Riho Okagami
4 min readJan 27, 2016

歴史こぼれ話

逃亡した王様の話

1574年6月のある日の深夜、クラコフ近郊の道を馬に乗って急ぐ2人の貴族の若者がいた。背後に影のようにそびえるバベル城のほうを時々振り返っては先を急いでいる。うっすらと明るくなりかけた頃、城門のあたりが騒がしくなり、200人もの騎馬兵が2人の後を追って猛スピードで走り出した。追手の目に若者の姿が見えた時には、すでに2人は国境を超え、ビスワ川対岸のシレジア公国にたどり着いていた。”Serenissima Maiestas, cur fugis?” (陛下、どうしてお逃げになるんですか?)と大声で叫ぶ追手を尻目に「陛下」と呼ばれた若者は供を従え走り去った。

こうしてヘンリー・バロアのポーランド・リトアニア連合王国の統治は僅か118日をもって終了した。現職の王様が国を捨てて逃亡した事件というのは歴史上もあまり例を見ない。新人のトップが現職をほっぽりだして逃げ出したのだ。

ヘンリー・バロア Henri III, Polish: Henryk Walezy (Photo by Andrzej Siedlecki)

この時ヘンリー・バロアは22歳。フランス王ヘンリー2世とカテリーナ・デ・メディチの4男として誕生、カテリーナ・デ・メディチの外交手腕でポーランド国王のポジションをヘンリーのために手に入れた。
カテリーナ・デ・メディチというと「セント・バーソロミューの虐殺」事件を思い浮かべる人も多いかもしれない。彼女と供にプロテスタント弾圧の黒幕ともいわれたヘンリーが国王として「就職」したポーランドは信教の自由を国是としていた。国王「職」に就くにあたっての「契約書」には信教の自由を保障することが条件として入っていた。プロテスタント嫌いのヘンリーだったが、王様になるためには致し方ないと、この条件をのんだ。

それからヘンリーの「前職者」であったジグムント2世の妹アナと結婚することも条件の一つに入っていた。だが、クラコフのバベル城でヘンリーの目の前に現れたアナはずっしりとした体格の50過ぎの大年増でお世辞にも美しいとは言えなかった。この条件は美形好きの若いヘンリーにはきつすぎた。
アナを何とかはぐらかして時間稼ぎ作戦にでたヘンリーだったが、次には言葉の問題にぶつかった。議会に出席してもポーランド語が分からないし、ラテン語のテンポにもついていけない。そうこうしている内に、宮廷の風習も、城の内装も、何もかもが気に入らなくなってきた。
そんな時、カテリーナ・デ・メディチから極秘の連絡が到着した。兄のチャールズ9世が突然亡くなったのだ。ヘンリーにフランス王になるチャンスが巡ってきた。こんな外国の王様など辞めて、一刻も早くフランスに帰って王位をゲットしよう!と夜中の逃避行となったのだ。

ポーランドはヘンリーの「スカウト」に大金を使ったのだが、逃げられたとあれば打つ手もない。良く考えて見るとヘンリーはもともと「雇用条件」に合わない「候補者」だったのかもしれない。
ヘンリーは無事フランス王となり、美しいロレーン公女ルイーズと結婚した。ポーランドとの縁は切ったが、ちゃっかり「ポーランド王」というタイトルだけは生涯「フランス王」と併記して使った。見かけだけでもタイトルは大きいほうが恰好よかった。それと意外な事に、ヘンリーの外国生活のおかげでフランス宮廷にも恩恵がもたらされた。ヘンリーはクラコフの王宮で初めて手にしたフォークなるものが気に入ってこれをフランス宮廷に持ち込んだ。そしてバベル城にあったトイレのシステムをフランス王家の城にも導入した。
やはり、苦労しても異文化体験をしただけの事はあったのだ。

Originally published at rihoos.blogspot.com.au on January 27, 2016.