『日本人を考える』

Yu Nakamura
40creations
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4 min readOct 15, 2017

読書メモ:司馬遼太郎対談集「日本人を考える」 :文春文庫

この本のなかでは、様々なスペシャリストと対談していくなかで日本人とはどういう人たちなのかを浮かび上がらせている。この対談が行われたのがだいたい昭和44〜46年。戦争に対しての価値観、原子力発電に関しての懸念、無階級無思想社会になってきたこと、薄れゆく方言に文明、文化。その間、日本では進んだ事柄もむしろ後退した事柄もあるが、何より曖昧な気持ちになったのは、語られている内容の大半が今も特に変わってないあたりか。

基本的に面白かったんだけれど、例えば精神医学と臨床の研究者、辻悟さんとの対談では当時の「若者」についての考察をしている。

歴史を振り返ってみると、例えば、空海や本居宣長や坂本龍馬には生きる目標があったということになるが、これはきわめて例外的であって、大多数の人間はごく簡単な生活手段をかち取るだけの努力、非常に小さな努力で社会の中に入っていけた。それだけが生きる目標で、それ以上のことは望まなかった。生きる目標なんていう高邁なものはいつの時代の人々もそれを考えずに生きていた。食うことだけが、生きる目標だったんですから。ところが、いまは職を身につけなくとも食える。どう転んでも食えるという時代は、日本史上、最初です。食うことを外すと、ひどく人生が抽象的な光景になると思うのですが、今の若い人は、そういう光景の中に放り出されている。そして個々に生きる生甲斐のようなものを見つけてゆかねばならない。大変だろうと思いますよ。(司馬遼太郎)

私がよく、食堂のばあちゃんにインタビューしていると、彼女たちが40年とか続けている食堂は基本的にスタート時にたいそうな理由がないことが多い。「人をお腹いっぱい食べさせたい」というためだけに、自分がなんとなくできそうであった食堂をはじめずーっと続けていたら40年になったんだというかんじ。でも、今は、何か始めるのにはなんとなく意味が付きまとう。大義名分をかざさないと、基本的にみんないつもお腹いっぱいだし、なにか違わないと新しく始める意味がないように思える。今は、とってつけた意味が空々しくて、でもどこもかしこもわたしも、そんな意味に溢れる面倒な世の中な気がする。

富士正晴さんとの対談は特に面白かった。その中にでてきた型についての話。

同じ型の中にはいっていったら、先人と同じ所に到達できる。そういう型が各分野にでてきたということやろう。建築で言えば、丹下(健三)流の型を燃せば相当なものができるし、文学でも、そうやろな。型にはまってゆけばそこまで行けるというそういう型がすでにできている。そこに参加したら心細くなくていいという選択で参加するんじゃなくて、時代というものは選択なんかはさせない。気がついたら初めから参加しとるのが時代や。(司馬遼太郎)

この話は、この時代からそうだったのか。最近顕著に世界中どこにいってもなんとなくかっこいいカフェとか必ずあるけど、その型は情報が溢れたからだと思っていたけれど、どうやらそのずっと前からすでにあったよう。今更型を無視するのは、不可能に近い。

人より先に、百年も前にええこというても、誰も聞かんでしょう。その時代に合わなければダメなんです。だから、世の中が満ち足りているような時はダメやね。もっともっと人類が悲惨な生活をするようにならなければ、いままで話しているようなことは実現しませんよ。科学文明が行き詰まって悲惨になった実状を眼のあたりにみんうちは、想像力も働かんのと違いますか。(今西錦司)

先日柳宗悦さんの本を読んだ時にも思ったけれど、当時「失われる」と懸念されていた日本の美しいものは、基本的に今すでにないんだけれど、その名残みたいなものを持ってして私たちは「失われる」といまも危惧したりする。だいたい、農文協の「日本の食生活全集」に出てくる料理は、私が80歳以上のばあちゃんのところにいったって、ほぼ見たことがない。そして、この対談の中でももしかしたら電子計算機の形をした大権力に従うことになるかもとさらりと話していて、それはAIがもしかしたら人間をコントロールしたりしてという話と何も違わない。失われること、進歩し過ぎることへの杞憂は、実際今はどの程度、どうなっているんだろう。

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Yu Nakamura
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