薩摩郷と八幡神社

Satsuma-gou and Hachiman-Jin’ja

海部川

その1 阿波国那賀郡薩麻駅

奈良平城宮跡から出土した8世紀の木簡に「阿波国那賀郡薩麻駅」と書かれているらしい。現在、那賀郡旧相生町竹ヶ谷に「薩摩」という小字は現在残されている。しかしこの「薩麻駅」の木簡は、駅子が税として都に送ったカツオに附けられていたので、旧相生町の山奥では無理がある。当時の「那賀郡」には現在の海部郡も含まれており、海部郡ならあり得る話だが、現在、海部郡にはそんな地名はない。では、薩摩郷とはいったいどこなんだろうか?そしてどうして薩摩なんだろうか?この謎に迫ってみたい。


その2 水主神社の大般若経

ここで阿波中世史研究家長谷川賢二氏の研究成果を要約して紹介したい。

香川県東かがわ市水主(みずし)にある水主神社で保存されている大般若経のうち外陣大般若経1~11巻の奥書には、「海部郡薩摩郷八幡宮」に奉納されたと記されている。これらを含む80巻までは「藤原朝臣冨田沙聖蓮」を檀那として書写され、讃岐へ運ばれた。81巻にはこの時大般若経は「海部多羅多門坊」にあったらしい。
【徳島新聞2010.12.6「阿波中世史こぼれ話「大般若経が語る」讃岐との交流(上)長谷川賢二】
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/mizushi.htm

長谷川氏によると、80巻までが1398~99年(応永5~6)に阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されたものであるらしい。どうやら薩摩郷は海部郡にあったと見るべきのようで、そこには八幡神社があったことになる。 さらに「冨田」「多羅」については現在、海部川下流域に「富田」「多良」という大字が存在しており、海部川下流域には薩摩郷があったと思われる。奉納の時期は海部郡が勢力を誇っていた時期にあたる。

大里八幡神社

そして八幡神社については現在大里松原に鎮座しているものの、かつては浜崎にあり、その前は鞆浦大宮にあったと聞く。いずれも海部川下流域である。


その3 芝北山薬師如来御由来記

さて海部町、海南町の資料を探したところ、海部町史に興味深い記述があった。掲載されている「芝北山薬師如来御由来記」には「阿州海部郡薩摩郷」という記述がある。

「そもそも阿州海部郡薩摩の郷
北山薬師如来は行基菩薩日本行脚し給う時
この鷲木を以て御長弐尺壱寸の薬師の尊像を...」
(芝北山薬師如来御由来記/明治30年3月12日 
谷口小酔文)【海部町史p547】
北山薬師如来

これは明治後期でも「薩摩郷」という言葉が通じていた証拠であり、とすると意外と最近まで使っていたようだ。 北山薬師如来は芝にあるので芝は薩摩郷ということになる。芝というと高園、野江とあわせて3ヶ村と言われ海部族の根拠地と呼ばれるところでもちろん海部川下流域だ。

「北山薬師如来は地蔵寺末で元梅木谷の丘の上にあり地蔵寺境内(現在地、芝)に遷しさらに現在地に堂宇を新築移転したもので、明暦(1655~1657)の棟附帳に...その頃の開基であろうか。5代に亘って庵主が住み後無住となっている。」【海部町史p87】

どうやら北山薬師が建てられたのは江戸初期のようだ。現在梅木谷は木材の集積地となっていて山に登ってみたが、当時の面影は残されてなかった。ちなみに北山薬師如来は、三姉妹だそうで、上から順に、能山薬師、北山薬師、日和佐の薬王寺となっているらしい。


その4 薩摩

<薩摩郷>
 ここで視点を変えてみたい。なぜ阿波の国海部に薩摩という地名があるのか?薩摩国となんらかの関係があるのか、という疑問がある。そこでまず、薩摩国の成立についてWikipedeiaで調べてみた。

「大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多軏(たね)反乱を契機に、10月3日までに唱更(しょうこう)国が置かれたのが、薩摩国の始まりである。唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう。国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。」【Wikipedeia 薩摩国】

薩麻国という名称は大宝4年(704年)までに使われるようになっていた。平城京の木簡も8世紀なので時期的にもあう。薩摩から海流に乗って移住してきたとか交流があったとか考えることもできるがあんまりそれを裏付ける資料はお目にかかってない。となるとなぜ「薩摩」と呼ぶのかわからなくなってくる。そこで、「薩摩」の意味を調べてみることにした。ネットでしらべると、次のような記述があった。

『薩摩のよみの「さつま」は、 「狭詰」又は「狭端」から来ているものと思われます。 詰まった地形、奥まった所・・・を意味します。』
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1225793082

また、「さつま」と「あつま」をセットにして考える話もあった。
 http://www.fukuoka-int-u.ac.jp/lib/fiu-kiyo/fiu24-3.pdf

和那佐の海

個人的には、海部川河口から少し奥に入った「はしっこ」が「薩摩」と呼ばれたのではないか。そういうことから、薩摩国とは関係はないと見る方がいいと思う。 ちなみに海部川河口部や海岸部は「和那佐(わなさ)」と呼ばれていたようだ。

「那佐には大和朝廷古墳文化時代以前から既に人が住み村が作られ、和奈佐の名前までできていたことが考えられる。当時は鞆浦から那佐へかけての那佐湾沿岸一帯の広い地域、即ち延喜式神名帳の・・・」【海部町史p17】

ところで、芝の隣の集落、中山には左津前という姓があり、「さつまえ」と読む。これは薩摩江ということであろうか。奈良期は海面は現在よりも高かったらしい。


その5 王子神社

王子神社

中山というと気になる存在は王子神社だ。旧海部町の合併前の村、川西村史によると、近くの真光寺の襖張替のときに裏張りの中から見つかったという、地元の家に伝わる文書がある。

抑当村王子大権現は往古海部拾八ヶ村浦里氏宮にて御座候所、右社及大火候其後鞆浦大宮村へ守廻し拾八ヶ村、浦里惣氏に奉崇候然る所当村王子大権現御神体及大破に、再建仕度候得共少氏の事故再建難出来何卒多力を以再建、成就仕度義に御座候不拘多少勧化御志の程奉希候以上

どうやら真光寺平地開山一世凸巌禅師の頃というから、享保年間(1716〜1735)のものだろうとされる。ここには八幡神社は鞆大宮の前に中山にあったと書かれてある。

この八幡神社は鞆の大宮から天正年間(1573〜1593)にまず浜崎に移され、慶長9年(1604)に今の大里松原に遷座されたという話もある。そうなると辻褄が合うのだろうか。

城満寺

長宗我部の侵略により吉田城が落城し、城満寺や王子神社も焼け落ちたとされる。その後再建されたが、それなりに歳月はかかったのだろう。海部氏が吉田を本拠地とした際に、隣村の王子神社に大宮の神社を一時移したのかもしれないし、或いは分祀したのかもしれない。その後鞆城を築城し、拠点を移したことを考えると元に戻したりすることはあり得るのだろうか?なんとも言えない。


その6 薩摩郷はどこだろう?

ここで出てきた地名をおさらいしたい。「冨田」、「多羅」が水主神社の大般若経に出てくる。ついで北山薬師の「芝」と三ヶ村の「野江」「高園」、そして王子神社の「中山」。どうやら薩摩郷はこのあたりではないか。漠然としたエリアだが現在の状況では、これ以上は特定は無理だ。ただし、多良は頭に海部がついているので除外した方が賢明だろう。

FieldAccess / 地理院地図

そして八幡神社はやはり鞆の大宮にあったとすべきだろう。厳密にいうなら和奈佐意富曽神社だが。中山の王子神社は海部氏の興隆によって総鎮守となったのだろう。時の権力の影響を受けることは十分考えられるからだ。室町期なら八幡神社は王子神社の可能性はあり得るかも知れない。ただし祭神が国常立命なので他にも候補は考えられそうだ。


城満寺のアクセス

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