「遊びの分類」からみる日本の遊び

Sho Okawa
隔日日記
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4 min readOct 20, 2016

遊びには、四つの分類がある。ロジェ・カイヨワという哲学者が提唱したもので、数十年経ち、遊びが多様化した今なお説得力を失わない魅力的な分類だ。「アゴン(競技)」、「アレア(賭け)」、「ミミクリ(模倣)」、「イリンクス(眩暈)」の四分類である。アゴン、アレアは言わずもがな、遊びの根幹となっている要素だ。かけっこからスポーツまで、「勝敗」を意識した遊びに人類はいつまでも熱狂しているし、ポーカーなどのギャンブルもいまだ根強い人気がある。ミミクリとは、幼少期はままごとに始まり、演劇や仮面舞踏会など、「自分ではない何者か」になることで非日常感を楽しむ類の遊びだ。そしてイリンクスとは、ブランコやジェットコースターなど、身体的な眩暈を感じることによる遊びを指す。カイヨワは、これら四つが独立して存在するものではなく、あらゆる遊びにはこれらの要素が組み合わさって成り立っていることを強調した(また、それぞれに相性があることも示した)。

「ティラミスティカ」という近年人気のゲーム

以前、「ボードゲームは楽しい」という記事を書いたのだが、ボードゲームという遊びは(ゲームによって違いはあるものの)これらすべての要素を兼ね合わせた遊びだと思っている。アゴン、アレアの要素が根幹となっており、実力と運が見事な配合で組み合わされているゲームが多い。勝ったときには「実力だ!」と言え、負けた際には「運だよ、運」と言えるゲームがぼくの好みだ。ミミクリに関しては、多くのボードゲームが何らかのテーマ性を持っていることからその模倣的性格がうかがえる。人気作である「パンデミック」では、プレイヤーそれぞれにウィルスに対抗するための役が言い渡され(衛生兵、研究者など)、ロールプレイを楽しみながらウィルスを駆逐していく過程を楽しめる。役柄になりきればなりきるほど盛り上がるのは、「人狼」と同じだ。最後のイリンクスは、少々拡大解釈になってしまうかもしれないが、ボードゲームのコマやサイコロをガチャガチャと動かすフィジカルな動作に対する陶酔感や眩暈だ。麻雀をやったことがある人は分かるかもしれないが、多くのコマ(牌)を手で動かしているだけで楽しいと感じるのは、イリンクスの遊びを兼ねているからだ。最近はあらゆるボードゲームがスマホアプリで登場しているが、イマイチ盛り上がれないのは、この「ガチャガチャ感」が失われているからだと思う。このように、(作品にもよるけれど)ボードゲームには遊びの四要素がもれなく詰め込まれているのだ。おもしろくないわけがない。

コイン落とし的なギミックが楽しい「アッピア街道」

ここ20年以上、ボードゲームのメインストリームはドイツにある。ライナー・クニツィアやフリードマン・フリーゼなど、有名なボードゲーム作家はほとんどドイツから生まれている。なぜドイツのボードゲームはおもしろいのかについては、その「収束性」からよく説明される。つまり、ゲームがある一定の時間できちんと終わり、その終わりに向かって常に勝利を目指し続けられる、という点に関してドイツボードゲームのデザインは優れているのだ。四分類の話でいうところの、「アレア」がきちんと意識されたつくりになっていると言えるだろう。一方で日本は、「イリンクス」の文化が強い。ゲームセンターに行けば数々の音ゲーが並び、音や光の演出によって眩暈を味わう。パチンコやスロットも同様だ。遊びの文化としてアレアの傾向が弱いために、桃鉄では「ボンビー」という運要素にゲームバランスを委託しているし、人生ゲームという完全に運に身をゆだねる遊びがいまだ人気なのだろう。「枯山水」というメイドインジャパンのボードゲームが数年前話題になったが、あれは通貨を「徳」と読み替えることで、競争要素を限りなく柔和に抑え込むことに成功した稀有な作品だ。「徳」と言われてしまえば、ボードゲームらしい小賢しい攻めに躊躇してしまう。ドイツと日本、国によって遊びの文化が違うために、作り出されるボードゲームの質にも違いが出てくる。ここ数年、日本発のボードゲームが次々発売されているが、ドイツボードゲームの文脈を引き継ぎつつも、日本らしい作品が生れていくことを期待したい。

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Sho Okawa
隔日日記

大学院生2年目。新宿ゴールデン街で働いています。