「晩年の25歳」

ここのところ世界は「晩年」感が漂い始めている。当然、僕の元にもその波は押し寄せてきているわけで、日に日に「晩年の老人」に近づきつつある。

というのも、あれほど好きだった酒をほとんどやらなくなった。どこに行ってもうまい酒はないかと探し回っていたのだが、すっかり興味が薄れた。その代わりと云ってはあまりにも短絡的な連想だが、煙草を定期的に吸うようになった。1ヶ月に1箱なくなるかどうかも怪しかった煙草を1日数本ずつくらい。煙草は幼児退行的な依存、手(口)癖とされ、精神的な未熟さを指摘されることのとかく多いアイテムだが構ったことではない。そういった外野の精神分析もどきに眉をひそめ、怒るほどの元気もなくなっているようである。そのような点も「晩年」っぽさに一花添えている。

以前までの僕は、煙草を吸うと口が汚れると思っていた。煙草を吸うのは飲酒中のみで、吸ったら歯磨きするようにしていた。食前に煙草を吸わない、そのような自分の中の規範も口の汚れを気にしていたからこそだろう。

ところが最近はどうか。歯磨きした直後に煙草を吸う、そしてそのまま寝ちゃう、なんていう一種の過去の自分への挑戦めいた悪徳を愉しんでいる。

要するに、僕は汚れることを恐れなくなった。恐れなくなった、もしくは汚れることを仕方のないものとして「諦め」、「受け入れた」といった方がいいかもしれない。

休みの日は昼から喫茶店に行って煙草吸って、たまに本読んでぼんやり考え事をして、夕方家に帰るだけだ。派手な服装も好まなくなり、滋味深いといえばいいのか、優しい出汁が効いてるような服が好きになった。

ここで冒頭の話に戻るが、諦観、成長の諦め、出口が見えない感染症の流行、もうこの国では誰かを真っ直ぐ期待するような人が殆どいなくなった。地獄と化したSNS、双方向のやりとりを無限通り用意し、それを使いこなすなんて芸当は我々には早かったのだ。揚げ足取り、本質を骨抜きにし、残ったのは、見えない場所から誰かに鉄砲でグレポンを撃ち込み、自分が傷つかない安全な場所からそれを観察する行為のみである。結局のところ、人とのやりとりは1対1が限界で、その数少ない人を大切に守り、SNSを見ないようにするくらいしか、生き残る術は残されていない。

と、雑誌「正論」のどこかに紛れてそうな「保守おじさん」みたいな文章になっちまった。「保守おじさん」はなんでもすぐに決めつけるくせして、今が世界の転換点だと騒ぎ立てる右派加速主義のごとき「から元気」も持ち合わせた、ちょっと言葉は悪いかもしれないが、ノストラダムスや陰謀論信者の亜種みたいなもんだ。

まあそんな晩年感漂う(山田詠美の短編集のタイトルに少なからぬ影響があったわけだが)25歳の私が、最近の世界に対して物申したいことが最後にあるとするなら「BLT、パストラミだとかはたまたツナきゅうり、キューバンサンドなどもいいけど、俺結構クラブハウスサンドウィッチ好きだよ。今話してたのってそういうことだよね」。

2021/02/06

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Ryunosuke Honda
月刊マガジン「父性をちょうだい」

「道」のつく日本唯一の地域に移住。蓴菜、オクラ甲乙付けがたし。 対面でお話する時、ポテチ成分談義の話題がお好き。