コロナによって新興宗教になってしまったサイエンス

サイエンス教が復活してしまった今、私たちは背教者になるしかない

Kan Nishida
未来の仕事
Published in
17 min readMar 2, 2021

--

「Listen to Science!(サイエンスに耳を傾けろ!)」

アメリカにいるとこの言葉を毎日のようにメディアや政治家に聞かされます。

まるで、この言葉のおまじないをつければ、何でも自分たちにとって都合のいい政策を押し通すことができ、反対意見には耳を傾ける必要もないかのようです。

サイエンスと宗教は、サイエンスは「疑う」、宗教は「信仰する」という点で決定的に違うはずですが、現在は、まるでサイエンスが「信仰する」対象になった宗教のようになってしまったかのようです。

実は今から80年ほど前、このサイエンスを宗教家のように扱ってしまう「サイエンス主義」の間違いと危うさについて警鐘を鳴らしていたのが、フリードリヒ・ハイエクです。

しかし、80年経った現在、この「サイエンス主義」という亡霊が蘇りつつあるようです。

そう思ってた時に、ちょうどThomas P Seagerという人によって書かれた、

”When ‘Science’ becomes the New Religion, it is time for heresy.”

というエッセイに出会いました。

このエッセイはサイエンス(科学)とは何なのかを考える上での参考になりますし、さらになぜ、

「Listen to Science!(サイエンスに耳を傾けろ!)」

と呼びかけることが事態をより悪い方向に持っていってしまうことになるのか明快に説明しています。みなさんにぜひ読んでただければと思い、ここに翻訳して共有します。

サイエンスは「疑う」文化だ。宗教は「信じる」文化だ。

リチャード・ファインマン

啓蒙主義の最も大きな発明の1つは無知である。

(訳者注:17世紀にヨーロッパで全盛期を迎える啓蒙主義の時代に、今私たちがサイエンスの手法(科学的手法)と呼ぶものが確立し、そのことによってサイエンスが大きく発展しました。そこで、サイエンス革命と呼ばれたりもします。)

それは、私たちが知りたいと思っているいくつかの重要なことは、当時西洋を支配していた宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の経典には書かれていないという考えです。

つまりそうした疑問には、少なくとも当時宗教の経典を唯一読むことができた司祭たちによる解釈によっては説明できないということでした。

無知という概念なしにはサイエンス(科学)革命は起きなかったし、「サイエンスの手法(科学的手法)」なしにはサイエンスは存在しないのです。(Ignorance: How it drives science by Stuart Firestein

宗教と科学は両方とも「信じる」ということに関するシステムです。しかし、その「信じる」ことの基盤となるものには根本的な違いがあります。

サイエンスはエビデンス(根拠、証拠)を元にしているため、絶えることのない「修正」と「反証(間違いの証明)」にさらされることになります。逆に、宗教は信仰を元にしているため、証拠がない時でさえ「信じる」ことを求めます。

サイエンスでは答えることができないし、そもそもしようともしていない質問というものがあるので、宗教と科学は競争的な関係と捉えられることがよくありますが、実は「信じる」というシステムに於いては相互補完的だったりします。

(訳者注:サイエンスは「なぜ」に関する質問に答えようとしはしない。サイエンスは何(What)がどう(How)起きるのかといった事象を解明することはできるが、「なぜ」といった哲学的な質問に関しては答えることができないため。)

アメリカのような世俗社会では「宗教的信仰」と「政治的な制度」が分離されているがゆえに、宗教に代わる「信じる」システムとしてサイエンスが持ち上げられてしまいがちです。というのも「信じる」システムなしに国または人民を統治することは不可能だからです。

このことが危機の際に問題になります。

危機が起きると、市民の間で事態に関する「無知」と「不確実性」が頂点に達し、不安を解消するために叫び声を上げはじめたちょうどその時、

「Listen to Science!(サイエンスに耳を傾けろ!)」

といった言葉を私たちは耳にすることになります。

そもそもこうした一見、合理的に聞こえる呼びかけに誰が反対できるというのでしょうか。

しかし問題は、こういう時に限って、サイエンティスト(科学者)という職業の基盤であるはずの「疑問に思うこと」、「懐疑的な態度」、「無知」といった原則を自ら進んで放棄し、代わりに「自分たちの理論やイデオロギーを過信する」という態度を採ってしまうようなサイエンティストがたくさん出てきてしまうものなのです。

例えば、いくつかの科学者たちのグループは先のアメリカの大統領選挙で、ある候補(ジョー・バイデン)に対して政治的な支持を表明しました。それは、性質上全く科学的と言えるものではありませんでした。

そのうちの1つのグループは、化学、物理学、医学の領域で過去にノーベル賞を受賞した81人のアメリカ人からなるグループで、「心を込めてジョー・バイデンを支持する」と表明しました。(リンク

彼らによれば、バイデンは「専門家の言うことを聞こうとする態度、研究における国際協力の重要さへの理解、そして私たちの国の知的生活に貢献する移民に対する尊敬の念、をいつも変わりなく示したから」とのことです。

もう一つのグループは、サイエンスの世界では高名な、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンの編集委員会です。彼らは、これまでは想像できなかったような一線を超えて、2020年の10月に大統領選挙に関する政治的な支持を表明しました。(リンク

「専門家に頼ることのないトランプ政権は、真実をごまかし、あまりにもあきらかな嘘を広め、しっかりとした情報を与えられていないオピニオンリーダー(意見の強いリーダー)やペテン師の人たちに耳を貸した」というのがその理由として書かれています。

コロナに対処するための政策に関しての改善策を特に何も提案することなしに、「脆弱で不適切な政策によって余計に失われてしまったアメリカ人の命は少なくとも数万人に上る」と推測しました。

しかし、科学者に耳を傾けるという点では、既存の対応政策に対してもっと詳細な批評を与えるいくつのかの他の科学者のグループもいました。

例えば、ロックダウン(都市封鎖)政策に対する具体的で痛烈な批判を与えるグレート・バーリントン宣言や、またアメリカ・フロントライン・ドクターという「パンデミックに関する膨大な偽情報を正すために集まった」医者たちのグループもありました。

しかし、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンとは対照的に、これらのグループはアメリカ人に対して誰に投票すべきかと説得するようなことはありませんでした。

また驚くべきことに、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンは彼らの政治的な支持表明の中で、中国のコロナ政策をアメリカでも真似するように促しました。

何を基準にコロナ感染者とするかの定義が定まっていない状況では、中国での政策がほんとうに成功したと言えるのかを評価するのが難しいにもかかわらず、何人かの科学者たちは中国のロックダウンがコロナの感染拡大を制限するのに効果的だとして支持したのです。

おそらく、何万人ものアメリカ人の命を救うために必要な政策のうちの1つとして中国式のロックダウンを支持するということなのでしょう。

しかし、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンは中国式のロックダウンは中国式の人権侵害と1つのセットである、ということを忘れてしまっているようです。

ヘルス・アンド・ヒューマンライツという雑誌に報道されたインタビューでは、中国政府はコロナウイルスに関する基本的な情報を公共の目から隠し、感染者数を低く見積もり、感染した場合の深刻さをたいしたことないものだと主張し、さらに人から人への感染の可能性を否定さえしたのです。

中国政府はコロナの感染拡大の初期にエピデミックとなっている事態をソーシャルメディア上で報告した人を監禁し(リンク)、コロナに関する議論を検閲し、メディアによる報道を歪めました。1月の上旬、感染者が治療を受けていた武漢にある病院の医者であるLi Wenliangは噂を広めた罪で捕まり、2月上旬にはウイルスによって死亡してしまいました。

ワシントンDCにあるCFR(Council on Foreign Relations)のグローバル・ヘルス・プログラムのディレクターであるThomas Bollykyはタイム誌への寄稿の中で、「中国の行動をどの国も真似するべきではない。隔離や検閲による自国の市民の自由と人権の侵害は、そもそもこのウイルスのアウトブレイクを最初に起こしてしまった政府の政策と行動から切り反して考えることができないのだ。」と主張しています。

中国式のコロナ対策による甚大なコストや、そうしたロックダウンによる長期的な有効性に対して反対の声を上げる科学コミュニティを無視することによってしか、「中国政府のシステムがアメリカでも適用できる」などと主張することはできませんが、まさしくそれをやっているのがニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなのです。

彼らは、選挙に影響を与えるという目的のためにサイエンスを歪曲したのです。このことをこの雑誌の編集者たちは恥ずかしく思うべきです。

ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンの歪曲された視点とは対照的に、サイエンティストたちはもっと以前から他の場所でより建設的なパンデミックの政策基準を提案していました。

例えば2016年に書かれたバイオセキュリティとバイオテロリズムのある記事の中では、パンデミックに対処するための政策を評価する際に、以下の3つの基準を提案しています。

  • 手に入れることができるデータと経験をもとに、その政策が成功すると言えるのか?
  • その病気の回避策は実施することが可能なのか?
  • それを実施することによって意図せず起こる可能性のある社会的な被害は何なのか?

ところで、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンは自分たちの抱える論争にも見て見ぬ振りをしました。

去年の4月には

「一般的に、みんなでマスクを着用するというのはパンデミックに対する不安への反射的な対応でしかない。」

こちらの論文で主張していました。

ところが、興味深いことにその後6月に、上記の論文の筆者は元の記事の内容を書き直そうと試みたのです。(リンク

「私たちの4月の論文がみんなでマスクを着用することに意味がないということに対する支持だと受け取る人たちがいるようです。しかしほんとうに私たちが意図していたのは、より多くの人によるマスクの着用を促すことであって、より少ない人ということではありません。」

元の論文はしっかりとした根拠を持った科学的な分析であったにも関わらず、この論文の著者たちは自分たちの手でエイプリルフールのジョークのようなものにしなくてはいけなくなってしまったとは、いかに恥ずかしい思いをしていることでしょうか。

もちろん、最初の論文を発表した後で行った研究結果によって、このサイエンティストたちは意見を変えることになったのだと考えることもできます。

しかし、彼らが信頼できるものとして引用したデータはネイチャー誌の2020年4月3日の記事からで、その記事はインフルエンザやライノウイルスではマスクを着けていた場合のエアロゾルの減少に関して有意な違いを確認できないというものでした。それは、エアロゾルと飛沫(呼吸器飛沫)の両方のケースでマスクを着けても着けなくても、ウイルスを防ぐということに関して違いが見つけられなかったのです。

その研究が発見した医療用マスクの唯一の利点はコロナウイルスの飛沫が飛び散るのを減少するということです。つまり全国民に医療用マスクの着用を強要するということは、公衆の場でつばを吐きかけられるリスクを減少させるということと同じことなのです。

前出のサイエンスの業界誌の編集者によって行われたような、エビデンスと矛盾する政治的な提案や推奨というのは科学のあるべき姿とは言えません。それは、科学という仮面をかぶった政治的なイデオロギーであり、編集者である自分たちをまるで新興宗教の最高位にある司祭かのように考えてしまっているということなのです。

自分たちの怪しい政治的な目的を達成するためにサイエンスに関わる機関とサイエンスに対する信頼を利用するのはサイエンスではありません。

それは、「サイエンス主義」というものです。

サイエンス主義(サイエンティズム、ハイエク、1942)はエビデンスがあるかどうかを気にすることは、もはやありません。なぜならそれは権力に夢中になってしまうからです。

「サイエンス主義は少なくとも何らかの形で伝統的な宗教の代わりの役割を果たし、サイエンスそのものを宗教または世界観として位置づけている。」とMikhael Stenmarkは1997年に書いています。(リンク

サイエンスが真実にアクセスするための唯一の道であり、現実世界について知りたいことの全てがサイエンスの世界にのみ存在するという前提では、サイエンティスト達の手に届かないものは何であってもそれは知識として認識することができないということになってしまうのです。

こうした状況では「私たちが信じていることが正しいということをどうやって知ることができるのか?」といった哲学的な質問は、サイエンス教の大祭司や、私たちが何を「信じるのか」を決める政治的で内密な審議会によってのみ答えることができるということになってしまいます。

このことは、サイエンスの手法(科学的手法)というのは意見を言い合うコンテスト、個人の人格攻撃、そして権力を求めた抗争といったものに成り下がってしまい、エビデンスには誰も関心を払わなくなってしまうということを意味します。

さらにこうした状況では、啓蒙主義は破壊されてしまい、いわゆる「サイエンティスト」と言われる人たちは知的な謙虚さを失ってしまいます。

その意見を言っている人がどこに属しているのか、誰の意見が重要視されるべきなのか、「サイエンス教」の高位者たちの意見に適切な態度で従わなかった者たちに対してどういった罰が課されるべきなのかといったことに全ての議論は支配されてしまうのです。

宗教が政治から切り離された世俗的な形の統治体制は、アメリカの憲法によって理想的なものとして創造されました。そこで生きる私たちは、サイエンスがトロイの木馬のように成り下がってしまう危険から守らなくてはいけません。

世俗的な統治体制には確立された宗教がないのをいいことに、エリートによる官僚支配体制を守るための新しい宗教として、「サイエンス教」たるものが確立されてしまう危険があるのです。

以上、要約終わり。

あとがき

このコロナによる1年で、自分たちの利益のために「サイエンス」を利用することしか考えていない政治家達とメディア、そして金と名声に振り回されるサイエンティスト達によって「サイエンス」という言葉に対する信用は地に落ちたようにさえ思えます。

そもそも、サイエンスとは何なのでしょうか?

何がサイエンスで何がサイエンスでないかを明確に説明できるという点で哲学者のカール・ポッパーによるサイエンスの定義がわかりやすいと思います。

それは、仮説が計測でき、検証でき、さらに反証できるものがサイエンスだというものです。

私たち人間が持つ仮説を計測、検証、反証していくためのプロセスを科学的手法、またはサイエンティフィック・メソッドと言い、こうした手法を使うことで真実に迫っていくプロセスのことをサイエンスとよびます。

サイエンスの歴史を振り返ると、この世の中には絶対的な真実などというものはなく、「今私達が確かだと思っているものは、まだそれが今のところ反証されていないだけである」という例で満ち溢れていることがわかります。

しかし、多くの人にとってはサイエンスとはまるで神のお告げのように、私たちのどんな疑問にも答えてくれるもので、それは私たち素人にはわからない手法を使って専門家によって解き明かされる絶対的な真実であるかのように捉えられがちです。

これは、サイエンティスト以外の人たちがわかっていないという単純なものではなく、多くのサイエンティスト自身ですら勘違いしていることをよく見受けます。

そしてこうした誤解が、感染症の専門家をコロナに関して絶対的な答えを持っている神だとして祭り上げ、諸手を挙げての信仰にまで行き着いてしまいました。

前代未聞の「都市封鎖」などのような対策は、そもそも専門家がいないはずです。しかし、多くの感染症の専門家はこうした対策が現実世界でどれだけ感染を抑制させることに効果があるかをあたかも知っているかのように振る舞い、さらによってそうした対策によって引き起こされる副次的被害についての無知を隠し続けました。

思いつきの枠を出ない実験室でしか通用しない理論を拡散し、非常事態宣言や都市封鎖などの対策の検証作業を行うこともせず、また現実のデータを直視するのではなく、自分たちに都合の良いデータだけを取り上げ自分たちの主張を自画自賛するだけでした。

もちろん、そうでない感染症の専門家を始めとする多くのサイエンティストの人たちもいたのですが、そうした人たちの声はメディアとソーシャルメディアのようなテック企業によって抹殺されてしまいました。

今こそ、「サイエンス教」または「サイエンス主義」としてのサイエンスを拒絶しましょう。

「サイエンス教」はエリートである一部の人達が多くの一般市民を搾取し、服従を要求するためのものであって、それは多くの人々を不幸にします。

本来のサイエンスはより多くの人々を貧困から引き上げ、さらに豊かな生活を可能にするものであって、貧困に突き落とすものではないはずです。

サイエンティストという肩書や資格をもっているという理由だけで、彼らの主張をそのまま受け入れるのは止めましょう。

私たちは自分たち自身で真実を追い求め続けるべきではないでしょうか。例えそれが困難な道だとしても。

そのためには、自分たちの無知を認め、現実の世界の不確実性を認め、謙虚に仮説を一つ一つ検証していくという態度で望んでいくことができればと思います。自分で行うのがまだ難しいという人は、少なくとも、そうした態度で情報を発信している人たちと「サイエンス教」の教祖のように振る舞う人たちの違いを読み取れるように鋭く観察し始めてみてはいかがでしょうか。

以下、告知です。

データサイエンス・ブートキャンプ、4月開催!

次回のデータサイエンス・ブートキャンプは4月です!

データサイエンスやデータ分析の手法を1から体系的に学び、現場で使えるレベルのスキルを身につけていただくためのトレーニングです。

またデータやデータサイエンスの手法を使ってビジネスの問題を解決していくための、質問や仮説の構築の仕方などを含めたデータリテラシーも基礎から身につけていただくものとなっております。

興味のある方は、ぜひこの機会に参加をご検討ください!

詳細はこちらのページとなります。

--

--

Kan Nishida
未来の仕事

CEO / Founder at Exploratory(https://exploratory.io/). Having fun analyzing interesting data and learning something new everyday.