国際関係論の理論 -第2章 リベラリズム-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
15 min readJun 22, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第2章 リベラリズム
ジェフリー・W・マイサー(JEFFREY W. MEISER)

リベラリズムは、現代民主主義を決定づける特徴であり、自由で公平な選挙、法の支配、市民の自由を保護する国々を表現する方法としての「自由民主主義」という言葉の普及によって示されています。しかしながら、IR理論の領域内で議論されるときには、リベラリズムは、それとは別個の実体へと進化しました。リベラリズムには、制度、行動、経済的関係がどのようにして国家の暴力的な力を抑え込み、緩和するかについての様々な概念と議論が含まれています。リアリズムと比較すると、リベラリズムは私たちの視野に、より多くの要素 — 特に市民や国際機関の考慮 — を追加します。とりわけ、リベラリズムはリアリズムの学派に見られるものとは異なる歴史の読み方に基づき、より楽観的な世界観を提供するために、IR理論においては伝統的にリアリズムの引き立て役となってきました。

リベラリズムの基礎

リベラリズムは、個人の生命、自由、財産に対する権利を保証することが政府の最高目標であるという道徳的主張に基づいています。その結果、リベラルは、正当な政治体制の基本的な構成要素としての個人の福利を強調します。君主制や独裁政権のような抑制のきかない権力を特徴とする政治制度は、その市民の生命と自由を守ることができません。したがって、リベラリズムの主な関心事は、政治権力を制限して点検することにより、個人の自由を守る制度を構築することです。これらは国内政治の問題ですが、国家の国外における活動も自国内における自由に強い影響を及ぼすかもしれないため、リベラルにとってはIRの領域もまた重要です。リベラルは、特に軍事的な外交政策に悩まされています。主とした懸念は、戦争は国家が軍事力を構築することを要求するということです。この力は外国との戦いに使うことができますが、それを使って自国の市民を抑圧することもできます。このため、リベラリズムに根ざした政治制度は、軍に対する文民統制を確保するなどの手段によって、しばしば軍事力を制限することがあります。

領土拡大の戦争、あるいは帝国主義 — 国家が海外の領土を取って帝国を建設しようとしているとき — は、リベラルにとって特に悩ましいものです。拡大主義的な戦争は国民を犠牲にして国家を強化するだけでなく、これらの戦争は軍事的占領や外国の領土や人々に対する政治的支配に長期的に携わることを必要とします。占領と支配には、外国の領土の占領を維持または拡大することに関心のある巨大な官僚制度が必要です。したがって、リベラルにとっては、国家がその市民の個人の自由を阻害することなく、外国の脅威からその身を守ることを可能にする政治システムをどのように発展させるのかということが大きな問題です。リベラルな国家において、権力に対する主要な制度的なチェックは、国民が支配者を権力の座から排除することができる自由で公平な選挙であり、これにより政府の行動に関する基本的なチェックをもたらすことができます。政治権力に対する第2の重要な制限は、議会/国会、行政、司法制度のように、政府のさまざまな部門とレベルの間での政治権力の分断です。これは、権力の使用におけるチェックとバランスを可能にします。

民主主義の平和理論は、おそらくリベラリズムがIR理論にもたらした最も大きな貢献です。それは、民主主義国家がお互いに戦争を起こす可能性は非常に低いと主張するものです。この現象については、2つの部分からなる説明があります。第1に、民主的な国家は、上述のように、内部での権力の抑制によって特徴づけられています。第2に、民主主義国家はお互いのことを合法的かつ脅威ではないと見なし、したがって非民主主義国家よりも互いに協力する能力が高い傾向があります。統計分析と歴史的な事例研究は、民主主義の平和理論を強力に支持していますが、いくつかの論点が議論され続けています。第1に、民主主義は人類史上で比較的最近の発展です。これは、民主主義国家が互いに戦う機会を持った事例がほとんどないことを意味します。第2に、本当に「民主主義の」平和であるのか、それとも権力、同盟、文化、経済などの民主主義に関連する何らかの要因が平和の源泉であるのか、については確信できません。3点目は、民主主義国家が互いに戦争することはまずありませんが、2003年に米国がイラクと戦争を行った時などのように、民主主義国家は非民主主義国家に対して攻撃的である可能性が高いことを示唆する研究者もいるということです。この議論にもかかわらず、リアリストが記述するような絶え間ない戦争の世界を、民主主義の平和が徐々に置き換える可能性というのは、リベラリズムの永続的かつ重要な側面です。

私たちは現在、第二次世界大戦(1939–1945)の後に建てられたリベラルな世界秩序によって構築された国際システムの中に住んでいます。この世界秩序の国際機関、組織、規範(期待される行動)は、国内のリベラルな制度や規範と同じ基盤の上に構築されています。すなわち国家の暴力を抑制する願望のことです。しかし、権力は国家の中でよりも国際的なほうが、より希薄化し、分散しています。例えば、国際法の下では、侵略戦争は禁止されています。この法律を施行する国際的な警察は存在しませんが、侵害者はこの法を破ると相当の国際的な反発を受ける危険があることを知っています。例えば、国家は、個別に、あるいは国連のような集合体の一部として、経済制裁を課すか、または違反国家に対して軍事的に介入することができます。さらに、侵略国家は、国際貿易、対外援助、外交的認知から得られる利益など、平和の利益を逃してしまうリスクもあります。

リベラルな世界秩序の完全な説明は、ダニエル・デュードニー(Daniel Deudney)とG・ジョン・アイケンベリー(G. John Ikenberry)の研究に見られます(Deudney and Ikenberry 1999)。彼らは、3つの組み合わさった要因を記述しています。

第1に、国際法と協定は、国際機関を伴って、ひとつひとつの公正な国家を大幅に上回る国際的な制度を作り出しています。そのような組織の典型的な例は、国際連合(UN)です。それは、共通目標(気候変動の改善など)のための資源を共有し、敵と仲間との間でほぼ絶え間ない外交を提供し、国際社会の中ですべての加盟国に声を与えます。

第2に、リベラルな国家や世界貿易機関(WTO)、国際通貨基金(IMF)、世界銀行などの強力な国際機関の努力を通じた自由貿易と資本主義の普及は、開かれた、市場に基礎を置く国際経済システムを創出します。このような状況は、国家間の高水準の貿易が紛争を減らし、戦争をより起こりそうにないものにするため、相互に有益です。なぜなら、戦争は貿易の恩恵(利益)を破壊するか、または相殺するからです。したがって、豊富な貿易関係を持つ国家どうしは、平和的な関係を維持することに強い誘因を持っています。この計算によれば、戦争は有益ではなく、国家にとって有害なものです。

リベラルな国際秩序の第3の要素は、国際的な規範です。リベラルな規範は、国際協力、人権、民主主義、法の支配を支持します。ある国家がこれらの規範に反する行為をする場合、それらの行為は様々な種類のコストがかかります。しかしながら、世界中では価値観の幅広いばらつきがあるために、国際的な規範はしばしば争われています。それにもかかわらず、リベラルな規範に違反するコストがあります。そのようなコストは、直接的かつ即座に発生する可能性があります。例えば、欧州連合は、中国が1989年に民主主義を要求する抗議者たちを暴力的に鎮圧した後、中国に対して武器禁輸措置を行いました。この禁輸措置は、現在まで続いています。そのようなコストは直接的ではない場合もありますが、それらもまた同等に重要です。例えば、2003年のイラク侵攻以来、米国への好意的な見方は、世界的に著しく減少しました。なぜなら、この侵攻が(確立された国際連合のルールの枠外で)一方的に行われて、それは不当であると広く考えられていたためです。

現在、ほとんどのリベラルな研究は、国家が国際協定から逃れようとする誘因を克服するのを助けることにより、国際機関が協力を促進している方法に焦点を当てています。この種の研究は、一般的に「ネオリベラル制度学派」と呼ばれており、しばしば単に「ネオリベラリズム」と短縮されています。これは、ネオリベラリズムという言葉がIR理論の外において、規制緩和、民営化、低い税金、緊縮財政(公共支出の削減)、自由貿易という広範な経済理念を描写するために用いられる用語でもあるため、よく混乱を招きます。IRの中で適用される場合、ネオリベラリズムの本質とは、もし国家どうしが互いを信頼し合って協定に従うならば、国家は協力から大きく利益を得ることができるということです。ある国家が不正行為をして罰を免れることにより利益を得ることができる状況では、逸脱が起こりがちです。しかしながら、第三者(公平な国際機関など)が、ある協定の加盟国の行動を監視し双方に情報を提供することができる場合、逸脱に対する誘因は減少し、双方は協力を確約することができます。このような場合、協定のすべての加盟国は絶対的な利益を得ることができます。絶対的な利益とは、関係者全員の福利の一般的な増加を指します。必ずしも平等ではないものの、全員がある程度の利益を得ることです。リベラリズムの理論家は、各国家は相対的な利益よりも絶対的な利益をより重視していると主張します。相対的な利益はリアリズムの説明に密接に関連しているものであり、国家が他の国家と比較した福利の増加を測定し、競争相手をより強くする協定から離脱するであろう状況を記述します。リベラルは、絶対的な利益というより楽観的な視点に焦点を当てるとともに、国際機関を通じたその存在の証拠を提供することによって、繁栄を増大させるであろうあらゆる協定において、国家が協力する可能性のある世界を見ています。

リベラルの理論とアメリカ帝国主義

リベラリズムのより興味深い例の1つは、20世紀初頭のアメリカの外交政策から来ています。この時期に、米国はリベラルでしたが、支配的な歴史の語り口によれば、帝国主義的でもありました(Meiser 2015参照)。そのため、そこには矛盾があるようです。もっと詳しく見てみると、アメリカは、特にその時代の他の大国と比較して、一般に信じられている以上に、より抑え込まれていたことがわかります。1つの簡単な測定方法は、他の大国に比べてアメリカが獲得していた植民地領土のレベルです。1913年までに、米国は310,000平方キロメートルの植民地領土を所有していましたが、ベルギーは2,360,000平方キロメートル、ドイツは2,940,000平方キロメートル、英国は32,860,000平方キロメートルでした(Bairoch 1993, 83)。実際のところ、アメリカ植民地支配の大部分は、フィリピンとプエルトリコの併合によるものでした。フィリピンとプエルトリコは、1898年の米西戦争でスペインを倒した後にアメリカが継承したものです。リベラルの理論によって示唆されているように、アメリカの政治的構造が拡張主義を制限したため、アメリカは自制を示しました。20世紀初頭のアメリカとメキシコの関係を調べることは、このアメリカの自制の原因を説明するのに役立ちます。

1914年の春、メキシコにおける数人のアメリカ人船員の拘留に関する論争のため、米国はベラクルスのメキシコシティーに侵攻しました。しかしながら、独裁政権であったメキシコに民主主義をもたらすことが米国の義務であるというウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領のリベラル的信念のために、米国とメキシコとの関係はすでに困難に陥っていました。アメリカの戦争計画の最初の目的は、ベラクルスと近隣のタンピコを占領し、その後、アメリカの名誉が回復されるまで — あるいはメキシコの体制が変わるまで — メキシコの東海岸を封鎖することでした。アメリカ軍がベラクルスに上陸した後、上級の軍隊指導者とメキシコに関するウィルソンの最高外交顧問は、メキシコシティーの占領を含むような政治的目標の拡大を提唱しました。メキシコの全面的な占領を声高に提唱した支持者もいました。ウィルソンは実際には彼が受け取ったアドバイスのどれにも従いませんでした。代わりに、彼は戦争の目的を減らし、ベラクルスで軍を停止させ、数カ月以内に米軍を撤退させました。ウィルソンは、米国市民の反対、彼自身の個人的価値観、1つにまとまったメキシコ人の敵意、戦闘で発生した軍事的損失のために自制しました。反米主義がラテンアメリカを席巻し始めたことから、国際的な意見もウィルソンの考えに影響を与えたようです。アーサー・リンク(Arthur Link)が指摘しているように、「全体としては、大統領と世界の道徳的リーダーシップを主張した人々にとっては、不幸な時でした」(Link 1956, 405)。

1919年までに、ウィルソン大統領のそれまでの自制に対する憤りと、メキシコ人民にすべての土壌資源を所有させる1917年のメキシコ憲法に対する新たな恐怖により、米国では介入支持者の連合体が発展しました。このメキシコ憲法は、メキシコにおける鉱山と油田の外国人所有者を潜在的に危険にさらすものでした。介入支持派は、メキシコをアメリカの保護領に変えたい、あるいは少なくともメキシコの油田を占有することを望んでいました。この連合は、ウィルソンがヨーロッパでの平和交渉に気をそらされ、その後に脳梗塞で寝たきりになった間に国を介入へと動かしました。介入への道は、ウィルソンが政策議題の指揮を取り戻し、介入主義者との結びつきを断ち切るまで十分に回復した後にようやく阻止されました。ウィルソンは、より好戦的な政策の道を避ける2つの主な理由がありました。第1に、ウィルソンは議会両院が(行政部門の一部の支持を得て)米国の外交政策を決定しようとしていると見ており、彼はこれを憲法違反と考えていました。アメリカの制度では、大統領は外交政策を行う権限を持っています。したがって、メキシコに関する外交政策に対する彼の権限の主張は、政策立案において議会の権力をチェックしようとする明確な試みでした。第2に、ウィルソンは、反帝国主義の規範とともに、自己決定の規範 — 国が独自に国家の地位を決定し、自らの政府形態を選択するプロセス — に一致した政策を維持することを決意していました。これらの規範は、今日もリベラルの理論の基盤として残っています。

この場合における米国のメキシコとの関係は、制度的かつ規範的な国内構造がいかにして暴力の使用を抑制したかを示しています。これらの制度的制約は、社会の政治文化がリベラリズム的規範をしっかりと取り込んでいなければ、崩壊する可能性があります。例えば、反国家主義(政府の権力が限定されるべきであるという信念)と反帝国主義(外国の人による征服が間違っているという信念)は、リベラルの規範です。リベラルの規範が注入された社会は、国家の力に対する純粋に制度的な制限を超えた、さらなるレベルの自制を有しています。リベラルな市民は、個人の自由を脅かす政府の行動に自然に反対し、リベラルな選好に基づいて行動する代表者を選ぶでしょう。ウィルソンは、米国における制度的な権力の分離により、議会などの介入主義的な努力を阻止することができました。反帝国主義というリベラルな規範は、世論と米国大統領の個人的価値観というメカニズムを通してアメリカの拡大を抑制しました。制度と規範は共生して働きました。1900年代初頭にラテンアメリカ諸国との貿易機会が増えたため、国際的な意見も、米国の政治指導者たちにさらなる圧力をかけました。リベラルな理論が詳述したのとまったく同じように、絶対的な利益と貿易によってもたらされる機会は、自己決定と非干渉への選好とともに、世界史上最も帝国主義が盛んであった時期に米国のメキシコへの拡大主義に対する自制として作用しました。

結論

リベラリズムの中心的な主張は、説明責任を持たない暴力的な力の集中は、個人の自由に対する基本的な脅威であり、制限されなければならないということです。権力を抑制する主な手段は、国内レベルと国際レベルの両方における制度と規範です。国際レベルでは、協調を促進し、国際協定に違反する国家にコストを課す手段を提供することによって、制度や組織が国家の力を制限します。経済的な機関は、経済的相互依存から得られる大きな利益のために、協力を促進するのに特に効果的です。最後に、リベラルな規範は、どのようなタイプの行動が適切であるかについての私たちの理解を形成することによって、力の使用にさらなる制限を加えます。今日では、リベラリズムは、かつてそのようなものであると非難された平和と幸福の夢の世界を描写する「ユートピア的」理論ではないことは明らかです。リベラリズムは、証拠と深い理論的伝統にしっかりと根ざした、リアリズムへの一貫した返答を提供します。

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