補助輪のない自転車

ある日の公園にて


ある日の午後、天気も良いので子どもと一緒に公園へ遊びに行く。子どものお目当ては自転車だ。その自転車を渡すと、楽々と漕いで公園の中を自由に行ったり来たりして遊んでいる。私はその光景を見ながら感心せずにはいられない。なぜなら、子どもはまだ幼稚園生なのである。

最近、子ども用の自転車を購入した。サイズは18インチ。体型からいうと16インチの自転車がベストサイズなのだが、我が家の経済的理由から小学生になってもしばらく乗れるようにと、1ランク大きなサイズの自転車を買ったのである。子どもから見れば自分の身体で扱うには大きすぎる自転車なのだが、買ってもらった喜びからか文句も言わず楽しんでいる。親からすれば、補助輪があるから大きくてもとりあえず転倒することはないだろうとの判断だった。

しかし、実際に乗ってみると、補助輪を使ったのは初日の一日だけだった。二日目には補助輪なしで一人でスイスイと自転車を乗りこなしていたのである。実は、3歳の頃から流行りのストライダーに乗っていたので、自転車に乗るという感覚は既に身に付いていたのだろう。それにしても、乗りこなすのが早い。

私が子どもの頃に自転車に乗れるようになったのは、いつからだったろう。確か小学生も中頃の時に、友達の子ども用自転車を貸してもらい、練習を相当手伝ってもらうことでやっと乗れるようになったと、うっすら記憶している。

時代が進化し、ストライダーのような便利な道具を使うことで、人間の成長のスピードも速くなっていることを実感する。道具を上手く使い出来ることを増やしてあげることで、子どもは一歩一歩親から離れ自立して行く。親からすれば何とも寂しいことであるが、子どもの成長は私が生きて行くための目的である。

子どもが自転車に乗りながら、”パパ見て。僕うまいでしょう”とばかりにちらちらと私を見る。私は、都度、満面の笑みを浮かべながら「すごい、すごい」と声をかける。そして、今この瞬間のこの光景が私の脳に記録されていく。私は写真が好きなためか、記憶は動画よりも1枚1枚の写真の連続の様に記録されるようだ。だが、記録としての画像は投稿した写真のように、やがてだんだんとぼやけてくる。しかし、画像に残っている、「私は息子に愛されている」「私は息子を愛している」「私は幸せだ」という感覚は、私の心の中のとても深い部分にいつまでも記憶として残っているのである。