芸術への入門 — 第7章 建築の形式 —

Japanese translation of “Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”

Better Late Than Never
76 min readOct 27, 2018

ノース・ジョージア大学出版部のサイトで公開されている教科書“Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第7章 建築の形式

リタ・テキッペ(Rita Tekippe)、ジェフェリー・レミュー(Jeffery LeMieux)、パメラ・J・サチャント(Pamela J. Sachant)

7.1 学習成果

この章を終えたとき、あなたは次のことができるようになっているでしょう:

•建築の機能と形式の違いを理解する。
•異なる目的のために作成された建築において、形式と機能がどのように連携して働くかを理解する。
•建築の異なるタイプと用途を理解する。

7.2 はじめに

これまでのところ、私たちは建築についてはほとんど考慮してきていませんが、建築は最も文化的に重要な芸術形式の1つです。多くの場合、集団の活動のために建築された構造物では、個人の選択が支配的であるような状況よりも、その時間とその場所における文化、その価値観、様式、目的、好みをより広く、深く反映しています。そのような建築環境における装飾は、絵画や彫刻のテーマを通じて個人の必要性と理想が表現されていたとしても、一般的には集団の目的と必要性に役立つと期待されている構造物の永続性を反映します。

最も初期の建物は、一緒に住んでいた家族や小さな集団を保護するように設計されていた可能性が高いです。まもなく集団としての必要性が出てきました。そして、共同体は、礼拝/崇拝、集団の保護、統治、市場、その他の商業的必要性などのいくつかのタイプの共同活動を提供したいと思っていたかもしれません。社会が成長し、多様化し、専門性を持ち、個人と共同体の両方の必要性を満たす方法を模索するにつれて、これらのタイプが拡大しました。具体的な目的は多様なデザインにつながり、文化的な価値観は実践的にも様式的にもその選択に影響を与えました。私たちは、何世紀にもわたる広がりから集められた歴史的建造物のタイプについての小さなサンプルを、いくつかの異なる視点から、個々の例の特徴の重要性に応じて調査していきます。私たちの焦点は、ある時には構造物の計画やレイアウト、作成に使用された材料、目的や使用法に関連する空間的な考慮事項に置かれるでしょう。また別の時には、建物が共同体の中でどのように位置しているのか、また後援者、所有者、共同体のメンバーがその建設と使用にどのように影響を与えるかを見ていきます。第10章:芸術と儀式的生活:空間と儀式的物体についての象徴的意味では、私たちは建築の状況とその装飾について、儀式的な使用、意味、そして意義をより詳細に検討するでしょう。

私たちの議論を始める前に、あなたは建物の基本、つまり、どのように壁を作成するのか、そしてこの構造物の上部の部品を支持しながらどのように壁に開口部を配置するのかについて、習熟しておくべきです。最も基本的な方法は、矩形の開口部を形成するために2つの直立した柱が水平な梁を支持する支柱とまぐさ設計です。(図7.1)長い間、建築家たちは、様々なアーチ、つまり開口部を覆い上部の重量を支える湾曲したあるいは尖った構造を考案し、これらの技術をさらに改変して筒型ボールト(天井または屋根を形成する一連の円形のアーチ)とドーム(球形の天井または屋根)を作り上げました。(ローマのアーチの図(Diagram of Roman Arches): https://classconnection.s3.amazonaws.com/520/flashcards/1154520/jpg/untitled-13EF5EB39821CEF88AF.jpg; ドーム(Domes): http://2.bp.blogspot.com/-jbiaW24DTZI/TVxCBDxxoTI/AAAAAAAAACk/VytZNRg0UK0/s1600/40-typology-dome.jpg)また、彼らは装飾の目的に役立つ変形を作りました。時間が経つにつれて、構造的および装飾的な目的の膨大な多様性のためにこれらの構造は想像力豊かに使用されており、私たちがあらゆる種類の文化的な関心事や人間の必要性を反映した建物を調査する際には、それらを念頭に置いておく必要があります。私たちはこれらの建物をいくつかのグループに分類しますが、それらの多くは複数の目的を持っていることに留意する必要があります:居住/住宅、共同体の必要性、商業用の建物や中心施設、統治のための構造物、そして礼拝用に設計されたもの。

図7.1 | まぐさと支柱を示す図(Diagram Showing Lintel and Posts), Author: Corey Parson, Source: Original Work, License: CC BY-SA 4.0

7.3 居住の必要性

もっとも初期の住まいのタイプは、人間が食べ物を狩猟採集したり、悪天候や追いかけてくる動物から避難したりするために徘徊していた際に見つけた洞窟でしょう。最初に独立して立っていた構造物は、非永続的な材料、つまり枝、骨、動物の皮など自然で発見されるもので作られており、種々の要素からの保護として覆いのある空間を作るように形作られていました。それらがどのように建てられ使用されたかを完全に知るための証拠が私たちにはほとんど残されていませんが、学者たちが復元を可能にするような痕跡は確かに残っています。(図7.2)

図7.2 | 再建された縄文時代(紀元前3000年)の家(Reconstructed Jōmon period (3000 BC) houses.), Author: User “Qurren”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

人々がより定住するようになり、動物を家畜化し、作物を栽培するようになると、彼らは小舞壁(泥で覆われた枝)、練り土(湿った泥と砂や砂利などを仮枠の中で圧縮したもの)、粘土れんが(陶器の器を作るための技法の進化とともに開発された未焼成または焼成のれんが)のような建築技法を発展させました。(中国の円形家屋の建築構造を描いた素描(Drawing depicting architectural structure of Chinese round houses): http://arthistoryworlds.org/wp-includes/images/nhatau.jpg)(図7.3)

図7.3 | 再建されたケルトの円形家屋(Recreation of a Celtic Roundhouse), Author: User “FruitMonkey”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

彼らは、現在のトルコにあるチャタル・ヒュユクの村(紀元前7500–5700年)のような共同住居のために、密集した家々が互いに支えあうようにした共通壁を含むそれらの方法を使用しました。(図7.4)このような建物の方法は、居住空間への出入りを屋根の開口部に限定し、はしごを外して侵入者を阻止することによって安全の問題に対処しました。これらのタイプはすべて、暖かさ、調理、睡眠、および貯蔵のような日常的な必要性を満たすための特定の共通の特徴を有し、通例、煙の換気のための対策をした炉のまわりに集中していました。チャタル・ヒュユクにはまた、神殿から製パンに至るまで様々な共通の目的のために使われた部屋も含まれていました。

図7.4 | 第一回発掘作業の時のチャタル・ヒュユク(Çatalhöyük at the Time of the First Excavations), Author: User “Omar hoftun”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

構造物を建築するために石を使用することは先史時代に始まり、そのような構造物の例はスコットランドのスカラ・ブレイの村(紀元前3180–2500年)で見ることができます。壁は積み重ねられた石でできており、入り口といくつかの家具は支柱とまぐさ方式で作られています。(図7.5)厳しい北部の気候のために、構造物は種々の要素から保護するために部分的に地下にありました。さらに、その8つの区域間の移動を容易にするために、覆いのある歩道が作られました。これらの区域のうち7つは、明らかに家族や小集団が生活する場所を提供していたようですが、8番目の区域は共通の部屋、おそらく作業場でした。作物を栽培することに加えて、これらの村人は、食糧を得るために家畜を世話し、釣りをし、狩りをしていたことでしょう。座席、ベッド、収納スペース、および一部屋の区域内の他の物品などの石造りの家具は、中央の炉の周りにありました。(図7.6)

図7.5 | スコットランド・オークニー島のスカラ・ブレイの古い住居(Old settlement Sjara Brae in Orkney Island, Scotland), Author: User “Chmee2”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.6 | スカラ・ブレイの家の内部(Inside a house at Skara Brae), Author: User “John Allan”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0

これらの基本的な方法を用いて、新石器時代(紀元前7000年頃-1700年頃)と、それと重複する金石併用(銅器)時代(紀元前5500年頃-1700年頃)の質素な住処のタイプは、歴史を通じて使用されるすべての種類の建物のための基盤を提供しました(これは権力を持ち、裕福な者のための居住構造のかなりの精緻化を伴っていました)。その結果として材料の選択肢は、最初は木材、れんが、石、そして後にはコンクリートと金属を含むように拡大されました。

居住用の宮殿は、メソポタミアとエジプトという古代近東の2つの偉大な初期の文明の時代、そしてクレタ島、キクラデス諸島、ギリシャ帝国の発展に先立つギリシャ本土というエーゲ海の初期の文明の時代に現れました。クレタ島にあるクノッソスの宮殿は、ミノア文明の支配者のための壮大な住居でした。この宮殿は、以前の構造物が地震によって破壊された後、紀元前1700年頃に建てられ、紀元前1380–1100年の間に放棄されました。(クノッソスの素描(Drawing of Knossos): http://res.cloudinary.com/hrscywv4p/image/upload/c_limit,f_auto,h_900,q_80,w_1200/v1/245626/Palace_Complex_of_Knossos_vsyfng.jpg)広大な複合施設には、居住領域、玉座の部屋、中央の中庭、作物や魚介類のための食糧貯蔵庫がありました。商業取引で使用される作物や魚介類は、重要な産業であり、人々を支える主要な柱でもありました。(居住用の宮殿の間取り図(Floorplan of Residential Palace): https://classconnection.s3.amazonaws.com/16/flashcards/3907016/jpg/aafxpid0-1419F6BAD180C1BB19F.jpg)ミノア人は、島として孤立した文明であり、敵から自分たちの身を守る必要がないという、まれな立場にありました。クノッソスの宮殿とクレタ島の同様の構造物は、要塞化、つまり侵略者を防ぐために堅固な壁や門の後ろに建てるようなことはしていませんでした。その代わりに、宮殿はその外面に窓や柱列、つまり屋根のついた柱の列が広がっており、光と空気の自由な循環を可能にしました。

もう1つの宮殿複合施設、ドゥル・シャルキン(現在のイラクのコルサバード)にある新アッシリア王サルゴン2世(Neo-Assyrian King Sargon II、在位紀元前722–705年)のものは、明らかにより軍事的な特徴を持っており、それは王室区域へのアクセスを厳しく制限した周囲の防衛壁によって明らかでした。(図7.7)複雑で堂々たる門を通過した後でさえ、王の玉座の部屋に近づくには警護された中庭と通路を通る必要がありました。高くそびえる巨大な主要門を見てわかるように、その構造的な存在感は力を見せつけるものでした。(図7.8)訪問者をおじけづかせるために、内部の装飾は、勝利の戦いを描いた壁の彫刻でもってサルゴン2世の強大で獰猛な性質をさらに強調しました。この複合施設にはまた、神々を礼拝するための神殿と、高位の役人や召使いのための営舎も含まれていました。

図7.7 | コルサバードにあるサルゴンの宮殿のモデル(Model of Palace of Sargon at Khosrabad), Author: Internet Archive Book Images, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.8 | ドゥル・シャルキンの宮殿(Palace of Dur-Sharrukin), Author: Encyclopedia Britannica, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

その後の居住のための発展には、都市住人のための集合住宅の建物が含まれます。そのような多世帯の住居は時間の経過とともに多くの形をとっており、私たちはここでは、紀元2世紀のローマの港町オスティア・アンティカにある、インスラ(ラテン語で「島」)と呼ばれる初期のタイプを見ることができます。(図7.9)このような中流階級の「集合住宅」では、通りに面した1階に店舗や売り手の屋台がありました。いくつかの種類では、低層階は裕福な人のためのものであり、高層階は費用と望ましさの点から減少していきました。この時代までに多世帯が生活する場所をどのように提供するかについての基本的な考え方は確立されており、それ以来、同様のまま残っています。時間の経過とともに変化したのは、使用される材料や装飾、採用された様式、電気、水道、下水道管理の設備、そして最終的には立地、大きさ、安全のために必要とされる規則、占有密度などを規定する建築規制の政策です。

図7.9 | オスティアのインスラ(Ostian Insula), Author: User “Nashvilleneighbor”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

中流階級のための私的な家も存在し、裕福な者の家は街や田園地方に存在していました。田園地方にあるものは、それらが主たる住居であっても休暇中の家であっても、ヴィラと呼ばれていました。街にある私的な家は、その周辺に商店があるかもしれませんが、家庭生活、娯楽、所有者の事業を行う場所は一般に1階のレイアウトの中に包含されています。(ローマのヴィラの図(Diagram of Roman Villa): http://michellemoran.com/CD/Roman-Villa.jpg)人は、街路からの入り口を通過した後、アトリウムに入りました。アトリウムは柱廊を備えた中庭であり、建物内の柱の列がしばしばポーチを支えて、中央のプールが雨水を溜めるために空へ向かって開かれています。私的な庭は、自然に対して開かれた第2の領域でした。穏やかな気候は、人々に対して新鮮な空気と日光、そして1年の多くの間を屋外で生活することを可能にしてくれるとともに、屋内と屋外のダイニングルームさえも含む種々の設備を設けることもできました。アトリウムと庭園の周囲には、寝室、貯蔵室、家庭仕事用の部屋があり、ララリアムとして知られる礼拝の空間もありました。(図7.10)ここでは、2人のラレス、すなわち家庭の神々が祖先の人物の隣に立っています。下のヘビは繁殖力と繁栄を象徴しています。

図7.10 | ポンペイのヴェッティの家のララリアムの光景(Scene from Lararium, House of the Vettii, Pompeii), Author: User “Patricio.lorente”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.5

ローマの皇帝も壮大な宮殿を有しており、私たちはそのようなもののよい証拠を、今日のクロアチアであるローマのダルマティア属州のアスパラトス湾に面したスプリトにある、皇帝ディオクレティアヌス(在位紀元284–305年)のために造られた隠居用の施設から得ることができます。(図7.11)守備用の見張り塔と要塞化された入り口を備えた、壁で囲まれた区域には、彼の軍の守備隊の住居、中央の柱廊を持つ中庭、3つの礼拝堂、そして彼の墓を収容する建物である霊廟が含まれていました。この設計は、キリスト教徒に対する攻撃的な迫害者であり退役した将軍にとっておそらくお似合いのものであり、ローマ軍の陣営すなわちカストルムに似て、多くの点でかなり軍事的でした。対照的に、皇帝の私的および公的な領域は豪華でした。ほとんどの宮殿の複合施設と同様に、兵士や召使いが住まうための設備が作られ、フレスコ画、彫像、モザイク画(石、タイル、ガラスの小さな断片でできた壁や床に造られた画像やデザイン)によって惜しげもなく装飾されていました。

図7.11 | ディオクレティアヌスの宮殿(Diocletian’s Palace), Artist: エルネスト・エブラール(Ernest Hébrard), Author: User “DIREKTOR”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

宮殿の場所は常に戦略的に選択されていましたが、その根拠は必ずしも守備的な性質ではありませんでした。カール大帝がドイツのアーヘンを主たる宮殿(彼は宮殿をいくつか持っていました)の敷地として選んだとき、その魅力の中には、成長する帝国の中心に位置することと、そこにある天然の温泉の癒しの水とがありました。彼の複合施設の復元物を調べる際、あなたは宮殿の複合施設の左側に示される浴場が、ローマ社会にそうであったのと同様に、重要な特徴であることに気付くでしょう。(図7.12)彼は大きな謁見の広間、壮大な門、中庭、住宅、そして今でも残っている主要な構造である印象的な宮殿の礼拝堂を持っていました。(図3.13参照)

図7.12 | アーヘンの宮殿(Palace of Aachen), Author: User “Aliesin”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

教会は、このお手本のようなキリスト教徒の支配者にとって重要な表明であり、それは元のセントラルプラン式の設計からは拡張されていますが、その構造は後の中世の教会建築にとって印象的で影響力のある顕著な特徴を帯びています。カール大帝の玉座は、下の階を見下ろす上層の通路の高さに据え付けられました。(図7.13)この王座は教会への入り口の上にあり、ポータルの上にはアトリウムの中庭に面している巨大な「登場の窓」があり、そこからはカール大帝がそこに集まったキリスト教徒の臣下たちに演説することができました。この西側の入り口の強調は、ロマネスク様式とゴシック様式の教会の壮大な西側のファサードへと発展しました。

図7.13 | アーヘン大聖堂の中にあるカール大帝およびそれに続くドイツ王のための玉座(The throne of Charlemagne and the subsequent German Kings in Aachen Cathedral.), Author: Bojin, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿は、キリスト教の指導力に結びつけられた統治権の別の印象的な表明です。(図7.14)水辺に面したファサード、そのすぐ後ろに控えるサン・マルコ寺院、向かいにある行政事務所、そしてその間にある共用の開かれたピアッツァ、つまり広場でもって、この宮殿は文字通りヴェネツィアの生活の世俗的、宗教的、社会的、政治的な領域をつなげています。(図7.15)イタリア・ルネサンス時代には、統治者、裕福な貴族、教会の高位の聖職者のためのイタリアの家の中心にある中庭と同様に、都市の中心に公的な広場を設けることが典型的になりました。公式の行政の中心、そして公邸として、このヴェネツィアの宮殿には、総督のための私的な区画や、会議室、議事堂などがあります。それらはすべて大理石、飾り漆喰、フレスコ画で装飾され、ヴェネツィアに関する図像学的なテーマ、その歴史、そして市民の独自性が盛り込まれています。

図7.14 | ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿とサン・マルコの鐘楼(Doge’s Palace and St. Mark’s Tower, Venice), Author: User “Rambling Traveler”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.15 | ドゥカーレ宮殿の広場(Courtyard of Doge’s Palace), Author: User “Benh LIEU SONG”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

日本では、侍の赤松則村によって砦として建てられた14世紀の姫路城が、姫山の丘の上に劇的にそびえたっていました。(図7.16)その主たる動機は守備的な構えでしたが、湾曲した壁と屋根の線の卓越した美しさと叙情的な外観が、その顕著な効果となっています。それは今にも飛び立とうとしている大きな鳥の印象に応じて、「白鷺」と呼ばれてきました。この複合体は、やはり多くの目的を有し、83の異なる構造物を含みます。敷地には巨大な倉庫、緑豊かな庭園、複雑な迷路があります。そのおとぎ話のような外見にもかかわらず、城の防御システムは、堀、天守閣、門、塔、櫓、様々な武器のための取り付け具を含んでおり、複雑で効果的です。それは何世紀にもわたって数多くの攻撃や自然災害に耐えてきました。

図7.16 | 姫路城、日本(Himeji Castle, Japan), Author: User “Bernard Gagnon”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

私たちが探求するこのような堂々とした複合施設の最後のものは、ダライ・ラマ5世によって1645年に建設されたチベットのラサにあるポタラ宮です。この宮殿は、現在のダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ(Tenzin Gyatso、1935年生まれ)が1959年に政治的亡命で離れるまで、チベット仏教の精神的かつ政治的中心地として機能しました。(図7.17)宮殿の基本目的は、仏教徒の僧院でした。その元となる基盤は修道士の集団にとって歴史的および精神的な重要性を持つ2つの礼拝堂を中心にしていました。この宮殿は、慈悲の菩薩である聖観音菩薩の神話的な住まいのポータラカ山にちなんで名前をつけられたものであり、この天界のような含意は信者にとって意味のあるものです。

図7.17 | チベットのラサにあるポタラ宮(The Potala Palace in Lhasa, Tibet), Author: User “Xiquinho”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

姫路と同様に、この山の斜面は外観において人目を引く構成要素であり、その巨大な複合体は非常に劇的な見栄えを誇っています。実際、守備目的であろうとなかろうと、堂々たる外観はしばしば高貴な建築物にとって非常に重要な特徴です。この宮殿の山へ対する有機的関係の印象は、その傾斜した壁、平らな屋根、および様々な構造につながる多数の通路によって強化されています。この複合体には、ダライ・ラマと修道士のための居住区、政府の執務室、教学の部屋、集会場、祭壇、図書館、保管室、数多くの礼拝堂などがあります。そこには、歴史的、精神的な指導者の像や肖像画、壁や幕に描かれた礼拝や教訓的な描写、瞑想や祈りのための作品などが含まれます。墳丘と墓にはラマたちの遺骸や重要な経典が納められています。

かつての富裕層の居住構造はしばしば失われています。しかしながら、私たちはここ数世紀の貴族の家を調べることにより、単純な住まいの必要性をはるかに超え、芸術家や建築家によって考案されたデザインの考え方のいくつかを示すような、住居づくりのための追加の傾向についての洞察を得ることができます。1729年、イングランドのチジックにバーリントン卿のために造られた家は、新パッラーディオ様式の建築の良い例です。(図7.18)ヴェネツィア・ルネサンスの建築家アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio、1508–1580年、イタリア)は、古代ギリシャとローマの建築物と建築理論を深く学び、それらに基づいたものの、彼の時代の手段、方法、必要性により適合するような新しいデザインを発展させました。彼の考え方は人気があり、今日まで西洋全体に大きな影響力を持っています。

図7.18 | チジック・ハウス、ロンドン(Chiswick House, London), Author: User “Patche99z”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

バーリントン卿は、パッラーディオ自身の考え方と他の関連する設計家の考え方の影響を受けて、新パッラーディオ様式のヴィラの設計を作り上げました。ここでの基本的な考え方は、ギリシャの神殿の前部とローマのドーム(ここでは、八角形の、あるいは円形または多面の基部によって支持されている)の組み合わせから派生しています。バーリントン卿は、絵画や家具、彼の建築図書館の優れたコレクションを展示するだけでなく、そこに住む家族に快適さを提供するような家を計画しました。周囲の庭園には大きな注意が払われ、そのデザインは全体的な計画の一部をしっかりとなしていました。それらはローマの庭園に触発され、彼の友人であり建築家、そして初期の造園家ウィリアム・ケント(William Kent、1685年頃-1748年、イングランド)によって設計され、その当時のイングランドの庭園で人気のあった古典的な彫像や小さな礼拝堂のようなものを備えており、そのため屋外での気分転換の散歩に対して興味深く、くつろげる場所を提供しました。建物と敷地のレイアウトの論理や秩序とヴィラの壮大な感覚とは、同様の優雅さを求めていた他の建築家たちによる称賛と模倣につながりました。

新パッラーディオ様式は、トーマス・ジェファーソンによって米国に持ち込まれ、バージニア大学のキャンパス、バージニア州の州議会議事堂、バージニア州シャーロッツビル近郊のモンティチェロの彼の自宅のために用いられました。(図7.19)ジェファーソンは、駐フランスのアメリカ大使の間に彼が収集した考え方を、地元の粘土から作られた赤レンガなどのより控えめな材料を使うことによって採用しました。彼はそれらの材料のことを、大理石や石灰岩よりも仰々しくない外観のための良い選択と考えました。モンティチェロでは、彼は構造物を地面の高さまで下ろし、木製の欄干、つまり直立した支柱によって支えられた手すりを屋根に付け加えました。それにもかかわらず、そのパッラーディオ様式のデザインの起源は明らかです。家の内部は、彼のオフィスへと開かれた彼の寝室、彼の執務部屋、そして彼のアメリカの工芸品のコレクションのような、ジェファーソンの有名な知的および仕事の習慣のための設備がたくさんあります。

図7.19 | モンティチェロ、バージニア州シャーロッツビル(Monticello, Charlottesville, VA), Photographer: マット・コズロウスキ(Matt Kozlowski), Author: User “Moofpocket”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

19世紀後半の金ぴか時代(1870–1900年頃)の米国は、技術的、商業的、経済的に急速に発展した時期で、裕福な実業家たちが都市部や彼らの好む海辺のリゾート地や山麓の保養地に巨大な邸宅を建てました。それらの中で、ヴァンダービルト家(その財産は海運と鉄道からもたらされました)は、いくつかの著名な住居を依頼し、そのほとんどは、米国内でアメリカ・ルネサンス(1876–1917年)の時代と様式として知られている、フランス人に触発されたボザール様式のものでした。

これらの住居の1つは、ロードアイランド州ニューポートにあるザ・ブレーカーズ(The Breakers)で、そのような構造を豊富に備えた豪華なリゾート地でした。(図7.20)リチャード・モリス・ハント(Richard Morris Hunt、1827–1895、米国)によって設計された海を臨むこの家は、5つのフロアに70室の部屋を有し、手入れされた庭園を持つ13エーカーの土地のほぼ1エーカーを占めています。それは、世界各地から集められた大理石や木材のような最も贅沢な材料で造られ、ここでの図書館に見られるように、豊かで壮麗な家具、装飾品、貴重な芸術作品で装飾されていました。(図7.21)明らかに、このタイプの居住用構造物は、種々の要素から家族を守るためだけの住宅の単純な必要性をはるかに超えており、富と権力について非常に誇大かつ誇張した表明を行うのに役立ちました。

図7.20 | ザ・ブレーカーズ、ロードアイランド州ニューポートにあるヴァンダービルト家の邸宅(The Breakers, Vanderbilt’s mansion in Newport, RI), Author: User “Menuett”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.21 | ザ・ブレーカーズの図書室(The library at The Breakers), Photographer: マット・ウェイド(Matt Wade), Author: User “UpstateNYer”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

裕福なアメリカ人の要求を満たした建築家たちの設計思想とは対照的に、20世紀初頭には、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)によって開発され、彼がプレイリースタイル(草原様式)と呼ぶ、生活空間を提供するための新しい概念が生まれました。彼は、大地を抱きしめ、風景と共鳴し、家の中の空間とその周囲の自然の要素との間のコミュニケーションを促進するような構造的な広がりをもって、当時のアメリカの家のための標準となっていたどっしりとした形態に対抗しようとしました。

この思考の典型は、おそらく、ライトの落水荘(彼がピッツバーグのカウフマン家のために作ったペンシルベニア西部の山あいの家)のデザインで実現されました。(図7.22)彼らの要望に応じて、ライトは彼らが好む気晴らしのスポットの要素をデザインに取り入れました。彼らがピクニックをした岩場の露頭がリビングルームの中にあり、隣接するベア・ランの滝が自宅の片持ち(壁から突き出た自らを支えるような剛性構造)のテラスの下に注ぎ込まれます。ライトの住宅の大部分と同様に、この場所には、流れるような内装空間、非常に多くの窓、豊富な自然光があるとともに、構造物を自然環境に組み込むために慎重に調整された石と木材を使用しています。

図7.22 | 落水荘、ペンシルベニア(Fallingwater, Pennsylvania), Architect: フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright), Author: User “Daderot”, Source: Wikimedia Commons, License: CC0 Public Domain

7.4 共同体と統治

明らかに、私たちが調査した宮殿と複合施設の多くには、共同体の統治の必要性のための設備が含まれていました。歴史のなかには、その創造において共同体の必要性に対してより狙いを定めたものもありましたが、多くの場合、他の目的と組み合わされたものもありました。最古の文明の台頭の時から、統治と宗教的表現の必要性はしばしば合体していました。

私たちは、今日のイラクとイランにあたる古代近東のメソポタミアの流域において、ウルのジッグラトの構造の中でこれが例証されているのを見ることができます。(図7.23と図7.24)神々が天国にいるという考えのもと、ジッグラトは神殿の基礎となり、神殿を神々のいる天の領域へと近づけるように持ち上げる人工の山として考案されました。頂上にある神殿への道は急で、神々への接近は適切に強化され、形式化されました。同時に、この基本的な祭壇の構造は、他のさまざまな共同体へのサービス、記録の保管、商業および統治の機能のための設備を含む複合施設の一部でした。このコンパクトな複合施設は共同体の中心に位置し、多くの面で生活の中心地となりました。

図7.23 | ウルのジッグラト、イラク(Ziggurat of Ur, Iraq), Author: User “Hardnfast”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 3.0
図7.24 | ウルのジッグラトのデジタルレンダリング(Digital Rendering of the Ziggurat of Ur), Author: User “wikiwikiyarou”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

古代近東の人々は、この建物を耐久性が証明されていない泥れんが(時には焼成されたもの)で造りました。そのため、紀元前2400年頃から紀元前6世紀まで建設されたこれらの構造物の遺跡は一般にあまりよく保存されていません。それでも、それらが建造され使用された方法を再構築するのに十分な手掛かりがこの遺跡にはあります。

ローマ人は、一般的に、各都市の中心にある公開された公共空間であるフォルムに共同体の機能のための設備を作りました。都市は、産業、商業、共同体、住宅といったさまざまなタイプの必要性に特化したエリアで組織された格子状の計画でしばしば配置されました。(ヴェルボーニアの基本計画(The Master Plan of Verbonia): https://classconnection.s3.amazonaws.com/864/flashcards/4000864/jpg/roman_city_plan-141E58EF1FF4A4DE1CC.jpg)建物の数と種類は様々でしたが、しばしば神殿、図書館、市場、公衆浴場(テルマエ)、司法の構造物などが含まれました。ローマの中心にあるフォルムは、歴代の支配者たちによって作られた多くの建築的な声明と公共の利益のために付加されたものの場所でした。

ローマのトラヤヌスのフォルムで最も影響力のある建物の1つは、法廷、商業施設、公衆の集まりの中心であるバジリカ・ウルピアでした。(図7.25)このバジリカには、身廊、つまり長く、広く、そして開放された中心の空間があり、その横にこの領域を流動的に広げる側廊がありました。(図7.26)この設計は、他の目的のために、とりわけおそらく、キリスト教徒の集団が成長した後の世紀に登場するキリスト教の教会にとって必要な会衆の空間のために、容易に適応可能な概念を提供しました。

図7.25 | ローマのバジリカ・ウルピアの素描(Drawing depicting the Basilica Ulpia, Rome), Artist: ジュリアン・ガデ(Julien Guadet), Author: User “Joris”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.26 | バジリカ・ウルピアを描いたイラストレーション(Illustration Depicting the Basilica Ulpia), Author: Encyclopedia Britannica, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

重要な共同体の空間は、時には境界が隣接しているものの別々の建築構造として存在することがあります。それにもかかわらず、これらの空間は、集合の場として考える必要がある重要な場所であり、それらを定義する周囲の建築物に関連しています。ワシントンD.C.のナショナル・モールはそのような場所の1つです。(図7.27)私たちはそこを、首都の中の場所によって、そして周囲に立ち並びそこを定義するようなすべての政府および他の公共/共同体の建物の中の位置によって特定します。ある人が共同体の中心としてのその意義を実感するためには、大統領就任式の祝典やその他の大規模な公的集会の場としてのその場所を見るだけで十分です。

図7.27 | ナショナル・モールとワシントン記念塔、ワシントンD.C.(National Mall and Washington Monument, Washington, DC), Author: User “Christoph Radtke”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

儀式と娯楽のための共同体の必要性は、古代から特別に意図された建築作品で対処されてきました。ギリシャ人とローマ人の双方が劇場、すなわち演劇の上演のための屋外建造物や、アンフィテアトルム、すなわち見世物のための中心空間を備えた円形または楕円形の建物を設計・建設し、それらは今日までこのような構造物のためのモデルを提供しています。(図7.28、図7.29)ギリシャ人が宗教の祭りと儀式的な演劇を提示するための基本的な構想を考案しましたが、工学と材料開発に素晴らしい創造性を持っていたローマ人が、変化する必要性と幅広い用途に対応するために、これらのデザインの潜在力を大幅に高めました。

図7.28 | エピダウロスの劇場(Theatre of Epidaurus), Author: User “Olecorre”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.29 | ローマのコロッセオ(Colosseum in Rome), Author: User “Andreas Tille”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

建築の歴史への最も重要な貢献の1つは、ローマ人による建築材料として使用するためのコンクリートの開発でした。その強度、順応性、適応の可能性の大きさは、コンクリートをその時に使用されていた切り石よりもはるかに優れたものとしました。これらの進歩により、ローマ人は以前に使用していた種々のタイプの円天井や掛け渡しの空間のための手段を拡張して、新しい建築形態を創造することができました。劇場とアンフィテアトルムという共同体のためのこれらの重要な構造の両方が拡大され、ローマの建築的貢献のために新しい用途に供されました。

太平洋諸島の文化は、ネイティブアメリカンの文化と同様に、部族の遺産を特に称賛し、その遺産に関連する共同体の出来事をお祝いします。北米のネイティブアメリカンのクワキウトル族(Kwakiutl Nation)は、一族のトーテム(その人々の集団にとって重要性を持つ物体または動物)をワワディトラ(ブリティッシュコロンビア州ヴィクトリアにこの建物を建てた首長を記念して、ムンゴ・マーティン・ハウスとも呼ばれています)に設けました。(図7.30)ニュージーランドのワイタンギにあるマオリ族の集会所では、彼らの共通の文化の認識と祝典が表現されており、これは集団のイベントのための前面の広いポーチと大きなホールを備えています。(図7.31および図7.32)また、内部と外部の彫刻と塗装による装飾は、そのような共同体の場所に集まる個人にとって、特定の図像学的および象徴的な意義を持っています。

図7.30 | ワワディトラ(ムンゴ・マーティン・ハウスとしても知られるクワキウトル族の「大きな家」)と紋章のポール(Wawadit’la, also known as Mungo Martin House, a Kwakwaka’wakw “big house”, with heraldic pole.), Artist: ムンゴ・マーティン首長(Chief Mungo Martin), Author: Ryan Bushby, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.5
図7.31 | ワイタンギの集会の家がある場所(Whare at Waitangi Treaty House site), Author: User “Andy king50”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0
図7.32 | ニュージーランド、アイランズ湾のワイタンギ(Waitangi in the Bay of Islands, New Zealand), Author: Phil Whitehouse, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 2.0

7.5 商業

商業用建物は、どの時代においても出現しています。いくつかの場所における交易と物々交換の初期のシステムは、一時的または永続的な店舗を持つ市場と商業施設を必要とするやり方でもって最終的に形式化されました。屋台を伴う野外市場は多くの場所で引き続き使用されていますが、それとは別の店舗や建物が商業およびサービス取引のために進化しました。

初期の例は古代ギリシャのアテネに表れており、そこにはまた野外市場、つまりアゴラもありました。ペルガモンの王アッタロス2世(King Attalos II of Pergamon、在位紀元前159–138年)によって建造されたアッタロスの柱廊は、大理石と石灰岩でできた2階建ての覆いのある歩道で構成され、一方の側に柱があり、他方に閉じた壁がありました。(図7.33)閉じた壁に沿って、各階に21の部屋があり、各部屋は1店舗のスペースを提供しました。これらの部屋は、ローマのヴィラや集合住宅の地上階で見たものと同様の特徴と目的を持っていましたが、ここではより集中した買い物のエリアを提供していました。

図7.33 | 聖使徒聖堂と古代のアゴラの博物館(Church of the Holy Apostles and Museum of Ancient Agora), Author: User “A.Savin”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

私たちの近代的なショッピングセンターやデパートの設備は、商品の売買、販売、消費者主義についてのさまざまな考え方で設計されていましたが、耐久財や生鮮食品のオンラインショッピングの急速な増加に見られるように、このシナリオはおそらく常に進化していくでしょう。実際、食料品店やデパートは完全に時代遅れになってしまうかもしれません。しかし、19世紀と20世紀におけるそれらの発展は、建築設計の新しい可能性を示しました。

一例は、ルイス・サリヴァン(Louis Sullivan、1856–1924年、米国)によって設計され、1904年に建設されたシカゴのカーソン・ピリー・スコット・ストアです。(図7.34)これは高層ビルの開発を可能にした鉄骨フレームまたは「スケルトン・フレーム」建築の初期の活用の1つであり、このような建物は、小売やオフィス空間の新たな可能性を開拓しました。ここでは、大きな地上階の窓と角にある入り口が歩行者を引き付けるための大きな展示スペースを設けることを可能にし、広々とした複数階建ての内部は、特にその前身であった小規模のお店や市場に比べて、買い物客に幅広い品揃えを提供しました。

図7.34 | カーソン・ピリー・スコット・ビルディング、イリノイ州シカゴ(Carson, Pirie, Scott and Company Building, Chicago, IL), Author: User “Beyond My Ken”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

サリヴァンは建物の表面デザインにおいてアール・ヌーヴォーのモチーフとボザール様式の考え方を組み合わせたため、構造だけでなく装飾的なアプローチもまた革新的でした。(図7.35)扉と1階の窓の上にある金属を鋳造して製造したレリーフパネルは、1890–1910年頃のアール・ヌーヴォー運動の中心である精巧で曲線的で植物を基にしたモチーフが取り入れられ、潜在的な顧客に対する視覚的な魅力を高めました。

図7.35 | カーソン・ピリー・スコット・ビルディングの北西入り口(The northwest entrance to the Carson, Pirie, Scott and Company Building), Author: User “Beyond My Ken”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0

この時代には他の商業会社のための新しいデザインも登場しました。建築家のオットー・ワーグナー(Otto Wagner、1841–1918年、オーストリア)によって設計されたオーストリアのウィーンにあるオーストリア郵便貯金銀行は、地上階の広々とした内部空間を覆う巨大な複数階建てのファサードを備えています。1905年に完成したときには、その洗練されたモダンな美しさは驚くほど新しく、それまでのものとは異なっていました。(図7.36)デザインにおけるワーグナーの目標の1つは、信頼と財務面の安全性という感情を顧客に生じさせるような、強さと頑丈さの感覚を作り出すことでした。主となる銀行の顧客エリアは自然光で満たされています。ワーグナーは、大理石、鋼鉄、磨かれたガラスを使用して、鉄筋コンクリートの建物の簡素化された装飾を行い、アール・ヌーヴォーの美しさから離れ、それを彼のモダニズムの感覚で置き換えました。

図7.36 | オーストリア郵便貯金銀行(The Austrian Postal Savings Bank), Author: User “Extrawurst”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

超高層ビルの出現を促進した鋼鉄と鉄筋コンクリートの使用は、真に革命的な建築物をもたらし、今日も続く高さを求める競争を開始しました。世界中の富裕な起業家と野心的な開発者が、近代的な特質を持つ建物の競争に加わりました。1つの例は、ウィリアム・バン・アレン(William van Alen、1883–1954年、米国)によって設計されたニューヨークシティのクライスラー・ビルディングです。(図7.37)ステンレス鋼で作られた建物の頂点の階段状部分のうねのある日が差し込む模様を含むアール・デコ様式(1920–1940年頃)の装飾は、アメリカの産業主義と自動車を称賛しています。1046フィート(319メートル)のクライスラー・ビルディングは、1930年の完成後11か月間、世界で最も高い建物でした。(1931年に1454フィート(443メートル)のエンパイア・ステート・ビルディングがこれを上回りました。)

図7.37 | クライスラー・ビルディングの最上部、ニューヨーク州ニューヨークシティ(The Top of the Chrysler Building, New York City, NY), Author: User “Leena Hietanen”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

より最近の例は、シーザー・ペリ(César Pelli、1926年生まれ、アルゼンチン、米国在住)によって設計された、マレーシアのクアラルンプールにあるペトロナスツインタワーです。(図7.38)それは1999年に落成し、数年の間最も高い建物であり、ツインタワーとしては現在でも最も高いままです。建物のデザインモチーフはイスラム芸術と文化に触発されています。たとえば、それぞれのタワーはルブ・エル・ヒズブというイスラム教徒の象徴、すなわち8つの頂点を持つ星型を形成する2つの重なり合う正方形の形をしています。どちらの構造物も商業およびビジネスの企業を抱え、現代ビジネスの建築を象徴しています。

図7.38 | ペトロナスツインタワー、マレーシア(Petronas Twin Towers, Malaysia), Author: User “Morio”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

20世紀後半には、建築上の創意工夫、新しい材料、そしてコンピュータ設計の潜在能力によって、幾人かの建築家たちが、あらゆる種類の異なるニーズに対処することができる構造に対する根本的に革新的なアプローチを開発しました。この点で最も革新的なのは、博物館、ビジネスタワー、住居、劇場を含む世界中の建物を設計しているフランク・ゲーリー(Frank Gehry、1929年生まれ、カナダ、米国在住)です。

彼は、ロサンゼルスで2003年に完成したウォルト・ディズニー・コンサートホールを作り上げました。(図7.39)舞い降りるような多種多様の曲線状の形状と体積のためにチタンの被覆を使用することにより、視覚の点からいえば彼のいくつもの建物は実質的には彫刻のようです。しかし、いずれの場合でも、彼の建物はそれが収容する活動のための空間を作る上で効果的かつ動的であることが証明されています。このコンサートホールの音響は、非常に多くのアメリカの漫画、カートゥーン、映画の創作者であるウォルト・ディズニーの気まぐれな精神を捉えた建築形態の美しさと同様に、高く評価されています。

図7.39 | ウォルト・ディズニー・コンサートホール、カリフォルニア州ロサンゼルス(Walt Disney Concert Hall, Los Angeles, CA), Author: John O’Neill, Source: Wikimedia Commons, License: GFDL

7.6 崇拝

私たちが注目してきたように、崇拝のための構造物は、時には他の共同体の必要性のために創造されたものと組み合わされたり、またはその近くにあったりしました。私たちはこれを、ジッグラト、ローマのフォルム、宮殿などで見ました。しかし、私たちはまた、宗教上の目的のみを意図した建築物のかなりの歴史を持っています。初期の時代から、神聖な建物には2つの特徴的な概念がありました。それは神のための家であるか、信者のための家であるかということです。それを超えたところでは、それらの建物は個々の祈りの活動のためであるか、会衆の集団を収容するためのものであるかもしれません。これらの目的のために設計された建物のタイプを検討する際には、これらの点を心に留めておくことができます。

最も初期の例の中には、古代エジプトのピラミッド複合体があります。(図7.40)ピラミッドは数百万の巨石で構成された墓で、数学的に整然とした幾何学的構造で星々の方へ注意深く向けられていました。ピラミッドは、埋葬者と埋葬品を守るために墓地に重い石を置くことから始まるエジプト以前の埋葬の慣行から、数千年にわたって進化してきました。

図7.40 | エジプト、ギザのピラミッド複合体の図(Rendering of the Giza Pyramid Complex, Egypt), Author: User “MesserWoland”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

エジプト人は、王族の死者のために、ナイル川の西岸にこれらの精巧で大規模な建物の一群を建設し、ネクロポリス、すなわち死者の都を作りました。ギザでは、ファラオや他の王族の遺体が、宮殿からピラミッド区画の端にある河岸神殿へと川を下って運ばれました。司祭が死者の体をミイラ化させて埋葬の準備を整えた後、その遺体はピラミッド近くの遺体安置用の神殿へと移されます。(図7.41)この神殿は、ミイラをピラミッド内に安置する時に儀式が行われた場所であり、そこでは王をその死後も敬うために必要とされる永続的な儀式も行われました。

図7.41 | ギザのピラミッド(Giza Pyramids), Author: Ricardo Liberato, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0

王の命により建設され、そこで王が仕えたであろう生者のための神殿もありました。1つの例は、エジプトの歴史の中では比較的遅く建てられたものの、多くの典型的な特徴を持つエドフにあるホルス神殿です。それはパイロン型と呼ばれ、その名前は2つの直立した構造物から来ています。この構造物は、記念碑的なファサードを形成し、主要な儀式用の門の側面にあります。(図7.42)神殿へと続く道は、しばしばスフィンクス、つまり一部が人間であり一部が動物である想像力豊かな混成の生き物の列と並んでおり、主扉につづいていました。パイロンの壁の向こうには開いた中庭(図7.43)があり、そして多柱式、つまり平らな屋根を支える柱の複数の列がある構造のホールから聖域へとつながっていました。多くの神聖な構造物の典型は、このような段階的な進展であり、人は公的または世俗の空間から、徐々により神聖で、しばしばより制限された領域を通って、最終的に最も神聖で保護された部分へと進みます。ほとんどの場合、聖職者やその他の聖なるものに身をささげた人だけが最も奥深く聖なる空間である聖域へ入ることが許されますが、大部分の会衆や崇拝者は神殿の中の神聖さが下回る部分に限定され、一般の人々は敷地への進入が完全に拒否されることがあります。

図7.42 | エドフのホルス神殿(Temple of Horus, Edfu), Author: User “ljanderson977”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.43 | エドフ神殿の内側(Inside the Edfu Temple), Author: User “Than217”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ギリシャのアテネにあるヘーパイストスに捧げられたようなギリシャ神殿は、会衆のためのものではまったくありませんでした。(図7.44)それらは、内陣という礼拝像を中に収めるための部屋を備えた神のための家として設計されていました。時には神殿内に礼拝用の宝物庫もありましたが、儀式と捧げものは屋外の神殿の中庭で行われました。ジッグラトのように、ギリシャの神殿は、神々が高い場所、つまり天界の領域にいるという信念を組み入れていたため、それらはしばしばアクロポリスという丘の上高くに設けられた聖なる都市に位置していました。

図7.44 | ヘーパイストスの神殿、アテネ(Temple of Hephaestus, Athens), Author: User “sailko”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

これは、アテネの都市の守護神であるアテーナーの女神に捧げられたパルテノン神殿の場合にはっきりと見ることができます。(図7.45と図7.46)すべてのギリシャ神殿と同様に、パルテノン神殿の要素の大きさと関係を秩序付ける数学的関係を見出すことができます。この構造物の長さと幅、高さと幅、柱の直径、およびそれらの間隔はすべて、4対9の黄金比に従います。構造物のさまざまな要素間にこのような1つの関係を使用することは、審美的に心地の良い、統一された、よりしっかりとした外観を与えます。同様に、いくつかの視覚的な補正も使用されています。柱はわずかに内側に傾いているとともに、柱が立つ基部である土台床は、真ん中でわずかに上方に弓なりになっており、これらは両方とも完全にまっすぐで平らな外観を与えます。

図7.45 | アテネのアクロポリス、ギリシャ(The Acropolis of Athens, Greece), Author: User “Salonica84”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.46 | パルテノン神殿、アテネ、ギリシャ(The Parthenon, Athens, Greece), Author: Steve Swayne, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 2.0

ローマの神殿はしばしばギリシャ人の神殿の模倣を組み込んでいましたが、ローマ人はそのデザインに多くの実用的な変更を加え、ギリシャ人が離れた場所を好んでいたのとは対照的に、共同体の中心にそれらを配置しました。初期の帝国時代に、9つの惑星の神々の集まりを敬うための、重要かつ非常に革新的な神殿のデザインが作り出されました。個々の神ではなく、集団を祭り上げるために、このパンテオンの神殿は異なる形をとりました。(図7.47)

図7.47 | パンテオン、イタリアのローマ(The Pantheon, Rome, Italy), Author: Roberta Dragan, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.5

この建物には、三角形のペディメントを支える柱でできた伝統的な神殿の前面部がありました。しかしながら、長方形の切妻屋根付の構造へと続くのではなく、その内面は開かれた円形であり、別々の壁龕、つまり壁の浅い窪みの中に設けられた礼拝用の像が周囲に並んでいました。(図7.48)その円形の内部は円筒として機能し、巨大なドーム状の空間を支え、ドームの頂上には円形の開口部であるオクルスがありました。円筒とドームの円を組み合わせると、完全な球(直径=高さ)が作り出されます。(図7.49)構造物全体は、頑丈なローマのコンクリートを使用して建設されました。このコンクリートは、支持体のないドームの作成を可能にしました。支持体のないドームは、ドームの重量を大幅に減少させるような格間、つまり格子状のくぼみの使用によって大いに促進されました。円と球は天井の構造のみの特徴ではなく、パンテオンの内装と外装のすべての建築的・装飾的要素でそれらの形状の繰り返しが用いられています。

図7.48 | パンテオンの内部、ローマ(Interior of the Pantheon, Rome), Artist: ジョバンニ・パオロ・パンニーニ(Giovanni Paolo Panini), Author: Google Cultural Institute, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.49 | ローマにあるパンテオンの断面図(Cross-section of the Pantheon in Rome), Author: User “Cmglee”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

これらの特異な特徴に加えて、パンテオンは、会衆が入ることを許された最初の神殿構造物でした。ひとたびキリスト教が古代ローマのいろいろな宗教に取って代わった後は、ミサに参列する信者たちを収容するために、大きくて開かれた内部の空間が必要になったことでしょう。パンテオンは、キリスト教の教会の必要性をよく満たし、紀元609年に改修されました。キリスト教の教会としてのパンテオンの適応によって、私たちはそれがもともと使用されるように意図されていたとおりにパンテオンを見ることが妨げられていますが、しかしパンテオンはいまだによく保存された状態で残っており、その構造と床や内部の柱の精巧な大理石の基本的な装飾はほとんど変更が加えられていません。なぜならそれが、紀元2世紀に建てられて以来、崇拝の場としての継続的に奉仕し続けているためです。

インドにおける最初期の崇拝の証拠のいくつかは、それが洞窟で行われたことを示しています。私たちはまた、存在している岩を掘削し、この目的のために大きな洞窟を作って、崇拝の空間を創造しようする試みも見ることができます。岩を削った構造物は世界中の多くの場所に存在しますが、何世紀にもわたってインドにおいてはその規模は卓越しており、その耐久性が高いため、多くの素晴らしい例が保存されています。

非常に初期の例は、バラバルの丘にある紀元前3世紀のロムス・リシ洞窟です。(図7.50)これは未完成のため、掘削の方法と計画について良い知識を得られます。これには、小さな円形のものにつながる大きな長方形の部屋の追加が含まれました。門の枠にある彫刻の扱いは、初期の石による建築と装飾が、木材などの非恒久的な素材で作られたそれまでの作品を模倣していたことの良い例であり、このことは世界中の初期の建築設計の場合と同様です。ここでは、デザインは格子窓、梁、曲げ木構造をまねています。

図7.50 | ロムス・リシ洞窟(Lomas Rishi Cave), Author: User “Neilsatyam”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

その後、11世紀のチョーラ朝時代のヒンドゥー教の神シヴァに捧げられたブリハディーシュヴァラ寺院のようなインドの礼拝施設は、この種の礼拝空間の概念が非常に複雑になっていることを示しています。(図7.51)遠くの端にある塔はガルバ・グリハ、つまり聖域の上にあり、エドフのホルス神殿と同様に、世俗の(日常の)空間から最も神聖な空間への段階的な進展があります。全体は、多くの神聖な構造にも見られる機能である基台の上で持ち上げられています。ここでは、聖域に近づく前に門のある中庭に入り、階段を登り、マンダパ、つまり信者のためのホールを通り抜けることにより、近づき始めなければなりません。主たる寺院の外ではあるものの中庭の中には、付随的な寺院と神殿があります。これは崇拝が多神教的、すなわち多種多様な神々を崇拝するためです。

図7.51 | ブリハディーシュヴァラ寺院、インド(Brihadeshwara Temple, India), Author: User “Abhikanil”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

ほとんどのヒンドゥー教および仏教寺院の場合と同様に、確かに聖職者の義務である式典および儀式の機能があるにもかかわらず、一般人が聖域に入ることは制限されていません。これは、神との関係は一般的に個人的なものとみなされており、聖職者によって仲介はされないためです。

ヒンドゥー教徒と仏教徒の神格の共存は、彼らの神殿で証明されるように多くの場所で現れていますが、通常、特定の場所ではどちらか一方が他方よりも優勢です。寺院に加えて、仏教に関連する別の基本的な構造は仏舎利塔です。(図7.52)最も古い仏舎利塔の1つは、仏教が最初に興った場所であるインドのマディヤ・プラデーシュ州のサーンチーにあります。これは紀元前3世紀に建設され、仏教の創始者である釈迦牟尼のこの世での遺骸の一部を含むと考えられていたため、ある種の埋葬塚として捉えられていました。それは背の高い石の塀に囲まれており、信者が塀で囲まれた領域に入り、無表情な小さな石が積まれた塚を巡回、つまり周囲を歩くように設計されています。

図7.52 | サーンチーの仏舎利塔、マディヤ・プラデーシュ(Sanchi Stupa, Madhya Pradesh), Author: User “Ekabhishek”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0

象徴性の大部分は、ドームの中心から立ち上がるヤスティ、つまり柱などの形態に関連しており、これは大地をその上の空から隔てるアクシス・ムンディ、すなわち世界の軸を表します。塀と入口もまた、仏教とヒンドゥー教の信仰に関連する神話の彫刻で覆われています。(図4.23参照)仏教の仏舎利塔が中国、日本やその他の場所に伝播したとき、そのデザインは固有の建築の伝統を含むように進化し、結果として仏舎利塔の形態はヒンドゥー教や仏教の神聖な建物である多階建ての仏塔(パゴダ)になりました。

イスラム教の崇拝のための中心部は、モスクとして知られる建築構造に収容されています。他の信仰と関連している教会や寺院は、一般的には4つの基本方位に面し、通常その祭壇は太陽が上ってくる東を向いていますが、モスクは崇拝者がキブラ、すなわちイスラム教の中心点の都市であるメッカに直面するように調整された固定の壁面の方を向くように、常に位置が定められています。この方向は、建物が世界のどこに設置されているかにかかわらず一貫しています。モスクにはいくつかの異なる標準的な建築形態が存在しますが、その最も目立つ外観の特徴は、祈りの呼びかけが発せられる細長い塔であるミナレットです。スルタン・アフメト・モスクには6つのミナレットがありますが、その他の場所では4つで共通しています。(図7.53)

図7.53 | スルタン・アフメト・モスク、イスタンブール、トルコ(Sultan Ahmed Mosque, Istanbul, Turkey), Author: User “Dersaadet”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

キリスト教の会衆のための教会にとって最も基本的な建築形態は、ローマの公的建造物の形態から取り入れられた縦長の設計の構造であるバシリカです。(図7.54)ローマのバシリカには、長い側面の1つに入り口があり、広く開放的な内部空間である身廊につながっていました。ローマ人のものとは違って、キリスト教のバシリカは、1つの端部に入り口があり、その長さに沿って中央の身廊と横の側廊に分かれており、そして縦長の建物の入り口とは反対側の端部には、祭壇を備えた半円形のアプスつまり窪みがあります。(図7.55)私たちが見てきた他の礼拝の中心施設と同様に、教会の最も神聖な部分は、最も世俗的な場所や公共の場所からはいちばん離れています。教会の一方の端から他方の端へ進むことは行列の儀式であり、身廊の横にある柱の長い列、ゴシック時代までは重い木や石造りの構造物であった長い外壁、この構造の構成要素の中に差し込む透光によって高められます。

図7.54 | サン・ピエトロ大聖堂(バシリカ)の図(Diagram of old St. Peter’s Basilica), Author: User “Locutus Borg”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.55 | サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、イタリア(Basilica of Sant’Apollinare in Classe, Italy), Author: Angela Rosaria, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

ローマのバシリカ型式をモデルとして紀元4世紀に建てられた、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂(図7.56)がそのような事例でした。また、ローマの世俗的モデルに基づいて、入り口の前に置かれたアトリウムがありました。元々のサン・ピエトロ大聖堂は何世紀にもわたってキリスト教世界の中心であり、教会建築のモデルでしたが、それはイタリア・ルネサンス時代とバロック時代に、今日のローマに存在するはるかに大きな構造物に置き換えられました。

図7.56 | ローマのコンスタンティヌスのバシリカの再建と素描(Drawing and reconstruction of the Constantinian Basilica, Rome), Artist: H・W・ブリュワー(H. W. Brewer), Author: User “Lusitana”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

西ローマ帝国のキリスト教徒はバシリカまたはラテン十字プラン式を使用しましたが、東ローマ帝国(より一般的にはビザンティン帝国として知られています)の人たちもまた、セントラルプラン式を採用しました。セントラルプラン式は、パンテオンのために使用されたような円形のプランにその起源がありました。しかしながら、西ローマ帝国では円形またはセントラルプラン式の教会は、アーヘンのカール大帝のもの(図7.57)のような宮殿教会、霊廟(墓所の建物)、殉教者廟(殉教者、つまり信仰のために死んだ人たちの死を記した場所)などに使われました。そこでは、祭壇の配置は大勢の人々に向かい合う必要はありません。

図7.57 | アーヘン礼拝堂の間取り図(Floorplan of Aachen Chapel), Artist: ゲオルク・デヒーオ(Georg Dehio), Author: User “Fb78”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

おそらく最もよく知られたバシリカあるいはラテン十字式の教会は、1144年に始まったヨーロッパのゴシック様式の教会です。(図7.58)これらの建造物が建てられていたとき、それらは「ゴシック」とは呼ばれておらず、その代わりに「オプス・フランシゲナム」つまり「フランク人の作品」と呼ばれました。なぜなら、その起源がサン=ドニ大聖堂にあるためです。「ゴシック」という用語は、芸術家であり歴史家のジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari、1511–1574年、イタリア)によって16世紀に造られたものであり、もともとは侮辱を意図していました。彼は、この時代にイタリアで実践されていた古代ギリシャとローマの形態に基づいた建築様式を、中世のキリスト教とそれが関連している古典の学習や文化の破壊とから区別したいと考えました。彼は、ゴート族が古代ローマの洗練された文化を侵略し破壊したゲルマン民族であると信じていました。彼の侮蔑的な名前は残りましたが、そのもともとの否定的な意味は残りませんでした。

図7.58 | アミアン(ノートルダム)大聖堂の間取り図(Floorplan of Amiens Cathedral), Artist: ゲオルク・デヒーオ(Georg Dehio), Author: User “Mattis”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

最初のゴシック様式の建築は、アボット・シュジェール(Abbot Suger)によって設計され、1144年に完成した、フランスのパリ郊外のサン=ドニ大聖堂にある再建された聖歌隊席で見られました。(図7.59)ここでは、ゴシック大聖堂をよく表している特徴のいくつかが使われていました。尖頭アーチ、リブボールト、飛び梁、ステンドグラスの窓などです。ローマ式の円形のアーチとは異なり、ゴシックアーチあるいは尖頭アーチは、平行な側面を持つ2つの弧によって形成されます。(図7.60)リブボールトは、2つの筒型ボールトの交差点に形成され、ボールトの重量を支えるためにときどき石の肋材が追加されています。飛び梁は、アーチの形で外壁の上部に接続された、建物の外側に位置する耐荷重要素です。(図7.61および図7.62)尖頭アーチ、リブボールト、および飛び梁の組み合わせにより、内部空間の高さを大幅に増やすことができ、外壁の厚さが劇的に減少しました。この発展により、教会全体でのステンドグラスの幅広い使用と、円花窓、すなわち通常は主要なポータルの上にある聖母マリアに捧げられた円形のステンドグラスの窓の追加へとつながりました。(図7.63)はるかに多く大きな窓は、サン=ドニ大聖堂の場合と同様に、かつては暗かった教会の内部に自然な多色の光が注ぎ込むことを可能にしました。(図7.64)

図7.59 | サン=ドニ大聖堂(Basilica of St. Denis), Author: User “Ordifana75”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.60 | ローマ式アーチとゴシックアーチの図(Roman Arch/Gothic Arch Diagram), Author: ジェフェリー・レミュー(Jeffrey LeMieux), Source: Original Work, License: CC BY-SA 4.0
図7.61 | アミアンにおける我らが貴婦人の大聖堂の飛び梁の図(Diagram of flying buttress of the Cathedral Basilica of Our Lady of Amiens), Author: User “BuzzWikimedia”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図7.62 | ブールジュ大聖堂(Bourges Cathedral), Author: User “sybarite48”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 2.0
図7.63 | ランス(ノートルダム)大聖堂、フランス(Reims Cathedral, France), Author: Magnus Manske, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 1.0
図7.64 | サン=ドニ大聖堂の回廊(Ambulatory of the Basilica of St. Denis), Author: User “Beckstet”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

ゴシック様式の教会は、地域的な変化を伴って、大陸ヨーロッパとイングランドにわたって通常は共同体の中心地に(特にそれらが大聖堂、すなわち主教の教会であるときには)建設されました。町に近づく途中で遠くから見たとしても、大聖堂自体の中に立っていたとしても、この建物はまるで天国に達するように他のすべてのものよりも高くそびえたっていました。それらは教会の教義、聖書の物語、そしてマリア、使徒、および他の聖人の説明を教えるための建築的および彫刻的な装飾で満たされました。ポータルは特に彫刻的な努力の焦点でした。預言者、王、聖人の高浮き彫りの立像は、扉のわき柱、つまり扉の両側に直立した支持体の側面を飾りました。(図7.65)そして他の多くの聖なる人物や世俗的な人物、しばしばイエスと4人の福音書記者、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの象徴の浮き彫りの彫像が扉の上にあるティンパヌムに盛り込まれていました。(図7.66)これらの記念碑的な建造物を担当する建築家、石工、彫刻家は、高度に熟練し、かつ創造的であり、19世紀後半から20世紀初頭になって近代的な構造を持つ鋼鉄製の超高層ビルが高さとスケールでそれらを上回るまで、それらは西洋の都市景観の支配的形態にとどまりました。

図7.65 | 殉教者たち、シャルトル大聖堂(Martyrs, Chartres Cathedral), Author: User “Ttaylor”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0
図7.66 | シャルトル大聖堂の王の扉口の中央ティンパヌム(Central tympanum of the Royal portal of Chartres Cathedral), Author: Guillaume Piolle, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 3.0

ゴシック様式の大聖堂の中に歩み入ることの全体的な効果は、上方の広大で明るく新鮮な空気に満ちた空間へと引き上げられ、肉体的なものから解き放たれ、精神的なものの中に引き込まれることです。(図7.67)この効果はゴシック様式のキリスト教の見解の典型であり、そこでは肉体的および感覚的な世界は、高潔さ、精神的な覚醒、および宗教的な献身のために無視されたり、蔑視されることさえあります。

図7.67 | ソールズベリー大聖堂の身廊、ウィルトシャー、イギリス(Nave of the Salisbury Cathedral, Wiltshire, UK), Author: User “Diliff”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

現在、すべての教派のキリスト教教会は概してバシリカの模範に従っていますが、聖域は多様な儀式の慣習によって大きく異なります。尖頭アーチと神秘的な光を内部に透過するガラスの窓を備えたゴシックタイプは、今でも一般的です。

アップデートされた例の1つは、E・フェイ・ジョーンズ(E. Fay Jones、1921–2004年、米国)によって設計されたソーンクラウン・チャペルです。ジョーンズは、自然の中に設けられ拡散した光を受け入れる、優雅でシンプルな無宗派の礼拝堂の数々を作りました。(図7.68と図7.69)ジョーンズはフランク・ロイド・ライトの教え子であり、構造と環境を完全に統合するために単純な、現地の素材を使用するというライトの原則に触発されました。アーカンソー州のユーリカ・スプリングスにあるソーンクラウン・チャペルの最も目立つ特徴は、その構造の軽快な風通しのよさです。ジョーンズによるどの礼拝堂も、その内装の全体が、森の中で完全にくつろげるように見える小さな聖域となっています。

図7.68 | ソーンクラウン・チャペル(Thorncrown Chapel), Architect: E・フェイ・ジョーンズ(E. Fay Jones), Author: Clinton Steeds, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.0
図7.69 | ソーンクラウン・チャペルの内部(Inside the Thorncrown Chapel), Architect: E・フェイ・ジョーンズ(E. Fay Jones), Author: User “Bobak”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 2.5

7.7 先へ進む前に

重要な概念

私たちは、歴史を通して様式、概念、目的における建築物の変化を見てきました。しかしながら、いくつかの側面は同じまま残っています:特定の後援者や設計者、および構造物の目的のそれぞれの場合に応じた、さまざまな種類の表現や異なる目的のための建築物の使用。そして、住宅、商業、共同体または宗教の目的、精神的な考え方、および感情のための建築物の使用。

この章では、時間の経過とともに進化し、より複雑になった世界の現代美術における問題の背景にある、より幅広い方法論を理解することができました。芸術の別の形態である建築物は、対照的な高層ビルの設計において、現代人の生活のためのより多くの機能性と流動性を組み込むように、大きな変化を経験しています。おそらく、現在の視点から特に注目すべきことは、芸術の焦点がヨーロッパからニューヨークに移った第二次世界大戦後に起きた、芸術と建築における発展です。西洋に焦点を当てると、それまで芸術と構造物を支配していた規則とは対照的に、芸術は技巧と様式においてさらなる自由を取り入れるように変化しました。いまや芸術家や建築家は、芸術や建築物の中で社会問題や個人的な表現に全力を傾けており、定義や説明をするために社会のあらゆる側面を用いています。この新しい構成は、伝統と非伝統を反映し、社会的な問題へより多くの声を与え、より多くの文化を表現し、個々の表現やアイデンティティー、社会の美学的性格を鳴り響かせます。ポストモダン芸術は、芸術の機能、形態、内容の美学、そして価値を定義し、質問し、検討することによって、現代社会における公衆の注意とその役割に焦点を当てています。

自分で答えてみよう

1.それぞれ異なる目的のために建てられた建築作品の少なくとも3つの異なる例を記述し、その作品のなんらかの特有の必要性を満たすように設計されている具体的な特徴について論じてください。

2.形態がどのように目的に関連しているか、その形態がその宗教団体によってどのように使用されているかを説明することにより、宗教的使用のために建設された2つの異なる構造物について論じてください。その集団の特定の儀式やその他の必要性をどのように満たしているかについて具体的に記述してください。

3.4つの異なるタイプの建築構造を選択し、それぞれの建物の建築のタイプと目的を説明してください。それぞれのファサードの特徴、そしてファサードがどのように建物の使用者に対処しているかについて論じてください。

4.神殿/教会構造について、崇拝のためにそれを使用する人々の神/神々についての特定の信念を反映するさまざまな特徴を記述してください。それらの特定の特徴が、なぜそれらが使用される方法にとって論理的かつ適切であるのかについて論じてください。

7.8 重要語句

アクロポリス:「高い都市」 — 古典ギリシャに関連する古代アテネで、いくつかのアテーナーの神殿やその他の神聖な場所や構造物を含む、神殿の複合施設のために確保されているような丘の上の環境。高い位置は、天界の領域に存在すると信じられていた神々とより接近することに関連づけられています。

美学:美の定義と、芸術の目的と価値の考慮に関心を持つ哲学の分野。

側廊:バシリカの建物の縦長区画の1つ。バシリカ形式の教会には、通常3つまたは5つの側廊があり、中央のものは身廊と呼ばれています。

アンフィテアトルム:円形または楕円形の建物で、演劇やスポーツイベントに使用される中央の領域の周りに階段状の座席があります。

拱廊:柱の間にアーチ型の空間がある柱列。

アート機能主義者:は、形態は機能に従っており、芸術の価値はその機能や性能にあると考えています。

化身:神が地上に具現化したもの。

アヴァンギャルド:新しく、オリジナルで、実験的。

バシリカ:もともとはローマの法廷と公衆の集会のためにデザインされた縦長の設計の建物で、大規模な集会や行列をなす儀式の収容に適していたために、後にキリスト教徒の使用のために採用されました。

菩薩:仏陀となるもの。悟りを達成しているが、霊的な探求において仲間の探求者を助けるためにニルヴァーナを先延ばしにした存在。

片持ち梁:バルコニー、階段、または同様の構造を支えるために、壁から突出した長い梁または他の水平支柱。

カストルム:格子状の計画を中心に設計されており、種々の活動/用途に関連する特定のゾーンがあるローマ軍の陣地または要塞。

柱列:屋根やエンタブラチュアを支える柱の列。

神格:ある宗教の神または女神。

形態:芸術または建築の作品の構造的な構成要素。

フォルム:住民の社会的、商業的、宗教的、政治的必要性に対応した、ローマの都市の開かれた公共の空間。

機能:芸術作品の意味または目的。

ギャラリー:教会やホールのバルコニーや上層階。

ガルバ・グリハ:文字通りの意味では「子宮」であり、ヒンドゥー教の寺院の中の最も神聖な区域 — 聖域。

ゴシック様式:中世後期(12世紀-14世紀)の建築様式で、尖頭アーチ、リブボールト、飛び梁などを含むものです。ゴシック様式の教会は非常に背の高い構造と高い内部空間を持ち、そして、だんだんと、壁が神秘的な色の光を内部に透過するステンドグラスの窓で満たされるようになりました。

多柱式ホール:平坦な屋根を支える多数の柱が配置された「柱の森」からなる構造。

図像学:宗教的またはその他の物語的意味の参照を含む、芸術作品の主題および/または象徴性。

インスラ:古代ローマ文明の集合住宅。

ロゴ:個人または組織が自分またはその製品を識別するために使用するデザイン。

マンダパ:インド建築における信者のためのホールであり、しばしばポーチのような寺院の玄関口ですが、独立した集合ホールであることもあります。

霊廟:1つまたは複数の墓を含む建物。

塚:しばしば食料の廃棄物である遺棄物の堆積であるが、廃棄された他の材料であることもあります。

ミナレット:通常は背の高く細長い塔であり、モスクに関連付けられ、ある場所におけるイスラム教の存在を示します。

オクルス:「目」。ある建築構造の天井、ドーム、または壁に設けられた、光を取り入れるための開口部。

柱廊(ペリスタイル):中庭のような空間を取り巻く柱の列。

支柱とまぐさ:開口部の両側に2つの垂直部材(支柱)を配置し、空間の上部にまたがるように水平部材を用いることによって、壁に開口部を形成する基本的な建築手段。

プロパガンダ:見解、信念、または行動に影響を与えることを意図した、偏見のある、時には誤解を招くか隠蔽された情報。

キブラ:祈る人がメッカのほうを向くように置かれているイスラム教のモスクの壁。

練り土:砂、砂利、または粘土と混合された湿った土で、壁を作るために仮枠の中で圧縮されます。

スフィンクス:人間/動物が混成された彫刻。

碑:しばしば墓標や公的な記念碑の役目をしている直立した石の厚板。

柱廊(ストア):公共領域にある屋根付きの通路で、しばしば市場の屋台や他の商業空間に面しています。

仏舎利塔:仏教の神殿として機能する、ドーム状の半球構造。その構想は、儀式的な巡回のために設計された埋葬塚です。

ティンパヌム:門の上にある半円形の領域であり、しばしば彫刻の芸術作品で飾られており、それは特にロマネスク様式とゴシック様式の教会のポータルに顕著です。

小舞壁:小枝や藁と絡み合った枝で、壁を作るために石膏や粘土のような物質で覆われました。

ジッグラト:神々が住むと信じられていた天国へと近づけるように神殿を持ち上げる基台として設計された人工の山。

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