国際関係論の理論 -第9章 ポスト植民地主義-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
17 min readJun 24, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第9章 ポスト植民地主義
シェイラ・ネア(SHEILA NAIR)

ポスト植民地主義は、世界のかつて植民地化されていた地域の社会、政府、および人々がどのように国際関係を経験しているかを検証します。ポスト植民地主義の学者による「ポスト」の使用は、決して植民地支配の影響や効果がもはやなくなったことを示唆するものではありません。むしろそれは、植民地と帝国の歴史がいまだに持つ影響が、世界についての植民地的な思考方法を形作り、いかにして西洋の知識と力が非西洋の世界を疎外しているのかを強調しています。ポスト植民地主義は、世界をそのままのありようで理解するだけでなく、世界はどのようにあるべきかを理解することにも関心があります。それは、グローバルな権力と富の蓄積における不均衡や、なぜ一部の国家や集団が他の国家や集団に対して大きな力を行使するのかに関係しています。このような問題を提起することによって、ポスト植民地主義は、IRの他の理論にさまざまな質問を投げかけ、代替的な歴史の読み方を提供するだけでなく、現代の出来事や問題に関する代替的な視点を可能にします。

ポスト植民地主義の基礎

ポスト植民地主義は、階層的なIRを再現するグローバルな力の働きにおける、帝国、人種/民族、ジェンダー、そして階級(とその他の要因)の重要な交差点をIR理論が無視していることに特に注意を向けています。この階層は、人々と国家のより均等な権力分配を求める努力ではなく、権力の集中を中心としています。

ポスト植民地主義の主なテーマは、非西洋に対する西洋の認識は、欧州の植民地化と帝国主義の遺産の結果であるということです。種々の言説 — 主として書かれたり話されたりするもの — は、非西洋の国家や人々のことを「他者」、あるいは西洋とは異なるものとして、通常はそれらが劣っていると見せかけるような方法で構成しました。そうすることによりそれらは、ヨーロッパ諸国が、文明や進歩をもたらすという名目のもとに、他の人々に対する支配を正当化するのを助けました。

ポスト植民地主義をよりよく理解するために、私たちは、ある種の権力関係を自然に、さらには不可避に見せかける言説を考えることができます。ポスト植民地主義は、国際関係論の中における重要な問題を、権力の言説を構成するものとして見据えています。言説のこの概念は、研究者が、リアリズムやリベラリズムのような伝統的なIR理論を推進する経験的に検証可能で「事実」に基づく調査の中にだけ存在するのではない、世界とその問題を考えるための参照枠組みを利用することを可能にします。例えば、グローバルな不平等の問題を取り上げてみましょう。ポスト植民地主義は、グローバルな階級関係がどのように現れ、維持されているかをよりよく理解するためには、なぜこれらの関係が正常に見えるかについての考え方を述べなければならないと示唆します。このアプローチは、グローバルな貧困の特徴づけには、しばしば非西洋の政府や社会を、原始的で、超男性的で、攻撃的で、子どもじみた、柔弱なものとするイメージや物語が伴うようなやり方が見られることを指摘します。要するに、ポスト植民地主義は、貧困とグローバルな不平等に対処し解決策を見つけることは、西洋の政策立案者たちが偏見を捨て去り、資本と資源がどのように蓄積され、世界を流れて不平等を生み出すかといった根本的なグローバルな構造的要因に対処することを困難にするような、他者の表現に直面しています。この理由から、解決策は、グローバルな不平等の根本的な原因に対処するのではなく、むしろ、あまり開発されていないような国家を支援するために介入することに集中することが多いです。

権力、国家、安全保障などの重要な概念が現状維持を再生産するためにどのように役立つかを分析する際に、ポスト植民地主義は、そのような概念について伝統的な理論に特徴的なものよりも、より複雑な見方を提案します。例えば、主権の概念とそれに伴う近代国家の輪郭は、ヨーロッパの強国によって植民地の世界に課せられました。それは、通常、リアリズムとリベラリズムの学者によって当然に受け入れられている概念です。ポスト植民地主義は、階級闘争が歴史的な変化の根幹にあるというマルクス主義の視点にも挑戦し、代わりにいかにして人種が歴史を形作っているかを示します。階級にのみ焦点を当てた分析では、「第三世界」(冷戦時にアメリカやソ連と同盟を組まない国家を記述するために開発された用語)を「後進的」、「原始的」、「非理性的」と同一化することが、どのようにして永続的な経済的疎外化と結びついているかを考察することができません。同様に、主流のIR理論は国際システムをアナーキーと見なしていますが、ポスト植民地主義の学者たちはそれを階層的とみなしています。植民地主義と帝国主義は、西洋による世界の他の地域の支配が続く長いプロセスを促進し、文化的、経済的、政治的支配は依然としてグローバル政治を特徴付けています。

ポスト植民地主義はまた、イスラムとその支持者についての西洋の見方が、西洋自身の不安定さの現れであることを示しています。1979年のイランのイスラム革命によって特徴づけられる、イスラム世界全体にわたる政治的イスラムの台頭は、新帝国主義的介入に直面したばかりでなく、より相互に結びついたグローバル経済に伴う主要な文化的および社会的変化の影響を明らかにしました。しかしながら西洋では、この復興の見解は、著名な政策立案者や学者によって「文明の衝突」(Huntington 1993)の到来を告げるものと解釈されており、より悪いことには、西洋文明への直接の脅威となっていると解釈されています。エドワード・サイード(Edward Said)は、西洋のメディア、映画、学術界、および政策エリートが、アラブ人とイスラム教の支持者の歴史と文化を記述するために使用される歪んだレンズや枠組みに頼っている様子を示しました(Said 1997)。彼はそれのことを、オリエンタリズムと呼びました。なぜならそれは、いわゆる「オリエント」という特定の考え方を構築するためです。このオリエントとは、西洋とは異なるものであり、また、二値的または二元的な考え方の中で、オリエントとその住民の特性は西洋と本質的に反対のものであるとみなされています。例えば、オリエントの人々は、エキゾチック、感情的、女性的、後進的、快楽主義的、非理性的などであると特徴付けられることがあります。これは、合理性、男性性、文明、近代など、西洋に通常関連付けられるようなより肯定的な属性とは対照をなします。

多くのポスト植民地主義の学者は、今日の西洋の表現の中でオリエンタリストの言説が今なお目につくことを強調しています。表現と知覚は、植民地主義者にとって重要です。なぜならそれは、何が正常であるとみなされるか、あるいは意味があるとみなされるようになるかを決定するからです。

ポスト植民地主義は、オリエンタリズムを発展させる彼の研究のために、エドワード・サイドに負うところが大きいです。しかし、サイード自身は、フランツ・ファノン(Frantz Fanon)やアルバート・メンミ(Albert Memmi)などの反植民地主義者や民族主義思想家の著書の影響を受けており、彼らの著作は、「他者化」の力について議論しています(Fanon 1967, Memmi 1991)。例えばファノンは、植民地支配下の人々がいかにして「他者」を白人のヨーロッパ人よりも劣っていると見なした人種の違いの考え方を内在化 — すなわち、一体化 — し始めたかを捉えることによって、いかにして人種が、植民者が植民地化された者と関わる方法、あるいはその逆を形作るかを示しています。ファノンは、植民者の言語、文化、宗教、教育制度の強制などの植民地化の精神的側面を通じて、「黒人男性」が「白人植民者」に劣っていると信じこまされたことを説明しています。このような強制を通じて、植民地化された人々は、彼らが文化的に劣っている他者だと信じるようになります。この内面化により、植民者は自分たちのルールを正当化し維持することがより容易になりました。したがって、ポスト植民地主義は、いかにして二値的な人種 — すなわち人種が異なる、反対である、「他者」であると構成される方法 — が、正式な植民地支配の終結後も継続するかに焦点を当てています。それは、どのようにして人種に基づく他者化が、歴史だけでなく、国家安全保障、核をめぐる政治、ナショナリズム、文化、移民、国際援助、先住民族の権利のための闘争などの現代的な議論を枠づけるかを強調します。

人種に基づく他者化の例は、核不拡散に関する言説に見られます。このような言説では、グローバル・サウスの国々とその指導者たちは、通常、核兵器を持つほどには信頼できないとみなされています。これらの支配的な言説は、これらの国家を危険で、予測不可能で、無責任なものであり、人権に関する基本規範に違反するものとして構築します。これは、核拡散を追求してきた2つの国家である北朝鮮とイランが、米国の外交政策の言説においてならず者国家として描かれている様子を見るだけで十分です。しかし、何十年にもわたって、ウラン採掘では西洋の人権無視が見られています。このウラン採掘は、アメリカを含む世界中においてしばしば先住民の住んでいる土地で行われ、死亡、病気、環境悪化を引き起こしています。最も重要なこととして、核の論争にしばしば欠けていることは、アメリカが(試験以外で)核兵器を使用したことのある唯一の強国であることです。アメリカは、1945年に日本の長崎と広島の都市に原子爆弾を投下し、恐ろしい壊滅的な人命の損失を引き起こしました。

したがって、シャンパ・ビスワス(Shampa Biswas)のようなポスト植民地主義の学者にとっては、いくつかの国家は核兵器を持つにあたって信頼される一方、他の国家は低開発であり、人間の生命へのアプローチが成熟しておらず、合理的でないため信頼できないというのは、人種差別に基づく言説です(Biswas 2014)。このような議論では、ポスト植民地主義は、そのような武器を持つにあたり誰が信頼できるのかではなく、むしろ、誰が信頼できるかを判断するのは誰なのか、そしてなぜ?、と尋ねます。核兵器を獲得しようとする国家間の競争を単純に見るだけでは、国際関係における力の働き — 例えば、一部の国家が他の国家のことをそのような武器を持つ能力が全くないとみなされるように構築する力によって核兵器競争が支えられているやり方 — について十分なことはわかりません。

ポスト植民地主義と有色人種の女性の疎外化

IRのすべての理論と同様に、ポスト植民地主義の学者たちや、この場合にはフェミニズム、特に1990年代に顕著になった「第3の波」のフェミニズムとの大きな重複の中で、内部的な議論があります。ベル・フックス(bell hooks)は、20世紀中盤から後半にかけてのフェミニズムのいわゆる「第2の波」が、特権的地位の女性の中から浮上し、社会、政治、経済の周縁にとどまっている彼女自身のようなアフリカ系アメリカ人女性を代表していないことを観察しました(hooks 2000)。彼女は、代替的で、批判的で、独自のフェミニスト活動と政治を求めました。

例えば、シカゴ南部の貧しい地域の黒人女性は、裕福な郊外の白人女性と同じような性差別を経験するでしょうか?同じ民族的アイデンティティーを共有する女性は、その階級が違えば性差別を異なった方法で経験する可能性があります。同じ社会階級にいる有色人種の女性と白人女性とについても同じことが言えるかもしれません。米国の有色人種の女性と白人女性は、同じ社会階級から来ていたとしても、「異性愛・家父長制」 — 白人男性の異性愛者が支配的な社会的秩序 — を異なる形で経験します。これがどのように機能するかの例示は、ビヨンセの「レモネード」の映像で見ることができるでしょう。そこでは、性差別がどのようにこの家父長制の秩序にしみわたっているかを描くだけでなく、人種、ジェンダー、階級、セクシュアリティーが黒人女性の歴史にどのように密接に絡み合っているかを探っています。

黒人女性の中には、階級と関連してより多くの特権を与えられている者がいるかもしれないという事実は、彼女たちの人種差別の経験を奪うものではないでしょう。この理由(そして他の理由)のために、フェミニストのポスト植民地主義の学者(Chowdhry and Nair 2002参照)は、人種および/または民族、国籍、階級およびジェンダーの交差点にもっと注目するよう求めています。そうすることにより彼らは、人種、ジェンダー、階級、セクシュアリティーなどのある人のアイデンティティーのさまざまな側面が交差して、複数の異なる形の抑圧を作り出す方法に取り組んでおり、抑圧を理解する上である1つの側面が他の側面よりも特権が与えられないようにしています。その代わり、様々なアイデンティティーはすべて、抑圧の経験を生み出すために交差するものとして理解されなければなりません。この「交差性」の考え方は、第3の波のフェミニストのアプローチの中心的要素です。

ポスト植民地主義のフェミニストたちは、家父長制、ジェンダー不平等、性的搾取の影響を単純に分析することを超えるという望みを共有しています。代わりに、彼らは、家父長制(女性を超える男性の力として広く理解される)だけでなく、有色人種の女性よりも白人女性に特権を与える階級主義や人種差別主義と戦う必要性を強調します。彼らは、女性運動における普遍的な連帯という考え方に疑問を呈し、家父長制に対する闘争だけでなく、社会的不平等も、人種的、民族的、性的特権に関連して位置づけられなければならないと主張しています。例えば、西洋フェミニズムはしばしばヴェールのことを女性の抑圧の象徴として描いていますが、多くのアルジェリア人女性は、フランスの支配に抗議するとき、男性と並んで立つ場合にはヴェールを身に着けました。彼女たちにとって、それは白人による、植民地主義的な家父長制に対する反対の象徴でした。植民地化された世界の他の多くの地域では、女性たちは植民地支配を打ち倒すための民族主義的運動の中で、男性と肩を並べて立ち上がり、異なる文化的、社会的、政治的状況の女性は抑圧を非常に異なる方法で経験していることを示しました。ポスト植民地主義のフェミニストたちは、戦争、紛争、テロ、貧困、社会的不平等などで明らかになった体系的暴力がいかにして、またなぜ根づいたのかについてのより深い含意をあらわにする交差的アプローチに取り組んでいます。したがって、力を理解するには、これらの交差点と、どのようにしてそれらが目下の問題に埋め込まれているかに注意を払う必要があります。

ポスト植民地主義のフェミニズムは、(1)人種/民族性、(2)階級、(3)ジェンダーのために、有色人種の女性が三重に抑圧されていると主張します。1つの例は、グローバル・サウスの多くの女性が服飾、半導体、スポーツ用品、消費財を西洋へ輸出するために生産する工場で働いている雇用状況に見られます。カデル・トイファクトリーというタイのある工場では、1993年の火災で220人の女性工場労働者が死亡し、500人以上が重傷を負いました。建物の扉は火災の時に施錠されていました。この悲劇は、西洋市場で売るおもちゃやぬいぐるみを作るために米国企業の地元請負業者によって雇われたこれらの女性たちの搾取と嘆かわしい労働条件を明らかにしました。何十年にもわたるこれらの虐待にもかかわらず、主流の西洋メディアは、これらの工場の状況や、火災の悲劇にはほとんど注意を払いませんでした。ある意見記事は、これらの女性の生命に対する衝撃的な無関心を捉えて、

これらの役員たちは、彼らの利益が極東の若く、惨めな状況にある人たちの労苦から来ていることを知っている。彼らはそれでうまくやっており、実際には非常にうまくやっている。しかし彼らは、工場の裏庭に大量のごみと一緒に積み上げられた女性や少女たちの死体のことや、彼女たちの死体が最終的に他の産業廃棄物と同様に運ばれていくようなことを話したがらない(Herbert 1994)。

もう1つの悲劇として、バングラデシュのダッカにある衣服工場のラナ・プラザが崩壊し、大半が女性である1,135人の縫製労働者が死亡しました。それは、グローバルな衣服産業の活動に注目を集めました。人気のある西洋の服飾業界は、建築基準や規制が緩く、労働基準が存在しない(または不十分な)国で服を生産することによって、低賃金、搾取、および劣悪な労働条件から利益を得ています。服飾業界は、工場の労働条件や安全性を考慮しません。ポスト植民地主義の学者は、徹底的に搾取的な条件と、これらの労働者の安全への無視は、白い体に比べて褐色の体に帰属する価値が低いことを示していると主張します。

この産業事故は西洋のメディアではるかに大きく報道され、ラナ・プラザで衣服を製造していたブランドは瞬く間に悪評を受けましたが、多国籍企業の業務の間違いを正すような継続的な努力はほとんどありません。可能な限り高い利益率を追求することは、多国籍企業からの投資を誘致するために最も安価な労働コストと生産コストで競争する「底辺への競争」を開発途上国に強いています。

その結果は、低賃金、搾取、低い安全基準です。ポスト植民地主義の研究は、これらの労働者の窮状を隠すために人種、階級、ジェンダーがどのように一体にされているかを明らかにすることによって、これらの条件を変えるのに失敗したことを説明します。つまり、ラナ・プラザとカデルの経営者のような工場の監督者は、悲劇がおこるまで説明責任を持たないということです。彼らに責任があるときでさえ、労働者を搾取し、最終的にはこれらのケースでその労働者の一部を死亡させるような仕事を外部委託した、鎖の上にいる西洋企業には罰が及びません。西洋のある国で同様の規模の悲劇が起きた時、責任を負う者に対してほとんど行動が起こされず、事故を生じさせた条件が事実上何らチェックを受けずに継続するなどということは、ほとんど想像できません。

結論

ポスト植民地主義は、主要な国家主体が支配する世界秩序と、それらの傲慢な利益と世界を見る方法を問います。国家の行動や振る舞い、そして何が動機づけとなっているかについてを支配する概念に挑戦します。それは私たちに、階層的な国際秩序がどのように、なぜそれが発生したのかという厳しい疑問を尋ねることを余儀なくさせ、さらに、主流のIRの権力やその運用方法などの概念に関する核となる前提条件にも挑戦しています。ポスト植民地主義は私たちに、危機の特定の瞬間に際して、最も厳しい表現で自分自身をあらわにするような日々の不公平と抑圧のことを考えさせます。核兵器の脅威を扱うにせよ、あるいは西洋市場のための物資を産出する工場での労働者の死を扱うにせよ、ポスト植民地主義は、これらの問題を力のない人々の視点から分析するよう求めています。ポスト植民地主義はこの点に関して他の批判的な理論と共通の立場を共有していますが、独特のアプローチも提供します。植民地主義と帝国主義の歴史、それらがどのようにして現在に伝わっているか、そして世界的規模での人種、階級、ジェンダー関係に埋め込まれている不平等や抑圧が私たちの国際関係の理解にどのように重要なのか、といった深い憂慮をポスト植民地主義は1つにまとめ上げます。世界のこれらの側面が特定の状況においてどのように展開するかに細心の注意を払うことにより、ポスト植民地主義は、この世界の複雑さを解きほぐすための異なる理論的ツールを私たちに提供するような、重要かつ代替の概念的レンズを私たちに与えてくれます。

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