22: ベランダパクチーと盆栽

はしもとさやか
週刊パクチー通信
5 min readDec 8, 2016

もっと、パクチーを増やさなければならない。このあいだ、ちょっぴりのパクチー・ソースを作ってみんなで食べたとき、そう強く感じた。たしかに、種を蒔いては枯らしを繰り返していた頃を思えば、ここまで来れたのは感動的だ。しかし人は、欲深い生きものである。自分たちのパクチーを人に振る舞い、喜びを感じたことで「もっとたくさんの人に、私たちのパクチーを食べてもらいたい…」というさらなる欲求がふつふつと湧いてきたのであった。

ということでカナさんと私は、パクチー増量を目指しはじめた。研究室のプランターパクチーに、追加で種を蒔く。これが中心なのは今までどおりだが、それぞれあたらしい策を打つことにする。私は、自宅のベランダでパクチー栽培をはじめた。

04: パクチーとオマケでナスをもらった思い出のブラッサムアオキに向かう。身の丈(ベランダの広さ)に合わせ、研究室のものと比べると随分とちいさなプランターをふたつ選んだ。欲ばりな私がいろいろな種類の土を買い込もうとすると、レジのお姉さんが「パクチーですか?これだけでじゅうぶんだと思います。」とアドバイスをくれた。あぶない、無駄なものを買うところだった。私は利益を優先することなく適切な助言をくれる店員さんがいることに感動し、店への信頼をますます大きくした。

ミニサイズのプランター、水を吸うパクチーの種、親切な店員さんにより厳選された材料。

うれしい気持ちで帰宅して、さっそく準備をはじめる。プランターに鉢底石を敷き、培養土をふんわりと盛る。そこに半分に割りしっかり一晩水につけた、パクチーの種を蒔く。何度もしてきた一連の動作だが、場所を変えると新鮮に感じられた。今までベランダに注意を払わず暮らしてきたが、そこにパクチーがあると思うと自然に意識が向く。自分の生活空間が拡張されたような気がして、面白い。深まる寒さに負けず、芽吹いてくれるよう願っている。

手乗りサイズでかわいい

ガーデニングとか庭づくりには興味のなかった私だが、これを機に何か学ぼうと思い図書館を物色してみる。するとたまたま、『盆栽の社会学 日本文化の構造』という本を見つけた。盆栽に対して、アニメの中で波平さんをはじめとする“おじいさんたち”が大切にしているもの...くらいの印象しかなかったが、面白そうだと思い軽い気持ちで読み始めた。するとそこには、「軽い気持ち」を恥じたくなるような深遠な世界が待ち受けていた。盆栽を起点に語られる世界の歴史や文化、美意識や死生観...そのめくるめく展開に圧倒されている。

中でも興味深いのが、「盆栽の意味」の章だ。盆栽には人間の、ありのままの自然に魅了される心と同時に自然をコントロールしたいという心、その相反する欲望が詰め込まれている。そして、盆栽には2つの「縮小」があらわれている。1つは、自然の景観をちいさな鉢の上に切り取って再現するという「空間の縮小」である。これは、模型などのミニチュア芸術にも共通する精神である。しかし大切なのはもう1つの、「時間の縮小」だと著者は論じている。ここでの縮小というのはスピードが速まることではなく、むしろできるだけのんびりとした時間の流れをつくり出すことである。自然から取り出され、その運命を盆栽をつくる者の手に委ねられたちいさな樹木は現実とは異なるスピード感でゆっくりと変化していき、『特別な』時間を持つ。時間をコントロールしたいという思いは、自然へのそれと同じくらいに強く人間が持ち続けてきたものだ。しかし、誰もが時間の流れから逃れることはできない。だからこそ盆栽をつくる者は、盆栽に理想の時間、永遠の夢を見るのだという。そして時間を延長したい、ゆっくりと進んで欲しいと思うのは未来への希望に溢れる若者ではなく、残された時間の短い“おじいさんたち”であるから、どうしたって盆栽は彼らのものなのだ、という主張であった。

なるほど納得である。いかにも浅はかだと思っていた私の盆栽へのイメージは、あながち間違っていないのかもしれない。でも私は、むしろプランターだけ時間のスピードを速めて、はやくみんなでパクチーを食べたいなぁと思ってしまった。こんなことを言ったら、盆栽を愛する人びとには「わかってないな」と怒られてしまうだろうか。これからも、あせらずパクチーとの時間をたのしんでいきたいと思う。

参考文献『盆栽の社会学 日本文化の構造』(1987,池井 望, 世界思想社.)

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