ブラジルで日本人(アジア人)が必ず受ける差別とは?差別はなくならないのか?
ブラジルは世界でも「多様性」に対して非常に寛容な国です。
それは、ブラジルという国自体が移民の国で、異文化がそこら中で混ざりに混ざっており、「色々違うのがデフォルト」という共通認識が国民にあるからかなと思います。
だからこそ、彼らは所謂「Politically Incorrect」な概念には非常に敏感です。
男女差別もそうですし、マイノリティ、難民問題・・・その他色々な問題に対して、常に国レベルで「Politically Correct」を選ぶような風潮があります。
それはそれでとても良い事ですし、ここに関しては私はブラジルから学ぶことが多いな~と常日頃から思っています。
しかしながら、そんなブラジルにも「アジア人差別」が存在するんです。
そこで今日は、ブラジルに住む日本人(アジア人)が必ず受けるであろう、「差別」をご紹介します。
ブラジル人が日本人やアジア人に行う差別
目を横に引っ張って、細目にするジェスチャー。(通称:細目ポーズ)
これです。
これ、ブラジルに在住のアジア人には、間違いなく全員経験があるのではないかなと。
確実にされると思いますよ。
それほどみんな、悪気なくやってきます。爆
そもそもこのジェスチャーをすることについて、ブラジル人にはまったく悪意が無いし、彼らは差別だと思っていません。
キャプチャ画像を見ればわかると思いますが、これらのジェスチャーは、子供番組に使われているのです。
以下もブラジルで最もメジャーな子供番組⇩
黒人差別の歴史があるブラジルでは、黒人に対する差別行為は「犯罪」になるし「ニュース」にもなります。
それは黒人が今まで、不当な扱いについて訴え続けてきたからこその賜物ですよね。
ただ、彼らの抗議の根底は、アジア人のそれとは根本的に構造が違います。
彼らが抗議をした相手には、「悪意」がありました。
彼らがやられて嫌なことに「NO」と言い続けてきた功績自体は間違いないのですが、単純に「差別する気持ちで嫌がらせをしている差別主義者に対する抗議」という構造だったのです。
これに対して、アジア人に向けたこのジェスチャーはどうでしょう。
一般的に見て、差別意識に敏感で多様性に寛容なブラジルで、子供番組に使われているこのジェスチャー。
どう考えても、彼らに悪意はありません。
差別だと思っていないのです、心から。
そして難しいのはここからです。
ブラジル人に悪意が無い事を、アジア人もよくわかっているのです。
だからこそ、抗議がしにくい。
でも私は、ずっと、これをされるのが嫌でした。
そして同時に、この行為に対し、ブラジル人には一切の悪気が無い事も、差別したくてやってるわけではないことも、よく知っていました。
無知からくる「差別」になってしまっているのです。
では、これはそのままでいいのか?
私の夫は、イタリア系ブラジル人と、日本人のハーフです。
兄とは対照的に、どちらかというと日系の顔立ちである夫は、幼少期からこのような「細目ポーズ」をされていたようです。
幼い夫にも、友人達に「差別の気持ちがあるわけではない」と分かっていました。
なので。
私は夫に、そのジェスチャーをされて「楽しい」と感じたのか「嬉しかったのか?」ということを尋ねてみたんです。
何も感じなかったの??
と。
すると夫は、「ずっと嫌だった。」と答えました。
やはり、嫌なことなんです。
私の感覚は、間違ってなかった。
これでもし、夫が「全然嫌じゃなかったし、ブラジルではこれが正しいんだ」みたいな意見だったら、郷に入ったのは私なので郷に従おうかな、声を上げることでは無いのかもしれないかもしれないな、と思っていたでしょう。
でも、夫は幼少期から、細目ポーズをされるのが嫌だった。
であるならば、やっぱり抗議しなくてはいけないと思いました。
だってブラジル人にはそもそも悪気が無いんですから、やられている方が「嫌だ」と言わない限り、無くならない。
我々にとっては「差別」でも、彼らにとっては「友情の証」なのかもしれないから。
これは「ブラジル人の問題」というよりも、嫌なことに嫌だとはっきり言わない「アジア人の問題」だと思いました。
ブラジルだって、相手が嫌がっているという事実を知らなければ、改善することなんてできません。
なので、私はとりあえず、娘の学校とこの子供番組に抗議の連絡をしました。
現在、英文とポルトガル語でのコラムを執筆中です。(一枚の画像にまとめるかもしれませんが)
娘が未来に確実に受けるであろう、そしてたいていの場合「嫌な気分になる」であろうことに対し、既に認知しているのに何もしないのはやはりおかしいなと。爆
アジア人もやられて嫌なことは「嫌だ」と言っていかないと、自分の子供たちが将来同じ目に遭ってしまう。
私は、先陣切って不当を訴えよう!!!
みたいな活動家になる気持ちなんて一切ありませんが「この表現をされると傷つく」という声を一人ひとりがきちんと伝えることでしか絶対に変わらない未来であるとも思っています。
今の大人たちが少しずつ「No」ということを意識するだけで、変えられる可能性があるのなら、出来れば変えていきたい、そんな風には思っていますね。