芸術への入門 — 第5章 芸術における意味:社会-文化的な文脈、象徴性、図像学 —

Japanese translation of “Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”

Better Late Than Never
68 min readOct 26, 2018

ノース・ジョージア大学出版部のサイトで公開されている教科書“Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第5章 芸術における意味
社会-文化的な文脈、象徴性、図像学

パメラ・J・サチャント(Pamela J. Sachant)、リタ・テキッペ(Rita Tekippe)

5.1 学習成果

この章を終えたとき、あなたは次のことができるようになっているでしょう:

•歴史的、社会的、個人的、政治的、科学的な文脈の中に芸術作品を置く。
•象徴性と図像学を定義し、区別する。
•時間の経過や異なる文化の中における象徴や図像的なモチーフの変化を特定する。
•図像学と視覚的なリテラシーを関連付ける。
•象徴性、図像学、口承文学の間のつながりを記述する。
•芸術における比喩的な意味を認識する。

5.2 はじめに

私たちが芸術作品を見て、私たちがその内容を認識することができるかどうか、そしてそれを理解できるかどうかを判断する際に経る過程は、単なる視覚的なものではありません。それは精神的なプロセスでもあり、それは主として私たちが識別して分類することができる作品内あるいはそれについての要素に基づいています。私たちが作品を見て考えると、その作品がどこにあるのか、どこで作られたのか、どのような文化から来たのか、誰がそれを作ったのか、なぜそれが作られたのかといったことから、その作品の意味について手がかりを得ることができます。私たちが集めることができるあらゆる情報が、作品の文脈、つまりどのような歴史的、社会的、個人的、政治的、科学的な理由からその芸術作品が作られたのかを理解するのに役立ちます。そして、私たちが収集したすべての文脈的な情報を使用して、私たちは芸術作品の内容を解釈し、それがなにを意味し象徴するかを発見します。

5.3 社会-文化的文脈

5.3.1 歴史的文脈

私たちは、17世紀のオランダの2つの絵画の内容を解釈し意味を理解するのに役立つ歴史的文脈について知ることができます。ウィレム・クラース・ヘダ(Willem Claesz. Heda、1594–1680年、オランダ)は、1635年に「鍍金した杯のある静物画(Still Life with a Gilt Cup)」を制作し、そしてヤン・ダヴィス・デ・ヘームは1660年頃に「花のある静物画(Still Life with Flowers)」を描きました。(図5.1と図5.2)ヘダは彼の生涯の間、故郷のハールレムに住んでいました。デ・ヘームはユトレヒトで生まれましたが、オランダを旅し、その後、彼の経歴の大半(1635年から1667年頃)はアントワープで暮らしました。彼は短期間の間ユトレヒトに戻りましたが、1670年代にアントワープに戻り、死ぬまでそこに残りました。

図5.1 | 鍍金した杯のある静物画(Still Life with Gilt Goblet), Artist: ウィレム・クラース・ヘダ(Willem Claeszoon Heda), Author: Web Gallery of Art, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.2 | 花の活けられた花瓶(Vase of Flowers), Artist: ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム(Jan Davidszoon de Heem), Author: User “DcoetzeeBot”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

これらの絵画は、異なるタイプのものを描いていますが、どちらも静物画、つまり人間が作ったものと、花、果物、昆虫、海の生き物、狩りで得た動物などの自然の中で見つかったものの配列です。静物画は、風俗的な題材や日常のシーンとして知られる主題のカテゴリーに分類されます。ヘダとデ・ヘームのどちらも、美しく整えられ、驚くほど生き生きとした静物画を描くことに特化していました。2人とも、さまざまな質感と表面を描く能力でよく知られており、ここで見ることができるようにしばしば並んで表示されて、驚くほど魅力的で豪華な視覚的配列を作り上げています。

オランダ黄金時代として知られる1600年代のオランダで起きていた多くのことが、ヘダとデ・ヘームがいくつかの対象を絵画の中に含めた理由を説明する助けになります。今日のオランダ(あるいはネーデルラント)とベルギーは、まず最初に1433年からブルゴーニュ公(ブルゴーニュ公国)によって統治され、次に1506年にハプスブルク家のカール5世(Charles V)によって統治されました。しかしながら、カール5世は1515年にスペイン王になるためにネーデルラントを出発しました。統治のためにそこに残っていた家族によって作られた緊張は、オランダとの摩擦につながり、最終的には1566年に始まった反乱につながりました。同時に、1517年にマルティン・ルター(Martin Luther)によりドイツのヴィッテンベルクで始められたプロテスタント改革が、ネーデルラントの一部を含む北ヨーロッパの大半へと広がっていました。新しいプロテスタント信仰の信者たちは、カトリックのスペイン統治者たちによって最初は容認されていましたが、すぐに異端者として扱われ、彼らの信仰は鎮圧されるべき反乱とみなされました。オランダの貴族であるウィレム1世 (オラニエ公)(William I, Prince of Orange)は、ハプスブルクの支配者としての王宮の地位に背き、彼の国をスペインからの独立を目指すオランダ独立戦争へと導きました。これは、より一般的には八十年戦争(1568–1648年)として知られています。1581年、ネーデルラントの7つの北部州は独立を宣言し、今日もオランダとして知られている国を形成しました。カトリックのスペインの統治の下に残った南部地域はフランドルとして知られており、これは現代のベルギーです。オランダとスペインの間の戦闘は断続的に1618年まで続き、その後両者とも三十年戦争(1618–1648年)として知られるより大きなヨーロッパ戦争へと巻き込まれました。1648年のヴェストファーレン講和条約の締結を受け、スペイン王は正式にオランダ共和国を認めました。

この政治と宗教をめぐる引き続く騒動、戦争によって引き起こされた数々の混乱と破壊の中で、ネーデルラントはまた、途方もない経済成長、革命的な科学の探究、世界貿易の支配、芸術の繁栄の時代を経験しました。商人階級(今日の中流階級に相当)の勃興は、社会の新たな部分の間で教育と富の普及につながりました。そして、彼らの芸術に対する知識と理解が、彼らが自分の判断で使える収入を伴って、芸術への後援を増やしました。しかしながら、プロテスタントたちは祈りの場所を装飾しないため、芸術の後援者たちは彫像や絵画を教会のために購入しようとは考えていませんでした。彼らは聖書にあるように神の言葉を飾り立てることはありません。これは、家に飾ることを目的とした作品の中で、風俗画や静物画、風景、街の景色、肖像画、宗教的なテーマなど、絵画の新しい主題への関心へとつながりました。

ヘダの絵画「鍍金した杯のある静物画」の主題は、表面上は牡蠣とパンによる食事の残り物ですが、より一層重要なのは食べ物に付随するすべてのものについてです。(図5.1)錫の皿と蓋のあいた白目の水差しは、比較的単純に作られており、地元の職人によって作られたのかもしれません。しかし、牡蠣の乗った錫のボウルの後ろにあるオイルや酢のための螺旋状のうねのある透明なガラス瓶、緑色のガラスでできて、プラント(溶融されたガラスをくっつけた粒で、ここでは点で描かれています)のついたワイン杯(またはゴブレット)、そして背の高い、重厚に装飾され、金めっきされた、戦士像の取り付けられた蓋に覆われた杯などを含む残りの物品はすべて高級品です。それらは富とよい趣味を示しており、世界中から美しいものを輸入する貿易商人の国としてのオランダの重要性を暗示しています。

しかし、私たちはこれを目の保養として見て、単に私たちの成功と繁栄を自身で祝福するよう運命づけられているわけではありません。事実は饗宴が終わったということであり、そして私たちがここで見るものは、あまりにも早く過ぎ去ったものの遺物です。豊かに装飾された銀のベルクマイヤー、つまり細い首を持つ口の広い飲用の器がひっくり返っています。牡蠣は新鮮さと魅力を短期間しか保つことができない珍味であり、レモンは美しいものの、実際には苦味があり、すぐに乾燥してしまうでしょう。これらは、人生がはかないことを思い出させるものです。地上でどんなに物質的な豊かさと快適さを蓄積したとしても、永遠の生のためには自分の魂を準備することのほうが重要です。

同様の方法で、デ・ヘームは「花のある静物画」で、私たちの前に生命と豊かな無秩序に満ち溢れた、自然の美しさと恵みを提示しています。(図5.2)しかし、彼はまた、1年の様々な時期に咲いたり熟したりする花や果物、野菜を描くことにより季節の素早い移り変わりを示しています。チューリップ — オスマン帝国(現代のトルコ)からオランダ人によって輸入された、非常に珍重された高価な球根 — や、スイカズラ、バラ、カーネーション、エンドウ豆、ブドウ、そしてトウモロコシ — アメリカ大陸からヨーロッパへ持ち込まれた — は、あふれるほどの色彩と形態があり、デ・ヘームはこれらすべてが同時に旬の時期を迎えたように非現実的な様で描いています。その代わりに鑑賞者は、オレンジ色のカーネーションが秋に花開くずっと前に、血赤色の縞模様のチューリップが春に萎れてしまったことを知っているでしょう。デ・ヘームは、このヴァニタス(ラテン語:空虚さ、むなしさ)の静物画の中で、私たち自身の致死性と確実な死に直面した生の無常さを私たちに思い起こさせています。

両方の絵画のメッセージは、当時のオランダで実践されたプロテスタント信仰における、仲裁者を必要としない信者と神との直接のつながりの重要性を反映しています。信者たちにとって、神の言葉が彼らのために解釈される必要はなく、神のメッセージはどこにでも存在します。どちらの絵画も豊かさと人生の幸福を祝うものですが、それらはまた、そのはかなさと永遠に直面した際における俗世での所有物や人間の達成の非重要性を思い出させるものでもあります。そのため、これらの作品はオランダの鑑賞者の中にある自らの誇りと、きわめて大きな障害に直面した彼らの若い国が挙げた成果を示す一方で、注意を喚起し警戒を促してもいます。

5.3.2 社会的文脈

リリー・マーティン・スペンサー(Lilly Martin Spencer、1822–1902、米国)は、1851–1852年頃に「風俗画(Conversation Piece)」を描きました。(図5.3)この風俗画では、幼児を膝の上で抱いている母親と、横に立ってさくらんぼを欲しがる赤ん坊の握りこぶしの上にふざけるようにぶら下げている父親の日常の様子が描かれています。それは、家族の生活の静かな光景、満足感と平和の瞬間であり、食事の後のまだ片付けられていない食卓は、さらなる親密さと形式ばらない感覚とを加えています。スペンサーは当時のアメリカで唯一の著名な女性画家であり、彼女の作品の大半はこの作品のような物語的な風俗画です。それらは家庭生活の場面であり、しばしば設定、人物の配置としぐさ、そして彼らの表情を通して語られる物語をほのめかしています。

図5.3 | 風俗画(Conversation Piece), Artist: リリー・マーティン・スペンサー(Lilly Martin Spencer), Source: Met Museum, License: OASC

スペンサーの作品の要素は、しばしば彼女の個人的な生活を反映しているようです。この芸術家は、「風俗画」の中で彼女自身と夫を描き、また彼女の絵画の多くでもそうしました。彼女が成功した職業画家であったことだけが珍しかったわけではなく、彼女がベンジャミン・ラッシュ・スペンサー(Benjamin Rush Spencer)と結婚したとき、彼が家事を行い、妻が自身のキャリアを追及するのを助けたこともまた、普通ではありませんでした。彼らの長い(そして幸せと思われる)結婚生活の間、13人の子供を出産し、7人を大人に育て上げながら、スペンサーは家族の稼ぎ手であり続けました。

19世紀半ばまでに、アメリカの産業と商業には多くの変化がもたらされ、それは女性、男性、そして子供が家庭の中や労働力として果たす役割に大きな影響を及ぼしました。たとえば、繊維産業における新しい機械や生産方法の出現により工場労働者の必要性が生じ、それがさらに都市の中心部の成長と広がりを促進しました。同時に、工場を所有し管理していた者も、その工場で働いていた者と同様に賃金ベースの経済の一部となり、それに応じて彼らを支える財やサービスの需要が上昇しました。ニューイングランドでは、工場労働者の大半は農村部から募集された若い女性でした。彼女たちが得た賃金は、結婚をみこして、あるいは家族の所得を補うために貯蓄されました。しかし批判者たちは、これらの若い女性が得た経済的および社会的自立によって、彼女たちが後にした、しばしば孤立した厳しい農村生活に背を向け、帰らないことを選ぶのではないかと懸念していました。しかしながら、最大の不安は、これらの女性が家庭の私的な領域の中にある正当な立場から離れてしまうことでした。

また、アメリカ社会の産業化の進展は、家庭の内外での男性とその役割にも影響を与えました。男性は主として公共の領域、つまり、家の外の製造業、商業、交易などの分野で働いていました。彼らの役割は、女性が演ずる妻と母親という家庭内の義務や役割とはまったく対照的でした。このような義務と期待の分離は、女性と男性の両方が含まれる厳格なジェンダーの役割につながりました。その役割は女性を家庭の保護的な環境に閉じ込める一方、男性は外部の厳しい要求に直面しながら彼女を守りました。

スペンサーの絵画では、この女性は、子育てをする満足した母親という女性的理想を表しています。しかし、(当時は非常に一般的だったように)父親を女性的で私的な領域から切り離されたように見せるのではなく、スペンサーはこの男性を、同じように世話をする暖かい役割を務めるように描写しています。母親の湾曲した頭と腕から、赤ちゃんの頭を支えている手が伸び、突き上げた赤ちゃんの腕を通じて父親の屈曲した腕と彼の下げた頭へ、そして彼の左腕が母親の椅子の背もたれに乗ることによって、1つの楕円が形成されています。男性と女性が別々の領域に存在していると信じていた当時の多くの人とは違って、スペンサーはこの家族を1つの円に描きました。

アメリカの産業主義はアメリカの創意工夫の能力と手を取り合って機能しました。1811年に開通したミシシッピ川とその支流の蒸気船航路は、ニューオーリンズからピッツバーグまでに至る集落と都市の成長に大きく貢献しました。ここを最初に通った蒸気船は、ロバート・フルトン(Robert Fulton)とロバート・リビングストン(Robert Livingston)が設計したニューオーリンズ号(New Orleans)であり、この2人は蒸気船の設計と航行の発展にとって重要な人物でした。次の世紀にミシシッピ川を行き交うことになる数千の蒸気船の場合と同様に、それは木製であり蒸気エンジンで駆動された外輪で推進していました。水蒸気はボイラーで水を加熱することにより作られていましたが、爆発点にまで圧力が到達するのを避けるために監視しなければなりませんでした。爆発は、非常に現実的かつ絶え間ない危険でした。しかしながら、接岸時の間の移動時間の短縮を試みたり、他の蒸気船と競合したりする際には、ボイラーの安全弁を閉じたままでエンジニアが火をかきたてることは珍しくなく、この場合には蒸気圧は安全な水準を超えました。

1816年から1848年にかけてボイラー爆発により230隻の船が破壊され、約1800人の命が奪われましたが、蒸気船旅行の1つの大きな魅力はそのスピードでした。[1]蒸気船競争の興奮と危険は、1866年にカリアー&アイヴス(Currier & Ives)によって出版された印刷物「ミシシッピ川の王者たち:バックホーンの競争(The Champions of the Mississippi: A Race for the Buckhorns)」に捉えられています。(図5.4)ナサニエル・カリアー(Nathaniel Currier、1813–1888年、米国)と義理の弟のジェームス・メリット・アイヴス(James Merritt Ives、1824–1895年、米国)は1857年にカリアー&アイヴス社を立ち上げました。彼らは、風景、風俗画、肖像画、政治と現在の出来事の描写、科学、産業、芸術における最新の革新などを含む、幅広いアメリカの大衆にアピールすることを目的とした数多くの主題について、白黒のものと、手で色付けされたリトグラフを出版しました。

[1] “Steamboats.” American Eras. 1997. Encyclopedia.com. (June 22, 2015). http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-2536600971.html

図5.4 | ミシシッピ川の王者たち:バックホーンの競争(The Champions of the Mississippi — ”A Race for the Buckhorns”), Artist: フランシズ・フローラ・ボンド・パーマー(Frances Flora Bond Palmer), Source: Met Museum, License: OASC

カリアー&アイヴスの会社は、その時代の有名な芸術家を雇って絵画を作成し、そこから彼らのリトグラフ印刷が作られました。「ミシシッピ川の王者たち」を描いた芸術家は、フランシズ・フローラ・ボンド・パーマー(Frances Flora Bond Palmer、1812–1876、米国)でした。パーマーは、リリー・マーティン・スペンサーと同様に、プロの芸術家として家族を支えていました。パーマーは、カリアー&アイヴスのために働いた17年間で、この会社が雇ったどの芸術家よりも多い数百というオリジナルの絵画を制作しました。彼女はまた、自分の作品の多くを印刷し、手で色付けしました。その作業は一般に、会社の中における訓練と専門知識の少ない芸術家の従事するリトグラフィー行程の一部です。たとえば、印刷は通常、1人の職人が1つの色を塗り、別の色のために次の職人に作品を渡す流れ作業で色が塗られました。パーマーが印刷物を作成するすべての段階に参加したことは、彼女の優れた技能と多才さを示すものでした。

パーマーが描いた光景の大半の場合でそうであったように、彼女は西洋の女王号(Queen of the West)とモーニングスター号(Morning Star)による蒸気船の競争や、岸壁の応援する群衆を見たわけではありません。しかしながら、このような競争は一般的であり、それらを記念した印刷物は人気があり、よく売れたので、彼女はこのような光景を数多く描きました。競争と蒸気船は、アメリカの独創性、競争力、成功に対する誇りと祝福の源でした。「ミシシッピ川の王者たち」のような印刷物を所有している人々の大部分は、この川や蒸気船の競争を一度も見たことがなく、そのような人たちにとってこの絵はアメリカ最大の水路と不屈の精神の開かれた可能性を示していました。この川沿いの町で育ち、川の水先人として4年間(1857–1861年)を過ごしたマーク・トウェイン(Mark Twain)が述べたように、この川の上での生活の魅力と興奮にはほとんど魔法のような性質があり、蒸気船競争が近づいてきたときには特にそうでした。彼の回顧録「ミシシッピの生活(Life on the Mississippi)」(1883年)の中で彼はこう語りました:

蒸気船競争の「最盛期」では、2つの有名な蒸気船団の間の競争が非常に重要な出来事であった。日付は数週間前に設定され、その時からミシシッピ川の流域全体が激烈な興奮状態になった。政治や天気は放り投げられ、人々は来るべきレースだけを話題にした。

選ばれた日付が来て、すべての準備が整うと、2つの巨大な蒸気船が川の流れに戻ってきて、そこでしばらくの間駆け引きが行われ、感覚を持った生き物のようにお互いのほんの少しの動きにも明らかに目を凝らす。旗が振り下ろされ、閉じ込められた蒸気が安全弁を通って鋭い叫び声を上げ、黒煙が煙突から噴き出して周囲に流れ、すべての空気を暗くする。人々、あらゆる場所に人々。岸壁、家の上、蒸気船、船などは彼らで詰め込まれ、そしてそこから1200マイル北までの広大なミシシッピ川の両岸は人間で縁取られ、これらの競争者を歓迎する。[2]

[2] Mark Twain, Life on the Mississippi (Boston: James R. Osgood & Co.), 1883. Accessed from: http://www.gutenberg.org/files/245/245-h/245-h.htm
[マーク・トウェインコレクション「ミシシッピの生活」吉田映子訳、彩流社、2014年]

5.3.3 個人的または創造的な物語の文脈

チャールズ・デムス(Charles Demuth、1883–1935、米国)は1928年に「金色の数字5(The Figure 5 in Gold)」を描きました。(図5.5)デムスは、ペンシルベニア美術アカデミーで学んでいた時に、フィラデルフィアで住んでいた下宿で詩人・医師のウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams)と出会いました。デムスの絵画は、友人たちの一連の肖像画の1つであり、ウィリアムズと1916年の詩「偉大な数字(The Great Figure)」に敬意を表したものです。

図5.5 | 私は金色の数字5を見た(I Saw the Figure 5 in Gold), Artist: チャールズ・デムス(Charles Demuth), Source: Met Museum, License: OASC

雨と
光の中
私は数字の5を見た
金色で
赤い
消防車の上
緊迫して
走り
鳴り響く鐘
サイレンのうなりも
気に留めず
車輪が轟音をたて
暗い街を通り抜ける。

ウィリアムズは、彼の詩のインスピレーションを、消防車との出会いとして説明しました。それは、ニューヨークの街を騒がしく駆け抜け、彼を内的な思考から、突如として彼の周りで起こっていたことに対する不快な覚醒へと揺り起こしました。デムスは、ウィリアムズの肖像画を似姿としてではなく、彼の友人、詩人に関連させて描くことにしました。絵の中心から放射状に伸びる暗く陰影を施した対角線は、明るい白い円で区切られ、鳴り響く鐘を伴いながら突進していく車両の揺れを捉えています。数字の5の加速する拍子は、驚いたときのウィリアムズの心臓の鼓動に反響し​​ています。ウィリアムズがこの光景で最初に気づいたのは金色の数字の視覚であり、デムスは彼の友人を象徴的に描写するために、血のような鮮やかな赤色のほとばしりで囲まれた脈打つ5を使いました。その上には、彼の名前である Bill があたかも赤いネオンで輝いているように置かれています。

デムスにとって、そのような彼の友人と彼の詩との関係は、ウィリアムズが何者かについて、彼の肉体的外観よりもはるかに多くのことを私たちに語ってくれるものでした。伝統的な肖像画はウィリアムズがどのように見えるかを私たちに示してくれますが、デムスは、私たちがこの詩人の内面的なより深い理解を得られるように、この芸術家によって彼の友人と密接に重ね合わせられたこの詩の経験を鑑賞者と共有したいと望みました。デムスは、彼が「偉大な数字」の助けを借りて私たちに語るストーリー、つまり物語を通して、ウィリアムズの個人的な解釈を私たちに与えました。

ジョージア・オキーフは、1931年の彼女の絵画「牛の頭蓋骨:赤、白、青(Cow’s Skull: Red, White, and Blue)」で、アメリカの風景の肖像を同様な方法で私たちに与えています。(牛の頭蓋骨:赤、白、青(Cow’s Skull: Red, White, and Blue), ジョージア・オキーフ(Georgia O’Keeffe): http://www.metmuseum.org/collection/the-collection-online/search/488694)19世紀を通じて、そして20世紀の最初の数十年間は、大半の芸術家は山と森林、農地と大草原、川や滝を通してアメリカの土地を描写しました:広大な広がり、計り知れない高さ、豊かさ、多様性、まるで果てのないように見える大陸の威厳。しかしながら、この絵画でオキーフは、アメリカの美しさを、肥沃な草原や岩だらけの山頂ではなく、彼女が評価するようになったアメリカ南西部の砂漠の厳粛さと簡潔さを通して表現することを選びました。それは、愛国的な赤と青に対して設けられた、漂白された牛の頭蓋骨の鋭い線によって象徴されています。

オキーフはウィスコンシン州サンプレイリーの近くで1887年に生まれました。イリノイ州シカゴ、テキサス州アマリロ、サウスカロライナ州コロンビアなど、米国のいくつかの地域で芸術を学び、美術教師として働いた後、オキーフは1918年にニューヨークに居を移しました。

写真家、出版者、アートギャラリーのオーナーであるアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz、1864–1946年、米国)は、20世紀の最初の数十年に、ヨーロッパとアメリカのモダニズム芸術を観客に紹介し、この国で人々がそれらを評価するようになる後押しをしました。1917年、彼はオキーフの素描を彼のギャラリー291に展示しました。翌年彼女は、フルタイムで絵を描くことに専念することができるようにする彼の支援の申し出を受け入れました。街の通りや建物をニューヨーク州北部のジョージ湖畔にあるスティーグリッツの家で描きながらニューヨークで10年以上を過ごした後、オキーフは1929年の夏をニューメキシコ州のサンタフェとタオスで友人達と過ごすことにしました。

その旅行の後に描かれた「牛の頭蓋骨:赤、白、青」では、この芸術家が、伝統的で人気のある風景とは対照的なもの提供していることを示しています。彼女は、自然がどれほど手ごわく魅力的でないものであるかを深く考え、南西部の厳しい気候と地形の中を移動して定住した開拓者たちの非常に堅固な力強さを思い出すよう、鑑賞者を促しています。そのような生活の厳しさは、裂けた頭蓋の骨のぎざぎざの線で見ることができ、これは、デ・ヘームの「花の活けられた花瓶」のような17世紀のオランダのヴァニタスの作品と同様に、避けられない死を思い起こさせるものです。しかし、この頭蓋骨はまた、オキーフの人生を表す物体でもありました。

私にとって、それらは私が知っているすべてのものと同じくらい美しいものです。私にとって、奇妙なことにそれらは歩き回っている動物よりも生き生きとしています … たとえそれが広大で、空虚で、触れることができなくても、そしてその美しさがありながら何の思いやりも知らないものであったとしても、この骨は砂漠の中で必死に生きている何らかの物の中心へと鋭く切り込んでいくように見えます。[3]

[3] Georgia O’Keeffe, “About myself” in Georgia O’Keeffe: Exhibition of oils and pastels (New York: An American Place: 1939).

5.3.4 政治的文脈

銭選による「梨花図巻」の絵画の場合と同様に(図1.10)、李衎(Li Kan、1245–1320年、中国)による「竹石図(Bamboo and Rocks)」は、モンゴルが中国を支配した元朝時代に描かれました。(図5.6)両作品の間には類似点もありますが、重要な違いもあります。「梨花図巻」はモンゴル人が権力を握った直後の1280年に描かれ、「竹石図」は約40年後の1318年に描かれました。その間、モンゴル人の指導者たちは政府を大幅に変え、皇帝の権力にあった者や、画家を含む学者の役人たちを締め出しました。社会的、政治的階層の頂点にいた人々は、今や政府の地位から追い出され、不信と嫌悪をもって見られるようになりました。

図5.6 | 竹石図(Bamboo and Rocks), Artist: 李衎(Li Kan), Source: Met Museum, License: OASC

モンゴル人は中国の絵画を高く評価し、芸術家たちは権力者のための作品の制作を依頼(あるいは制作するよう指名)されましたが、多くは外国の指導者のために描くことは気乗りがしませんでした。李衎の絵は、モンゴルの支配下にある中国、その人々、そしてその伝統の反映として解釈されています。「竹石図」は、絹の上に墨と染料で塗られた一対の掛軸で、横に並んで吊り下げられることが意図されています。「梨花図巻」は、卓上で約12インチ(約30センチメートル)の部分ごとに展開され、次の部分を表示するためにふたたび転がし、最終的には見ている間にしまい込まれる巻物ですが、「竹石図」はこれとは異なり、壁に吊り下げられて見続けることができます。どちらも自然の美の単純さをとらえた水墨画です。しかし、描写された対象物はまた、古代中国の文化へとさかのぼるような象徴的な意味を持っています。竹は美徳、優雅さ、回復力を象徴し、岩石は強さと耐える力を象徴しています。李衎の絵画では、低く曲線のものと直立して角度のついたものという、その対照をなす形態がお互いのバランスをとっています。この芸術家は、元朝の間、モンゴル人の支配下で、中国の人々は竹のようであることを示しています。占領下という岩場のような困難で不確実な環境の中にありますが、曲げられはしても折れることはないでしょう。

フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Goya y Lucientes、1746–1828年、スペイン)は、1789年のカルロス4世王(King Charles IV)の治世の始まりから、フランスによるスペイン侵攻中の1808年にナポレオンがカルロスを王座から追放するまでの間、カルロス4世の宮廷画家でした。ゴヤはこの同じ年に、フランスの侵略者の襲撃に対抗するスペインの人々の勇気を視覚的に記録するために雇われました。しかしながら、ゴヤが見たものの影響は、彼が作った一連の作品の方向性と色調を、彼の同胞の市民のひるむことのない勇気から、戦争の道すじの中で行われた野蛮な残虐行為への絶望や、踏みにじられたすべての人々が耐える無慈悲な苦しみへと変えました。彼は1810年から1823年の間に、一連の82枚の銅版画集「戦争の惨禍(The Disasters of War)」を制作しました。「そして、手の施しようもない(Y no hai Remedio)」はこの作品集の19番目の版画です。それは戦争の絶望を映し出しています。(図5.7)そこには、逃げ場もなければ、正義もありません。民間人と兵士の両方が非人間化し、ここでは、銃撃隊の形をとっている終わりのない殺戮の中で麻痺しています。

図5.7 | 「戦争の惨禍」より第15図:そして、手の施しようもない(Plate 15 from “The Disasters of War” (Los Desastres de la Guerra): And there is nothing to be done (Y no hai remedio)), Artist: フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Goya y Lucientes), Source: Met Museum, License: OASC

この版画集は、ゴヤが死亡してから35年後の1863年になるまで出版されませんでした。それには次のような説があります。この芸術家が政治的な影響を恐れていたこと、場面があまりにも生々しいものであること、戦争後すぐの数十年の間に公開するには傷があまりに痛すぎること、などです。芸術家自身は何も説明しませんでした。「戦争の惨禍」集が印刷された時までには、半島戦争(1808–1814)として知られるようになったこの戦争に参加し、その後に支配したフランス政府とスペイン政府は、どちらも取って代わられていました。人間の自壊に対するゴヤの記録とそれへ対抗する叫びは、惨劇それ自体が起きているときには何の影響も与えませんでしたが、しかしそれらは今でも、これまでに行われた政治抗議の中で最も強力な画像として存在しています。

5.3.5 科学的文脈

芸術と科学は密接に関連しています。「技法(テクニック)」と「技術(テクノロジー)」という言葉は、どちらも古代ギリシャ語で芸術を意味するテクネー(tekhne)に由来しています。ギリシャ人にとっては、芸術と科学は両方とも、対象物や考え方の研究、分析、分類のことでした。数学と芸術の研究を通して、彼らは黄金比に到達しました。黄金比とは、1本の線分を2つの部分で分割するとき、長い部分を小さな部分で除したものと、全体の長さを長い部分で除したものが等しくなるものです。代数的に表現する場合、a / b = (a + b) / aと書くことができます。ギリシャ人が決定した黄金比の視覚的表現は、物体または人物の中の、またはそれらについての最も視覚的に心地よい割合をもたらします。(図5.8)

図5.8 | フィボナッチ螺旋:黄金比(Fibonacci Spiral: The Golden Ratio), Author: User “Dicklyon”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

レオナルド・ダ・ヴィンチは、物事がどのように機能するかに魅了されました。自然の機構、機械そして人体はすべて、最も本質的で真実に近いレベルで理解されるために、深く探究されるべき世界でした。彼は彼のキャリアを通じて人間の解剖学に興味を持っていましたが、彼は人生の最後の12年間に体系的に研究をして、彼の発見を文書化しました。彼は1507年から08年の冬に、ある老人に対して行った解剖についての一連のペンとインクの素描を始めました。1510年から11年の冬、彼は追加の解剖を完了しましたが、これはパヴィア大学の解剖学教授マーカントニオ・デッラ・トッレ(Marcantonio della Torre)と一緒に作業していた可能性があります。(図5.9)

図5.9 | 腕と肩の筋肉および足の骨の解剖学的研究(Anatomical studies of muscles of the arm and shoulder, bones of the foot), Artist: レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci), Author: User “Discovering da Vinci”, Source: Tumbler, License: Public Domain

レオナルドは240以上の図を解剖学の論文に含めることを意図していましたが、1512年にマーカントニオがペストで死亡するとともに、レオナルドが住んでいたミラノの都市の政治的混乱の後、彼の焦点は変わってしまい、彼が本を書き終えて出版することは決してありませんでした。彼が1519年に亡くなったとき、人間の解剖学に関する素描とノートは、約6500ページに及ぶ彼の他のノートとともに散逸し、400年にわたって実質的に世界から失われました。心臓の機能や胎児の成長などの領域に対するレオナルドの洞察は、すべて完全に正確であり、後の数世紀にわたり他の芸術家や科学者により苦労して再発見されなければなりませんでした。

天体についての詳細、顕微鏡下の標本、動いている動物など、長い間芸術家と科学者たちの興味をそそってきたものの、肉眼で観察することでは答えることができなかった質問は、最終的に19世紀に写真の発明によって解答が与えられました。ユニオンパシフィック鉄道の社長、元カリフォルニア州知事、そして競走馬主であったリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)は、1872年に、馬が襲歩で駆けているとき4本の脚すべてが地面を離れているかどうかを証明する挑戦を受け入れました。彼は、カメラマンのエドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge、1830–1904年、イングランド、米国に居住)を雇い、人間の目で捕らえるには速すぎる一連の動きの研究を行いました。マイブリッジは、馬と騎手を撮影するために走路に沿って等間隔にカメラを設置して実験しました。彼はすぐに、多くの人が考えていたように馬が脚を前後に伸ばし切った時ではなく、実際には馬の脚が体の下にあるときに、4つの蹄のすべてが空中にあることを証明することができました。(図5.10)

図5.10 | 運動している馬(The Horse in Motion), Artist: エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge), Author: Library of Congress Prints and Photographs, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

マイブリッジがスタンフォードのために撮った写真の最初のセットは失われましたが、この実業家(彼の妻のジェーンと一緒に、1885年にスタンフォード大学を創立することになる)は、この写真家が研究を続けるように奨励しました。1878年にマイブリッジは、襲歩で駆ける馬についての彼の発見をサイエンティフィック・アメリカン誌に発表しました。その後、マイブリッジは米国中で頻繁に講演をしました。彼は、研究を続けるようにペンシルバニア大学に招かれました。そこでは彼の研究は、技術、科学、芸術の分野に提供するであろう情報の価値のために評価されていました。彼は1884年から1887年までそこで写真撮影の実験を行い、翌年には彼の著書「動物の運動(Animal Locomotion)」を出版しました。そこには、男性、女性、子供、馬、ライオン、バイソン、ダチョウ、鶴、および猫を含む幅広い動き研究の781枚の写真版が含まれていました。

5.4 象徴性と図像学

象徴性とは、特定の寓意的または自然主義的なイメージ、または集団内で共通の意味を保持する抽象化された図形的な記号の使用を指します。象徴とは、ある集団によって何かを表していると理解されるイメージや記号です。しかしながら、象徴はその意味に直接結びついていなければならないわけではありません。たとえば、抽象的で図形的な記号であるアルファベットの文字は、それらを使用する人々によって個々の音と意味を持つものとして理解されます。文字自体には意味がないため、使用者が意味を割り当てています。自然主義的なイメージの一例は、ほとんどの西洋文明において愛を象徴するバラです。ある人がバラを他の人に贈るとき、それはその人が感じている愛の象徴です。

図像学は、ある芸術作品の主題と絵で表されたテーマの広範な研究と解釈です。これには、集団の共通の経験と歴史 — よく知られている神話や物語 — を伝えるために使用される暗黙の意味と象徴性が含まれます。図像学とは、芸術作品内で使用されている象徴と、それらが意味するもの、あるいは象徴するものを指します。たとえば、異なる文化の中では、ヘビは邪悪、誘惑、知恵、再生、または人生の循環を表すことがあります。アダムとイブの場面でのヘビの描写は、キリスト教の信者や、ヘビがその主題や物語の文脈の中で誘惑を意味することを理解している人たちにとって具体的な意味を持っています。しかしながら、中国文化では、ヘビは自然の力を表し、ヘビの自制と優雅さを実践する人に幸運をもたらすと言われています。

5.4.1 象徴の意味と図像学の変化

象徴はある特定の集団にとって共通の意味を持つ場合がありますが、他の集団によって変形させて使用されたり、異なる意味を持ったりすることがあります。十字架の例をとってみましょう。十字架は、その核では垂直線と水平線の単純な交差であり、それは天上や地上の要素や力の出会うところを指したり、あるいは他の意味のバリエーションに役立ったりします。最も頻繁にキリスト教に関連付けられている十字架は、長い縦棒が短い横棒と交差しているラテン十字架であり、多くの人はこれが、信仰の中心人物であるイエス・キリストが磔刑にされた十字架の形であると信じています。(十字架の変形物(Variants of the Cross): http://wpmedia.vancouversun.com/2010/02/1346.crosses1.png)しかし、その概念の単純さは、様々な他の読み方にも役立ちます。そして、キリスト教以前には、それは神聖さと宇宙的な信念に関連して使用されていました。

キリスト教徒の使用の中で、十字架は非常に多くの異なる形態をとっています。そこには、ビザンチンのキリスト教徒が好んだ、腕の長さの等しいギリシャ十字架、十字架に円形が追加されたケルト十字架、特定のキリスト教徒の殉教者、つまり信仰のために死亡した個人に対する拷問の手段として関連づけられるX型や逆さまの十字架、その他多数のものが含まれます。芸術においては、私たちはそれらを単純な平坦な図形的作品として、または二次元の表現で装飾されたものとして、あるいは複雑なモチーフと聖書の話の図像学的な描写で飾り立てられたアイルランドの墓地の数多くの墓標のように、完全に発展した三次元的な解釈として見ることができます。(図5.11)

図5.11 | ケルト十字架(Celtic Cross), Author: User “Sitomon”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0

別の十字形であるアンクは輪になった持ち手があり、古代エジプト人によって、太陽の命を与える力の象徴として考案されたようです。(図5.12)それは、彼らが発展させた象形文字の筆記システムの一部として、また独立した記号として使用した、数多くの絵文字的な象徴の1つでした。

図5.12 | アンク(Ankh), Author: User “Alexi Helligar”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0

明らかに、他の多くの象徴はさまざまな意味を持ち、より抽象化された図形的な記号として表現されている場合には特にそうです。特定の用途でその含意を読み取るには、それがどこでどのような特定の目的で作成されたのか、そして、その時点とその後において、それがどのように採用され、異なる使い方に変わっていったのかを検討する必要があるでしょう。時には意味の移り変わりは、かぎ十字の形態のように、根本的なものになることもあります。かぎ十字の形態は、インドや他のアジア全域、近東、ヨーロッパを含む多くの異なる文化で使われている古代の神聖な記号です。(図5.13、図5.14、および図5.15)それは、歴史的に、幸運と前向きな動きの意味を伴う非常に縁起の良い記号であり、したがって、仏教の礼拝堂である仏舎利塔のための平面図に採用されました。もちろん、20世紀に、それがナチ党によってアーリア人の伝統の優越性の象徴として用いられたことは、非常に異なった、今や一般的に否定的な意味へとつながりました。

図5.13 | ヒンドゥー教のかぎ十字(Hindu Swastika), Author: User “Masturbis”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.14 | 天壇大仏(Tian Tan Buddha), Author: User “Henry_Wang”, Source: Pixabay.com, License: CC0 Public Domain
図5.15 | 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党としても知られる)の紋章(The Emblem of the Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (NSDAP also known as the Nazi Party)), Author: User “RsVe”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

図像学は、しばしばより具体的かつ決定的であり、世界の経験と、そしてそれを超えて関連集団の物語のなんらかの形をはっきりと参照します。ここでもまた、絵で表された形態の分析においては、その芸術作品が作成された文脈の検討を必要とします。私たちは根底にある物語を見ることができるし、そうしなければなりませんが、次のいくつかの章で議論するように、絵で表された表現は、物語の源とは無関係に進化することもありますし、物語的、芸術的変化に応じて進化することもあります。

たとえば、キリスト教徒(より具体的にはローマ・カトリック教徒として知られている分派)は、イエス・キリストの母である聖母マリアの「真の性質」について議論しました。議論のポイントの中には、マリアが息子と共に肉体的に天国にいるのか、それとも人類全体が肉体の復活を経験するような時間の終わりの時まで、すなわち、天国か地獄で永遠を過ごすかどうかを調べる目的であらゆる人が人生の中での行いを評価される再臨と最後の審判の時まで、彼女は待たなければならないのかということがありました。これらのキリスト教の考え方は、時間の経過とともに大量に捧げられてきた芸術の中に見られます。

具体例を示すために、12世紀と13世紀の間に教会の浮き彫りの彫像に表された、マリア自身と天国における彼女の場所や役割についての2つの作品の違いを見ることができます。これらの異なる考え方は、マリアが神聖な地位へと暗示的に昇格したこと、あるいは彼女自身では神聖とは見なされないことに焦点を当てました。後者の場合、信者は、彼女をより従属的な、または二次的な地位とする視点を保つ必要がありました。ここでの質問には、彼女の息子と一緒に統治するかもしれない「天国の女王」としてのマリアという考察が含まれていました。フランスのサンリス大聖堂(1153–1181年)では、彼女は明らかにキリストとの共同統治者として描写されましたが、その後の神学的議論は、このもしかすると過剰な昇格の問題を取り上げました。(図5.16)そこで、天の女王としてのマリアの描出は人気を保っていたものの、彼らはマリアがそこにいるのはキリストの指示と意志のためのみであるとみなされることを明らかにしました。これはフランスのシャルトル大聖堂で見ることができ、そこでは彼女はイエスに向かって頭を垂れています。(ノートルダム大聖堂の北のポータル(North Portal of Notre-Dame Cathedral): https://www.bluffton.edu/~sullivanm/chartresnorth/cportal.html)

図5.16 | サンリス大聖堂のポータル(Portal of Senlis Cathedral), Author: User “Clicsouris”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

私たちがここで見るのは、やはり、私たちが出会う芸術作品の完全な分析には、様々な視覚的手がかりとその作成と使用の文脈的詳細に関する幅広い研究を含む複雑なアプローチが必要であるということです。「美しさは見る者の目の中にある」という長年の主張とは対照的に、意図された象徴性および/または図像学による適切な解釈を行うには、鑑賞者へ向けた意図された意味やオリジナルの意味を正確に反映するために、社会、文化、そして関連する状況を考慮に入れなければなりません。私たちは、これらの考え方について、次のいくつかの章でより詳しく探求します。

5.4.2 象徴性、図像学、視覚的リテラシー

十字架やかぎ十字のような象徴は、特定の解釈に同意して肯定する人々にとって共通の意味を持つだけであり、ある特定の人々の集団にとって肯定的にも否定的にもなり得ます。象徴のこの特定の意味は、単純化された図形的記号の形態であろうと、より詳細な絵画的な表現であろうと、あらゆる視覚的表現を見るときに常に当てはまります。さらに、鑑賞者は、ある特定の作品の意味をより完全に理解するためには、その作品をどのように鑑賞するかについてのなんらかの指導の尺度をしばしば持たなければなりません。

また、どの集団のメンバーであっても、思想や感情を共有し、イデオロギーを表現し、教える手段として、芸術を使用していることも注目に値します。芸術の教育的な使用は、多くの場合、非識字者のための教育の観点から議論されてきましたが、私たちは絵で表された内容の意味や絵を作成するために使われた道具も学ばなければならないことを認識するべきです。訓練を受けていない視覚的な検討でも歴然としているような、見かけ上明らかな表面的意味は、信仰の教義、政治的メッセージ、歴史の教訓、または経済動向のチャートやグラフに関するより完全に展開された図によって利用可能になるほどの理解度をもたらしてはくれません。そのため、「視覚的リテラシー」は、あらゆる教育的機能のための言葉と読解能力に関連する技能とみなされるべきです。根底にある原則を理解し、知覚するように導かれた集団のメンバーだけが、図で示されたメッセージを「読む」方法を知ることになるでしょう。

たとえば、私たちは、「ワルカ(今日のイラク)の儀式用つぼ(Ritual Vase from Warka)」やロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「7つの秘蹟の祭壇画(Seven Sacraments Altarpiece)」を見ることができます。(ワルカのつぼ(The Warka Vase): http://dieselpunk44.blogspot.com/2013/08/the-warka-vase.html)(図5.17)誰もが両方の作品の基本的な絵の内容を特定することができるでしょうが、それらをもっと分析するためにはさらなる知識が必要とされるでしょう。あなたが意図された観衆の一員であれば、それぞれの芸術家が絵的な表現の中で作り上げたものについてもう少し詳しい洞察を持っているかもしれませんが、歩み始めたばかりの鑑賞者でさえ、作品の限定的な「読み」を持っている可能性があります。

図5.17 | 7つの秘蹟の祭壇画(Seven Sacraments Altarpiece), Artist: ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden), Author: Web Gallery of Art, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

「ワルカの儀式用つぼ」の場合、たとえあなたが古代シュメールに住んでおり、女神イナンナの信者であったとしても、つぼの異なる枠の中の彫刻が創造された世界の宇宙論的概念を示すためにどのように配置されたかについてのさらなる指導を必要としたことでしょう。つまりこれを見る人は、まず、底にある根源的な土と水から始まり、その上にある植物や動物に移動します。さらにその上にはこれらを飼育し、収穫して恵みを得る人間たちがおり、今度は真ん中の写真の上部の領域に見られるように、その人間たちが神殿で収穫物の一部を彼らが仕える女神に捧げています。このデザインは、創造された世界のレベルが、その相対的な重要性に従って異なるサイズで提示された、きれいな階層的な配置としてさらに説明されるでしょう。教示の機会や見物が繰り返されると、この大まかな説明の上に追加の意味が重ねられます。

「7つの秘蹟の祭壇画」は、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンにより、図像学にとって非常に複雑な地域と時代、つまりフランダースの後期ゴシック/北方ルネサンス期に描かれました。この提示物には、キリスト教の生活の段階と場所を記した7つの秘蹟のそれぞれの詳細な絵の描写が含まれています。この象徴性もまた時間とともに発展し、しばしば、芸術家と鑑賞者に具体的な意味を伝える神学的著作に応えて発展しました。書かれた情報源は詳細で複雑なものであり、この絵による描写は、よく指導を受けたキリスト教徒がこれらの重要な儀式とその影響について知っているべきことを豊かに反映しています。

3つの部分に分かれた三連祭壇画形式の大きな中央パネルは、この芸術家によって、秘蹟のそれぞれに関連する主要で大切な出来事としての磔刑を強調するために使用されました。さらに彼は、まるで見ている者に話しかけているかのように、天使たちを識別するために彼らに巻物を添えています。ここではメッセージは絵で表されたものと刻み込まれたものの両方であり、図像学はこれらすべての儀式の出来事をキリスト教の生活と信仰の全体に関連付ける複雑なプログラムです。実際のところ、鑑賞者は、すべての象徴性の背後にある意味を見分ける新規参入者か、それを発見する学者でなければなりません。にもかかわらず、あまり関心がない人や初心者であっても、この絵画にあるものの多くを読むことができ、よく知られている要素とあなたをさらなる調査へ導く要素の両方を識別することができます。これは、しばしば、芸術における図像学の解釈における課題であり、道筋です。

5.4.3 神話と口承文学における象徴性と図像学

初期の頃から、芸術には、人々が自分たちの信念や生活の方法について共有していた神話的な説明が含まれていました。たとえばエジプト、近東、中国、日本、インドなどでは、芸術作品は最初の偉大な文明の時代から人々の物語に関連していました。それらの解釈が、それと同時代の文字で書かれた情報源によって確証される度合いは様々です。しかし、それらの神話が、その神話を作った人々にとって一般的に理解される意味を有していたことは、時には何世紀にもわたって神話がたびたび現れることによってや、彼らの文化の芸術的伝統における神話の明白な地位によって確認されています。したがって、文字で書かれた書面は後の時代まで現れないことがありますが、芸術における図像学的な伝統は、文字で書かれた情報源から知られている信念や実践との強い関係を示しています。

初期の物語はしばしば口頭で伝承されてきたので、その考え方が絵の芸術で象徴的に表現された後であっても、私たちは時代をくだるまで文学的な記録を確実に持っているとは限りません。この象徴性の例は、民族移動時代(紀元300–700年)として知られている初期の中世時代に由来する、イングランドで発見されたサットン・フーの船葬墓(Sutton Hoo Ship Burial)として知られる豊かな宝物(物品のコレクション)で見ることができます。木製の船自体は分解されていますが、そこに詰め込まれていた埋蔵品は、当時の冒険的な社会に対する私たちの不完全な理解と、死後の必要性についての彼らの信念を裏付け、拡大するような詳細を提供してくれます。様々な物品は、ベオウルフのような戦士の王たちの壮大な物語にも一定の洞察を加えます。その物語は長年にわたって口頭で伝承されてきたようであり、あるものは文字で書かれた形態に収まるまでに、おそらく数世紀の間語り継がれてきました。この帯の留め金や鞄の覆いなどの豪華な装飾品は、表情豊かで複雑な模様や贅沢な素材を通して、ベオウルフのようなドラゴンや英雄の物語に視覚的な証言を与えます。(図5.18および図5.19)鞄の覆いの上の細かい金属細工は、七宝細工で作られています。これは、金または金属でできた細長い片を裏地の表面に貼り付けて区画を作り、その区画を粉末(この場合は砕いたガーネット)で満たして、華氏1400–1600度(摂氏760–870度)で加熱して作る金属工芸です。

図5.18 | サットン・フーの船葬墓の帯の留め金(Belt Buckle from Sutton Hoo ship burial), Author: User “Jononmac46”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図5.19 | サットン・フーの船葬墓の鞄の覆い(Purse Lid from Sutton Hoo ship burial), Author: User “Jononmac46”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

古代ギリシャの芸術は、しばしばギリシャ神話の物語にも大きな関心を示していました。このアンフォラに見られるヘーラクレース(ローマ人にはヘラクレスとして知られている)の有名な奮闘のように、神々や戦士たちの物語は、偉大な身体的または知的な争いに関するものを含めて、たくさんあります。(図5.20)そのような物語は非常に人気があり、鑑賞者は、物語の残りの詳細を、示された部分を通じて自分で補うことが期待されていました。しかしながら、巧みな芸術家は、姿勢、身振り、表情、そしてヘーラクレースが持つこん棒や三叉の鉾のような象徴的な小道具で、人物の提示を活気づけることができます。

図5.20 | テラ・コッタのアンフォラ(瓶)(Terracotta Amphora (jar)), Artist: アンドキデス(Andokides), Source: Met Museum, License: OASC

文学による説明と同様に、歴史的出来事や伝説的出来事に関連する芸術作品には、種々の考え方を伝えるのに役立つさまざまな象徴や像が含まれていることがよくあります。それらは、凡庸な詳細から偉大な歴史的な瞬間までの広がりを持ちます。後者には、155の場面でローマ皇帝トラヤヌス(Roman Emperor Trajan、在位紀元98–117年)のダキア人に対する軍事行動(101–102年と105–106年)を記念した高さ約100フィート(約30メートル)のトラヤヌスの記念柱などがあります。(図5.21)また、1066年のノルマン征服とヘイスティングズの戦いを絵を用いて描写した長さ230フィート(約70メートル)の刺繍布であるバイユーのタペストリーにも表わされています。(図5.22)これらの作品のどちらも、それぞれの軍事作戦の歴史的出来事における決定的な瞬間や、戦闘の準備に関する苦労の詳細などを示しています。(図5.23、図5.24)このようにして、それらの作品は、特定の会戦、それらを重要なものとする文化、歴史的出来事の主要人物であった個人についての具体的な詳細とともに、それぞれの時代の日常生活の一端を私たちに提供してくれます。武器と装甲の詳細、組織化された軍隊と混沌とした戦闘、防御構造と装置の建設、勝利と敗北の瞬間、そして無数の他の事柄と活動はすべて、個別的に、そして集合的に、出来事の進展を詳述するための効果的な手段です。これらの作品のそれぞれは、長く巻き上げられるような作品の形態をとることにより劇的に展開され、徐々に明らかにされることで長い叙述をさらに強調しています。

図5.21 | トラヤヌスの記念柱(The Column of Trajan), Artist: ダマスカスのアポロドーロス(Apollodorus of Damascus), Author: User “Alvesgaspar”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0
図5.22 | バイユーのタペストリーのヘイスティングズの戦いを描く部分(Section of the Bayeux Tapestry depicting the Battle of Hastings), Author: User “Thincat”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.23 | 第46プレート、トラヤヌスの記念柱(Detail of Plate XLVI, The Column of Trajan), Artist: ダマスカスのアポロドーロス(Apollodorus of Damascus), Author: User “Gun Powder Ma”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.24 | バイユーのタペストリーの戦いの中のオド(ウィリアム征服王の異父弟)を描く細部(Detail of the Bayeux Tapestry depicting Odo, half brother of William the Great, in battle), Author: User “LadyofHats”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ローマ帝国時代の多くの公共芸術の作品と同様に、この記念柱はトラヤヌス(柱の基部は彼の遺灰を納めるように設計されていた)とその行為だけでなく、帝国統治の考え方、帝国を拡大する際の征服の役割、および戦争と戦術におけるローマ兵士の熟練した仕事をも称えています。これとは対照的に、バイユーのタペストリーは実際の激動の戦闘シーンをより重視しており、鎖帷子に身を包み精巧な兜をかぶった騎兵隊に満ちています。しかしそれはまた、非常に多くの歴史的文脈の感覚も含んでいます。それには、エドワード懺悔王(King Edward the Confessor、在位1042–1066年)の死と、彼が王室の教会として採用した新しく改装されたウェストミンスター寺院への彼の埋葬から、1066年のヘイスティングズの戦いに至るまでの出来事があります。これらの作品には両方とも、考え方や出来事を詳説したり、戦争についての政治的メッセージをさらに表現したりするための碑文や、タペストリーに刺繍されたシーンごとの物語が含まれています。それらもまた、それぞれについて、絵を用いて表現された考え方と文芸との間の関係を強調しています。

5.4.4 象徴的モチーフと図像的モチーフを探求する

武器や装甲などの品物は、その目的をはっきりと示している明白な種類の象徴ですが、他の芸術作品に見られる多くの象徴性は、より曖昧になり、可変的な意味を持ちます。花やろうそくのような単純な物品は、さまざまな意味を持つ絵の中で非常に複雑な方法で使用することができるため、ある特定の作品におけるそれらの含意を見定めるためには慎重な調査と深い研究が必要です。

たとえば、ロベルト・カンピン(Robert Campin、1375年頃-1444年、ベルギー)による「メロードの祭壇画(Merode Altarpiece)」は、天使ガブリエルが聖母マリアに対し、神の息子であるキリストの母となると告げる受胎告知に関するキリスト教の物語を描写しています。(図5.25)この作品は、そのメッセージを識別し解釈するために広く研究されてきた象徴に満ちています。百合は一般的に、マリアの純潔と処女性を象徴すると解釈されていますが、他の絵では、死、復活、誕生、母性、または他の出来事や条件への言及を含む他の意味を持つかもしれません。この1つの作品の中で、たなびく煙とともに消えたろうそくの使用は、様々な鑑賞者や学者によっていくつかの異なる意味が与えられています。それは、神が人間の形を取ったキリストという子を身ごもることにマリアが同意した、黙諾の瞬間を示すのかもしれません。それはまた、キリストの死、より一般に人間の死、そしてすべての人にとっての生のはかない性質を予示するものとも読まれています。

図5.25 | 受胎告知三連祭壇画(メロードの祭壇画)(Annunciation Triptych (Merode Altarpiece)), Artist: ロベルト・カンピン(Robert Campin), Source: Met Museum, License: OASC

この祭壇画が制作された時と場所では、絵画における象徴性は特に豊かで多様であり、鑑賞者/信者に多くのことを見せたり、さらに熟考させたりしました。このようにして、もし象徴がさまざまな方法で読まれるならば、それらはさまざまなレベルの意味についての瞑想的な内省のための持続的な刺激を提供することができるでしょう。

また、特徴や考え方を区別する象徴的なモチーフは、ある文脈では1つの意味を持ち、別の文脈では異なる意味を持ちます。ほとんどの象徴は、しばしば多様な文脈で関連する意味を帯びることが多いですが、普遍的にそうであるわけではありません。たとえば、あなたが天使、つまり人間のような身体の形をした翼のついた生き物と識別するかもしれない種類の像が、さまざまな文化の芸術の中に登場しています。それらは一般的に、地上と天上の領域の間を移動できる存在を表しますが、そのより具体的な役割は、善や悪の目的のためにきわめて多様になり得ます。キリスト教の伝承によれば、天使ガブリエルは、「メロードの祭壇画」に見られるように、神の使者でした。このモチーフは、知らせや指示を伝えるために、あるいは必要に応じて介入するために神から遣わされた天使というユダヤ教の伝承に基づいています。イスラム教の解釈も、同じ伝統に基づいており、同様のものですが、イスラム教の芸術作品では象徴的な表現があまり一般的ではありません。

そのような像の以前には、ニケとして知られている翼のついた生き物が古代ギリシャ人とローマ人の芸術家によって勝利の瞬間を示すために描かれており、それらは、時にはここの図でみられるように、頭の周りに巻かれるバンドでできた頭飾り、あるいは月桂樹の花冠が授与されることによってさらに象徴化されています。(図5.26)これらの翼のある像は、時には神々や女神たちでした。馬、雄牛、ライオン、および他の動物を含む古代近東の宮殿の壁を飾った精霊の像も、その優れた力、時には神のような力や起源を示すために羽をつけられました。(図5.27)他の例としては、古代エジプトの女神イシス、ペルシャの神アフラ・マズダーなどがあります。(図5.28、図5.29)

図5.26 | テラ・コッタの糸巻(Terracotta Bobbin), Artist: ペンテシレイアの画家に帰される(Attributed to the Penthesilea Painter), Source: Met Museum, License: OASC
図5.27 | ラマッス(Lamassu), Author: User “Trjames”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図5.28 | エジプトの女神イシス(The Egyptian Goddess Isis), Author: The Yorck Project, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.29 | ペルシャの神アフラ・マズダー(The Persian god Ahura Mazda), Author: The Yorck Project, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

もう一組のキリスト教の有名な図像的なモチーフは、しばしば芸術において4人の福音書記者を表す翼のついた象徴です。マタイは翼のある男性または天使、マルコは翼のある獅子、ルカは翼のある雄牛、そしてヨハネは鷲です。(図5.30)同時に、それらはキリストの人生における4つの重要な出来事、すなわち顕現、受難、復活、昇天を指しています。これらの福音書記者の象徴の解釈は、旧約聖書のエゼキエルの幻視と新約聖書のヨハネの黙示録にもとづいており、紀元5世紀の聖ヒエロニムスの書物に関連しています。それらは、天の神の座を取り巻く特別な生き物としてのそれらの地位の含意をもって、何世紀にもわたって追加の図像的な詳細を生み出しました。これは、伝統的に神格、つまり神または女神に帰するとみなされてきた領域と、神に関連する生き物との間の動きを促進することを意味します。このような翼の使用は、鳥が有する重力に逆らう能力と、地上の生き物の高い望みを芸術的に表現することへの人間の観照を明確に反映しています。

図5.30 | 4人の福音書記者(The Four Evangelists), Author: User “AnonMoos”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

時代や文化を越えて登場する、頻繁に使用されるもう1つの図像的モチーフは、ハローであり、これは通常、人間または生き物の頭の後ろに現れる光の円形領域です。1つの例は、図5.30において、キリストの頭と象徴的な翼のある生き物たちの後ろに現れるハローです。キリストのハローはそこに埋め込まれた十字形を有しており、彼の全身は、光輪またはマンドルラとして知られる(四つの弧からなる)光の円に囲まれています。このような意匠は、多くの関連する形の中で、ある種の像を取り囲む輝きを表示し、その聖性、神性、または神の恩寵を示しています。それは、聖なるもののオーラを示すものであり、それらが暖かさで満たされていること、神性や神の愛で燃え上がっていることを意味しています。一部のアジアのもの、特にヒンドゥー教や仏教のものでは、輝きは文字通り炎からなっています。

王冠、玉座、笏のような王位のしるし、公式のケープのような衣服、修道士のローブ、またはあらゆる種類の制服のような物品もまた、頻繁に見られます。これらは、ある人物が、特定のグループ、階級、または地位に属している徴候であり、その人が誰であるか、その描写においてどのような役割を持っているかについての具体的な側面を鑑賞者が特定するよう導きます。人々の相対的な位置どりもまた、意味、相互作用、相対的な順位および他の含意を識別するために読み取られるべきです。服装のタイプ、付随する物品、および配置は、使用される様式またはモチーフの詳細を通じて歴史的・文化的な文脈を与えることにより、しばしばメッセージを特定の時間および場所に関連付けます。

たとえば、アッカドの支配者ナラム・シン(Naram Sin、在位紀元前2254–2218年頃)は、ルルビ人に対する彼の勝利を描いた碑では、角のヘルメットを身に着け、彼の周りの男性よりはるかに大きいです。(図5.31)敵が慈悲を求める中、彼は山に登っており、それを宇宙の神々が見つめています。それは、彼の権力と支配権の源泉として彼とそれらとの関係を示しています。ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck、1390年頃-1441年、ベルギー)による「ヘントの祭壇画(Ghent Altarpiece)」では、私たちはさまざまな種類のそのようなモチーフを見ることができます。キリストは、教皇冠を王冠として身に着けており、マリアは、豊かに着飾るとともにつつましやかに本を読んでおり、洗礼者ヨハネは、悔い改めの服を着て、説教をしています。(図5.32)キリストは、衣服、座っている王座、足元の王冠に宝石や金があしらわれており、ここでは地上の王であるとともに天国の王として示されています。

図5.31 | ナラム・シンの勝利の碑(Victory Stele of Naram Sin), Author: User “AnonMoos”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図5.32 | ヘントの祭壇画(The Ghent Altarpiece), Artist: ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck), Author: Web Gallery of Art, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

5.4.5 隠喩的な意味

特定の芸術作品の隠喩的な意味は、ある程度は鑑賞者の知識と洞察にも依存しています。隠喩とは、あるものが別のもの、おそらく無関係なものや考え方を象徴的に表している比喩的表現のことです。

ドリス・サルセド(Doris Salcedo、1958年生まれ、コロンビア)による「街の2つの建物間に積み重ねられた1550の椅子(1550 Chairs Stacked Between Two City Buildings)」で、私たちは人生の変化の隠喩的な扱いを見ます。(街の2つの建物間に積み重ねられた1550の椅子(1550 Chairs Stacked Between Two City Buildings), ドリス・サルセド(Doris Salcedo): http://www.mymodernmet.com/profiles/blogs/doris-salcedo-1550-chairs-stacked)それは、彼女の母国コロンビアでの1985年の暴動によって生じ、多くの移民が死亡するか移住することになった強制退去と、世界の各地で起きた同様の大惨事に対するひとつの見方です。乱雑な家具のかたまりは、その時までにすでにルーツ、共同体、または安定した暮らしを失っていた人々にとっての、大量の暴力やテロリズムによって転覆させられた人生の激変を暗示しています。それにもかかわらず、このような混乱の場面のしばしば匿名で比較的目に見えない犠牲者たちは、彼らのはかない存在の混沌とした名残の中で、彼らの個々のアイデンティティーの感覚をほとんど確立できなかった場所に、彼らが存在していたことのいくつかのヒントを残しました。彼女の隠喩的表現は、そのような出来事が世界中で引き起こした荒廃についての探索的な視線を与えてくれます。

5.5 先へ進む前に

重要な概念

芸術の制作と使用の文脈を検討することにより、私たちはまた別の方法で芸術を検討することができます。どの芸術作品でも、ある程度は、それが登場した文化的な瞬間を反映しているでしょう。これは、芸術家および/または後援者が、彼らが住み、活動していた物理的な場所や文化的または準文化的な集団、およびその集団を定義する共有された物事のありよう、生き方、または思考の方法を反映する選択をしたことを意味します。この集団を定義する特徴は、国籍、地域、人種、民族、宗教、経済かもしれませんし、ジェンダー、年齢、職業、趣味、階級、条件、またはその他の(選択にせよ偶然にせよ)共通して有する側面に関係しているかもしれません。

私たちが出会う作品には、芸術家や後援者によって意図された、より広範で深い意味に手がかりを与える図像的な参照、象徴、および比喩的なほのめかしがたくさんあります。それらは、私たちがそれらの意味にたどり着くことができるようなさらなる調査および/または観照を促します。同時にそれらは、すでに私たちが知っているか理解しているような、あるいは、私たちがさらなる研究を通じて発見することができるような、より大きな神話や物語の部分的な声明として提示されているときには特に、元の意味を超えた洞察を促すことができます。私たちが探求を進める際には、それらの読みのタイプを区別すること、つまりオリジナルな意味について私たちが学ぶことができることと、私たちが見るものに対する私たち自身の反応とを慎重に区別することが重要です。これは、あらゆる種類の象徴性に当てはまります。なぜなら、私たちはある象徴やモチーフに対して真に普遍的な考え方や意味を帰属させるという誘惑を避けなければならないためです。これにより、発見のプロセスと鑑賞の経験の両方が無限に興味深いものとなります。

いくつかの作品は意図的にその文化の中で広まっている問題に反対しており、あからさまにそれを行います。私たちは、宗教、戦争、人種、ジェンダー、その他のテーマに関連する作品を見るとき、これらの異議を詳細に観察することになるでしょう。したがって、特定の芸術作品の完全な意味を理解し分析するためには、私たちは、それが作成された場所と時期や、どのような社会-文化的、象徴的、図像的な特徴と意味がその創作と使用において重要な要因とみなされるかを考慮しなければなりません。

自分で答えてみよう

1.17世紀のオランダの静物画は、その当時のオランダの歴史的出来事にどのように関連していますか?

2.リリー・マーティン・スペンサーは、彼女が絵を描いていた時代におけるふるまい方についての社会的慣習にどのように対処しましたか?

3.19世紀の産業の進歩がアメリカの芸術にどのように影響を与えたかについて1つの例を記述してください。

4.芸術で個人的なアイデンティティーがどのように表現されるかについて例を1つ挙げてください。

5.元朝の中国絵画で使われた象徴とその意味について例を1つ挙げてください。

6.科学的発見に用いられた芸術の例を1つ挙げてください。

7.象徴的な物体とその意味の例を1つ挙げてください。

8.象徴性と図像学を定義し、それらの違いを説明してください。

9.象徴性と視覚的リテラシーの間の関係を記述してください。

10.サットン・フーの船葬墓で見つかった物体は、視覚的に何を伝えましたか?

11.トラヤヌスの記念柱とバイユーのタペストリーで表現されていることに共通するものは何ですか?

12.キリスト教以前において、人間の形をした翼のある生物(今日の天使)の象徴的なモチーフの変化を記述してください。

13.象徴的なモチーフは神性あるいは支配者を示すためにどのように使用できるのかを記述してください。

14.芸術における隠喩的な意味の例を1つ挙げてください。

5.6 重要語句

光輪またはマンドルラ:聖なる人物を取り巻く光または輝きによる尖った円。

七宝細工:金属でできた細長い片を表面に貼り付けて区画を作り、その区画を粉末で満たして、高温で熔融して作る装飾作品。

神格:神性、神または女神。

風俗画:日常生活の主題や光景。

黄金比:長い部分を小さな部分で除したものと、全体の長さを長い部分で除したものが等しくなる時に得られる部分の関係。芸術と建築における黄金比は、最も調和のとれた視覚的に満足できる比率を提供します。

ハロー:通常、聖なる人間または生き物の頭の後ろに現れる光の円形領域。

階層的な配置:人や物の階層や順位付けが、それらの相対的な重要性に応じた異なるサイズで表されているもの。

宝物:物品のコレクション。

図像学:芸術作品における主題と絵で表されたテーマの研究と解釈。

マンドルラ:(光輪を参照)。

殉教者:彼らの信仰のために死んだ個人。

隠喩:あるものが別のもの、おそらく無関係なものや考え方を象徴的に表している比喩的表現。

この訳文は元の本のCreative Commons BY-SA 4.0ライセンスに従って同ライセンスにて公開します。 問題がありましたら、可能な限り早く対応いたしますので、ご連絡ください。また、誤訳・不適切な表現等ありましたらご指摘ください。

--

--

Better Late Than Never

オープン教育リソース(OER : Open Educational Resources)の教科書と、その他の教育資料の翻訳を公開しています。