うたう、つながる、みつめる(4)

Chiharu Konoshita
綿毛の友
Published in
8 min readJan 26, 2017

昨年12月、私は仲間と共に最後のライブを終えた。
1年間にわたる12回のフィールドワークで、私たち「ごはんつぶ」は51曲を、のべ248人に届けた。

12回のフィールドワークの様子

私は今、このフィールドワークの経験をお世話になった人びとへ還すべく、成果物の制作に取り組んでいる。

小説「宇都母知の風」を書く

私はフィールドワークで出会った様々なエピソードを、私自身の視点からではなく、私と出会った人びとの視点を借りて綴ることにした。それはつまり、(出会った人の目線で語れるほどに)ていねいにその人を観察し、その人を取りまく世界を豊かに想像することへの挑戦である。私が実際に現場で見たことや聞いたことから、彼らの内面を想像するのだ。フィールドワーカーとしての観察力と想像力が試される。文章を書くことは、現場での経験をふり返り、咀嚼する機会となった。

蓄積されてきた記録を元に文章を書き、私が出会った人びとを主人公としたセミドキュメンタリー、セミフィクションの短編小説集をつくる。フィールドワークの実施回数に合わせて、12のエピソードを収録することにした(現在、誠意執筆中である)。数多くの出会いのなかでも、得に印象深いものを選んで書く。

フィールドワークで出会った人びと

小説のタイトルには私たち「ごはんつぶ」の持ち曲のひとつである『宇都母知の風』を掲げることにした。この短編集は「ごんばち」に集う人びとの物語であるから、店を取り囲む情景をうたったこの曲が最もふさわしいと考えたためだ。

ちいさな物語からおおきな物語へ

いざ小説を書こうとすると、ていねいに記録をふり返り、対象者から聞いた話を裏付ける資料を探す必要に迫られた。そうでもしないと、書けないのだ。
例えば、「うたう、つながる、みつめる(2)」で紹介した『ダイアナ』でつながった白川さんのエピソード。彼女とのやりとりを元に文章を書いていくプロセスが、私に多くの発見をもたらしてくれた。

まず、白川さんはいったいどのような状況で『ダイアナ』を聴いていたのだろう、と気になった。
彼女はこの曲について、「私の青春」だと語っていた。白川さんの「青春」とは、いったいいつのことなのだろう。
私たちがうたっている時、彼女は小さく一緒に歌詞を口ずさんでいた。ということは、アメリカで流行したポール・アンカの原曲ではなく、山下敬二郎の日本語バージョンに慣れ親しんでいたのだろう。
このように、自分の目で見たことから想像を膨らませて、事実を調べていく。

山下敬二郎がうたう『ダイアナ』が日本で発売され、大流行したのは1958年の4月だ。白川さんに聞いた話から推測するに、この時、彼女は15歳。まだ生まれ故郷である広島にいたはずだ。

こうなってくると、今度は1958年の日本がどのような様子であったのかが気になってくる。15歳の白川さんは、どのような社会の中で『ダイアナ』に熱中していたのだろうか。図書館に通い、1958年の日本を知るヒントとなりそうな本を読みあさる。

1958年の日本は高度経済成長時代の真っ只中で、ちょうど東京タワーが完成し、フラフープが大流行りし、白黒テレビが一般家庭に普及し、山下敬二郎を含む“ロカビリー三人男”が出演する日劇ウエスタンカーニバルという音楽イベントに人びとが熱狂していた。流行語は「団地族」と「ながら族」。小家族で共稼ぎの世帯も増えてきて、年齢の割に所得が高い人はこぞって団地に住もうとした。テレビやラジオの音楽を聴きながら勉強するのが若者の習慣となった。日清食品から即席チキンラーメンが発売された。瓶ではなく缶に入ったビールが初めて発売され、ヒット商品となった。1958年は、そんな年だったらしい。

1958年のヒット商品

私はこの時、とても楽しい気分で日本の社会について調べていた。白川さんという一人の女性と出会ったことで、「1958年の日本社会」に純粋な興味が湧いたのだった。個人のちいさな物語を入り口に、社会というおおきな物語へ関心が広がっていく。

ちいさな物語はおおきな物語の元に成り立っているし、おおきな物語はちいさな物語が集まってつくられていく。個人のちいさな物語を丁寧に見つめていくことの価値を、改めて感じた。

時代と世代

当時の白川さんの生活をもっと知りたくなった私は、1958年の広島のまちを写した写真集「HIROSHIMA 1958」も手に入れた。この写真集は、1958年に広島で撮影された日仏合作映画「HIROSHIMA MON AMOUR(24時間の情事)」の主演女優エマニュエル・リヴァがロケ中に撮った写真をまとめたものである。

HIROSHIMA 1958(INSCRIPT,エマニュエル リヴァ[写真])

そこにはちょうど15歳くらいと思しき少女たちが笑う写真があった。彼女たちの笑顔をみて、58年前の15歳も今の15歳も、もしかしたらあまり変わらないのかもしれないな、と思った。

そうすると気になってくるのは、私自身が15歳だった時、いったい世界はどう見えていたのだろう、ということである。私は中高生のときに熱心につけていた手帳を探した。棚の隅に追いやられていた、2009年と2010年の分を手に取る。

15歳。ちょうど特定のアーティストのことを好きになっていた頃だった。父親に頼んでWALKMANを買ってもらい、TSUTAYAで借りたCDの音源データをせっせとインストールしていたことを思い出した。
手帳には丸っこい字で、当時好きだった曲の歌詞が書かれていた。学校の授業中に暇になると、歌詞を読んでその曲を脳内再生していたのだ。その歌詞を見たのは実に6年振りだったが、自然とその曲が脳内で再生されて驚いた。熱狂的にその曲を聴いていた頃の思い出が溢れてきて、飲み込まれそうになる。

もしも、ごはんを食べようと思って訪れた「ごんばち」で偶然、15歳のときに夢中になっていた音楽にめぐりあったら。
私もきっと、思わず一緒に口ずさんでしまうだろう。きっと、懐かしさに身悶えしてしまうだろう。私たちがうたう『ダイアナ』を聴いていた時の白川さんの気持ちに、すこし近づけた気がした。

白川さんも私も、かつては15歳の少女だった。生きている時代は異なっていても、同じ世代を経験しているのだ。だから、似た想いや似た感覚を共有することができる。そう思うと、筆が進んだ。

こうして書き進めている小説は、2017年2月4日(土)〜6(月)に開催する「フィールドワーク展ⅩⅢ たんぽぽ」にて販売する予定だ。ぜひ、手にとって「ごんばち」に集う人びとの物語を味わってほしい。

私がこの1年間やってきたことは、ひとを知り、まちを知ることである。「古民家食堂ごんばち」に集う人びとには、それぞれ固有の人生があり、私はそれを垣間見た。どれも決して派手なストーリーではないが、確かなあたたかさのあるものだ。

私の興味は「ふつう」の人びとの暮らしのなかにある。特別にすごい人でも、 特別に悪い人でもなく、「ふつう」の人びとのことを知りたかった。だって、私を含めた「ふつう」の人びとが、この社会をつくっているのだから。アカペラという「ちいさなメディア」を用いて、「ふつう」の人びとの固有のストーリーをていねいに見つめてみたら、もはやそれが「ふつう」ではないこ とがわかってきた。たくさんの驚きと幸せに満ちたプロジェクトだった。

師匠に教わった言葉のひとつに、パウロ・フレイレの「name the world」と いうものがある。「世界に名前をつけること」の重要性を彼は説いている。私たちは、言葉を知ること、言葉をあたえること、言葉を発することによって、積 極的に外界にはたらきかけることができる。「世界」はすでにどこかに準備されて待っているのではなく、観察者がすすんでつくるものだと考えてみるのだ。まちに出て、ひとに会って、自分が感じたことを言葉にして…。この1年間ずっと、人びととの出会いを通して自分の世界が広がっていくのを感じていた。これから先、私はどんな世界を見るのだろう。いいスタートをきった。

これは、慶應義塾大学 加藤文俊研究室学部4年生の「卒業プロジェクト」の成果報告です(2017年1月末の時点での中間報告)。

最終成果は、2017年2月に開かれる「フィールドワーク展XIII:たんぽぽ」に展示されます。

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