人間讚歌
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2 min readAug 10, 2020
例えば、夜中起きた時。
トイレに行きたいとする。
最近は暑いから下着だけで寝ることが多い。暗闇の中で服を探す時、私は感覚的に服の前後を判断して着る。それは、タグの手触りや、襟の形を指先から感じて判断している。
また、照明のリモコンを探す時もそうだ。
「四角で固い」という、イメージと照らし合わせて手探りで探す。たまに、iPhoneと間違えることもあるが、確かに指先の感触は似ている。
そして、明かりを付ける時、また消す時。
一瞬で明るく、暗くなる時、何が起こっているのか分からなくなるが、その数秒後には少し見えるように対応する。
そんな時、私は「生き物」なんだなと思い知らされる。
どんなに生活水準が上がって、どんなに技術が発達して、どんなに食物連鎖の頂点に立とうと、私達は生き物なのだなと。
今の私は、大昔のお猿の頃から変化して、変化して、変化して…こんな姿形をしているが、実は何一つ変わらない。
私はお猿で、ライオンや、災害や、病気にも、身一つでは勝てやしない。
大昔のご先祖達が、「感覚」という生き物としての武器を、使って変化を起こしてきたように、私もその武器を大事にしないといけないのだ。
そう、もう我慢できそうにないという感覚もきっと大事にすべきなのだろう。
いくら布団の中で自論を組み立てたところで、膀胱炎になってしまっては、ご先祖さまに笑われそうだ。