記録しないと、あっという間にわからなくなる
国道246号から記録の重要性を再認識する
今、いろいろ調べているものの、なかなか調べがつかないことがあります。
- 国道246号の二子橋~(川崎市高津区溝口付近)~梶ヶ谷区間の現道はいつできたのか。国道246号指定(昭和31年)時点に国道指定されていた道はどの道なのか。
- 国道246号指定時点の横浜市青葉区荏田-長津田の片町までの区間の道は現在のどの地点なのか
田園都市線沿線で育ったため、田園都市線開通時のまわりに何もない各駅の写真などを見る機会がたびたびありました。そのたびにその当時からの変わりように驚くとともに、いまや猛烈なラッシュで有名となった田園都市線開通以前の沿線がどうなっていたのかということに興味を持っています。
田園都市線の川崎市・横浜市の区間は、田園都市線と国道246号が寄り添うように進んでいますが、田園都市線開通前から国道246号はあります。田園都市線の影も形もない当時の国道246号はどこを通っていてどんな感じだったのだろう、たびたび調べてみたりしてきていました。
このインターネット時代、多くの資料・データがインターネットの海に放流されており、Google先生に聞けばほどなくわかるだろうと考えていました。ところがわからない。
当初の「二子橋~梶ヶ谷」区間で国道指定されていた道はどこか
国道246号の川崎市・横浜市区間で昔から市街地を形成していた区間が二子橋-梶ヶ谷の区間でしょう。この区間は昔からの大山街道は二子新地駅から田園都市線のすぐそばを進んでいく道とはっきりとわかっているところです。
現在の国道246号は二子橋の上流に架かる新二子橋から田園都市線と距離を置いた位置を直線的に進んでいます。おそらく国道指定時は田園都市線に沿った大山街道が国道指定されていて、東京・横浜バイパス(新二子橋から横浜市に至る区間をこう呼ぶらしいです)が整備されたことによって現道に国道指定が移ったのだろうと想像していました。
国道246号の川崎市・横浜市区間ではもっとも古くから栄えていた区間と考えられますし、この区間の旧道は大山街道だった道だと大きくPRもされている区間です。なので、資料もインターネットの海に大量に放流されていて、国道指定の変遷はGoogle先生に聞けばすぐわかるだろうと考えていました。
ところがわかりません。
当初から今と同じルートが国道指定されていた?
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」を使って地図を調べると、1962年(昭和37年)の「1:2,500 国土基本図」には新二子橋はできていないものの、二子橋を川崎市側へ渡ってすぐに上流側に右折、堤防上の道を現在の新二子橋の西詰地点まで進んで(新二子橋と併せて現在も国道246号に指定されているルート)、そこからは現道と同じルート(「東京・横浜バイパス」のルート)の道があり、このルートに国道246号と記載されています。
この二子橋~(現在の新二子橋西詰地点)~津田山陸橋=東京・横浜バイパスルートの道は、1955年(昭和30年)の「1:10,000地形図 二子」でも記載されていて、1955年(昭和30年)の空中写真にも写っています。
(ただし、津田山陸橋~梶ヶ谷までの区間は、1955年(昭和30年)の空中写真や「1:10,000地形図 溝口」を見ると建設中に見えます)
この道の中央部にある津田山陸橋の昭和30年代前半の写真がWebに存在します。
- 1955(昭和30)年 地形図で東京・横浜バイパスルート(二子橋~現在の新二子橋西詰地点~津田山陸橋)の道の記載あり
- 1956(昭和31)年 国道246号指定
- 1962(昭和37)年 国土基本図で東京・横浜バイパスルートに国道246号の記載あり。(旧)大山街道ルートに国道246号の記載なし。
国道246号の国道指定が1956年(昭和31年)7月なので、最初から二子橋~(現在の新二子橋西詰地点)~津田山陸橋~梶ヶ谷の東京・横浜バイパスルートが国道指定されて、二子新地駅前から溝口市街を抜ける(旧)大山街道ルートは国道指定されたことがない可能性が高いように思えます。
供用開始は1974年(昭和49年)?結局わからず…
ところが Wikipedia「東京・横浜バイパス」によると東京・横浜バイパスの溝口地区の供用開始により二子・溝口市街迂回の実現は1974年(昭和49年)となっています。
1974年(昭和49年)4月3日 高津区溝口地区供用開始。二子・溝口市街を迂回。
川崎国道事務所のWebサイトでも Wikipedia と同様の以下の記載となっています。
S49.04.03 一般国道246号溝ノ口地区供用開始。
一致しないのです。
前述の1962年の地図で東京・横浜バイパスルートにしか国道246号の記載がなく、すでに二子・溝口市街は迂回できているのに、1974年にようやく市街を迂回できたとも読める記載になっています。
なお旧道にあたる道路は、世田谷区玉川 — 川崎市高津区瀬田 — 高津区久地 の二子橋付近の部分を除き、すでに国道指定を解除されている。
という記載があり、東京・横浜バイパスルート以外に旧道となる道が存在し、かつて国道指定されていたというように読めます。
地図には記載がなかったものの、当初は東京・横浜バイパスルートとともに(旧)大山街道ルートも国道指定されていて、東京・横浜バイパスルートがバイパスとして整備が完了、(旧)大山街道ルートが国道指定から外れたのが1974年ということなのでしょうか。
わかりません。
Google先生にいくら聞いても答えが出てきません。
10年でわからなくなる
「峠茶屋前」なら「峠茶屋」はどこですか?
国道246号について Google先生や Bing を使って検索している中で興味深いブログエントリーに出会いました。
川崎市宮前区有馬9丁目の国道246号に「峠茶屋前」という交差点があります。
地名やそれに準ずる名前なら「峠茶屋」という交差点名となるように思います。「茶屋」が付いた地名はよくある名前ですよね。三軒茶屋とか天下茶屋とか。
この交差点名は「峠茶屋」ではなくて「峠茶屋前」です。「前」とついているのです。ということは峠茶屋が存在していて(もしくはかつて存在していて)その前だ、という名前じゃないかと推測できますよね。
国道246号についてあれこれGoogle先生に問いかけ続けていたところ、この「峠茶屋前」交差点について記されたブログエントリーにたどり着きました。このブログエントリーに「 「峠茶屋前」の「峠茶屋」って何なんだ」というセクションがありますので、詳しくはこのブログエントリーをご一読ください。
2009年度に付けられた交差点名の由来が10年後不明に
このブログエントリーによると、交差点名は2009年度に付けられたようですが、国土交通省の国道事務所も、警察署や区役所でも「なぜ『峠茶屋前』という交差点名なったのか」がわからなくなってしまっている、とのこと。
大変驚きました。2009年度に命名した交差点名の由来が10年で分からなくなってしまっているのです。
べつに交差点名の由来を記録しておかなければならない、ということはないのでしょう。しかし、なにかしら残ってるか記憶されていてもおかしくないと思うのですが、もうわからなくなってしまっているわけです。
地元新聞店によるコミュニティ紙に、この地に2軒の茶屋があり、そのうちの1軒が交差点にあるローソンになっている、という記載があるのですが、根拠が示されていないので実際のところどうなのかはっきりしません。(以下は古いバックナンバーが非公開となってしまったので Internet Archive Wayback Machine のアーカイブへのリンクです)
「峠茶屋があったらしいよ」なんて不明確な話でなんとなく交差点名をつけるわけはないと思いますので、2009年度の命名時にそれなりに明確に「峠茶屋」とはなにか、は認識されていたのだろうと思われます。おそらく、当時は現在のローソンがかつて「茶屋を前身としたドライブイン」であったことが人々の記憶にあった、というところなのではないでしょうか。
しかし、10年経過した今となっては交差点名になっているにも関わらず、安易に「峠茶屋」とはなにかを知ることができなくなってしまっているわけです。
記録されてなければGoogle先生も答えられない
「国道246号指定時の二子・溝口地区の国道指定ルート」「『峠茶屋前』交差点の『峠茶屋』とはなにか」という事例から、改めて「意識して記録していかないとすぐにわからなくなっていく」ということへの認識を新たにしました。
当たり前の話ですが、Google をはじめとするインターネット検索といえども、インターネットの海のどこかに記録されたデータがないと検索できないわけです。そのときにはわざわざ記録するまでもないみんなが知っている当たり前のことでも、あっという間にわからなくなってしまうものです。
「記録する」ということは、これまでも、これからも非常に重要なことですね。
補足
Amazon を 「国道246」で検索すると「下作延遺跡 — 一般国道246号 改築工事に伴なう埋蔵文化財発掘調査報告書 — 1979.3.31」というものがヒットします(下作延は津田山陸橋~梶ヶ谷付近)。「改築工事」と言っていますね。
Wikipedia「東京・横浜バイパス」によると東京・横浜バイパスの下作延地区の供用開始が1980年となっていますので、この「東京・横浜バイパスの下作延地区」はもともとそこに存在していた国道246号を「改築」することにより完成した、と考えられそうです。
いずれにせよ当初どこが指定されていたのかはわからずじまい…。