二つの時代の『罪と罰』
※おことわり
この文章は僕が『月刊群雛 (GunSu) 2015年 06月号 ~ インディーズ作家を応援するマガジン』
に掲載した論評を再構成の上、掲載したものです。そしてこの論評には作品の冒頭から結末までの「ネタバレ」が含まれます。
罪と罰 ドストエフスキー原作編
「殺人を犯すことはいかなることか? 人は人を本当の意味で裁くことが果たして可能なのか?」
決して色褪せることのないテーマを扱ったドストエフスキーの『罪と罰』。
先日、私は日本とロシア、2つの国で制作、放送されたドラマ版を観て、
この作品が投げかけるテーマは21世紀を迎えた現在、改めて我々の前に突きつけられた様な気がしてならないのです。
まず最初に取り上げたいのは、本場ロシアで制作された大河ドラマ版の『罪と罰』についてです。
この作品は、原作に忠実なヴァージョンであり、ロシアではおそらく「時代劇」として制作されたのではないかと個人的には推察しています。
ドラマでは物語の舞台である19世紀のロシア・ペテルブルグ(現在のサンクトペテルブルク)の重く暗い街並みが見事に表現されており、
「あの時代はああだったのか」
と思うこともあるでしょう。
あらすじを簡単に述べますと、カネもなく、仕事もなく、安下宿の屋根裏部屋で不遇をかこつ元学生のラスコーリニコフ。
彼は独自の犯罪理論である「ナポレオン主義」の名の下に金貸しの老婆であるアリョーナを斧で殺してしまいます。
しかし、金品を奪って、さぁ現場から立ち去ろうという時に出くわしてしまった彼女の妹であるリザヴェータも衝動的に殺害してしまったことで、彼の犯罪理論に矛盾が生じてしまいます。その日以来、ラスコーリニコフは凄まじい罪の意識に苛まれてしまいます。
一見、完全犯罪に思えた老婆殺害事件。それを追及する予審判事ポルフィーリイーが彼を心理的捜査法で徐々に追い詰めていきます。
酒におぼれて働かない元役人のマルメラードフやその家族。
闇をさまようラスコーリニコフの魂に一筋の光明をもたらすヒロイン、ソーニャの存在。ソーニャは家族を養うために「黄色の鑑札」を受け、娼婦となった女性です。
ラスコーリニコフがソーニャと交流するうちに「人間性」を取り戻し、ソーニャが「仕事部屋兼自宅」として借りているアパートで、自身の罪の重さに耐え切れなくなり、ついにそれを告白する場面で、ソーニャはショックを受け、ラスコーリニコフに十字路に立ち、地面に跪いて口づけをしなさい、と詰め寄ります。
新約聖書の『ラザロの復活』の箇所をソーニャに読んでもらい、自らの「罪」を自覚したラスコーリニコフは自身が血で汚した大地に口づけをし、許しを請う……。これら一連のシーンが荘厳さと詳細なディテールで描かれており、私は文化的な意味でも彼の国に対して
「恐ロシア!」
とつくづく感じてしまいました。
最終的にラスコーリニコフはポルフィーリイーの勧めで自首し、裁判を経てシベリアに8年という比較的「軽い」罰で徒刑するのですが、ソーニャが彼を追ってシベリアに赴くシーン。
ラスコーリニコフは自らを「凡人」と悟り、ソーニャとの愛に生きるという希望に満ちたラストショットに何を見出すのかは我々一人ひとりの中に存在するわけであり、映像化されたものを観ると、『罪と罰』がドストエフスキーの書いた「五大長編」の中でも最も「希望に満ちた」終わり方だったのだなと、改めてそんな感想を抱いたのでした。
罪と罰 A Falsified Romance編
その後、続けて私はかねてより気になっていたドラマがあり、『罪と罰』の舞台を現代の日本に移した落合尚之氏の漫画作品(『漫画アクション』で連載)を、俳優・高良健吾主演でテレビドラマ化(WOWOW・連続ドラマW。2012年放送)したヴァージョンです。
この作品は「日本」という事情もあってか、宗教的な要素を差し引いた内容になっておりますが、個人的にはこの日本版と本場ロシア版共に甲乙つけがたく、私は日ごろあまりドラマは観ませんが、この日本版『罪と罰』はテレビ放送の限界に挑んでいるなということが感じられ、最後まで見逃せない展開であり、できればロシア版と日本版の両方に目を通していただき、内容を比較検討いただければ幸いに思います。
日本版でも原作のテーマとなっているものはほぼ変わらず、それらはテレビ向けとは決して言い難いものであり、原作から換骨奪胎したうえで現代の日本に合わせたことは、ともすればとてつもない力技だったのかもしれません。
物語の主人公である裁弥勒は将来を嘱望されて一流大学に入学するも、しだいにキャンパスからは足が遠のき、自室に閉じこもり、その中で彼は自尊心と劣等感の間でもがく日々を送ります。そんな彼の心の中に巣食ったのは女子高生援助交際グループのリーダー、馬場光を殺害する計画でした。
自らのゆがんだ信念から綿密に練り上げられた「計画」を実行し、弥勒のふりおろす鉈によって光は死を迎えるわけです。が、そこへ偶然居合わせてしまった島津里沙も、弥勒は衝動的に殺害してしまうのです。
罪の意識に苛まれながら数日を過ごし、倒れて病院へと運ばれた弥勒のベッドの隣にいたのは元教師でアルコール依存症に苦しむ飴屋菊夫でした。
私は個人的に彼が一番好きでした。
飴屋は弥勒に自らが酒におぼれるようになったいきさつと妻、飴屋英知香との関係を語る一方で、
東京地検検事の五位蔵人が影のように弥勒のもとへと忍び寄ってきます。
自らが犯した「罪」を取り戻し、向き合うため、弥勒はお祭りで人々が行きかう通りの真ん中で絶叫し嗚咽するシーンは後悔の涙なのか、救われた涙なのかは視聴者の判断にゆだねられます。
そしてラストシーンで独房の中で自らの犯した「罪」について「考え続ける」ことに終始するであろう弥勒の表情は、なぜか希望にあふれているのでした。
こちらもまたあまりにも重く、観る人を選ぶ作品かと思われるのですが、昨今の世情を考えるヒントになることはあるのかもしれません。
まとめ
私がこれら二つの『罪と罰』を観てつくづく思ったことは、『罪と罰』のテーマのひとつに
「自らの理想とする社会や国家を実現させるためにはテロや殺人は許されるのか?」
がありますが、残念なことながら現在、我々が「殺人」「テロリズム」そして「児童虐待」のうちどれか、あるいはそのすべてを耳目にしない日は一日たりとてないという世相で、日ロ双方の『罪と罰』のドラマを観た後、しばらくの間は陰鬱この上ない日々を過ごしていたのも、日本国内では自らの身勝手な理由で発生した殺人事件がいくつも発生し、海外に目をやれば、「イスラム国(IS)」をはじめとするイスラム教原理主義組織が台頭し、彼らは捕えた人質の首をナイフで切り落とし、銃殺し、あるいは生きたまま焼殺する……。
ついには、日本人にもテロの被害者が出ています。いわば「マクロ」と「ミクロ」。その両方の側から世界的に「ラスコーリニコフ的」な気分が高まりを見せており、「消極的」、あるいは「積極的」を問わずニヒリズムが世界を覆いつくしています。
そこにこそ現代に生きる我々の抱える根源的な「危うさ」があり、ともすれば気の遠くなるほどの長い時間、向き合わなければなりません。
私が感じた「陰鬱さ」はおそらくその辺にあるのでしょう。
そういった中でなんとかしてニヒリズムからくる自己、および世界を破壊する衝動を緩和、回避できるすべはないのかと、そんなことを考え続けています。そんな自分がいるのです。即効性のある「答え」はないとしても……。
〈了〉
【参考文献】
・『罪と罰』1~3巻(2008~2009)フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社
・『すらすら読めるドストエフスキー』(2009)桃井富範 彩図社
・『ドストエフスキー父殺しの文学』上下巻(2004)亀山郁夫 日本放送出版協会
・『『罪と罰』ノート』(2009)亀山郁夫 平凡社
・『謎とき『罪と罰』』(1996)江川卓 新潮社
・『罪と罰』1~10巻(2007~2011)落合尚之 双葉社
【参考DVD】
・『罪と罰 ドストエフスキー原作』(2011)監督:ディミトリー・スヴェトザロフ 販売:IVC,Ltd.
・『罪と罰 A Falsified Romance』(2013)監督:麻生学 製作著作:WOWOW
【参考Webサイト】
・罪と罰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0
・連続ドラマW『罪と罰 A Falsified Romance』- WOWOWオンライン
http://www.wowow.co.jp/dramaw/tsumitobatsu/
【初出】
ブログ『有坂汀的日常 ~ただただ、思いの馳せるままに~』より
・「罪と罰 ドストエフスキー原作」
・「罪と罰 A Falsified Romance」