お鶴大明神

お鶴大明神と稚児の宮の分岐

相生町(現那賀町)の奥の集落、朴野の竜王神社を過ぎてすぐ、左折し那賀川を渡ると蔭谷に着く。道が三方に分かれているが真ん中を選ぶと、小さな峠越えをして別の谷に入る。杉尾神社を左に望み、道なりに進むとやがてアメゴの養殖場に着く。そこに立て札があり、右2km「お鶴さん」、左100m「稚児の宮跡」と標示されている。その谷奥にお鶴大明神が祀られている。

蔭谷

お鶴さんへの道は舗装されているが、山奥の谷の雰囲気が出ている。ところどころ現れる岩と渕の造形がなんともいえない。お鶴さんに着くと、説明が施された柱がある。このように書かれてある。

境内へ
日本一社 お鶴大明神
祭神お鶴さんは、平家の落人として上那賀町谷山郷に逃れていたが、夫(現在大木屋神社の祭神)が土地の豪族に討たれたため、乳児を連れてこの上流の山中に隠れ住んだ。しかし流れてきた杓子から、平家狩りに協力した村人に探索されて斬られ、命乞いをしていったん助けられた乳児も成人後の仇討ちを案ずる村人によって広磧で殺され葬られた。その後、祟りを怖れた村人達が祠を建て、盆15日を供養の日として精進供養をしている。又広磧には稚児の宮が建てられていたが、今は杉尾神社の脇宮として遷座されている。 平成4年3月
相生町観光協会・むらおこし事業実行委員会
お鶴大明神

相生町誌にも記載があるが、重複するところは除いてみよう。(p643)

この社地及び付近では、生魚や獣肉などを持参したり、食べると祟りがあると伝えられ、丈、五尺余の真黒の蛇が棲んでおり、お使いであるといわれている。
昭和35年頃の話であるが、某製材が原生林の仕木成をして、お鶴堂を宿舎に借り受けて、村人から禁断せられた生魚を食した所、山頭領の二人が冬の深夜,通夜堂の梁に無数の蛇が垂れて脅かされた。うろたえたこの二人が徳島に飄然と出向き、深夜酒に浸り、夜明けに出漁に向かう漁夫をオートバイで障害死に至らしめるなど恐ろしい災厄が続いたので、藤本神職は同書にある山神社に、万福寺鈴木住職はお鶴堂におもむいて謝罪の祓いと、大供養を行ってようやくお山を鎮めたことは、記憶に生々しいところである。
古木

ちょっとしたミステリーなのだが、町史に載っているところがすごい。通夜堂には平成11年に相生中学校の文化祭に「鶴姫伝説」というネーミングで劇が上演されたのだろう。チラシが貼られていた。

狛犬

祠の脇にある狛犬もなかなか味わい深い表情をしている。

さて、稚児の宮はどうだろう。気になったので帰りに寄ってみたくなった。先ほどの分岐点となっているアメゴ養殖場の方にお聞きしたが、もうないと言われた。確認のため行ってみたが、やはり跡はなく場所も特定できなかった。

明治になって氏神杉尾神社の右側に境内社として遷座した。その後今に至るまで遠近から母乳の少ないものが願掛けに参詣する。祭日は12月1日である。(p642)
杉杦神社

杉尾神社に遷座されたのだろう。こうなると神社に寄るしかない。着くと鳥居が真新しく目を引いた。そして扁額には「杦」尾神社と書かれている。稚児の宮は、本殿の向かって左に鎮座していた。手前の石塔に「父乳子神様」と刻まれている。ここの狛犬も独特なので興味深い。

杉杦神社

さらに稚児の宮には宝刀の言い伝えがある。相生町誌にその記載がある。

年代ははっきりしないが、横石部落川浦の浦川家の先祖が、洪水の時、蔭谷口の澄口(洪水の濁水が谷口で清水と混合するところ)で、鮎などを漁獲するために大網で濁りまちをしていた際、一降りの刀が網にかかった。もち帰ったところ、きれいな錦の蛇がその付近をはいまわるので、神刀であることを知り神棚に祀っていた。三代前の浦川重兵の代になって、百姓などの持ってはならない品であることを悟り、太龍寺へ奉納するつもりで延野の水のはなにさしかかったところ、朝生の西本久米吉に出会った。問われるままに事の由を話したところ、当時軍人で特務曹長であった西本氏は、位負けしないから譲り渡すように交渉して西本家に保管することになったが、そのご事情により延野の万福寺に預けた。この事を知った蔭谷の敬神家中原伝太郎はこの刀はお鶴大明神の幼児、稚児の宝刀蛇丸であることを知り、蔭谷村の氏神さんに奉納するのが神意にそうと、西本氏の同意を得て、万福寺から氏神の杉尾神社に移し収めた。
この刀は、杉尾神社の藤本宮司により、敗戦当時の刀剣没収からも守られ、専門家に鑑定して貰ったところ、相当古く古刀に属するものであるとのことであった。
毎年12月1日の稚児の宮の祭りに刀の祭りをして、お慰めすることが今も続いている。
父乳子神様(稚児の宮)

海南町(現海陽町)樫木屋につたわる胴切山伝説をもとに、上那賀町(現那賀町)谷山の大木屋神社がその一族の頭を祀っている神社と知った。さらに隣の相生町(現那賀町)蔭谷にはその奥方と稚児が祀られているとは予想だにしなかった。江戸期の話だが、少し残忍なところがあるので遠慮があったのかも知れないし、どうも一つの説で決まった話ではないようだ。


案内

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