鉄砲二話
海部川筋の鉄砲にまつわる話を紹介します。
第一話 犬守神社
海部川の上流、玉笠谷のとどからヤレヤレ峠に向かう途中に犬守神社がある。猟期が始まる前にはハンターがお参りに来るらしい。その謂われはこうだ。

<犬守神社と玉笠大明神>
樫の瀬より玉笠林道を谷に沿って約1.5kmほど遡ると「とどの滝」がある。この滝にほら穴が二か所あり、昔、猟師が上の穴を犬のねやに、下の穴を自分のねやにして野宿していた。この猟師は、山犬を猟犬に使っていたが、昔から山犬を猟犬に使うと、獲物が1000匹に達すれば、次に主人に向かってくるという言い伝えがあった。猟師のとった獲物はすでに1000匹に達していた。
夜中、犬のただならぬ吠え方に、身の危険を感じた猟師は、山刀で山犬の首をたたっきった。首は宙に舞い上がり、頭の上のもちの大木から猟師をひと飲みにしようとしていた大蛇の首に食いついた。

難を逃れた猟師は、犬をあわれに思い、厚くとむらうため背中に担いで峠を越えようとしたが、重さにたえられず、胴体だけをヤレヤレ峠のふもとに埋めた。今でもヤレヤレ峠のふもとに富田小屋というところがあり、そこに「犬守り神さん」があって、土地の人や猟師がよくまいっている。また土地の人は、退治された大蛇のたたりをおそれ、祠を造って霊をなぐさめた。これが玉笠明神社である。

一方、猟師は残った首を持って日和佐の赤松までやってきたが、重くてとうとう動けなくなり、そこに首を埋めた。日和佐の赤松には「犬の墓」というところがあると言われている。
(『川上の民話』川上小学校PTA文化部編・「山犬の話」より)。【海南町史 下巻 p843】
犬守神社の場所は探し始めて見つけるのに10年以上かかった。あまりにもわかりにくいのと、説明もできない。世話人は山西彦太郎、福井伝太郎、杉本松太郎の各氏で、昭和9年11月9日建立と刻まれている。神社の前に狛犬のように子犬が二匹向かい合っているのがなんとも可愛らしい。
神社の前は掃き清められていて、近くの杉に箒が立てかけられていた。今でも世話をしてくださる方が小川においでるとお聞きした。
アクセス
玉笠大明神の前には「とど」の滝があります。犬の墓はここでは標示できません。
第二話 百発百中院義蔵居士
こちらも海南町史に記載されている。なんとも風変わりな戒名で、これをつけた方のセンスに脱帽する。

砲術家 来條義蔵(きたじょう・よしぞう)
海南町大里松原の墓地に「百発百中院義蔵居士」と刻まれた鉄砲(火縄銃)の名人の墓がある。正面に大きく刻まれた墓碑銘(戒名)に感動を覚える。
この地は、海部城下で阿土の国境警備と治安のために御鉄砲が配置されていたところである。今日、御鉄砲屋敷はほとんど見られなくなっているが、マキ垣が迷路のように錯綜して昔日の面影を留めている。また、この地に射場という地名があり、その辺の垣根には今も火縄銃の火縄に使用された寒竹がいたるところに見られる。
天文12年(1543)に、種子島時尭がポルトガル人から鉄砲を入手し、その製法が全国に普及した。堺とか大友の鉄砲鍛冶は広く知られているが、阿波の鉄砲鍛冶も、笠井・石川・近藤などの一門があり、藩当局の軍備の充実とあいまって大量に製造された。徳島藩の鉄砲の保有数は四国一といわれた。刀剣鍛造の技術に優れていた海部刀工も、その技を生かして海部鉄砲を鍛造したことが推察される。
徳島県内で製造された火縄銃は、阿波筒とか阿州筒といわれた。全長1.3mから2mに及ぶ銃身の長い巻張づくりのものが多い。銃身は八角形、柑子(こうじ)も八角で目当はコの字型の照尺で、精密な射撃が可能であった。
銃床は虎杢(とらもく)の縞目が美しい。
さて、奇抜な戒名を残している鉄砲の名手義蔵は、天保7年(1836)、櫛川村の庄屋谷本徳二の三男として生まれ、大里村の来條家の養子となり、文武の道に励み「百発百中」といわれる射撃の技を保持したが、元治元年(1864)8月11日に28歳の若さで没した。
墓碑の側面に「儀蔵生家櫛川村谷本徳二参男也 資性温柔 有才能或日郡司試検砲術而許一人以弾百九 儀蔵百発皆貫射干的之黒点矣父子同日病死 在二子 峯太郎 おさい」と記されている。また一面に「元治元年8月11日 来條義蔵墓 行歳28」と刻まれている。
元治元年2月27日に、日和佐の浜で藩主茂韶の御前演習が催され、御判形人20人、御鉄砲83人が出仕したとの記録があるが、義蔵がこの御前演習に出場し、名人技を披露したのか、どうかは不明である。
義蔵の子息峯太郎は、明治18年に県会議員に、明治30年から34年にかけて川東村長をつとめた。【海南町史下巻p377~378】
こちらの墓も猟をする方がお参りすると聞いたと思う。最近、墓に立て札が立てられ分かりやすくなった。猟をされる方はシーズン前に詣でてみてはいかがだろう。
アクセス
海陽中学校より少し南に行くと松林の手前に墓地があり、看板が掲げられています。

