レビュー|林憲吾|国家のあいだの戦後空間

戦後空間シンポジウム05|賠償・援助・振興 ── 戦後空間のアジア

戦後空間WG
戦後空間
Jul 9, 2021

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敗戦からの復興、高度経済成長、東京オリンピックの開催、そしてGDP世界第2位。第二次大戦後わずか四半世紀で再浮上した日本の成長路線とバブル崩壊までの安定は、戦前の帝国主義とは打って変わって、あたかも日本という閉じた圏域で成立したかのように我々は錯覚していないだろうか。

戦後空間WG第5回シンポジウム「賠償・援助・振興 ─── 戦後空間のアジア」(2020年10月17日zoom開催)は、そのような視点を全く改めるものとなった。戦後アジア外交の大局を描く宮城、朝鮮半島から東南アジアに至る戦前戦後の土木技術者の連続性を追う谷川、日本植民地の経験が複雑に交錯する韓国建築界を紐解く曺、沖縄から本土へアメリカの建設技術の還流を指摘する小倉。以上、四氏による発表と、日本とアジアの建築界を1960年代から間近で見てこられた尾島氏のコメントは、近隣のアジア諸国との関係修復と、それに必要な賠償や援助、そしてアメリカの介入が、国際社会における日本の建設業の地歩をいかに固めてきたかを教えてくれた。「日本の奇跡」と呼ばれ、アジアの成功例ともてはやされた日本の経済的地位は、敗戦で不安定化した国際関係を再構築することなしには不可能であったし、アジアNIESや中国、ASEANへと経済成長が波及し、それに便乗した近年の建設量の拡大もなかったであろう。

本稿では、こうしたアジアの戦後空間において、筆者自身が特筆すべきと考える3点について、筆者が研究対象とするインドネシアの事例も交えながら以下に述べたい。

転換点としての1970年代
宮城が指摘したとおり、1972年の日中平和友好条約と沖縄の本土復帰までは、敗戦で一度瓦解したアジア域内の国際関係を南アジア、東南アジア、北東アジアの順で、日本が再構築していく移行期と位置付けられる。そして、この移行期を終えた1970年代こそが、戦後アジアの日本イメージにとってもひとつの転換点ではなかったかと私は考えている。すなわち、アジア域内の経済的な雄としての日本と、アジア侵略の加害者という歴史認識が、複雑に交錯したのがこの時期ではないかと。

今回のシンポジウムが明らかにしたように、1970年代までの移行期に政治的にも経済的にも重要な意味を持ったのが賠償である。日本を侵略の加害者とする認識は、もちろんこの時期から日本とアジア諸国双方にあった。だからこそ賠償は、大東亜共栄圏という心理的な負の遺産を乗り越えて、国交を回復する政治的ツールになった。しかし同時に、経済的には宮城の表現を借りればアジア進出の「橋頭堡」にもなった。その理由は、アメリカの意向に沿って賠償が現金でなく役務や現物の供給になったからであり、現地が必要とするインフラや建物を、日本からの技術者と資材で供給するスキームが採用されたからである。

こう考えると、戦争加害者としての日本と、アジアへの経済的な覇者としての日本という二重性が、この時期すでに確立していたように思える。しかしながら、アジア諸国の日本への態度は、未だそのような固定的なものではなかったと考えられる。当時のアジア諸国は独立したばかりであり、旧宗主国との関係や冷戦構造の中でパワーバランスを取らねばならなかった。それゆえにアジアに位置する日本との関係を国家形成に利用する必要があった。たとえばインドネシアでは、賠償が締結される1950年代後半はオランダ企業の接収や排斥が主たる関心であったし、左傾化によってアメリカとの関係も拗らせていた。そのため、日本をときにアジアの一員とみなし、外交戦略上、日本の賠償を利用した。日本もまた、アジアの一員という立場を意識的に利用し、インドネシアとアメリカの間に入ってインドネシアの左傾化を食い止めようとした★1。本シンポジウムの冒頭で布野修二の言葉を引いて市川が述べたように、この時期の日本の建築アカデミーには、アジアを容易には語れないネガティブ・タブーがあったとされる。しかし、そうしたある種のナイーブさは、賠償工事にはほとんど感じられない。それは加害者意識が希薄だったからではなく、日本国内で今まさに必要としている開発と、アジア諸国が必要とする賠償工事が直結していたからではないだろうか。豊後土工たちに賠償工事という特別な意識はほとんどないと谷川が語るように、建設技術者から見れば、日本とアジアの現場はいま考える以上に連続したものだったのかもしれない。このあたりの技術者の認識を知ることは、この時期の歴史認識を再考する上で重要となろう。

では反対に、賠償によって日本が利益を享受していることについて、賠償を受ける側の反応はどうだったのか。これに答えるには、まだまだ各国の論調を精査しなければならない。だが、たとえばホテル・インドネシアやサリナ・デパート、ヌサンタラ・ビルディングといった1960年代のインドネシアの賠償案件を見ている限り、その交渉過程に日本の態度を皮肉るような発言は目立たない。経済利益追求型の日本に向けられた有名な皮肉に「エコノミック・アニマル」という言葉がある。これは1965年にパキスタンの外相であったズルフィカル・ブットが発言したのが初出とされる。ただし、当時はこの言葉に侮辱的な意味合いはそれほど込められていなかったとされる★2。

それに対して、まさに皮肉を込めてエコノミック・アニマルとして日本を認識するようになるのは、北東アジアでの日本の戦後処理がひとつの節目を迎えた1970年代といってよいだろう。それを象徴する出来事が東南アジアでの反日暴動である。代表的なものに1974年のマラリ事件がある。田中角栄首相のインドネシア訪問に合わせて発生したこの事件は、現地政府との癒着によってビジネスを拡大する日系企業に対する市民からの大規模な抗議デモであった。日本車をはじめとする日本製品の焼き討ちを伴う非常に激しいものだった。ただし暴動は、日系企業だけに向けられたものではなかった。当時のスハルト体制への批判を間接的にこのデモに込めた。だが、それでも日本企業の進出とそれに起因する経済的不均衡に大きな不満が溜まっていたのは事実である。

こうした暴動以降、賠償に代わって拡大させつつあった政府開発援助(ODA)をアジア諸国に対して日本はさらに増強させた。それだけではなく、文化交流を積極的におこない、国際関係の心理的な安定を図るようになる。いわゆる「福田ドクトリン」である。東南アジア、北東アジアで日本の経済的優位が揺らぎないものになるなかで、援助の拡大と文化の相互理解の両輪で外交を進めてきた。いわばこれは、かつての侵略の記憶が亡霊のように現れないよう細心の注意を払いながら、アジアでの経済開発を進めることでもある。日本の建設業のアジアでの拡大も、このような背景を抜きに語ることはできない。

国家以外のアクター
1974年のマラリ事件の矛先は、日本という国家ではもちろんあったが、より直接的には日系企業であった。ではなぜ日系企業がアジア諸国で反感を買うほどに経済進出できたのか。そのきっかけは、賠償や援助であったことは、本シンポジウムでも述べられたところである。ただし、ここで留意すべきは、尾島が最後に指摘した点だろう。すなわち、商社を中心とする民間企業が賠償や援助に独自に介入していたことである。次にこの点を取り上げたい。

賠償や援助は相手国が日本政府にプロジェクトを要求することではじまる。つまり国家間のプロジェクトである。しかし、現地政府からの要求の背後にはしばしば日本の商社が存在していた。彼らは、アジア諸国が必要とする開発を先回りで計画し、現地の政府要職にロビー活動する。その結果、日本政府から賠償や援助を引き出すのである。この過程で現地政府への賄賂ももちろん発生する。

賠償もそうだが、日本の援助の特徴は「紐付き」といわれる。プロジェクトに必要な資材や技術は日本から輸出する。したがって、そのことで大きな利益を得るのは商社などの民間企業だ。だからこそ彼らは、日本政府とは別に現地政府と密な関係を築き、のちのちの契約を先回りで得ようとする。

東南アジア最初の100m超えの超高層ビルとなったヌサンタラ・ビルディングの交渉過程にも、それは垣間見える。まずは建物の概要を説明しよう。

1964年8月にインドネシアの首都ジャカルタで着工したこの建物は、地上30階、地下1階建て、高さ110mのオフィスビルである。鹿島建設と大成建設のJV(ジョイント・ベンチャー)が設計施工にあたった。構造設計は武藤清率いる鹿島建設がおこない、当時日本で計画が進んでいた霞が関ビルディングと並行して超高層に係る構造実験が鹿島の技術研究所で行われた★3。日本最初の超高層である霞が関ビルディングの高層部の起工式が1965年3月であることから、およそ半年早く着工したことになる。日本の建設会社が初めて施工した超高層ビルになる。しかし、1965年9月30日にインドネシアで発生したクーデター未遂事件と、それに伴うスカルノ体制の崩壊により、工事は中断を余儀なくされた。数年は鉄骨の躯体のみの状態で放置されていた。だが、1970年、三井物産がプロジェクトを引き継ぐことで再び工事が動き出す。1972年にようやく完成し、日系企業を主なテナントとするオフィスビルとして稼働した★4。日系企業のインドネシアビジネスのひとつの拠点となったのである。

このプロジェクトには賠償が利用された。日本の外交史料を見る限り、当初この建物は24階建ての合同庁舎としてインドネシア政府から発案されている。1962年11月のスカルノ来日の際には、大平正芳外相に対して、「日本の建築技術に頼ることといたしたい」と述べ、賠償案件で処理したい旨をほのめかしている★5。その後、交渉が進められ、翌63年9月に、賠償を担保とする円借款を本プロジェクトに供与することが池田勇人首相からインドネシア政府に伝えられた★6。

ただし、この一連のプロセスは、日本政府の思惑通りというわけではなかった。というのも、そもそも日本政府はこのプロジェクトに難色を示していたからだ。端的に言えば、現地社会にとって無駄なプロジェクトで、賠償にそぐわないと考えていた。賠償を担保にした円借款という手続き自体、賠償の本筋からやや外れる。当時スカルノは、この賠償を担保にした円借款を用いて、ホテルやデパートの建設も計画していたが、インドネシア国内でもプロジェクトに異論を唱える人々がいた。建築好きのスカルノによる国家建設は、新興国家の立派さのアピールにはなっても、経済効果は少ないと認識されていたからだ。しかし、それでもインドネシア政府は、賠償の利用を強く要求し、計画は実行に移された。

とはいえ、賠償プロジェクトはスカルノの独擅場ではなかった。スカルノに近づき、計画を持ちかける商社がいたことはよく知られている。

日本にはインドネシアの応援団が多く、応援団が相手チームのピッチャーと直接取引するようなことが度々あります。(笑)★7

大平外相がインドネシアのスバンドリオ外相に語った言葉である。ここでいう応援団とは、商社など民間企業であることは間違いない。なかでも有名なのは木下商会と東日貿易である★8。ヌサンタラ・ビルディングに関しては、応援団はおそらく鉄鋼製品を扱う木下商会だと思われる。木下商会は1965年に三井物産に吸収されており、その線からも可能性は高い。

この事例からわかるのは、賠償や援助において国家と企業は必ずしも一心同体ではなかったということだ。賠償や援助といえば、国家を主たるアクターとする国家間の交渉だと理解される。もちろん賠償を利用した外交戦略、国益の確保は日本国の思惑である。しかし、海外プロジェクトだからといって、国家以外のアクターが存在しないわけはない。もっといえば、彼らの思惑と国家の思惑は必ずしも足並みが揃っているわけではない。それよりはむしろ、独立国家の威信を保ちたい相手国の思惑と、経済進出をしたい企業の思惑が釣り合うこともある。インドネシアでのいくつかの賠償案件はそのことを物語っている。アジアの戦後空間を国家からのみ眺めるのではなく、国家以外のアクターも含めて私たちは理解しなければならない。

地続きのアジア
三つ目に着目したい点は、技術や経験の流動である。小倉が指摘したように、アメリカ統治下の沖縄は、本土の建設会社がアメリカの技術や施工体制を学ぶ場となった。たとえば、JVは沖縄の工事ではじめて日本の建設会社が経験したものであり★9、その後それが本土の大規模プロジェクトに取り入れられた。さらには、先のヌサンタラ・ビルディングのようにアジア諸国の賠償工事でもJVが数多く採用された。沖縄の工事とは、いうなれば建設会社にとって戦後最初の海外工事である。つまり沖縄で得た技術や経験は、本土に環流したのみならず、その後の海外工事の布石になったのである。

一方、谷川は、戦前の朝鮮半島から戦後の東南アジアへと豊後土工たちの現場が移動することを指摘した。植民地開発から賠償工事へと政治的意味は大きく異なるが、そこで必要とされる技術や技術者はそう簡単には変わりようがない。帝国日本が必要とした水力発電やダム開発など数々のインフラ開発は、東南アジアの独立国家にそのまま応用可能だった。技術移転の視点からは戦前戦後は大いに連続している。こうした技術の流動性が、大東亜共栄圏の記憶が薄れぬうちに、ある意味であっけらかんと日本が東南アジア諸国に入っていけた所以かもしれない。

賠償や援助を介して日本からアジア諸国へ技術や施工が持ち込まれたとして、では、その流れはそこで終わりなのだろうか。それを考察する上で見過ごすことのできない事例を最後に紹介したい。

2013年12月23日、東南アジアで初めて高炉設備を有した銑鋼一貫製鉄所がインドネシアで稼働した。この高炉は、韓国最大の鉄鋼メーカー・ポスコが投資をしてインドネシア国営企業クラカタウスチールと共同で建設したものである★10。高炉は鉄鋼生産の心臓部にあたり、鉄鋼の量産化には欠かせない大型設備である。東南アジアでは21世紀に入って経済成長が進み、鉄鋼需要が伸びた。だが、高炉を持たない国々は、いまや強大な鉄鋼生産国である中国への依存度を高めざるをえない。したがって、この高炉は、中国に対抗してインドネシアの鉄鋼生産および二次産業をより強固にする役割と、東南アジア市場での韓国の存在感を強める役割の二つを担うものである。

では、なぜこの事例が注目に値するのか。それはそもそもポスコ自身の設立が、この事例とシンクロするからだ。「ポスコが韓国で国家経済の発展の土台になったように、この製鉄所がインドネシアで同じ役割を果たすと確信している」とは、ポスコの鄭会長の発言である[11]。自負のこもった言葉ではあるが、韓国の工業化や経済成長において、高炉メーカーであるポスコの誕生は実際のところ大きな画期であった。そして、このポスコの設立に日本の賠償が関わっていることは、シンポジウムで曺が詳述したとおりである。曺によれば、1972年に操業開始したポスコ(当時、浦項総合製鉄)は、賠償プロジェクトとして日本の川崎製鉄所によって建設された。一方、川崎製鉄所は1950年代に高炉メーカーとなり、戦後の日本の鉄鋼業を牽引した大手製鉄所にのし上がった。その経験が韓国に活かされたのである。

そして2013年に、ポスコがインドネシアに高炉を建設する。高炉自体の具体的な技術がどこまで連続しているかはさておき、ある種の高炉外交が日本、韓国、インドネシアへと玉突きのように連関している。20世紀半ばの賠償から21世紀のグローバル経済へ、そのつながりをここに読み取ることができる。アジアの戦後空間は、終戦、冷戦、グローバル化などによって再編されてきた。だが、いまの私たちの足元まで地続きのところが少なからずあるはずだ。賠償、援助、復興がそうした連続性を紐解くための鍵であることを、もはや疑う余地はない。

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★1:宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』創文社、2004年、17–28頁
★2: 多賀敏行『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史―』 新潮社、Kindle版、№335–338
★3: 「建設進むインドネシア・ヌサンタラ会館」『鹿島建設月報』1965年7月、鹿島建設株式会社、19頁、金子功「技術研究者若手社員 私の研究課題を語る」『鹿島建設月報』1966年1月、鹿島建設株式会社、26頁。
★4:着工当初は高層部に付随して地下1階、地上2階建ての低層部が計画されていた。その後計画は変更され、地上11階建てのプレジデントホテルが併設された。なおこのホテルは日本航空の子会社(日本航空開発)が経営をおこなった。
★5:「大平外務大臣のスカルノ大統領表敬訪問の際の会談要領」1962年11月7日、A’.1.6.1.1–1、外務省外交史料館
★6: JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.B18090126400、昭和三十三年、A’.1.2.1.5、外務省外交史料館
★7:「大平外務大臣とスバンドリオ外務大臣との会談の件」1962年11月2日、A’.1.2.1.5、外務省外交史料館
★8:Nishihara, Masashi, The Japanese and Sukarno’s Indonesia: Tokyo-Jakarta Relations, 1951–1966. University of Hawaii Press, 1976.
★9:「会社の歴史メモ 戦後の躍進 ─── J.V.と海外工事」『鹿島建設月報』1965年7月、鹿島建設株式会社、23頁
★10:「ポスコ、インドネシアで高炉一貫製鉄所を稼働」『日本経済新聞[電子版]』2013年12月23日、https://www.nikkei.com/article/DGXNASDX23002_T21C13A2FFE000/
★11:同上

Hotel Indonesia Kempinski Jakarta, 1962[出典:海外建設協会編『海外建設協会25年史』海外建設協会, 1980]

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日本建築学会歴史意匠委員会傘下のWG(2017年1月発足)です。