log, vol 03 「卒プロ1をふりかえる」

これはlog, vol 02の続きです。

本章は卒業プロジェクト1のまとめにあたる。背景 / 研究概要などは過去のmediumにより詳しく書いています。

「研究会」のサイト(ブログ)にて公開されている2021年度春学期「卒プロ1」の成果報告合わせて読んでください。

◯目次

・背景

・卒プロとの出会い

・3つのプロジェクト(2021春学期)

・「問い」と「制限」を与えるインタビュー

・「現場に戻る」インタビュー

・私自身を観察対象に「毎日のスケッチ&毎週の報告会」

・フィールドワークをふりかえる

・自分の変化/「模写」との出会い

・卒プロ2へ向かう

大学3年生〜4年生(現在まで)

◯背景

私は絵を描きだすことができない。理由は単純で、絵が下手だからだ。自分が絵を描くのが苦手だなと認識したのは小学生の頃だったと思う。見ている景色を描こうとしても、自分の手を、筆を通してキャンパスに描かれた世界は全く別物で、少しずつそんな自分に嫌気をさすようになっていった。もちろん中学、高校の副教科は美術ではなくて音楽を専攻していた。その一方で、友人たちとオリジナルのカードゲームをデザインしたり、学園祭では冊子の表紙やTシャツの絵を率先して描いていたのだから今思うと不思議なものだ。絵を描くという行為自体は今も変わらず好きだし、人が描いている姿をみるのも好きだ。(何なら画材オタクと自称するほど、画材を集めることにワクワクする。)しかし絵を描くたびに、自分の頭の中にある世界が描けないのが嫌だという感情と向き合うことになる。かと言って、ろくに絵の練習をしてきたわけでもない。絵を描く以外にも、楽器、書道、映像や音楽の制作など様々な表現手段に挑戦したものの、結局どれも続いていない。あれだけ心が魅かれるものたちなのに、自分の手を通したものにはそのワクワクがない。初めは悔しさを感じ、何度も試行錯誤していたが、いつしかその感情は作品への申し訳なさと劣等感に変わり、そんな自分を塞ぎ込むかのようにそっと逃げてきた。

◯卒プロとの出会い

そんな私が、今の卒業プロジェクト(以下:卒プロ)を意識しだしたのは、大学3年生の春学期だ。大学で開講されていた「情報デザイン基礎」という授業にて、1日1枚、何か模写するようにという課題が課された。模写初日、とりあえず目の前にあった猫の置き物を描くことにした。どこかで聞いたことがある「モノを立体物の集合体として捉えろ」という言葉を思いだし、見様見真似で描いていった。描き終わった絵を見てみるとやっぱりなと自分でも感じるほど下手で不自然だった。それから私は、少しでも自分の変化や成長を感じられるのではと考え同じ物を3日連続で描くことにした。猫の置物を四方から描いたり、ジブリ作品のポスターを描いたりととにかく好きなものを模写するようにしたので、苦手意識を持っていた私でも案外楽しみながら続けることができた。とある日から、私は「ゆの」さんという好きなイラストレーターの絵を模写するようになった。これまでと同様のルールで、1日1枚、同じ絵を3日続けて模写した。絵の構造を捉えるということを意識しつつではあったが、無我夢中で描いていた。個展やイラスト集などで、これまでたくさんの彼女の絵を、また描いている姿を見てきたが、その時感じていた魅力や興奮とはまた違った感情が湧き上がった。ここにこう線を引くと一気に姿が浮かび上がるんだ!なるほど!と新鮮な感覚に、とにかく描きながら感銘を受けた。出来上がった絵を見ると、確かにゆのさんっぽい絵だった。

medium「わたしの見ているあなたの世界」より

その興奮とは対照的に、模写を続けていても私が表現したい世界を満足に表現できるようになることとはまた別なのではないかと感じるようになっていった。その後、線の模写以外にも色の模写に挑戦してみたり、オリジナルのドローイングに挑戦してみたりしたが、絵を描く(絵が生まれてくる)プロセスだけはやはり理解ができなかった。自分の中にある表現したい欲求と、それを満足に表現しきれない自分への葛藤。大学生活の最後に、卒プロを通して、私自身が抱えるアート/デザイン行為の背後にある表現手段への劣等コンプレックス(以下:劣等感)と向き合おうと決めた。

◯3つのプロジェクト(2021春学期)

「私が表現したい世界を、どうすれば表現することができるようになるのか知りたい」という想いから、私の卒プロは始まった。絵を描く、表現すると一言で言っても、様々な捉え方ができる。その中でも私は、「頭の中でふと思いついた」「目の前のものが全く別のものに見えた」など偶然的に生まれたものが、ある種必然性を持って生まれてくるプロセスの中身やその背景について知りたいと考えた。では、どうすればその文脈に近づくことができるのか。絵を描く行為の場合、作者の思考が絵となって現れてくるわけだが、その背景や意図は、描いてる本人ですらわからないこともある。何より、描いている際には、それ自体に夢中になっており無自覚なことも多い。そのため、描く行為の前後の中で、描いている際の背後にある想像の世界にどう近づくかが重要になる。その方法を探るために、大学4年生の2月〜6月にかけて、大きく3つのプロジェクトに取り組んだ。

medium「log, vol 02 drawturgy」より

◯「問い」と「制限」を与えるインタビュー

まず取り組んだのが、「問い」と「制限」を与えるインタビューだ。身の回りで私が魅かれている表現者(友人)3名に協力を依頼し、「30分で何か絵を描いてきてほしい」とお願いした。また、その様子(主に手元)を撮影してきていただいた。そしてその映像をzoomを用いて3人で見返しながら、インタビューを実施した。数秒に一度、映像を止め、「なぜこの線を引いたのか。」や「この時何を考えてる?」などと尋ねていった。また、問題意識の根本には、私自身が表現知りたい世界を知りたいことがあったことから、私自身も観察対象とし、同様の条件でインタビューを受けた。「30分」のという制限は、協力者が絵を描く際、描く内容が具体的にイメージしやすいと想定したこと、またふりかえりの時間を2時間ほどにしたかったことなどから設定した。1回のインタビューは2〜3時間ほどで、計6回実施した。

絵を描く様子を観察する/観察されるというプロセス、またその中での語りを通して、外的表象化された表現者自身の思考を探究しようと試みたわけだが、率直な感想はどうも踏み込みきれなかった感覚だった。お互い初めてのインタビューであり探り探りだったこともあるが、インタビューで聞く内容、また相手から語られる言葉のどれもに、お互いがどこか妥協して言語化したような感覚が残った。制限や問いが目的に正しくアプローチできているのか、インタビューで語られる部分が本当に知りたい部分なのか悩んだ。より絵を描いている背景を具体的に語らせるためにはどうすればよいかと考えた結果、今度は実際に絵を描いた状況を身体的に再現することを試みた。

◯「現場に戻る」インタビュー

そして取り組んだのが、「現場に戻る」インタビューだ。私が所属する研究室では、「人びとの〇〇線」という活動に取り組んでいる。これは池上線や世田谷線などある路線を対象にし、その各駅での人びとの様子を観察し、スケッチするというものだ。そして、今学期も東急多摩川線にて実施したことから、研究室のメンバー数名に協力をお願いし、後日、その駅に再び訪れ、駅のホームにてインタビューすることにした。実際に現場でインタビューを行うことで、その場の景色や空気に対して身体的に反応し、その絵の背景や描いた時の感情を思い出すのではないかと考えた。それによって、当人がどのような要因に反応し、絵を描きたくなるのか、それをどう描く行為に反映させるのかということを知ろうということが狙いだ。

前回と同じ午前10時に集合し、時間の流れに沿って描いた人のストーリーを尋ねていった。なぜその人を描きたくなったのか、どんな様子だったのか、など現場だからこそ思い出し語られることや、「あっ、そういえば…」と話が引き出されていくのはやはり面白い。向かいのホームの椅子や人を指差して語りが広がっていった。一方で、私自身面白いと感じたのが、見慣れた景色の感覚と違う景色の感覚が共存していたことだ。前回同様インタビュー当日も雨が降っていたことで、駅のホームには傘を持った人たちが見られた。同じ時間感覚、同じ景色なのだが、利用者の層は少し違う。描いた当時の状況をリアルに再現しようとしたわけだが、微妙な差異があることで、それによって、過去の自分がなぜその人を描きたくなったのかや、スケッチを行った駅に対してどういう印象を抱いたのかがより具体的に語られる部分もあった。何より、スケッチそれぞれのエピソードが単体ではなく、つながりを持ったストーリーとして語られたことこそ、現場に戻ってくる面白さがあっただろう。そしてそのストーリーが語られることで、さらに描かれなかった人たちのストーリーも引き出される、といったように話が数珠つなぎ的に広がっていった。

インタビューの目的であった描いた背景にはより近づくことができた一方で、卒プロの目的である、私が表現したい世界の部分には深くアプローチすることができなかったのが反省点として挙げられる。あくまで方法論の確認になってしまった感が否めない。一番の要因は観察対象の選択理由が前回のインタビューの時と大きく変わったことだと考える。また、インタビューの準備不足から、語られた言葉が、現場に行ったからの解像度なのか、スケッチをしたことによる解像度なのかが曖昧になってしまったことも反省点のひとつだ。

◯私自身を観察対象に「毎日のスケッチ&毎週の報告会」

上2つのプロジェクトは、観察対象を他者とし、彼らの表現の背後にある言葉を一緒に言語化する(引き出す)試みだった。一方で、このプロジェクトのゴールの1つは、私自身が表現したいものの解像度を高めることであると考えたことから、自分自身を観察対象としたフィールドワークも実施することにした。

先述の通り、「問い」と「制限」を与えるインタビューの中で、私もインタビューを受けた。自分が描いた絵をもとに私なりに背景を語っていったわけだが、それ以上に自身が抱える劣等感についての内容を多く語っていた。そして協力者と話す中で、表現したいものの解像度を高めるために、技術面と精神面、2つの側面からアプローチすることができるのではないかと考え、それぞれに対応したフィールドワークを並行して行うことにした。

技術面では、毎日、マグカップや本など身の回りのものを1つスケッチすることにした。そしてそこに、描く中での気づきや考えていたことを書き、協力者に送るというルールを設けた。これは単に絵が上手くなること自体が目的なのではなく、技術の獲得や気づきの言語化によって、自身の着眼点を広げることが目的である。初めの1週間はあまり人に見せたくない出来だった。目の前に見ているもとと描きたいもの、そして紙の上に描かれているものが違ったのだ。協力者にアドバイスをいただきつつ、10日ほど経つと、目の前のものが「軸の構造」に見えた。まるで棒人間を見ているような感覚であり、ふとデザインっぽいなと感じた。それをもとに、自分のデザインの感覚に沿って描くと、案外上手く描くことができた。2週間スケッチを続けると、自分の中で視覚情報と想像との割合に変化しているのではないかと考えるようになった。当初は、見たまま全てを再現しなければという考えから、スケッチの中での視覚情報に依存する割合がほとんどを占めていた。しかし自身の中にデザインの感覚が芽生えたことで、想像の割合が少しずつ大きくなっていった。見たまま全てを描こうとするのではなく、線を選択したり、あえて線を減らしたり影を強調したりすることで、よりリアルに描ける感覚を体感した。1ヶ月取り組む中で、目の前のものと頭の中の想像とのギャップをどう表現するか試行錯誤した。そしてそれを絵としてどう表現されるかという部分こそ、私が着眼点と呼んでいるもののひとつであることに気づいた。

1ヶ月のスケッチ(一部)

精神面では、毎週末、その週に私が製作した作品についてひたすら協力者に語ることにした。協力者の1人とインタビューをする中で、技術力が十分でなくとも自分が満足する作品を作ることはできているという話になった。私の場合、絵を上手く描けるから好きというわけではないことから、同様に絵を描くことが楽しいという感情から技術を獲得したり、劣等感を少しでも克服したりしてほしいという協力者からの提案を受けた。私自身、これまで映像作品や文章、スライドなど様々な作品を作ってきたが、自分が作った作品は誰よりも愛しているという自負はある。その理由を考えた時、自分が表現したかったものをどう表現しようとしたかったのか、自分の中で明確に説明ができているからではないだろうか。一方で、絵においてはその感覚がわからない。それは絵を通して自分が表現したいものの解像度が低いからかもしれない。この毎週の報告会で好き勝手語ることで、自分のモチベーションを上げること以上に、表現という行為に対して、もう少しだけ気楽になりたいという思いがあった。

この2つのプロジェクトを1ヶ月間行ったわけだが、これらを並行して行うことで、「表現する」という身体的行為と「言語化する」という思考的行為とが自然とサイクルになっていたことに気がついた。インタビューで目指した「描く」行為の背景を少しずつ自覚していくようになり、自分の中での「描く」ことの意味も少しずつ変化していったようにふりかえって感じている。しかし、やはりどこか腑に落ちない感覚があり、このまま続けていてもいいのかという悩みが残った。フィールドワーク自体は確かに面白く、知りたいことの一部にはアプローチできていると感じていたが、どこかモヤモヤしていた。それが何かと考えると、スケッチや模写では、目の前のものや景色に対して想像力を働かせ、線や色や描く対象を選択し描く。このことは理解できるのだが、一方でドローイングでは、頭の中のぼんやりとした想像やうちなる衝動に対して想像力を働かせているわけであり、この感覚がわからない。大学3年生の時に続けていた模写やドローイングの中でも抱えていた悩みであり、これこそ私が卒プロを通して知りたかったことの根底にあるのだと思い出した。それに対し、これまでのフィールドワークで的確にアプローチすることができているのかと悩み、一度立ち止まり、ふりかえることにした。

◯フィールドワークをふりかえる

フィールドワークを通して目指していたことを一言でまとめると「状況の再現性」だ。人は描いている時に描く行為の意味や背景について意識していなかったり、本人ですら描いている時には何を描いているのかわからないことがある。だからこそ、描き終わった後のインタビューの中で、いかに本人を描いていた時に近い状態にさせ、本人の言葉で語らせるかを目指した。また、自分を観察対象としたスケッチや報告会でも、描きながら考えていたことを継続的に言語化し、人に伝えようとすることで探っていったわけだ。これらを文献等で学問的な言葉で解釈しようとしていた時、現象学の「状況依存性」という言葉に出会った。これは、身体知とは動作(絵を描く、運転をするなど)はマニュアル式に引き出されている(こういう状況の時はこうすればいいなど)わけではなく、その場の状況に応じて何かを見出し、動的に発揮されるというものだ。例えば野球のバッティングを想像すると、同じコースに同じ球が投げられてきた時、決まった形でスイングすれば必ず打てるというわけではなく、その都度打つためにスイングを生み出しているというようにだ。この考え方をもとに、スケッチ/模写とドローイング行為について、私なりに解釈しようと試みた。

◯自分の変化/「模写」との出会い

毎日のスケッチの中で起きた出来事をひとつ紹介する。3週間ほど経ったある日、私が描いたスケッチに即発され、協力者がスカートを履いた女の子の絵を描いて送ってきてくれた。せっかくの機会だからと考えた私は、次の日、その絵を模写して協力者に送った。この時、相手が非常に面白い反応を示した。「人に始めて自分の絵を模写された。絵って無意識に自分のフェチや癖が出ているから、それが暴かれたようですごくムズ恥な気持ちになった。爪を噛む癖を言い当てられるみたいな感覚に近い。」まず感じたことが、絵を模写されるという行為が相手にとって嬉しい行為であるという驚きだ。これまで取り組んできた模写の中では、私自身勝手に人の作品を模倣することで、楽しい反面どこか後ろめたさがあったからだ。そして何より、協力者が、模写によって自分の絵を1本1本まで吟味されることが自分にとって1番の無意識の発見になるそうと言ってくれたことが強く心に残った。協力者の絵を模写しながら勝手に想像していた相手の世界に対して、相手が見抜かれたと感じてくれたことへ私自身嬉しさを感じた。そこから、模写の可能性について考えていった。

私たちは絵を鑑賞する際、全体を見て一部を意味づけする。例えば、これは女性の絵だからこういうことを表現するためにこの線を描いた、色を選んだ、といった具合にだ。しかし、しなやかな曲線は女性を思わせる要素ではあるが、髪型や服装で性は決まらないように、線やリズム、空気で、そこに性別を断定する必要はない。つまり、そこに描かれている絵は「女性」ではなく、「しなやかな曲線を持った人」と捉えることができるだろう。友人や好きなアーティストが描いた絵を思い出してみる。写実的な絵や抽象的な絵、また落書きなどどんな絵を描いていても、あるいは初めて見た絵であった絵だとしても、この人が描いたなとなんとなくわかることがある。この理由はまさに、先述のような「〇〇な要素を持った線」によるものだと思う。誰しもがこれを持っていて、その視点で世界を見ているのだと私は考えた。そして「模写」という行為は、必死に再現しようと目の前の絵を線1本1本の単位で分解し捉え直す。絵を観察して、細部を捉え、想像を巡らせ。それを自分なりに解釈して、紙の上に想像し直す行為だ。紙やペンが違うし、技術力も違う。だからこそ、作者の世界を解釈し、翻訳しようと試みる。つまりこれは一部を見て全体を意味づけする行為であり、全く新たな絵の鑑賞法であるのだと考えた。線を捉え、自分の手で身体的に想像を巡らすことで作者の表現の背後にある感情や内なる衝動を追体験するのかもしれない。「模写」という行為は、作者と鑑賞者との新たなコミュニケーションの方法になるのではないかと卒プロを通して可能性を感じるようになった。

この考え方は、水元さきの(@ramunechoco)さんの影響を大きく受けている。

そしてこの、「一部の要素」の考え方と「状況依存性」の考え方を組み合わせることにした。私たちは、目の前の状況に応じて動作(行為)が生まれるのと同じように、頭の中の世界、身体感覚、内なる衝動に対して、自分の世界の見方(要素を持った線など)を動的に反応させている。その応答表現の結果として、絵が外的に表象化されているのではないのだろうか。つまり、ドローイングの行為も、スケッチや運転、バッティングの行為と同様の現象として「身体知」を考えることができるのではないだろうか。その瞬間、これまで全くの別物だと考えていたスケッチとドローイングとを同じように捉えることができるのではないかと腑に落ちたのだのだった。これまでの模写の課題、フィールドワーク、スケッチを通して劣等感と呼び背後に抱えていた何かが少し和らいだ瞬間だった。

一部→全体の鑑賞法の例:ゆの(@_emakawa)さんの絵の模写より

◯卒プロ2へ向かう

ドローイングの身体感覚が言葉的にはわかった。今度は、身体的にその感覚を模索していくことになるだろう。卒プロ2では、もう少し「模写」の可能性を探求していきたい。私にとって「模写」は、作者(描き手)の「とある要素を持った〇〇の視点」から見ている作者の世界を想像する行為であると考える。線1本1本に着目し、自身の身体を通して作品を鑑賞することで、作者との対話を試みる。模写をしている際、線を必死に見ているため何を描いているのかわからない感覚に陥る。しかし同時になんとなく描いている感覚は伝わってくるのだ。もちろん、百発百中で相手の癖やフェチを見抜けるわけではない。だからこそ、協力者らの絵をひたすら模写し、想像を綴り、相手に返すことで、彼らは不意に癖や無意識の想像を見抜かれた感覚に陥るかもしれない。100枚に1枚でもいい、もしその瞬間に出会うことができたとしたら、より解像度高く彼らの見ている世界に近づくことができるのではないだろうか。それによって、なぜ彼らの作品に私が魅かれるのか、より解像度高く語ることができるようになるだろう。そうすることで、最終的な目標にある、自分の表現したい世界への解像度が高まるのではないかと考える。これからも、私は絵を描き続ける、ふりをする。

「模写」を介したコミュニケーションの模索

次号に続く

--

--