空海の「大不思議」

修理固成
8th sense
Published in
Nov 16, 2018

◇空海の原点となった疑問・苦悩、

さらに絶望とは…◇

空海(西暦774~835)は平安時代初期の僧である。唐に渡って密教を学び、真言宗の開祖となった人物だ。

空海は讃岐の豪族・佐伯氏に生まれ、叔父で伊予親王の侍講である阿刀大足(あとのおおたり)から儒教を学ぶ。18歳で大学明経科に入り、将来の立身出世が約束されていた。

ところが、約1年後に退学して独自の道を進み始める。道教・仏教・雑密(ぞうみつ、純粋ではない密教)などを学び、四国各地で修行したのだ。土佐室戸岬では、「明けの明星」が口に飛び込んでくるという神秘体験をすることに。

空海には、疑問と苦悩があった。宇宙とは、生命とは、人間とは、といった根源的なことを知りたい。でも、教えてくれる人がいない、誰から学んだらいいのか分からない、という疑問と苦悩である。

宇宙・生命・人間などといったことは、普通の人にはどうでもいいことだろう。しかし、物事を原点から探究しなければ気の済まない空海には、
それらは放っておけない命題だったのである。

大学の学生たちは、ただ経書を読み、講義を聞き、そこに何の疑問も持たないまま、当たり前のように出世コースを歩もうとしている。儒学から使命感を養おうとしている様子もなく、集まれば愚痴ばかり口にし、つまらないことで罵り合い、あまりにも人間が小粒で小さいと。

そういう学生たちのいる場は、あまりにも低俗であり、深い真理を掴もうとしている空海にとって耐えられる世界ではなかった。疑問・苦悩、さらにこの絶望が空海の原点となって、やがて仏教を大綜合することになっていく。

24歳のとき、空海は『三教指帰(さんごうしいき)』という本を表す。その中で、儒教・道教・仏教を比較し、優劣を論じた。立身出世を説く儒教と、不老不死の術を教える道教(チャイナの民間信仰)は、どちらも小さな教えに過ぎないが、宇宙的・生命的な奥深さを元に慈悲の心の大切さを学んでいく仏教は、とても大きいという見解である。この本は、空海の志を表明する宣言文となった。

◇空海は、なぜ唐に渡ったのか?◇

空海は『三教指帰(さんごうしいき)』という本を著す。儒教・道教・仏教を比較し、仏教が一番優れているということを示したのだ。それは、立身出世の道から決別し、仏教によって真理探究の人生に邁進することへの決意表明であった。

それ以後、「空白の7年間」と呼ばれる時期を過ごす。徹底的な研究と修行の期間となった。東大寺をはじめとする南都(奈良)諸大寺で経典を読破し、久米寺では、真言密教の根本経典である「大日経」と出会う。

大日経は、大宇宙の根源仏である「大日如来」が描写されている経典のこと。大日如来は大宇宙の原理や真理そのものであり、その自由自在な活動によって世界が成立する。

この大事な経典が日本に伝わっていたのだが、誰も読めないまま眠っていた。それを空海が発見したのだ。価値ある物は、それを見抜ける人と出会うことで初めて輝く。

経典の読破の一方で、空海は山岳修行に励んだ。四国や紀州の山々で修行し、密教の独習に努めたのである。

当時の奈良仏教は、学派に分かれて教理の研究が行われており、とても理屈っぽかったとのこと。空海は、その教義中心の状況に疑問を持った。そもそも仏教に実践を求めていた空海は、自然な流れとして唐に渡ることになった。

入唐(にっとう、唐に渡ること)は、仏教の原点を求めるためであると共に、独習に励んだ密教が正しかったかどうかを確認するためでもあった。空海は個人の留学僧として入唐するが、それには正式の僧侶になっていなければならない。そこで東大寺で受戒して出家し、遣唐使船に乗り込む用意を調えた。空海は31歳になっていた。いよいよ密教の奥義を修めることになる。

◇大宇宙と自分を一つに結び、

念う存分、天命に生きる!◇

密教とは一体何だろうか。超能力を開発したり、願いを叶えたりするための祈祷仏教と思っている人も多いことだろう。「秘められた教え」と言われる密教は、その名からも謎めいた不思議な雰囲気を感じる。

密教に対して、普通の仏教を「顕教(けんぎょう)」という。普通の仏教は、釈尊という実在の人物を通して学ぶ仏教である。一方密教は、顕教の背後にある大宇宙の統一原理(大日如来)から直接示される教えのことで、それは自分で直接掴まなければならない。

密教の成立は、インドにおいて4・5世紀から7世紀にかけてであった。だから新しい仏教と言える。後で説明するが、密教は顕教を排除せず、むしろその基本としている。

密教を一言で言えば、大日如来と自分を一つに結び、思う存分天命に生きるための教えということになる。大日如来は、大宇宙の原理であるところの最高仏である。修行によって凡夫が大宇宙と合体し、仏陀(目覚めた人)となるのだ。

それを梵我一如(ぼんがいちにょ)と言う。梵我一如の「梵」はブラフマンという大宇宙の原理、「我」はアートマンという自己の内なる根源のこと。それらが一体であることが梵我一如。天人合一や神人一体とも言い換えられる。

目覚めた人である仏陀に成ることは「成仏」とも言い、顕教ではそれがゴールである。ところが密教は、成仏は出発点に過ぎず、そこから思う存分天命に生きる人生が待っている。

即ち、天から受けた我が使命であるところの「天命」に気付いた状態が成仏であり、そこをスタート地点として思う存分、生命を輝かせて利他大乗(世のため人のため)に生き抜くのが密教的人生ということになる。

では、大日如来(大宇宙の原理)と自分を結んで梵我一如となり、この身がそのまま仏陀と成る(即身成仏)には、どのような修行をすればいいのだろうか。その「行」を「三密(さんみつ)」といい、「身密」「口密」「意密」の三つがある。

◇自由自在の力を身に付け、

利他大乗に生きるための行◇

密教には、いろいろな行があるが、基本は「三密」。

「集・近・閉」の三密よりも、この「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」の三密を極めよう。そのため、それぞれについて、要点を述べておく。

「身密」は身体を用いる行

その基本は「手」にある。手には大きな働きがあり、脳神経においても手は広い領域を占めている。密教では両手を合わせて独特な印(いん)を結び、自分の力をしっかり引き出し、それを統一する。治療することを「手当て」と言うように、手から強い力が出ているのだ。合掌も一つの印。

「口密」は言葉を用いる行

真言(しんごん)を唱える。真言はマントラともいう一種の呪文である。少し難しい表現になるが、言葉による波動(情報)は、宇宙の波動(情報)と重なる。人間が発する言葉がバイブレーションなら、宇宙の活動もバイブレーションであり、人間が発する言葉がエネルギーを持った情報なら、宇宙に広がる「光(エネルギー)」も時空を創る情報である。

宇宙に広がる光、それは大宇宙が発する言葉そのものであると言えるであろう。生成発展する大宇宙の、変化活動による波動そのものが言葉だと。即ち人間も大宇宙も、共に言葉を発しているのだ。

Inspired by M・Yoshikawa

そうであれば、人間と宇宙は、言葉による波動で互いに通じ合えることになる。言葉によって、小宇宙である人間と大宇宙は響き合うのだ。人間は本当に偉大である。言葉を使うことによって自分と宇宙を繋(つな)ぎ、大宇宙進化の先頭を行くことの出来る存在だからだ。

それから、言葉には「見える世界と見えない世界を繋ぐ」という、言霊
(ことだま)の働きがある。既に実現した世界が「見える世界」なら、まだ夢や計画の段階が「見えない世界」である。両者を結ぶのが「構想の宣言」や「志の表明」で、それらを言葉として表すと、言霊となって実現がグッと近付く。

もう一つが「意密」

意は心のことで、心に仏を観じる(観想)行を、曼荼羅(まんだら)を使って行う。曼荼羅は、宇宙の真理を表現した諸仏の大集合図絵である。代表的な曼荼羅は、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と金剛界(こんごうかい)曼荼羅。

胎蔵界曼荼羅は「大日経」という経典に基づいており、物質原理や女性原理を表している。中央の大日如来が大宇宙を遍く照らしている図となっており、それによって宇宙の発展形態が示されている。大日如来の光が全宇宙に広がることで一切が成立している様子(物質原理)と、女性の胎内で生命が成長するように大宇宙が生成発展する様子(女性原理)が描かれているのだ。

金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という経典に基づいており、精神原理や男性原理を表している。基本となる大枠が9マスあり、右下から渦巻き状に進んで中心(内なる宇宙)に達するように描かれている。心が進歩向上し、即身成仏するプロセス(階梯)というわけです。即身成仏は、特に男性の役割であると考えられたのだろう。

胎蔵界曼荼羅は広がる大宇宙を、金剛界曼荼羅は自己の内なる宇宙を表現しており、二つの曼荼羅の観想によって、宇宙と自分を結んで梵我一如となっていく。

そうして、曼荼羅の前に背筋を伸ばして座り、手に印を結び、真言を唱えながら観想を行う。そうすれば、仏の力が我に至り、我の力が仏に及ぶ。前者が「加」、後者が「持」である。合わせて「加持(かじ)」となり、そうして祈ることを加持祈祷と言う。加持祈祷は、梵我一如によって自由自在の力を身に付け、利他大乗に生きるための行なのである。

仏壇の前に座り、合掌して御経を上げ、仏や先祖と結ばれていることをイメージする。そうして目に見えない力を頂いたなら、それは立派な三密の行ということになる。

◇空海の乗った第一船と、

最澄の乗った第二船のみが大陸に到着◇

空海にとって18歳から31歳までが、志の探究と修行の期間であった。
そして、31歳か36歳までが、密教の奥義を修める時期となる。

東大寺戒壇院で受戒(具足戒)して出家し、遣唐使船に乗り込む用意を調えた空海は、数え年31歳の5月12日、遣唐大使の乗った第一船に搭乗して難波(大阪)を出港する。瀬戸内海を通って九州肥前国田ノ浦に到り、そこから大陸へ向かうのだが、途中で暴風に遭い、4隻の船団中2隻は到着出来なかった。

到着したもう1隻(第二船)には、後に天台宗を起こす最澄が乗っていた。空海と最澄という、平安仏教の二大開祖が乗った船のみ辿り着くということに、何か不思議な運命を感じてしまう。

無事到着とはいっても、空海の船は大きく南に流され、福州赤岸鎮というところに漂着した。(約一ヶ月間漂流)。最澄の船は、50日余り漂流してから、明州寧波(にんぽー)に着いている。2隻とも命からがら辿り着いたのだ。

空海の唐への旅は、肥前出発から帰国まで、僅か2年4ヶ月に過ぎなかった。今の常識からすれば、2年以上なら長い期間と感じるかも知れないが、密教の奥義を体得するには、あまりにも短い期間であった。それに、滞在予定期間は20年間とされていたのだから、超急ぎ足の留学だったのだ。

唐の都・長安に着いた空海は、まず古代インドの文学語である梵語(サンスクリット語)をインド僧から学ぶ。梵語の習得は、仏典を原点から研究するためだ。空海の志に感動したインド僧は、自分が訳した膨大な仏典を空海に渡してしまったのだ。

そうして、いよいよ密教の第一人者である恵果に師事するのだが、その期間はたったの6ヶ月間であった。そのとき、恵果は60歳、空海は32歳であった。

空海は瞬く間に密教の奥義を極め、次々と灌頂(かんじょう)を受けた。灌頂は頭頂に香水(こうずい)を頂く儀式で、灌頂を受ける度に密教における地位が上がっていく。空海は約3ヶ月の間に、胎蔵界・金剛界・伝法阿闇梨(でんぽうあじゃり)の灌頂を受けた。この短期間に3つの灌頂を受け、密教の王位である伝法阿闇梨に到達するというのは、異例中の異例と言える出来事であった(伝法阿闇梨位の灌頂名は「遍照金剛」)。

恵果には千名の弟子がいたそうだが、インド伝来の密教の正統を受け継げる者は一人もいなかった。高弟の義明という優秀な僧がいたものの、既にこの世を去っていた。要するに恵果には後継者がおらず、それが師として最大の憂いだったのだ。

千名もの弟子がいれば、優秀な人が多数いそうなものだが、なかなかそうはいかないようであった。資質に優れ、根気よく熱心に修行し、核心を的確に掴んで自分のものとする。部分に囚われることなく、教えの全体像を理解した上で、人に伝えられる構成力と指導力を身に付けていく。性格が素直で頭脳が聡明、そして最高の熱意を兼ね備えている。そういう者となると滅多に現れない。師の全てを受け継げる器量を持った弟子というのは、万人に一人いるかどうかとなるのだろう。

◇密教の全てを学んだ空海は、

日本への帰国を希望。そこにも運が働く!◇

後継者がおらず、憂いを抱えていた恵果の元に現れたのが、日本からやって来た空海であった。恵果はこう述べた。

「私は先頃から、あなたが長安に来ているのを知っており、ずっと心待ちしておりました。今日、こうして会えることが出来てとても嬉しいです。間もなく私の寿命は尽きようとしていますが、本義を受け継いでくれる相手がおりません。さあ、直ちに灌頂をお受けなさい」。

病気のため余命幾ばくも無い状態だった恵果は、最後の力を振り絞って、自分が修めた密教の全てを空海に授けたのであった。

密教には、ガンジス川流域に起こった大日経系と、南インドに起こった金剛頂系の2系統があり、その両方を継承していたのが恵果だ。その師から灌頂を受けることによって、空海は両系統を統一する密教の正統後継者となったのだ。

密教の一切を空海に伝えた恵果は、使命を終えた満足感と、生命力を使い果たした脱力感から、その4ヶ月後に没する。恵果を追悼する碑文は、弟子を代表して空海が撰したというのだから、空海の能力の高さが分かる。

恵果と師弟の縁を結べたことは、本当に運であった。もしも空海の渡航が後れていたら、恵果没後の入唐ということになっていたかも知れない。そうなれば、密教を教えてくれる指導者に出会えなかったのだから、恵果と空海の二人に対して運が働いたというわけだ。

密教の全てを学んだ空海は、日本への帰国を希望した。でも、長期留学生として入唐した空海に、帰国の許可は簡単には下らない。その許しを貰うには、日本国を代表する使者を通して唐の皇帝に願い出る必要があった。

丁度そのとき、遣唐判官・高階遠成が、たまたま入唐していた(唐皇帝の崩御や即位に対する慶弔の使者として派遣されたという説があるものの定まってはいない)。空海は高階を通して帰国申請を提出し、許可を受けて遣唐判官の船で帰ることが出来たのだ。まるで、空海を迎えに来たかのようなタイミングの良さであり、またまた運が働いたのだ。

空海は33歳の10月に帰国した。しばらく九州で待機し、唐から持ち帰った仏具や仏画、経典などを記録した『請来目録』をまとめ、それを朝廷に献上した。これには、短期間で帰ってきてしまった理由を釈明する意味もあった。

いよいよ空海は「人生の高原期」に入る。

36から57歳にかけてが、社会活動に励み、教育機関を確立し、執筆にも努める、人生で最も精力的な時期であった。

36歳で帰国後初めて入京すると、最澄が早速近付いてきた。最澄は天台学の習得の傍ら、ついでに密教も学んでいたが、それは雑密の類に過ぎなかった。空海が密教の最高位を極めて帰国したことを知った最澄は、自分が身に付けた密教が低レベルであることを自覚し、頭を下げて空海から学ぼうとしたのだ。また、中国文化に精通されていた嵯峨天皇との交流も始まり、空海は単なる僧侶を超えて時代の先頭に立つことになる。

以後、下記のような活動をします。

40歳、東大寺別当となる(別当とは、寺務をまとめる長官のこと)。
43歳、高野山開創を上表。
48歳、讃岐の満濃池を修築。
49歳、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立。
50歳、東寺を給わり密教専門道場とする。
55歳、民衆教育機関である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立。
57歳、『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』を著す。

そして62歳で入定した。空海の思想を集大成させた著書が『秘密曼荼羅十住心論』である。『秘蔵宝鑰』は、それを要約した本だ。

『秘密曼荼羅十住心論』、略して『十住心論』には、空海による独創的綜合思想がよく示されている。「住心」は心の住むところであり、段階を経て向上していく。

空海は「住心」を十段階に分け、「心の進化プロセス」とした。

『十住心論』には、これまで封印されていた「日本人の使命」を解くカギが隠されている。では、その要点を述べていこう!

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