
その苦痛は絶対避けられなかった
かけがえのないものを失った苦痛は相当なものです。
人であれ、物であれ、時間であれ。
「昨日は昨日、今日は今日」で割り切れるに越したことはないのですが、そう簡単なものでもありません。
後悔、、、反省、、、
なんとか痛みを堪えよう、抑えようとするのですが、うまくいきません。
どうも、落としどころが見当たらない。
それは、結末を知ることのできない過去にもう一度戻ったとしても、やはり同様の行動をするであろうからです。
その苦痛は避けられなかったのです。
過去は何度やり直しても変えられないのです。

なぜ、過去にもう一度戻ったとしても、同様の行動をするであろうといえるのでしょう。
それは、一見、私たちは自由意志のもとに行動しているようにみえますが、大部分はそうではないからです。
私たちは、ものごとを判断するとき、白か黒か、右か左か、○か×か、プラスかマイナスか、どちらか一方の見方に偏りがちになります。
それらは、孤独、劣等感、嫌悪感という凝り固まった感情を生みます。
そういう偏った見方、感情に囚われてしまった以上、行動に選択の余地はありません。
つまり、私たちの行為は、自分自身あるいは周囲の偏見、凝り固まった感情に支配されてしまっていて、自由などというものはほとんどなかったのです。
偏った見方、凝り固まった感情、それが「みじめさ」の生みの親なのです。
選択の自由
本来、私たちには、自分自身で選び行動する能力と特権を与えられています。
しかし、その行動の結果を自由に選ぶことはできません。
選択の自由だけが人間に与えられている自由です。
そして、その前提条件として、どのような現象にも、違った見方ができる余地が与えられています。
にもかかわらず、やむをえず、あるいは欲にまかせて、偏った見方に囚われてしまいます。
天から授けられた特権、選択の自由を失ってしまったことに気が付いていません。
私たちの行為の多くは、自由意志によるものでなく、内なる偏見に強要されたものです。
選択の余地はもうなかったのです。
たとえその振る舞いが新たな苦痛を引き起こすことになると予感しても、偏った見方による支配から脱しない限り、悪循環を止めることは決してできなかったはずです。
選択肢のない行動による成り行きのことを何と呼べばいいのでしょうか。
そうです。
それが「運命」なのです。

もちろん「運命であった」と諦めたからといって、ただちに楽になるわけではありません。
かといって、自暴自棄になっていても、神様は救いの手を差し伸べてはくれません。
神様は駆け引きをしないのです。
苦しみの連鎖を断ち切るためには、手放してしまった天からの贈り物「選択の自由」を持ち直すことです。
特定の事象について凝り固まった見方をしていることを自覚し、他の見方ができない理由を究明するのです。
そして、今の見方を尊重すると同時に、新たな見方も受け入れるよう努めます。
「真理」よりも「選択」にフォーカスする
心の持ちようを「真理」に求める傾向がつよいと、不安定な心理状態に陥りやすくなります。

ある命題を真と認めるためには「確実な根拠」が必要になります。
しかし「命」とは何でしょう?
「生きる」とはどういうことでしょう?
そのような問いに客観的な答えなどあるはずがありません。
生の意味を「真理」に求め、無限の迷宮に迷い込む。。。
理性的な人ほど陥りやすい危険な観念です。
心の持ちようを「真理」に求めるのではなく、多様な見方とその選択、すなわち「選択の自由」にフォーカスしましょう。
それが、抽象的な次元における「心の整え方」です。
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