「景気は自らつくる」日本で信用販売の歴史を作ってきた「丸井」の創業者青井忠治の歴史

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月賦という販売方式を形を変えながら、維持してきた丸井がどうやってできたか。クレジットが日本でどのように作られてきたかを物語形式で知ることができます。圧倒的にオススメです。

ハイライトを抜粋します。

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月賦は「ラムネ」と呼ばれ、嘲笑の対象だった。ラムネを飲むと「ゲップ」が出ることから名づけられた蔑称だ。忠治はこうした商売のやり方を変えたいと強く思った。

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「明治になってからは、伊予商人は船じゃなくて鉄道で移動するんだ。『先遣隊』の人が集会場で、見本の陶磁器や漆器を並べ、注文を取って、その後、別の人が商品を配達し、代金を回収したんだ。紀伊の漆器って結構高くて、お客さんはすぐにお金を全部払えないんだ。それで、集金する時に『月賦』にしたんだよ。頭金を一割入れて、残りを分割で払うやり方だ。漆器だけではなく、呉服、家具、宝石なんかも売っていた」 漆器は祝儀、不祝儀に使うため、何千揃えと必要としたのでまとめて買うと高額になったのだ。 「いつごろ伊予商人は東京に来たんですか」 「大正のはじめのころだよ。東京の貸席を販売会場として、家具や漆器などを売っていたんだ。頭金だけで商品を渡して、後は九カ月払いで集金するやり方が広まったんだ」 「どうして月賦屋が急に増えたのですか」 「ちょうど、第一次世界大戦後の好景気だったんだ。会社から給料をもらって働く人が増えて、分割払いが 流行った。月賦販売はものすごい儲かったんだ。『東京で月賦店を開き、儲かった』っていう噂が今治で流れると、我も我もと、上京する人が出てきた。最初は店員として入り、その後、独立する人が相次いだんだ。俺もその一人だよ」 「なんだか富山の薬売りみたいですね。日本中回って、いろんな家に薬を置いて、しばらくたって、また薬売りがその家に行って、使った薬だけ、お金をもらう商売と似ています

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「靴屋の私が言うのも変ですが、今の靴は三カ月も履いたら、駄目になってしまう靴が多いじゃないですか。少し履くと底からボール紙が出てくるものもあります。だから、月賦で販売したら、代金を回収しないうちに、靴の方が傷んでしまうのじゃないですか」 「大丈夫です。私のところは、二年でも三年でも履けるようないい靴を販売しています。それをお客さんに理解してもらって売っています」 この組合長は、自信たっぷりの忠治の様子を見て感服した。 「青井さん、あんたを見習って、これからはうちの組合に加盟している店にもいい靴を売らせるようにします」 忠治はとにかく品質にこだわった。蓄音機なども販売しているが、コロムビアやビクターといった一流品だ。安物を売ると、顧客の苦情が増え、集金係は苦労するからだ。

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忠治がそこで考案した屋号が「丸井」だ。「丸」は丸二商会の丸。「井」は青井の井からとったもの

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忠治は採用した若者の輝く表情を見て「いずれは、彼ら若手と一緒に月賦商を再開したい」と心から思った。 現金販売がそれなりに好調だったが、「俺の本業は月賦だ」という潜在的な意識がいつもあったからだ。しかし、月賦再開には、何より経済の安定が必要だ。

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「戦後のモノのない時期が長く続いています。お客さんは現金買いに慣れています。それに、現金で売っていたから、客は現金売りの価格をよく知っています。月賦だからといって値段を急に上げれば、お客はこんなに高くなったのかと言ってますます月賦に対する信用をなくしてしまうような気がします」 佐藤の顔を見ながら、忠治は笑みをこぼした。 「佐藤、お前の言う通りなんだよ。俺は、これまでの月賦のやり方を変えようと思っているんだ」 「いったいどんなやり方にするんですか」 「これまでは、月賦での販売価格が表示してあるだけで、現金で購入した場合、いくらになるのかという表示はなかった

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だから、お客さんが現金で買いたいって言っても、特別に値下げをすることはなかったよね。これじゃダメだよね。俺は家具にでも、服にでも、月賦価格と現金価格の両方を表示しようと思っているんだ」 「月賦店で、月賦価格と現金価格ですか。うまくいきますかね」 「大事なのは、お客さんに選んでもらうことだ。月賦販売はもちろん現金より高いが、その代わり、消費者はすぐに商品を手に入れることができる。それをお客さんに正直に説明する」 「それはいい考えですが、そうすると、お客は現金がたまるまで、待ってから現金で買おうとするんじゃないですか」 「俺は、月賦価格を思い切り安くしたらどうだろうかと思う。現金の上乗せは、五%でどうだろうか」 「そんなに安くて大丈夫ですか。今は朝鮮特需で景気はいいのですが、また不況にでもなったら、焦げ付きます」 「いや、金利や集金経費を見込んでも五%で大丈夫だ。五%なら、月賦販売でも百貨店と正々堂々と渡り合えるはずだ」 「不安なのは、集金です。月賦販売を始めれば、客は飛びつくかもしれませんが、資金を回収できますかね」 「心配するな。俺は十分計算している」 忠治は五%にとどめても、採算が取れるとみていた。集金のコストはそれなりにかかるが、売上高全体を伸ばせば十分賄える。朝鮮特需という追い風が吹いており、日本経済、とりわけ東京近辺はまだまだ成長するとみていた。 それは得意の「街角経済学」をベースにした見立てである。 男たちは戦争から続々と復員してきている。彼らは結婚し、子供をつくっている。ベビーブームである。それに地方の農村の中学校や高校を卒業した若者たちが、働き口を求めて東京に集団就職した。どんどん人口が増え、日本経済は発展する可能性があったのだ。彼らは家具や机、椅子などを買い求める「客」になる。

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「親父さん、素晴らしい広告ですね。『新時代の要望に応え、米国式簡易分割払い』。この言葉がいいですね。それに『月賦デパート丸井』という文字も書いたんですね」 「そうだ。人は笑うかもしれんが、丸井はデパートだよ。月賦屋と馬鹿にされていたが、将来的には、三越や伊勢丹に負けない商売をしていくんだ」

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丸井は一流品を扱っているのだという印象が広まった。中央線沿線に住む口うるさいインテリ層を味方につけたのだ。 そして、高級品を大量販売するには、五%程度の手数料なら、すぐに欲しいと思っている消費者が飛びつくことが分かった。 高級品を扱い、五%の手数料に抑える手法。それが奏功して、丸井の売り上げは加速度的に膨らんだ。そしてついに昭和二十六年(一九五一年)には、年商は三億円を超え、都内の月賦店でナンバーワンとなった。 取り扱う商品は家具や洋服だけでなく、電化製品、靴、ミシン、寝具など幅が広がった。「一流メーカーの商品を五%の低い手数料で月賦販売してもうまくいくはずがない」と冷ややかに見ていた同業者も一斉に追随した。 拡大路線をひた走る丸井だが、客の信用調査も怠らなかった。

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店員は契約の際、客に氏名や住所、勤務先などを聞いた上で、三回もしくは五回で支払う約束手形を書いてもらうが、

その場ですぐには引き渡さなかった。配達係が翌日、自宅まで届けた。傍から見れば、何気ない原則のように見えるが、この配達こそが重要だった。 店員は丁寧に「商品は翌日、お客様のご自宅までお届けします」と説明すると、客の中には「すぐに品物をよこせ。俺を信用しないのか」と言う人もいる。 そんな時でも、店員はひたすら「うちの店の決まりなんです。後日の間違いをなくすためですから」と言って、腰を九十度近くまで折った。 配達員は翌日、書類に記された名前や住所を確認し、時には近所で評判なども聞き取った。

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忠治は五番街やウォール街などを歩きながら、中村にアメリカ経済の現状について矢継ぎ早に質問した。 「私は月賦商なのですが、いったいアメリカの消費者意欲はどんな風なんですか」 「アメリカ人というのは、お金を使うのが大好きなんです。ただ、みんな現金を持っていません。大半が月賦販売なんですよ。しかも、カード一枚で何でも買えるんです。個人の信用状況を調査する組織もあります」 「アメリカではどんな百貨店があるのですか」 「時計商から始めた百貨店、シアーズ・ローバックが有名です。この店でなんといっても、すごいのは、アメリカの自動車の普及を睨んだ店舗を作っていることです。広い駐車場を備えた店です。こうした店舗を、全米各地に出店しています」

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勢いづいた忠治はさらなる新戦略を打ち出す。 五カ月だった割賦期間を十カ月に延ばす作戦だ。その狙いはずばり高級品の売り上げ増を図ることにあった。 月賦販売の最大のメリットは、消費者がフーバー製の洗濯機のような高額商品を買いやすくすることだ。ただ、高額商品を五カ月で販売する場合、消費者にとって一回の支払い額がぐんと増える。それでは消費者の支払いの負担は大きい。 高額商品の販売を増やすためには、支払い期間を延長し、一回の支払い額を抑える。店にとっては、滞納などが発生するリスクがあるが、集金の経費や金利などで合理化が進んでいるため、もとは取れる。何より重要なのは、多くの一流メーカーの高級商品を販売すれば、売り上げ拡大につながることだ。 割賦の期間が五カ月から十カ月に延びた分、販売価格をどうするのか。定価への上乗せ比率を高くするだろうとみられていたが、忠治は、五%上乗せのままで据え置いた。それには、業界関係者は驚嘆した。 いったい消費者はどのような反応を見せるのか。歳末セールで試すことに決めた。 忠治は 乾坤一擲、帳場の机の上で広告の文案を練った。 「日ごろ、〈五カ月払いの丸井〉として皆様方より格別のお引き立てを賜っております弊店は、此度創業二十五周年を迎え、いささかでも日ごろのご愛顧にお 酬い致し 度 本年一杯五カ月払い価格そのままで全店〈十カ月払い特別奉仕〉をさせて頂きます。何卒この機会をお見逃しなく御利用のほどお願い申し上げます」 何度も推敲してでき上がった文章である。多津子にも読んで聞かせた。 「これなら、いいわ。主婦にも分かりやすいわ」

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この時、「千円で一万円の買い物」というキャッチフレーズを使い、その後しばらく丸井のキャッチフレーズとして長く使われた。時代の流れにうまく飛び乗ったのだ。

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当時の丸井の販売シェアは、家具が二十九%で、衣料関連が四十九%だった。月賦店としてはオーソドックスな販売内容だ。 カメラ業界を研究していた店員の助言をもとに、忠治はカメラ販売に踏み切ることにした。日本はこのころ、戦後の復興期を終え、高度成長の軌道に乗ろうとしていた。人々の生活にゆとりが生まれ、写真を撮るのがブームとなった。四畳半メーカーと呼ばれる東京の下町の組み立て工場が次第に淘汰され、ニコン、キヤノン、ヤシカ、コニカなどの一流メーカーの商品が本格的に市場に出回り始めた。昭和三十年(一九五五年)に日本のカメラの生産台数が初めて百万台を突破した。 忠治はこうした動向を眺めた。一流メーカーのカメラはまだ高額だったので、現金で買うには高すぎる。月賦商にとっては勝機がある。幹部店員を呼び出した。 「カメラの月賦販売をやろうと思っているが、意見を聞きたい」 「高級カメラは品薄で仕入れ価格が高く、小売り店にとっては利幅が小さいと聞いています。このため、一般の月賦店では定価に十五%上乗せした販売価格で売り出しています。うちもそれと同じぐらいにした方がいいと思います」

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「君らはあくまで〝性善説〟に立ち、客を信じなさい。万が一、販売後に代金をいただけない場合は、売った方に責任がある。このような方には再びお売りしなければいい。〝こんな月賦で売って代金がもらえるのか〟と思うかもしれないが、私の長い体験から言って、それほど恐れるものではない。渡る世間に鬼はないと言うが、本当に払えない方は少ないのだ。どんな場合でも九十五%の方は良心的だ」 客に対しては相手を信じ、良い商品を格安の価格で売る。そんな経営を貫いた忠治だった

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ストライキのあった翌月の昭和三十五年一月丸井は、大きな決断を下した。三十年以上使ってきたこれまでのキャッチフレーズ「月賦の丸井」を「クレジットの丸井」に変更したのだ。

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入社当初、忠雄が特に力を入れたのは、広告・宣伝だ。忠治が夜、家で広告の文案を練っていると、忠雄がそばに寄ってきて「少し古臭いんじゃないか」と助言した。忠治は忠雄の新たな発想に舌を巻いていた。 その忠雄が今度は、「クレジットの丸井」への転換を主張した。 「アメリカのように、百貨店や小売り業界は、クレジット業界への進出を狙っています。政府も、割賦販売の制定を急いでいます。社長、この際思い切って月賦をやめて、クレジットにしたらどうでしょうか」 「ちょっと待ってくれ。俺は五十六歳になる今日まで月賦業界で生きてきたんだ。月賦という言葉には愛着がある」 忠治は少し抵抗感を覚えながらも、忠雄の指摘に我に返った。 月賦という業態は、小売り業でも低くみられていたのは確かだ。同窓会で会った政治家に「なんだ、君は月賦屋か」と、嘲笑され、「貴様に青井君などと呼ばれる筋合いはない」と怒鳴ったこともある。「ラムネ」という蔑称がある。飲むとゲップが出るからというわけだ。

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丸井はその後、店舗に掲げる看板だけでなく、チラシや新聞広告などあらゆる媒体に「クレジットの丸井」のキャッチフレーズを使用した。税引き後の利益一億八千万円だった当時、実に五千万円の宣伝予算を使い、イメージチェンジを図った。さらに、クレジットカードを発行した。クレジット時代のフロントランナーになろうという試みだ。 その際、重要になってくるのが与信業務の大転換だ。 月賦店はそれまで、販売員が客の信用を評価して販売し、その後お金を回収するというやり方だったが、忠雄は店側が顧客の支払い能力を調査するシステムを本格的に構築する必要があると判断した。 そのため、東京に「丸井クレジット・センター」を設立した。いわば信用調査機関である。そして、顧客を対象にした日本で初めてのクレジットカードを発行した。日本ではあまりなじみがなかったが、顧客の固定化に結び付いた。カードは、顧客の信用を示す証明書だ。 このクレジット・センターはフル稼働した。二百万枚のクレジットカードにはそれぞれ各人の住所、名前、職業だけでなく、いままでの契約内容や代金の支払い状況のデータが保存されている。それが五十音順に分類され、各営業店の契約係からの照会には二十秒から三十秒で回答できる仕組みになっている。

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「月賦の丸井」から「クレジットの丸井」にキャッチフレーズを切り替えた際に、新たなターゲットとして若者に狙いを定めた。これまで月賦など利用したことのなかった層だ。そこで、テレビなどを通じて大々的に宣伝活動を行った。若者をターゲットにするやり方も、最初に言い出したのは忠雄だった。

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「これからの小売り業界は、混戦から激戦へと向かい、我々の行く手にはいろんな試練が待ち構えています。幸い丸井は、早くから近代的販売方法であるクレジットを採用し、キャッシュ部門、そして今回新たにスーパー部門を加え、三位一体の販売体制を整えたことは、大きな強みであります」 「スーパー部門」と言った際、忠治の頭に再度不安がよぎった。月賦店がスーパーマーケット業界に進出して本当に大丈夫なのだろうか。

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新宿店は、旗艦店として丸井の収益を支えたが、スーパー部門はのっけから苦戦を強いられた。忠治の予感が的中したのだ。 日本では当時、スーパーマーケットは、ダイエーやイトーヨーカドーなどが続々参入し、流通革命が始まろうとしていた。 忠雄は昭和三十七年四月から一カ月にわたり、アメリカの流通事情を視察し、スーパーマーケットの将来性を確信した。帰国後、忠治に報告した。 「アメリカでは、月賦販売とスーパーが併合している店が数多くあります。月賦販売の資金繰りを強化するため、スーパーでの現金収入が、不可欠な実態になっています。うちの社でもスーパーが必要だと思っています」 忠雄はスーパー部門を収益の柱の一つにする方針だった。月賦店というのは、現金が入ってくるのが遅れるため、資金面ではいつも不安が残った。スーパーマーケットによる現金収入は、財務体質の強化につながる。

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忠治は手塩にかけた店舗を閉鎖するのを嫌がったが、忠雄は理論的に店舗の大規模化が必要だと訴えた。忠治は忠雄のやり方に違和感を覚えながらも、新たな経営手法をとる姿勢に我が息子ながら感心した。 忠雄は「小売り店は装置産業だと思います。積極的に小型店をスクラップして、大型化しました。小型店を二十四年間で、二十一店舗閉じて、大型の新店を三十一店舗開店させました。これにより一店舗当たりの年商が二十四億円から百六十五億円弱になった」と、スクラップ・アンド・ビルドの重要性を訴える。

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さらにヤング層にターゲットを絞った。 忠雄は、消費者の動向を電通に依頼して調査した。その結果、若者層は月賦販売を利用することへの抵抗感がなくなっていることが分かった。また、顧客カードなどを調べると、若者層の購買意欲の高さが立証された。若者の街、新宿にヤング館を設立し、街のシンボル的な建物になった。 忠雄は「いつの時代でも物やサービスを一番買ってくれるのは若者です。また中高年が若者に右へならえするという、一億総ヤング化の風潮が強まるばかりで、ファッションや流行はだんだん若者たちに支配されるようになっている。つまり若者をつかんでおれば商売は永遠です」と語ったのだった。 一方、ライバルの緑屋を経営する岡本は多角化を図り、店舗内にボウリング場、レストラン、結婚式場などを併設した。 将来的にはレジャーブームを睨んでボウリング場を設置。結婚式場は、地域社会に根付くとともに、家具とか衣料品の販売にも結び付くとみていた。 岡本は「レジャー施設や外食の機会を提供することで、少しでも生活を向上させる手助けにしたいと考えた」と語って多角化は一時は収益を押し上げたが、次第に重荷となり、業績が低迷したのだ。 また、出店戦略も丸井とは違っていた。 丸井は大型店による地域集中型の出店だったが、緑屋は「小型・分散型」の出店だった。札幌、仙台、盛岡、八戸、新潟、山形、沼津と、北海道から東海にまで広がっていた。 丸井は昭和四十五年(一九七〇年)、ついに売上高で緑屋を追い抜いて業界トップに返り咲いた。その後は両社の差は広がるばかりだ。 緑屋は最終的には、堤清二率いる西武流通グループの傘下に入った。緑屋という名称は消滅したのだ。

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店舗のスクラップ・アンド・ビルドやヤング層をターゲットにした戦略を推し進めたほか、新たに「店頭持参払いシステム」を導入した。それは、「毎月ある時期までに顧客が丸井の店舗まで足を運んで、お金を支払う」というやり方だ。これまで月賦業界では、集金担当者が一軒一軒、顧客の家を回って集金していたが、その発想を大きく転換するものだ。 「お金を集めるのではなく、持ってきてもらう」のだ。同業他社は「そんなことで金が集まれば苦労はしない」と、冷ややかだったが、実際に始めるとお客には浸透した。代金回収率は九十九%で、そのうち六十六%が持参払いだった。忠雄は「『自分で買ったものは自分で代金を支払う』ということを、消費者自身が自覚していた」と分析した。 さらに、回収率が高い理由について三つの理由があると考えた。 「一つは貸しすぎを避けることだ。お客様を不幸にするからだ。そしてもう一つは、あくまで小口に徹することだ。大口は一番危険であり、小口なら回収率は安定する。三番目は、貸せない客に対しては、勇気を持って断ることが重要だ」 スーパーマーケット事業での挫折の経験も踏まえて、忠雄はバランス感覚の優れた経営者に力強く蘇ったのだ。 忠雄はスーパーマーケット事業の失敗について、「経営者というのは失敗しても逃げ道はないんだということを、この時つくづく悟った」と振り返った。そして、「小売り業は時流適応業。お客のニーズを的確につかみ、時代の変化に合わせて業態をシフトしていくことが大切だ」

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Shogo Ieda
海外のRetail/Fintech新興サービス/スタートアップ情報

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