意識の限りを自己に向け、自己に拘泥し耽溺している限り、ひとは決して幸せにはなりえないのだと思う。
2017年、幸福について
こころ
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幸福とは

まずは自己満足の習慣化

たぶん、幸福なんてものには答えはないでしょう。人はそれを求め続けるモノという存在なのかもしれませんね。

レスポンス元のストーリーを読むと、こころさんは、常に、何かと何かを比較している文章を繰り返しています。このリフレインの波が私には何とも心地良いわけですが、比較が得意な人は分析能力が高いことが分かります。この場合は、自己分析能力が高いということです。

どこかに埋没し、融合しているとき。認めてほしいと殊更に声を上げることも、自己と他者との認識の差異を追い求めることも必要ないとき。幸せを幸せだと認識することすらなくなったとき、おそらくひとは幸せになったと言えるのだろう。

上記の場合は、自分という意識が消失している状態なので、幸福感は実感できないですね。客観的にも、見た目ではその人が幸福状態であるという判断はできません。それでも、その状態が一番良いという宗教や哲学の考えがありますが、答えがないのですから、それでもOKなわけです。自分がそれを受け入れれば。

自分を愛し許し認めることはどこかで必要なことだけれど、誰かに愛され許され認められている自分でないと自分で自分を愛し許し認められないのなら、他人の価値観に依存するそれは酷く脆くて不自由だ。

ここでもう、ご自身でこのストーリーに対する答えを述べているわけですが、残念ながら、身に染み込んだ比較の習慣のおかげで、答えが隠されてしまっています。

私からのこのストーリーに対してのアドバイスは2つです。「自分を赦すこと」と「比較して否定的な結論に至る習慣をやめること」です。その結果、自己満足が生まれる。まずはそこからスタートする、というのが私の考えです。

「自分を赦すこと」、これは難しいですよ。赦すにも深さの階層がありますし、状況によっては、一度だけではなく、何度も必要になります。中途半端に頭が良い人はまずこれが出来ません。無意識レベルの根っこにある原因を認める(赦す)ことが、自分のプライド(意識)が邪魔をして出来ないのです。一方、これができる人は他人を赦すこともできるでしょう、きっと。これに関しては申し訳ありませんが、私も、これといったアドバイスをすることができません。書籍を読んだり、映画を見たり、実体験したり、人が目の前で苦しんでいるところに自分も加わり共感したりと、色々と試行錯誤してみてください。

「比較して否定的な結論に至る習慣を止めること」、これも、否定的な結論に至る習慣を身につけてしまったこころさんには、修正するのは大変、難しい問題でしょう。習慣の力とはそれほど恐ろしいものなのです。人間は常に比較して考えるので、「比較することをやめる」ことは出来ないでしょう。しかし、私は、比較した結果をどう考えるかは意識で介入できると思います。まず、第一段階は「否定的な結論に至る」ことを否定せず、受け入れることから始めるのはどうでしょうか。いきなり否定的な結論を考えないという練習は無理がありますから。否定的な結論に達しても、「うん、そうだよね。そうだ、そうだ。まいっか。」で満足してしまう。これで、ある程度の自己満足感が出てきたら、第二段階として、「否定的な結論ではなく、肯定的な結論を出すように練習する」わけです。それに対しても、「うん、そうだよね。そうだ、そうだ。私って凄いじゃん!!」で満足してしまう。自己満足感が増加することで、何となく幸福感が実感できてくると私は思っています。

際限のない自由を求めることをやめ、自分の世界の範囲さえも自分で規定できるようになったとき、私はようやく私から自由になるのかもしれない。

「自分の世界の範囲さえも自分で規定できるようになったとき」、つまり、自分のことは自分でコントロールできるように成ったとき、「自由」という名の呪いの言葉から解放されることに、私も同意します。


詩的なとても美しいストーリーに対して、野暮な実践的なレスポンスのストーリーを書いてしまい、誠に申し訳ないのですが、どうぞお赦しください。