はじまりはキャッチボール(2)

Yoko Takeichi
綿毛の友
Published in
4 min readSep 25, 2016

家族のことは、案外よく知らない。
このプロジェクトは、近いようでいてなかなかあえてコミュニケーションをとることのない自分の家族について捉えてみようというおもいから始まった。

「母の恋文」

この本は、ふたりが出逢った1921年から23年までと、その30年後の両親の手紙を、息子である谷川俊太郎が編集し出版したものである。
約2年の間に封書、ハガキ、手渡ししたと思われる手紙等、出てきたのは合わせて537通もの手紙だったそうだ。

手紙をざっと読んでみると、息子の目から見てもこれがなかなか面白い。ふたりの感情の移り変わりはもちろんのこと、当時の京都に住む二十代のインテリたちが、何を考え、何に悩み、どんな暮らしをし、どんな映画や展覧会を見、どんな音楽会や芝居に行っていたかというようなことがよくわかる。

これは谷川俊太郎が「母の恋文」のあとがきで記している言葉である。

全537通の手紙は、納戸の押入れの奥からダンボール箱にまとめられたものが出てきたそうだ。本に掲載されているのはそのうちの1/4。息子である谷川俊太郎は、両親の若かりし頃の手紙を読んで何を思ったのだろう。

この手紙からは、谷川徹三と多喜子の2人の関係性の変化がよくわかる。

手紙の文章の長さやどこからその手紙を出しているかの分かりやすい情報はもちろん、内容に関しても、ジョークのはさみ方、近況報告の長さ、感情の表し方などが明らかに変化しているのが読み取れる。さらに分かりやすい例では、年月が経つにつれて手紙の中での相手の呼び方が変わっている。人の呼び方は、その両者の距離感の変化がわかりやすく現れる。

我が家とキャッチボール

いま私はこのプロジェクトで自らキャッチボールをすることによって弟とのコミュニケーションを生み出そうとしているが、じつはいままで、私がキャッチボールの主催者にはなることはなかった。

我が家は、4人が揃うのは土日くらいのものだったが、父が帰ってくると車を出してくれて、よく県内の広くて人の少ない公園に出かけた。弟も私も遊びたいさかりの小学生のころは、キャッチボールはバドミントンやサッカー(ごっこ)と同じように、4人で体を動かすための手段の1つとして存在した。

中学生になると、弟が本格的に競技としてスポーツを始めたため、その練習を兼ねてという形が増えた。

もっと大きくなると今度は逆に、家族で時間を過ごすための手段として「キャッチボールしに行こう」という流れができてきた。私がソフトボール部に所属していた頃は、両親が弟や私に教えてと頼んでくることも出てきた。しかし私は、家族とのキャッチボールの時間は嫌いではなかったがとりたてて好きではなかったし、むしろわざわざ車に乗ってどこかに行くのが面倒くさく感じてしまうときもあったほどだ。

そしていま、私は自分のプロジェクトのために弟に自ら声をかけキャッチボールをしている。少し前には考えられなかったことだ。

このプロジェクトを始めてから、私は自分の時間の使い方をより意識するようになった。

家族と一緒に暮らしているし、キャッチボールもうまく時間を合わせればすぐいつでもできるだろうと甘く考えていた私だが、そうはいかなかった。弟の学校の時間と私の授業サークルの時間が合わず、時間があってもすでに日が落ちてキャッチボールはできない状況になることもあった。

計画通りに時間を使うことはとても難しい。そもそも自分がどこで何をするのにどれくらいの時間をかけているのか、時間が足りなくなるときにロスタイムとして削れる時間はそのくらいあるのか。試しに、8月から1か月間、毎日いった場所と家にいた時間を記録した。夏休みだったのでイレギュラーな部分もあるとは思うが、起きているうちのほとんどの時間を家の外で過ごしていることが改めて分かった。

毎晩遅く帰ってきてご飯も食べず寝てしまったり、気がついたら家にひとりだったり、家族の他のメンバーの生活に無頓着な日々だったが、このプロジェクトを始めてから、4人で家のご飯を食べることひとつにも意識が向くようになった。

このプロジェクトによって、自分の家族への意識が変わってきている。プロジェクトが終わるころには、弟や私の変化が目に見える形で分析できるようにがんばりたい。

これは、慶應義塾大学 加藤文俊研究室学部4年生の「卒業プロジェクト」の成果報告です(2016年9月末の時点での中間報告)。

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