戦後空間と公共の福祉

木村浩之

戦後空間WG
戦後空間
23 min readMay 25, 2022

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「[スイス連邦]は、共同の福祉、
持続可能な発展、国内の結束、
および国内文化の多様性を
促進するものとする」
───スイス連邦憲法(2条2項)*1

シンポジウム後半を、コメンテーターからのコメントという一方通行の当初計画から、ディスカッション形式へとフォーマットを変更したことは非常に有意だったと思う。シンボリックにも〈求められていた対話〉が実現した時間であり、また実際に縦割り世界のなかでの運用論に帰結してしまうのではなく、ホリスティックな視点で根源的な問題の探求へと掘り下げるような対話が生まれた。

シンポジウム前半は、山下、山田両氏によりシンポジウムのタイトルである『都心・農地・経済』に関して分かりやすくかつ多角的な視点で整理、解説いただいた。後半はそれらを踏まえ、内藤氏、饗庭氏からの示唆に富むコメントをきっかけにしたスリリングなディスカッションが展開された。それが企画者の思惑通り、まさにシンポジウム副題になっている『土地にみる戦後空間の果て』をめぐるものとなっていた。むろんそれは松田氏、日埜氏のモデレーションの卓越さがあってのことだが、視聴者の期待を十二分に満たすシンポジウムだった。

〈公共の福祉〉の欠如?

内藤氏が〈公共の福祉〉という概念を持ち出して、憲法に始まり都市計画法にもみられるこの基本概念が、農地法下の世界にその文言が見当たらない、と指摘した。つまり農地政策は、運用の前提となる法体系に不備があり、それが全体を間違った方向に向かわせてしまったのではないか、と分析した。改めて法制度側から公共の福祉を検証すべきという指摘はディスカッションに方向性を与える重要な契機となった。

現に、山田氏が指摘したように、個々の農家が損得無視で道徳的な決断をしてくれることに期待するのは確かに無理な話だ。土地を売って儲かる仕組みを許容しつつもそれを選択しないことを期待する方が不自然だ。

饗庭氏も、農地の行方は地権者の個々の決断にゆだねられており、農地を面的に保護していくことができていない現状を訴えた。それをサッカー用語を援用して「マンツーマンディフェンス」と「ゾーンディフェンス」と表現したのは、毎度ネーミングの巧みさで唸らせる饗庭氏ならではだ。その例えに乗って言うならば、現在の農地を取り囲む環境は、チームとしての連携がないだけではなく、プレイヤー個々のモチベーションを維持させる仕組みすらも整っていない、ということだろう。そのモチベーションとは、農家としての意識、伝統、コミュニティ的圧力などが複雑に絡み合ったものだろうが、それをいとも簡単に放棄し換金できてしまうのだ。守るべきもの(物理的=農地等、精神的=伝統等)だとは認識しつつも、自ら手放すような「オウンゴール」農家が多くいただろうことは想像に難しくない。

こう見ていくと、社会的な利益は、個々の農家の損得感情とのトレードオフという極めて軟弱で社会公平性に欠けた方法でしか担保できないことが問題であることが見えてくる。つまり指摘通り「公共の福祉」概念の欠如が農地法の根本的な問題であることは間違いなさそうだ。一方で、社会的な利益に従った行動規範で動いていないのは農地法の世界だけではない。公共の福祉という文言は、憲法に複数回使われ、多くの法律の目的の条文にも採用されている。それにも関わらず、あらゆる行動場面において、現実的には公共にとっての善を促す行動指針とはなっていないのが現実だ。現に、公共の福祉が第1条に目的として掲げられている都市計画法にても必ずしも社会的利益に即した運用がなされているとは言えない。それ故に、これは農地法の目的問題を超えて、より深い問題であるだろう。

だからこそ、いま改めて公共の福祉とは何かを問い、そしてその運用の実情を知り、再検証することが求められていると感じた。それが僕がこのシンポジウムから持ち帰った問題意識だ。

〈公共の福祉〉は社会益ではなかった

そもそも、 公共の福祉とは何を目指すものなのか。

改めて憲法概念としての〈公共の福祉〉とは何を指すのか紐解いてみた。
僕自身は建築家であり、法学者ではない。門外漢である一方で、一人の国民として憲法の理解は必要だ。その程度の理解であることを予め断ったうえで、論を進めることを了承願いたい。

〈公共の福祉〉という語感から一般的に想起されるのは社会益であろう。ディスカッションでもそういう理解の上で語られていたように思える。しかしながら日本国憲法は、社会益のために個々人が我慢して行動しなくてはいけないとは定めていない。全く逆で、個人の尊重こそが日本国憲法が最大限に保障している価値であって、それは社会益ではない。

公共の福祉とは、他人の人権と自由を害しないように自分の人権と自由を行使しなくてはいけないという、あくまでもある個人が権利の行使にあたり、他の個人の権利の尊重のため権利行使の調整が必要である、という意味合いでしかないのだ。つまり、個人対個人の調整の話であって、集合体としてのコミュニティや国家国益を高めることを目指すものではない。なぜこのように誤解を招くような表現が採用になったのか(そういう解釈が定着したのか)を掘り下げることは、それこそ僕の専門外となるのでここでは差し控える *2 。ただ、理解したことは、日本国憲法上で目指している社会益といえるものはつきつめると〈平和〉以外に存在しない、ということだ。

ドイツ憲法 *3 も日本国憲法も、両国のそれぞれの戦時中の反省を踏まえた上で、戦後に制定した憲法だ。日本は戦争の放棄と平和が前面に出るかたちになったが、ドイツでは、全体主義の回避がその基底になっている。日本国憲法は〈公共の福祉〉という表現を他人の人権と自由を害しないという意味合いで使用してしまっていると上で述べたが、ドイツ基本法では当該の部分は「他人の権利を侵さない限り」という簡明直截な表現を採っている。そういう点でドイツの方が日本よりも社会益を避ける傾向が顕著に見て取れるとも言えよう。ナチス時代に公益が私益に優先する体制が敷かれたため、戦後憲法では公益、公共の福祉、あるいはそれに類似したどうにでも解釈できるあいまいな概念をことごとく避けたものになっているのだ。一方の日本でも「国家総動員法」やそのもとでの「金属類回収令」などにおいて「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)」を強要していたためドイツと同様のはずだが、一般市民にとって誤解を招くような曖昧な表記が憲法上に容認、放置されている点からして、ドイツほどは徹底されていないとも言えよう。そういった若干のニュアンスの違いはあれど、原則的には日本もドイツも現行憲法下では社会益を求めることは忌諱されるべきものとして扱われているのだ。

日本国憲法では〈公共の福祉〉という表現は4箇所確認できる。その4番目となる29条2項は「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」という条文になっている。これを上記の理解で読み直すと、この条文は社会益云々の話ではなく、土地所有権の絶対性は、他の個人の自由と権利を侵さない限り担保される、ということなのだ *4。つまり、憲法自体がそもそも「ゾーンディフェンス」を回避しており、「マンツーマンディフェンス」あるいは「オウンゴール」の方を推奨していることになる *5。

ドイツ:〈財産権の義務〉

その点、ドイツの憲法の所有権の規定は強く興味を引く。ドイツ憲法中で最も異彩を放つ条項である「財産権は義務を伴う」という短文から始まる14条2項のことだ。「その行使は、同時に公共の福祉に役立つものでなければならない」と続くのだが、避けられているはずの「公共の福祉Wohle der Allgemeinheit」という表現がここで例外的に採用されている。義務という強い私権制限への告知とともに、その目的として歴史上の反省に背く危険を冒してまで公共の福祉という概念が掲げられているのだ。その義務とは何かここでは明示はないが *6 、権利に対して義務というセットで考えられていることが特筆に値しよう *7 。条件を伴わない絶対的な自然権としての基本的人権を掲げる一方で、所有権に関しては条件付きの特殊な権利であることが強調され、私益を超えることがあってはいけない前提ながらも、それと同列の価値として公共の福祉がかかげられていると言えるものだ。なお、イタリア共和国憲法(1947年公布)でも所有権に関しては、私有財産は,法律で認められ且つ保障される。法律は,私有財産の社会的機能を保障し,何人もこれを享受できる目的で,その取得,使用および制限の方法を定める」(第42条 *8 )と、「社会的機能la funzione sociale 」という概念を導入しているだけでなく「何人もこれを享受できるaccessibile a tutti」という使用価値の共有ともとれる考え方となっている。このように戦後のイタリア憲法においても、個人の権利に一定の制限がかかることを明白に表明している点で、ドイツと類似の思想のものである。

ドイツのいわゆる国土交通大臣や法務大臣を務めたハンス=ヨッヘン・フォーゲル氏が、1970年代に土地が公平かつ社会益のために利用されるような立法を何度か試みている。つまりドイツ憲法の14条2項に従った私権の制限をより具体的に運用しようとしたのだ。しかしながらどれも成立することなく廃案になり現在に至っている *9 。つまり強力な14条2項をもっても「ゾーンディフェンス」は一筋縄ではいかないことが窺い知れる *10 。

スイス:私権制限への挑戦

他方、約半世紀後、隣国のスイスにてフォーゲル立法案に似たような条項が成立した。国民投票を経て成立(改正)した 2014年の空間計画法だ。それは農地が宅地化されたときに生じる地価の上昇分は、行政府に納めなくてはいけない、というものだ(連邦空間計画法RPG第5条、より正確には、各州でそういう法律を定めよという内容)。

その逆のケース、つまり、土地を他用途へゾーンダウンした場合、収容した場合には、政府が土地価格の低下の差額を保証することは以前から行われてきた。日本国憲法14条3項でいうところの「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と同様の条文がドイツやスイスにもあり、ダウンゾーニングや土地収容の際の補償制度の根拠となってきた。

農業収入を大幅に上回る収益となる高速道路建設等のための土地収容で農家が裕福になっていた事例はシンポジウムでも紹介された。ただ、こういった土地価格の増減や収容にともなう金銭のやり取りは、いままでは政府が民間に支払いをする一方通行であった。

その逆方向、つまりアップゾーニング(農地転用等)、払下げ、民営化土地の形式的変化に伴う地価上昇収益は、地権者だけが受領者となり、政府に収めるあるいは地域に還元する必要はなく、ある意味一方的とも言える状態が放置されていた *11。ダウンゾーニングの場合は、金銭的補償が前提になるのに、アップゾーニングの場合には金銭的補償は不要とはどういうことであろうか。

ただ、日本のみならずドイツやスイスでも、これがインセンティブとなって社会に必要な住宅供給が賄われ、戦後の人口増、経済発展が可能となってきたのも事実である。フォーゲル氏の訴えが市民に響かなかった70年代はまさにそういった状況の真っただ中にあった。

その状況が21世紀の現在大きく異なることは人口減少時代に突入した日本では自明だ。ヨーロッパ諸国でも別の理由で20世紀とは状況が異なってきている。特に2010年頃以降、不動産価格(賃料)の高騰が激しく、社会問題化している。ヨーロッパ主要国は、主に移入者などにより人口増を続けているが、そこに海外の投資マネーが入りはじめることで、不動産バブルのような状態が突然のように起こり始めたのだ。2011年に僕の住んでいたスイス・バーゼル市で公有地払下げ禁止法案の市民発議をめざす運動が始まったのも、そういった背景があってのことだった(2016年の市民投票にて可決され施行された)。

アップゾーニングの際の一部収益を政府が受領するという逆インセンティブ的手法にてゾーンディフェンス法を可決したスイスだが、スイス憲法にはドイツのような土地をめぐる強い制限規定はない。ただ、スイスの最高裁判所である連邦裁判所の判決(支払額が合理的な一定の割合でなされる場合は所有権の制限には当たらないとされた)を一応の根拠としているのみだ。それでもこの法律は、国民投票にて過半数の投票を得て成立に至った経緯があり、それは国民投票を最高位の決定手段としているスイスでは非常に強い根拠と理解されていると解釈できる。なお、この連邦法施行から7年経過しているものの、実質的な運用を担う各州の立法に時間がかかってしまったようで、やっと全国的に揃ってきたという段階だ。従って、まだまだ運用実績が少なく、評価するには残念ながら時期尚早だ。ただ、ドイツでもスイス法を真似た立法を望む声が上がっており、今後周辺諸国でも影響が広がることがあるのかもしれない。

スイスは生真面目で保守的な国民性で知られるが、一方で直接民主主義を活用して実験的・挑戦的な法案の試みを頻繁に行う両面性を持つ。市民発議案の9割は国民投票にて否決され終わってしまうものだが、その議論からの学びも多い。議員立法では出にくい内容のものも多く含まれるのが特徴だ。2016年のベーシックインカムに関する市民発議法案(否決)などもそのひとつだ。上記の連邦空間法改正による私権制限は、挑戦的な法案とされながらも可決されたものだ。実に62.9%の賛成票を集めた明白な可決であった。これは、民主主義の在り方、資本主義の在り方が改めて世界のあちこちで議論されつつも、実際の制度が変わることは一切起こっていない現状に波紋を投じるような出来事であろう。市民は勇気ある変化を求めているのだ。これが「戦後空間の果て」を超克することができるのかは未知だが、先駆例として運用の調査とその検証が今後求められよう。

フランス:私権制限の回避

こういったドイツやスイスでの苦渋に満ちた政策を踏まえた上で、再び山下氏が紹介したフランスのSAFER(土地整備農事創設会社)の農地の先買権を見直してみると、それが非常にスマートにできていることが改めて理解できる。つまり優先的取得権という新しい権利を保護を目的とする団体に与えることで、憲法イシューである所有権制限・経済的自由権制限という難関の回避を可能とするスキームになっているのだ。そうやって経済的自由を完全な形で担保しつつも、ゾーンディフェンスを可能としているのは実に見事としか言いようがない。

なお、2017年にはEU欧州委員会も、EU域に関して、農地取引規制のガイドラインを公表し、そこで農地の先買権(pre-emption rights)を市町村などに付与することを推奨しているようだ *12 。要はフランス式の方法を広めようという意図ととらえることができよう。

フランス的なエレガントな〈抜け道〉的なストラテジーで、迅速に空間計画を行える現実的なツールを確保するのが今後主流の考え方となっていくのだろうか。ただ、これは現状の社会システム(戦後体制)を維持する前提の上では有効なツールであるが、現状の社会システム自体が21世的な社会の要請に応えていけ得るのかが疑問視されている現状を踏まえると、長期的には限界があるツールように思えてならない。

憲法の帰結としての戦後空間

21世紀に入り、SDGs、気候正義、ESG投資などの用語を目にしない日はほぼなくなった。我々の行動指針に様々変化が強いられていることは明らかだ。憲法では個人の自由権を基底にしてはいるものの、その権利行使のアウトカムに対する責任への規定はない。日本国憲法で国民の責任として定めているのは、他人の自由と権利を侵さないことだけだ。より現実的にはそれが実現するように法律を定めることとなっている。

繰り返しになるが、日本国憲法で定めているのは個人の人権の保護であって社会益の追求ではない。一般的には正しさには合法/違法の軸とともに、公正/不当の軸があると理解されるだろうが、日本国憲法体制下にて、合法であれば公正でなくても良いという常態が蔓延してしまった。

その結果としての現在が、シンポジウムのタイトルの「果て」という言葉に込められている。戦後日本の社会が行きついた先は、この先が行き止まりであるような極地であった。饗庭氏が例示した線引きを辞めた自治体の現状(航空写真)が、そのなれの果てを縮図的に示していた。Point of no returnの様相をともなったショッキングなまでの混沌状態が示しているのは、私益を絶対化し社会益を禁じる戦後憲法の目指すところそのままであると言えよう。

山田氏が述べたように、社会には「社会システムと社会空間との整合性」が目されていなくてはならない。この「果て」の世界を見ると、これが我々が望んでいた社会だとは到底思えないし、システム自体もシンポジウムで何度も触れられた通り「ザル」だ。一方で、いま見たように、実は今の「果て」の空間は、現行憲法下のシステムのまさに望むところであった。つまり奇しくもシステムと空間の整合性が取れているのだ。悲しくも現行システムが求める全うな結末なのだ。しかしながら、この蕩尽されてしまった国土をみれば、それが行き止まりに向かっていることは明らかで、憲法が望んでいたとしても、国民が総意として望んでいたとは言い難い。

そこには、現行システムが眼ざすところの社会はつまりどんな社会なのか、という議論が欠けていた。山田氏が「ビジョンの欠落」と述べたように、そもそも我々はどんな社会を望んでいるのか — — そういった未来像を描き共有する仕組みの欠如、つまりメタシステム自体の欠如がディスカッションから浮かび上がってきた。より具体的には「公共の福祉」を浸透させる仕組みの欠陥・欠如以前に、公共とは何なのか、福祉とは何なのか、それが実現される社会とはどういう社会なのか、などという目指すべき方向性を議論する〈場〉が不在であることが浮き彫りになってきた。

それは憲法上での「公共の福祉」のあいまいさに対し、学説解釈を重ねていく日本流の運用方法を続けてきたことが、結果として、国民を置き去りにしてしまい、議論の場を奪っていたこととも重なる。

そう考えていくと、山下氏が、「飛躍するが」との前置きをしながらも、複数回放った示唆的なコメントが改めて身に染みる。つまり、「問題の根源は内閣法制局だ」という表現で言わんとしたことだ。つまり、個人の尊重に固執するあまりに、社会益を担保するような立法をことごとく放棄せざるを得ない状況になっていたということだろう。
75年間もの間、一方では憲法を神聖化し、他方では高度成長の恵みを享受する傍ら、なされるべき議論を封じてきた。75年間の議論の欠如が現在の社会的環境、空間的環境 — -戦後空間の果て — -をつくりだしている根源なのだ。

「農の心」?

その上で、山下氏が最後に放った「農の心」ということばもとりわけ印象に残った。つまり日本の農業は、交換価値や使用価値だけではなく、社会文化的価値でもあったはずで、それを守る議論も必要であろうということだろう。まさにその通りだ。経済的自由権も、所有権制限による損失保障も、結局はカネの話だ。「戦後空間の果て」とは、すなわち国土を損得勘定で切り刻んできた結末のみならず、売れないモノ・コトを切り捨ててきた結末でもあるのだ。

その「心」はどうやったら守れたのであろうか。

スイスは、1874年以来の連邦憲法を1999年に全文を差し替え(!)て、新連邦憲法を成立させたが、そこには新しい時代を感じさせる考え方が見てとれる。その目的を示した第2条〈目的〉では、「持続可能な発展」、「文化の多様性」、「生命の自然的基盤の恒久的な保全」などという個人でも国家でもない領域の概念を入れ込み、さらに第6条〈個人と社会の責任〉にては「何人も、自己に責任を負うとともに、国家および社会における課題を達成するために、それぞれの能力に応じて貢献しなくてはならない」と国民の義務を規定している *13 。

これらは基本的人権と干渉しない社会益であり、個人的人権を助長する社会益とも言えるもので、戦後憲法のジレンマを乗り越えるものであるように思える。

日本で同様の手法をとることを提案するのではないし、また現実的に憲法改正を伴うこの方法は望みが低そうではある。ただ、基本的人権と平和一辺倒のイデオロギーから何かしらの方法で、何かしらの発展を遂げないことには「果て」からの脱却は望めないだろう。その参考にはなるのではないかと思う。

我々は何を次世代へ遺せるのか。荒れ果てさせてしまった国土の取返しは容易にはつかない。しかし、それを検証し、開かれた議論の土壌を回復させることだけはできるはずだ。このシンポジウムを通して、一視聴者としての僕自身のそういう心持ちが、より一層強いものとなった。

都市と農地を引き合わせることで、これだけの実のある議論がうまれた。農業は国土面積の中でも割合が高く、また居住地に隣接し緊密な関係にあるため、土地利用等を考える点で非常に多くの視点を提供してくれた。同様の手法で、(農業より広い面積を占める)森林、あるいは工業生産地を取り上げるとどうなるのだろうか、そして、日本の領土外にあるエネルギー生産の土地を考えるという思考実験は何をもたらしてくれるだろうか *14 。そんな展開の期待まで抱かせる刺激的で有意義なシンポジウムであった。

1 ── 原文はSie fördert die gemeinsame Wohlfahrt, die nachhaltige Entwicklung, den inneren Zusammenhalt und die kulturelle Vielfalt des Landes.

2 ── 自民党の憲法改正草案(2012年)では、公共の福祉に代わって「公益及び公の秩序」という表現が採択されている。憲法用語としての「公」が何を差すのかあいまいな上に、一般的な歴史的認識として公は天皇や幕府であり、支配者であったことを想起すると、適切な表現とは到底思えない。本稿では〈社会益〉という表記を採用した。ドイツ憲法で「公共」と訳されている単語は、ÖffentlichkeitではなくAllgemeinheitという単語だ。Öffentlichkeitが一般的に口語等で公共の意味で用いられることが多いが、それが官や公のニュアンスがあるのに対し、憲法で用いられているAllgemeinheitという単語は一般を意味するAllgemeinの派生語であり、英語で言うところのGeneral publicと通じる用語で、人民を差している。英語のpublicの語源がpeopleと同じであることも参考になろう。

3 ── 1949年制定のドイツの憲法は、東西分断を念頭に、憲法Verfassungではなくあえて基本法Grundgesetzという名称が与えられた。ボン基本法と呼ばれることもある。東西統一後の現在は、元西ドイツの基本法が名称や内容を変えずにそのまま運用されている。口語などでは基本法を差して憲法と言うこともある。本稿では憲法と呼ぶ。

4 ── 基本的人権の行使に関わる「公共の福祉」(12条、13条)の意味合いの消極的解釈に比べ、財産権に関わる「公共の福祉」(29条)はより積極的な意味合いのものとして解釈される、という解釈論があることも記しておく。

5 ── 土地収用法の条文には「公共の利益」という表記が採用されている。公共の福祉と似た表現で紛らわしいが、その根拠や意味するところ、あるいはそれをどのように計測評価するのかなど、今後勉強したい。

6 ── 東西ドイツの分離にて、戦後の多くの土地建物が所有者不在となった。14条の義務とはその取扱いをめぐるという理解もされているようだ。事実、1990年の東西統一後に土地建物所有権の回復をめぐり相当な努力がなされたようだ。なお、1919年制定のワイマール憲法と呼ばれる先行の憲法でも「所有権は義務を伴う」とされていたため、この表現自体は戦後につくられたものではない。

7 ── ドイツ憲法の制定前に作成された日本国憲法のGHQ草案は、かなりドイツ憲法に近いものであり「財産ヲ所有スル者ハ義務ヲ負フ 」と義務概念が採用されていた。オリジナル英文ではOwnership of property imposes obligations. Its use shall be in the public good. Private property may be taken by the State for public use upon just compensation therefor.

8 ── https://www.senato.it/istituzione/la-costituzione%E3%80%80%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E3%81%AF%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E4%B8%8A%E9%99%A2%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%83%A8%E3%80%81%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%85%83%E5%AD%90%EF%BC%88%E5%8D%94%E5%8A%9B%EF%BC%89

9 ── Hans Jochen Vogel, Mehr Gerechtigkeit! Wir brauchen eine neue Bodenordnung — nur dann wird auch Wohnen wieder bezahlbar. Herder, Freiburg/Basel/Wien 2019 (『公平性が必要だ! 住居を価格を下げるためには新しい土地法が必要』)

10 ── ドイツの建設法典BauGBの第1章の5に「公共の福祉に資する社会的に公正な土地利用」という目標が謳われている。

11 ── 固定資産税は増額となるが、それは行政的操作による価値変動のコンペンセーションになるものではない。

12 ── Commission Interpretative Communication on the Acquisition of Farmland and European Union Law (2017/C 350/05)

13 ── スイスでの憲法改正条件は国民投票にて2/3以上の合意が必要という意味では日本と同様のハードルではあるが、スイスでは頻繁に改正が行われているという意味では、日本と対極的である。なお、スイスは連邦制のため、連邦政府のみならず州(カントン)にも憲法が定められている。余談になるが、基本的人権のひとつとして「芸術の自由Freiheit der Kunst」という日本では聞きなれない権利も同憲法は保障している。

14 ── ヒンターランドやプロダクティブ・ランドスケープをめぐる議論は、プラネタリー・アーバニゼーション論にて展開されている。

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戦後空間WG
戦後空間

日本建築学会歴史意匠委員会傘下のWG(2017年1月発足)です。