レビュー|門脇耕三|現実と理想の折衷としての1960年代住宅
1960年代の住宅はいかにして成功したか
1960年代は、技術と政策が「住宅」を通じて結びつき、産業化への道を邁進した ─── 第二回目となる「戦後空間シンポジウム」の冒頭で提出されたのは、このような仮説であった。これに応じるかたちで、1960年代の住宅の技術を松村秀一が語り、政策を平山洋介が語るというのが、このシンポジウムの大まかな構図である。
建築界にとっての1960年代が、住宅の時代であったことに異論をはさむ余地はないだろう。1950 年に住宅金融公庫法が、1951 年に公営住宅法が、1955年に日本住宅公団が成立して制度的な準備が整い(いわゆる「住宅の55年体制」の確立)、住宅の圧倒的な量的不足を根本から解決すべく、大量の建設が本格化した時代である。朝鮮特需以降の好景気にもあと押しされて、住宅建設に携わる者のあいだには、使命感とともにある種の高揚感が漂っていただろうことは想像にかたくない。住宅供給は社会的な課題であったが、この課題に取り組むことは経済的な報奨ももたらした。たとえば、1960年に化学メーカーが社内ベンチャー的に設立した、とあるハウスメーカーは、ちょうど10年後の1970年に上場を果たしている。現在のわれわれからすれば、夢のような時代というしかない。
1960年代は、〈輝かしい〉住宅の時代である。だとするならば、この時代の成功から、われわれは何を学ぶことができるのか。その後の住宅産業の骨格をなすこととなる、しかし1960年代には生成の途上にあった技術と政策は、いかにこの成功を先導したのか。さしあたってそのような興味が生じるのは当然だといえるだろう。聴衆の関心の多くも、その点に集まっていたように思う。
1960年代の住宅をつくった技術
1960年代の住宅。とひと言でいっても、その幅は広い。構法や住まい方、住まい手の社会階層など、分類の手がかりは枚挙にいとまがなく、そこには膨大なバリエーションを見いだすことができるはずであるし、そもそも、この言葉には、戸建て住宅も集合住宅も含まれている。両者は成り立ちがまったく異なっており、使われている技術についても、内装や設備では一部重なりつつも、躯体の技術はほとんど別の体系に属している。両者は別種の建築であるといってもよいくらいなのだが、しかし1960年代は、そのいずれにも大きな変化が訪れた時代でもあった。
まずは戸建て住宅について。技術面では、重化学工業をはじめとした他産業による朝鮮特需後の新規市場開拓の結果として、建築生産の工業化が本格化し、工場生産化された部材や部品が戸建て住宅にも大量に流れ込みはじめた時代である。1960年前後には、プレファブリケーションによる量産体制を掲げた住宅メーカーもあいついで設立されている。またこの時代には、個人が住宅金融公庫の融資を受けて住宅の建設資金を調達することが一般化したが、公庫は融資対象とする住宅の共通仕様書を定めており、これに先導されるかたちで、伝統に連なる木造住宅の技術体系も再編されていった。この時期の木造住宅に付け加えられていった筋交い・布基礎・モルタル外壁といった新たな構法も、この再編の産物である。
これらの戸建て住宅に起こった変化については、松村からも詳細な解説があったが、なかでも、この大量建設の時代を支えたのが勃興する工務店だったという指摘は重要だろう。公庫をはじめとした個人への融資機関は、工事責任の所在の一元化を要求したため、これに答えるかたちで、一式請負の工務店という業態が生まれたわけであるが、工務店が果たした役割の大きさは、これまであまり顧みられることがなかったのではないか。松村によれば、ある程度の修行を積んだ若い職人が、自分の工務店を興すことは珍しいものではなかったというから、当時の工務店は、さながら成長産業のまわりで次々と起ちあがるベンチャー企業のようなものだったのだろうし、一定の規模以上の企業へと成長した工務店もあるのだろう。工務店は、戦前的な職人組織と近代的な建築生産体制を橋渡しした存在でもあり、研究的な興味もつきない。
次に集合住宅について。木造賃貸アパートへの言及をのぞいて、このシンポジウムでは当時の集合住宅の具体像があまり語られなかったが、1960年代は集合住宅にも大きな変化があった時代である。そもそも、住戸が積み重ねられる中層以上の集合住宅それ自体が、戦前まではすまいの形態として一般的なものではなく(たとえば戦前の集合住宅として著名な同潤会アパートは、数としてはたかだか2,500戸程度が建設されたに過ぎない)、この頃にようやく庶民に普及するようになったものである。こうした集合住宅の普及を先導したのは、日本住宅公団、地方住宅供給公社、自治体などの公共の団体であるが、公共の集合住宅は、都市不燃化政策の一環として耐火構造を旨としたため、鉄筋コンクリート造とされることが主流であった。法規的にも、3階建て以上の建物を木造でつくることは1950年制定の建築基準法によって禁じられたため、中層以上の建物は鉄筋コンクリート造とせざるをえないという事情があった。
一方で、この時期に集合住宅が普及したことは、郊外や地方都市においても、鉄筋コンクリート造の建物が建設できる産業的・技術的基盤が整ったことを意味している。これは戦後の経済統制が解け、経済も復興し、鉄筋やセメントが自由に使えるようになったこととも無関係ではないが、資材削減のための技術的工夫の痕跡もこの頃の集合住宅には残されており、たとえば1960年代の公共集合住宅に数多く採用された壁式構造は、そうしたもののひとつである。壁式構造は地震時の躯体の変形が小さく、戦前の集合住宅の主流であった柱梁構造に比べて、鉄筋量の大幅な縮減が可能となるが、この構造形式はもともと、朝鮮戦争で鋼材価格が高騰していた頃の戦災復興院の集合住宅で導入されたものであった。いずれにせよ、この頃には各地で鉄筋コンクリート造建物が建てられるようになったのであるが、その技術的な基盤の整備自体に、公共集合住宅が果たした役割も大きかった。公共集合住宅に適用された標準設計が、鉄筋コンクリート造の施工経験のなかった工務店を啓蒙する役割を果たしたのである。ただし、こうした歴史の詳細は必ずしも実証的に明らかにされているわけではない。こちらも今後の研究が待たれる分野である。
1960年代の住宅の折衷性
このような1960年代の住宅の躍進の裏には、それを直接的・間接的に方向付けた住宅政策があった。ここに「日本型」の住宅政策の確立へと向かうストーリーを与え、詳細に解説した平山の講演は、建築学の研究者からすると聞き慣れないことが多いぶん、極めて学ぶところが多い。
平山によれば、戦後の出発時点の日本の住宅政策は、広い意味において「埋め込まれた自由主義」に合致するものだったという。「埋め込まれた自由主義」とは、市場を制御するメカニズムを持つ戦後的な自由主義体制を意味するということだが、門外漢の粗雑な目線からすれば、個人資本による私有的な戸建て住宅と、公共資本による公有的な(共産的なというと乱暴すぎるだろうか)集合住宅が併存し、両者がともに、拡大を続けた1960年代の住宅において重要な役割を担ったという状況自体が、極めて興味深く思える。これは別種の建築を折衷させることによって「埋め込まれた自由主義」を目指した結果だと見ることもできるし、あるいは、明確な方針を欠いた、いかにも日本的な優柔不断の帰結にも思える。
すでに述べたとおり、戸建て住宅と集合住宅は、技術的にもまったく異なる系譜に属している。古代から連綿と続く木造建築の系譜に連なる木造の住宅と、それに紐づく大工や工務店は、1960年代の政策を動かしている側からすれば、近代化された技術と生産組織ですぐにでも置き換えるべき、古き世界だと思われていたに違いない。密集する木造住宅は、都市災害のリスクそのものであり、これを低減するために導入されたモルタル外壁も、当時は過渡的なものだと考えられていたというから、やがてはあらゆる住宅が耐火建築としてつくられることが目指されていたのだろう。田辺平学の研究の流れをくみ、大工でもつくれる不燃プレファブを目指したユタカプレコンによる住宅などは、まさに来たるべき住宅の姿を写し取ったものであった。しかし、いままさにつくられている建物を、それをつくる技術をもった人間ごと、別のものへと即座に置き換えることは極めてむずかしい。ましてや、当時は住宅がはなはだしく不足していた時代である。住宅供給に役立つ資源は、物資であれ技術であれ人であれ資金であれ、貪欲に活用しようと考えるのは自然なことだし、やむにやまれぬことでもあったのだろう。若い住宅取得層の未来を梃子(レバレッジ)に、最大化した個人資産を使って、近世から引き継いだ豊かで洗練された技術的・人的な基盤をもつ木造建築として戸建て住宅をつくるという道筋は、当時の現実に即している。しかも、公的融資の引き替えとして、無理のない範囲で耐震構法や防火構法を木造の技術体系に組み込もうとしたのだから抜け目がない。
一方、公的な主体によってつくられた鉄筋コンクリート造の集合住宅は、その技術も形式も近代以前の日本とは直接的なつながりをもっておらず、まさにまったく新しい庶民のすまいである。その意味では、今後の住宅の理想像として導入されたと見ることもできるだろう。実際、この時期の公共の集合住宅は、近代都市計画が理想とした太陽・空気・緑の獲得と、住戸ごとのサービスの平等化を軸に組み立てられた計画技法の産物であったし、この住宅の形式は積極的に推進され、公共集合住宅の建設戸数は1960年代にわたって右肩上がりに増えていくから、こうした見方からすれば、1960年代は理想もまた大きく膨らんだ時代だといえる。しかし、公共集合住宅の建設戸数は1971年にピークを迎えたあと、急速にしぼんでいく。家賃補助のある公営住宅の供給も同時期に大きく減速していくのだが、これを平山は「公営住宅の残余化」と表現する。すなわち、困窮対策としての住宅政策が、中心から周辺へ移動したというわけだ。数字の上でも、1973年の住宅統計調査で住宅の戸数が世帯数を上回っており、当時の霞ヶ関をよく知る研究者が、「量的な不足が解消されたという結果が出た以上、1974年以降の住宅政策は、かつてのような力を持ちようがなかった」と語ったのを聞いたことがある。
以上のように、公的な団体が集合住宅の建設から退いていったことをもって、理想の時代は1960年代かぎりで早々に終わり、1970年代以降は現実ばかりが巨大化した時期だということもできるかもしれない。しかし実際には、1970年代は現実が理想らしく装飾された時代であった。住宅政策が持ち家促進へと舵を切ったあと(「日本型」の住宅政策の確立)、1970年代後半以降の戸建て住宅では、工業化住宅の商品化が進んでいる。つまり住宅産業の主題は、工場生産化による効率的な住宅建設から、資本主義的な差異の生成へと遷移したわけであるが、これを見田宗介による時代区分「夢の時代(1960–1975)」と「虚構の時代(1975–1990)」に重ねてみるのも一興だろう。あるいは、戦後日本の戸建て住宅と集合住宅に、資本主義と共産主義の対立を符合させて考えてみることもできるかもしれない。1970年代以降の住宅産業についても、戦後空間の一端として語られるべきことはまだまだ残されているのである。
1960年代の延長線上の現在
「虚構の時代」が終わってからさらに30年後、2020年を目前に控えた現在、日本の住宅は、しかし1960年代の延長線上にある。国土交通省の住宅着工統計によると、2017年度は95万戸の住宅が建設され、うち木造住宅が54万戸、プレファブ住宅が14万戸、ツーバイフォー住宅が12万戸、マンションが11万戸とある。住宅建設の中心はいまだ戸建て住宅で、技術的には工務店による在来木造が大半を占め、1960年前後に登場した工業化構法が続く。戸建て住宅の構法として、新たに加わったアメリカ由来のツーバイフォー(木造枠組壁構法)は、1974年の建設省の告示により、匿名的な構法それ自体が特別認定されて一般化したもので、その裏には貿易摩擦解消の一助としようとする目論見があったといわれている。一方、公共住宅は低調なままどころか、2000年代以降の小さな政府路線もあいまって、ますます存在感が小さくなっている。公団は2004年に民営化したし、2007年に住宅セーフティネットが制度化されて以降、困窮対策は公営住宅という器に必ずしもとらわれる必要がなくなり、建物というハードな枠組みさえ脱しつつある。しかし鉄筋コンクリートでつくる集合住宅という建築的な形式は、民間に引き継がれてマンションという名前を授かり、いまや新自由主義的な緩和政策の結果として、都心にタワーマンションが乱立するまでになった。戦後の集合住宅が、どちらかといえば共産主義的なものとして出発したことを思えば、その隔たりはあまりに大きいといわざるをえないが、しかし両者は間違いなく連続的ではある。
とはいえ、1960年代の延長線上にある住宅が、行き詰まりを迎えつつある予感が漂っていることは否めない。日本建築が近代に残したもっとも豊かな資産であったはずの大工は、松村も言及していたとおり、新たな人材が激減する危機的な状況で、長引く不況で持ち家はキャピタル・ロスと化して持ち家志向も崩壊し、戸建て住宅はほとんど慣性のみで建設されているように見える。集合住宅は資本主義に飲み込まれて、一種のサービスとしての側面を強め、地域の環境的な資産を形成する要素として集合住宅を見なそうとする感性なども、ほとんど死滅しているように思える。おそらく、1960年代の住宅の成功にむけられた会場の関心は、このような現在の閉塞感と無関係ではないだろう。
しかし松村と平山は、こうした会場の関心に対してあくまで冷静であった。松村は、1960年代の住宅の急成長を単なる市場拡大の結果であったと見なしている節があり、それを技術や人物で説明しようとする安易なロマンティシズムを遠ざける。平山は、「日本型」の住宅政策は確かにあったが、それがなぜできたかは不明とし、その裏に明確な意思があったことを暗に否定する。昔日の成功の秘訣を授かろうなどという会場の甘い期待は裏切られたわけだ。
住宅はもはや成長産業ではない。近世からの遺産も使い果たした。成功の秘訣などという魔術も存在しない。それでも、物理的な構築環境が人間生活に果たす役割が小さくないことを信じるのであれば、目の前の現実を材料として、何が組み立てられるのかを考えてみるしかないのだろう。「戦後空間」という問いは、ようするに、この「目の前の材料」を明らかにしようとする作業へのいざないではないか。このシンポジウムを通じて考えたのは、そのようなことである。■