代半ばから、韓国でも非公式に途上国への援助が始まっている。戦後日本にとって、朝鮮戦争が経済復興の重要な動力になったように、韓国の産業発展においてベトナム戦争の役割が大きかったと言える。戦争を契機に、軍人と同時に技術者も派遣していた。現在の韓国でも代表的な財閥企業であるヒュンダイで例えると、ベトナム戦争のタイミングでベトナムの後方国家であるタイに進出して、大規模な高速道路を建設している。こうした1960年代後半からの援助建設を通じて、タイやベトナムをはじめ、東南アジア全域において建設業を広めていき、韓国の建設業の発展につながっていったと考えられる。また、こうした企業ベースの支援プロジェクトとは別に、韓国の公的な政府開発援助(ODA)は1980年代に始まった。ODAはアジアだけではなく全世界の途上国に向けて行われている。

市川:まさに日本のゼネコンがそうであったように、韓国のヒュンダイも援助から経済進出へという流れがあった。このような状況それ自体、植民地支配から独立国の集合となる戦後アジアの変化を示すものと言える。他方で、谷川先生の報告された豊後土工の活動からは、戦前・戦後が地続きであることが示されているように思う。豊後土工の戦後における活動からは、「日本→アジア」というベクトルとは別の、例えば「アジア→日本」というフィードバックのベクトルは見出だせるのだろうか。

谷川:私は実は、豊後土工の研究を始める前に久保田豊を追っていた。彼らのような高い地位にある技術者の仕事の意味を問う場合、アジアから日本へのフィードバックは、その経済的恩恵や、政治と技術の繋がりといった話題で比較的クリアに浮かび上がってくる。しかし豊後土工の場合は、彼らは自分の稼ぎ優先で動いていている側面が強く、少なくともその意識からは「植民地開発」なのか「賠償」なのかの差異は認められない。アジアを仕事場として非常に自由に動いている印象を受ける。そのため、東南アジアで彼らが何かをつくり、そこから日本に何かをフィードバックしてくる、といった明確な関係があまり認められない。些末な話としては、豊後土工たちが働きに出たインドネシアで良い生活をし、ゴルフを覚えて帰ってきた、といったような話はあるにはある。しかし、建築や建設に関わるような話は見えてこないのが実情だ。私自身、「賠償」や「援助」という大きな言葉に惑わされているのではないか?あるいは、その大きな言葉によって戦後のアジアと日本を本当に語ることができるのか?そんな風に豊後土工の研究を進めていくなかで逆に問いかけられたような気がしている。私たちは、戦後日本をもう少し落ち着いて、多角的に問うた方がよいかもしれない。

市川:戦後賠償やODAといった大きなフレームは、著名な政治家や企業であればともかく、土工集団に着目する限りはあまり意味をなさないというご指摘で、非常に興味深い。

小倉:市川さんが言われているベクトルの複雑さは、沖縄にも見出だせるかもしれない。1950年代の日本ではコンクリート技術に関しては沖縄が先進地域だった。アメリカ式のプロジェクトがあったからだ。設計や施工技術をはじめ重機のオペレーターなど、そういったものは本土ですら1950年代は人海戦術だったが、アメリカ式の機械化された施工方法が沖縄に先駆的に導入されていった。結果、東京オリンピックの建設プロジェクトでは、沖縄の技術者が多く参加した。沖縄の現場で慣れた重機オペレーターが、本土の工事で活躍した。

市川:1970年代に始まる沖縄振興計画では、本土との経済格差是正のために「本土→沖縄」で振興政策が進められたが、それ以前のコンクリート技術者に着目すれば、そのベクトルはそんなに簡単なものではない。

尾島:1980年代に様々なODAに関わっていたが、基本的にはODAや賠償は相手国から日本に要求を出す、という大前提がある。要求されたことに対して、日本が応える。しかし、その場面に何度か立ち会った際に非常に不愉快だったのが、相手国が必要であろうことを日本の商社があらかじめお膳立てしようとしていたことです。つまり、自分たちがつくりたいものを相手国に押し付け、それを必要だと言わせようとする。そのような仕組みで動く場面に何度か遭遇し、結局私はODAには関知しないようになった。

通産省から大学に対してある要求がされたこともあった。もっと日本の大学が相手国に入り込み、コンサル的な振る舞いをしてくれと言うのだ。アメリカではMITなどの学者がさまざまな国の政策決定の場に入り込んで、その国の要求に影響をおよぼしているから、日本でもそのような人材を大学で育成してくれと。私自身は早稲田大学に「理工学総合研究センター」をつくり、相手国が本当に欲しいものをその国の立場で研究し、発信できるような場所を整備しようと努力したが、なかなかうまくいかなかった。結果として、ODAでは相手側が本当は必要のないものを建設会社がつくり、ほとんど使われない、ということが多々起こった。とくに建設プロジェクトの場合にこうした悪い事例が目立つ。問題は、その国の欲しいものを見つけられるような人材を日本の大学が育てられなかったこと。これは私自身も果たせなかったこととして痛感している。そうして不要なものをつくった末に、ODAがくすんでいってしまった。

谷川:東南アジアにおける賠償プロジェクトのいくつかも、尾島先生のおっしゃったように、日本側が裏で手を回していた側面があるように思う。しかし、それは戦後に始まったことではないかもしれない。例えば、久保田豊は戦前に日窒のプランナーであったときから、地図を見た段階でそこでどんな開発ができるかをすでに思い描いており、そのために必要な措置を植民地政府や軍に求めた。いわば政治・経済関係者よりも技術者が先んじて植民地建設を推進したのだ。こうした技術者主導の考え方が戦後にも継続し、これが賠償というスキームにうまくはまったのではないか。

宮城:『国際協力の戦後史』(荒木光弥著/末廣昭+宮城大蔵+千野境子+高木佑輔編、東洋経済新報社、2020年10月)という書籍が間もなく刊行されるのだが、そこで荒木光弥さんという、尾島先生と同世代の方に聞き取りをした。国際エコノミストとして著名な大来佐武郎さんの下で『国際開発ジャーナル』という雑誌を編纂していた、ODA業界の生き字引のような方なのだが、同書のなかで荒木さんがおっしゃっていたことは、まさに尾島先生がおっしゃっていることと同じで、興味深い。つまり、現地で日本の商社が先回りする、という賠償のときについた癖がODAまで残ってしまっているのだと。人的協力の必要性などについても、ODA業界の現場の生々しい話を含めてうかがえたので、関心があれば皆さんにも手にとっていただきたい。

曺:韓国の事例を一つ紹介したい。賠償とODAは区別すべきだと考えている。日本の1960年代までは韓国に対する戦後賠償の性格が強かったと思うが、それ以降は公的援助の性格が強くなる。今回のシンポジウムに当たり、市川さんから、韓国の戦後建築に対する日本の戦後賠償プロジェクトが与えた影響の有無について聞かれたが、それは比較的小さかったと思われる。しかし実業的な建設業に対する影響は大きかった。その影響の要因は、日本の企業や政府というよりも、朴正煕政権が経済成長を推進しようとしたことのほうが、大きかった。とくに重工業への転換のためには日本の引き入れが必要な戦略だったと考えられるのだ。こうして日本からの賠償金のほとんどが道路やダムの建設に使われた。ただし、建設業に与えた影響はもちろん大きかったが、にもかかわらず韓国の国内事情は複雑なところがあり、日本企業が実際にそうした建設に参加してともに作業した事例はほとんど見られない。韓国企業が主導して、日本の技術的支援を受けることが多かった。韓国国内における反日感情や実利的な理由が反映されている。賠償金を通して資金がふたたび日本企業に取り戻されることは許されないという政府側の強い意向が働いた。先程の報告で挙げたKECC(韓国総合技術開発公社)の設立の目標として、賠償金をふたたび日本企業に取り戻させないためという狙いがあったのであり、これにより、国内で独自に技術的な仕事ができる会社がつくられていくことになる。

市川:時間いっぱいとなりました。最後にレビュアーである林先生、戦後空間WGメンバーからも一言いただいて、閉会としたい。

林:私はインドネシアを専門としているが、インドネシアは戦後賠償のなかでは特殊例。賠償工事に土木ではなく建築が多い。これは賠償を担保にいれた借款形式のプロジェクトであったことが大きい。国民全体に対する寄与という点では、建築は土木に比べて小さくならざるを得ない。この点は日本政府も意識していたし、また経済的にも役に立たないのではないかという話があった。しかし、むしろインドネシア政府側から話をもちかけて、結果としてホテルインドネシアなどの高層建築が建てられた。しかしその背後にいたのはやはり日本の商社。彼らが日本企業が入るような商社ビルを建ててはどうかと働きかけて、一方でスカルノ政権も超高層が建つことで自身のプライドを表現できるということで、日本の商社とインドネシア政府が結託しながら賠償金を使っていったプロジェクトが生まれたようだ。こうして、他の国の経済的なインフラを整えていくというプロジェクトとはやや毛色がちがうインドネシアの賠償が生まれた。

ところで、2014年に東南アジアで初めて高炉付きの製鉄所がインドネシアで建設された。それは曹先生の報告にあった韓国のPOSCOとインドネシア国営の製鉄会社の共同プロジェクトである。近年、このような中国や韓国による東南アジア諸国への援助や共同プロジェクトが行われている。これは冷戦以後のグローバル化による新たな援助の動きである。しかし、今日、POSCOの創設には川崎製鉄の援助が関係しているとの話があったように、その技術的な萌芽には冷戦下の援助が関係していると、本日の議論から理解できた。とても広がりのあるテーマだったと思う。

青井:戦後空間WGメンバーから一言だけ。谷川先生の報告が象徴的であったが、政治的枠組みやお金の出所はどうであれ、建設は建設であり、そこは横断可能であって、どこへでもいけてしまうという側面が確かにある。それゆえ「戦後空間」とは戦後日本の空間を指しているが、その内と外の両面を見ることで建築にとっての新しいテーマが立ち上がるかどうかを考えると、なかなか難しい部分もあると感じた。他方で、小倉先生の報告は建設と政治の深いかかわりを示唆している。ある意味でいびつなほど多量の建設、多量の公共投資というものが、のちの沖縄の生活環境や文化社会、あるいは建設界そのものに大きな影響を与えた。これは建築の問題として引き受けられるのではないかということを教えていただいた。

付録:戦後アジアと日本の建設を考えるための書籍ガイド21(戦後空間WG作成)

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戦後空間WG
戦後空間

日本建築学会歴史意匠委員会傘下のWG(2017年1月発足)です。