神武天皇の伝説

神武天皇は阿南に来たのか?

奈佐 和彦
Nov 2 · 5 min read

2017年にさる方とお話しする機会を得た。太龍寺南の舎心に神武天皇の祠があるという話から、太龍寺に神武天皇にまつわる伝説があると教えていただいた。

阿南の伝説

2018年7月に見つけた伊川公司氏の「阿南の伝説」に面白いことが書かれてあった。(p66)

太龍寺の煉壺
太龍寺山の北の舎心に三~四尺のまわりをも壺形に類した厚い台石がある。これは神武帝の持っていた煉(ね)り壺であるといわれている。
(「阿州奇事雑話」より)

かつてこの本を見たがすっかり忘れていた。今回、画像を整理していて偶然見つけ、思い出した。そこで友人のTくんから阿州奇事雑話を見せてもらったら、巻之一に記載されていた。(p9–10)

太龍寺の北舎心に神武天皇の煉壺と称するものなり。三四尺の廻りの壺の形に類して厚し煉りたる石壺の欠け損したる如し実に神武時代の旧物なや其證未考。(*文字の判読は自信なし。)

神武天皇祠

一尺は30cmだから、三~四尺は1m前後ということか。ここでは北の舎心と書かれているが、太龍寺に行くと驚くのは、南の舎心に神武天皇の祠があることだ。どっちなんだろう。

ネットで検索してみると、ブログ「ぐーたら気延日記(重箱の隅)」の舎心山太龍寺縁起という記事に、「太龍寺縁起」や塙保己一「続群書類従 第二十八輯上」の333ページから掲載されていると紹介された。(2011.1.6)「太龍寺縁起」は「鷲敷町史」で見ることができる。

http://goutara.blogspot.com/2011/01/blog-post_06.html?fbclid=IwAR0h7oVwTQvyH07Ll8bOODcgjw9VH6–1Oy2y0NBrWfGm36EDXYINqk71IIc

さらにawa-otoko’s blogの神武天皇の神像を納めた練壺(太龍寺 南舎身ヶ嶽)という記事にも、「阿波名勝案内」にこの内容が記録されているとある。(2015.7.9)

「太龍寺縁起」には神武東征のおりに神武天皇が太龍寺に行幸したと書かれ、「阿波名勝案内」には、南舎心岩上の神像を練壺に納め多聞堂に置いたとある。

高島

ところで「阿南の伝説」にはその次にも神武天皇の伝説が載っていた。(p67)

神武天皇の伝説
橘湾の中に高く青くぽっかりと浮かんでいる高島という島が遠望できる。この島は、そのむかし、神武天皇が宮居していたといわれている。

これは太龍寺に行幸する際に、橘湾の高島に宮を置いたということだろうか。


神武溜池

さらに隣の新野にも、神武天皇にまつわる言い伝えがあるのを見つけてしまった。神武(かんたけ)溜池という溜池にまつわる話だ。

神武溜池

新野の廿枝(はたえだ)は近くに川がないため、水が少なくて困っていた。粘土はよく取れたので土器をつくり、若者に託して物々交換に赴かせた。若者は東征中の神武天皇の一行に出くわし、窮状を訴えたところ、神武天皇は側近のヒコホホデミの尊に対応するよう命じた。ヒコホホデミの尊は集落に赴き、稲作を教え、水源として溜池を造った。これが神武溜池だ。

この話は「阿波の語り部」に「神代風土記」として取り上げられている。新野の友人に聞いたところ、「竹香る文化と歴史のまち あらたののふるさと昔話」に「神武溜神話」という話にさらに詳しく書かれていると教えられ、要約したものだ。

伝承ではこの溜池のあたりがヒコホホデミの尊の御在所とされる。すぐ近くにある祠は近くの方々が年に2回お祀りしている。


ここから脱線

さらに橘には別の興味深い伝承がある。(「阿南の伝説」p67–68)

天神社の伝説
延喜元年、醍醐天皇の時に政敵として憎んだ左大臣藤原時平らの策動によって、当時右大臣に進んでいた菅原道真が筑紫に下向されることになった。ところが大阪を出ると海上波が強くて、船は流れ流されて橘湾に流れついた。
桑野の東の入江に御船をとめてから、一行はずぶぬれになってからここの草庵にたどりつき、わびしく旅の一夜を明かした。橘浦のトントン石という所が、その時のみこしをすえられたところであり、天神社のところに草履が置かれてあったという。

この場所はどこだろうか?天神社は桑野にあるけど橘にはない。トントン石は?これについては、別に調べます。

青 海 波

青い海の海部から波の足音

奈佐 和彦

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スピリチュアルな島、四国の中でも取り分け人の手が及んでないエリアといえる四国の東南部。そこに暮らす人々の営みや自然の移ろいを追っています。

青 海 波

青い海の海部から波の足音