視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —付録6:より公共的な人類学を構想する:フレドリック・バースへのインタビュー—

Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”

Better Late Than Never
13 min readJun 29, 2020

コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

付録6:より公共的な人類学を構想する:フレドリック・バースへのインタビュー

ロバート・ボロフスキー、ハワイ・パシフィック大学および公共人類学センター
borofsky[at]hpu.edu

フレドリック・バース(以下、FB):私たちの会話への一般的な前置きから始めましょう。人類学は全世界の民族誌に基づいているので(そうでなければならず、そうであるべきです)、西洋の科学と西洋の人文主義を補完する独特な可能性を秘めています。それは人間の思考、人間の想像力に広く貢献することができます。

ロバート・ボロフスキー(以下、RB):あなたは、人々の視点を広げるという人類学の役割について言及しているのですか?

FB:そうです、人々が決して想像したことのない、まったく新しい方向性で人間の条件に関する人間の内省の窓を開くことです。確かに、人類学はこれを行うのがあまり得意ではなく、人々の生き方の多様性のイメージを形成することが苦手でした。しかし、それにもかかわらず、そこには何かがあり、私たちはそれをもっと積極的に育てて、収穫しなければなりません。

RB:なぜ人類学はこの目標において成功していないのだと思いますか?

FB:そうですね、アメリカの人類学者とアメリカの人類学に関する限り、そしてこれはおそらく一般的ではないでしょうが、1つの難しさはアメリカの人類学者が進化の視点に置いている強調にあると思います。それはいくつかの目的にとっては素晴らしい視点ですが、それは他の人に「とても興味深いですね、とても素晴らしいです、はい、もし私が過去に興味があれば、あなたに耳を傾けるでしょうが、私は現在に興味があるのです」と言ってのけるライセンスを与えてしまいます。私たちがするべきことが今の問題と今の人間の条件について話すことであるならば、人類学は脇に追いやられます。私たちは人々が現在関わっている問題を考慮するべきです。ここに暗示されているのは、民主主義社会にはさまざまな考え方の幅広く公開された議論が必要だという見解です。

RB:この点での人類学の役割についてもう少し話しましょう。

FB:もし私たちが世界に影響を与えたいなら、私たちは自分たち自身にとってだけでなく他の人にとっても重要な問題について話すべきだ、ということが大切だと思います。投票よりもさらに大切なこととは、もちろん投票も大切ですが、さまざまな問題に関する1つの見解、1つの意見を提示することです。なぜなら、それは公共政策に影響を与えるかもしれないからです。もちろん、ここでの困難を理解しておくべきです。しかし、発言をする方が、政治システムによって提示されたパッケージに反応するだけよりも、はるかに優れています。それは市民であることの一部であり、あなたが公共の影響力を持つことができる機会と場所を見つけることです。

RB:もっと公共に関与する人類学はどのような形をとると思いますか?

FB:すでに関与しており知識のある聴衆がいる場所で、できる限り多くのすでに進行中の言説に入っていくことが重要だと思います。私たちがやりたいことは、すでに行われている公の対話に何かを追加する方法を見つけ、それによって確立された立場を覆し、人々の注意を引く可能性のある何かに貢献することです。

RB:具体的な例を提供してもらえますか?

FB:1つの例は、ヨーロッパの新しい移民に関するウンニ・ヴィカンの研究です。ここには、多くの人々が考え、話し、そして実際のところかなり混乱している問題があります。ノルウェーの移民政策の主な議論は、「私たちは何人の移民を受け入れるべきか?」に焦点を合わせていました。ウンニは、ノルウェーの公共テレビでこのトピックに関する2分間の声明を許可されました:彼女は、来るかもしれない人に焦点を合わせるのではなく、すでにここにいる人の福祉のために私たちが何をしているかについて話すべきだ、と述べました。この介入により、彼女はこの主題に関する言説全体の再定義を助けました。その結果、人々はノルウェー国内で何が起こっているのかについて、そして批判や議論の余地がある開発途中のプログラムに対して懸念を表明するようになりました。それは、この問題についての政治的な沈黙を破りました。

RB:この意味で、より公共に関与する人類学は、公共の問題についての公の言説に直接関与するでしょう。

FB:それは、公に明確化された問題を再構成する方法を見つけるのを試みることでしょう。しかしながら、これを行うには、人々が「聞いてみよう、これは重要かもしれない」と言うような、何らかの文化資本が必要です。

RB:どうやってそのような資本を得るのでしょうか?

FB:あなたは発言する必要がありますが、あらゆる場合において限られた目的でもって慎重に発言する必要があります — マイクをつかんで人類学の講義をするのではなく、問題の1つの側面に関して本当に人々の注意を引くような何かを明確に説明するように。進行中の会話を混乱させるのではなく、その一部になります。もしあなたがあまりにも野心的であり、これが発言の唯一のチャンスであると感じているならば、あなたは他の人に向けて講義を始めてしまうことになります。あなたは会話の中で起こっているものにとって不適切になります。私たちは、他の人の関心事に焦点を当て、私たちの主張をそれらに関連のあるものとするような能力を開発する必要があります。

RB:ヨーロッパやアメリカでは、学者によるこの種の公的な関与がより多くあると言えますか?

FB:ヨーロッパではそれに対するより多くの聴衆がいます。なぜなら、人々は、学者には文化資本があると考える心構えがよりできているからです。学者は世界の問題に対処する能力を有しているという考えがあります。東欧でも西欧でも、多くの国には、政治科学の教授だけでなく他の科目の教授も含めた教授たち、すなわち人文主義者、歴史家、科学者であるような閣僚がいます。そこでは学者は耳を傾けるべき思慮深い人々であると認められている一方で、アメリカでは、学者は非現実的な知識人として見下される傾向があります。

RB:アメリカの知的生活のこの動態は、何に原因があると思いますか?

FB:(エモリー大学の)ブラッド・ショアは、かつて私に、彼の隣人は彼が隣人たちよりも多くのお金を稼いでいないことで彼のことを気の毒に思っていた、と述べました。ここには、私的な影響と判断についての非常に粗雑な測定方法があります。しかし、もちろん、それはお互いさまなものです。多くの人類学者は、公共の場に行くことはさほど尊敬すべきものではないと思っています。公衆は私たちを尊重しないので、私たちは彼らを尊重していません。もしあなたが公衆に対して効果的に語りかけたいのであれば、あなたは彼らを尊重しなければなりません。

RB:ヨーロッパのどこで、アメリカのものとは対照的な、人類学者の間における活発な知的伝統を見ることができますか?

FB:これが最も多い場所はフランスではないかと思います。かつてはイングランドであったと思います。マリノフスキーは人気があり、彼のセミナーは有名でした。イングランドの知識人は、彼について話しました。もちろんフランスでは、レヴィ-ストロースが非常に有名です。しかし、他のフランスの人類学者にも追随者がおり、一般の知名度があります。このように、フランスの一般の読者層にとって、フランスの人類学者が現在の問題について何を言っているかを知ることは興味深いこととなっています。また、インド、メキシコ、ブラジル、そしておそらくスカンジナビアでも、このような公共の関心は米国よりも高いです。

RB:アメリカの人類学者をそのような公共への関与に引き込むために、どのような具体的な措置を取ることできるでしょうか?

FB:思い浮かぶイメージは、氷床の端に立って水の中の何かに食べられることを恐れているペンギンのようなアメリカの人類学者のイメージです。ペンギンたちは氷の上に立って、1羽が落ちるまでお互いを押し合いへし合いして、落ちたペンギンに何が起こるかを見ます。もし何も悪いことが起こらなければ、みんなも喜んで飛び込むかもしれません。私は、多くの人々が何らかの情報を望んでいると思っています。そして、もし彼らがそれが可能だと思ったら、彼らは飛び込みます。しかし、彼らは個別にそれをしなければなりません。

この症候群のどこかに隠れている困難の1つは、慣れ親しんでいるメディアの煽りのために、アメリカにおいては、人は戦術的でなければならないという感覚が存在することです。あなたは自由な精神として話すことができず、自己批判的で正直になる余裕がありません。あなたは安直なイメージを投影する何らかの方法を見つけて、戦術的な立場を取らなければなりません。さもなければ、あなたはまったく役立たずになるでしょう。そして、これは学問の質と知的誠実さに反しています。私たちがそれをしょっちゅう見るのは、生態学者や政治科学者が果たす役割の中だと思います。彼らが公共のテレビで話すとき、彼らは正直に話すのではなく、視聴者を操作しようとする戦術的なゲームにとらわれています。彼らは、関連があると知っているものの、政治的に正しくないか、あるいは自分の支持層に対して批判的であるように見えるものをしまっておきます。時には、ほとんど事前に設定された議題があるかのように見えます。私たちは、こちらの事柄に触れますが、あちらの事柄には触れません。なぜなら、あれらはアメリカ人の関心に反しているからです。あれらについてはあまり明確に話さないようにしておきましょう。面倒くさい問題を引き起こさないようなやり方で自分たちを位置付けましょう。

私は、人類学者だけで構成されていないような文脈で発言することが重要だと思います。私は文明の衝突について語る歴史家や政治科学者に対して話をするべきです。しかし、私はこの問題を人類学的な論点として陳列することはないでしょう。私は、彼らが議論の基礎としている1つかそれ以上の前提を弱体化することにより、彼らの参照枠組みをかき乱し、ひっくり返そうと試み、より広い観点からはそれが意味をなさないということを示すでしょう。

RB:例を挙げてもらえますか?

FB:そうですね、それはボアズがずっと前にやったことだと思います。ボアズは、誰もが懸念していたこと、つまり人種に対処し、具体的なポイントを提示したいと考えていました。彼は、行動の文化的(遺伝的でなく)基礎に関する自分の立場を支持する専門的な研究をしていました。それは、人類学者ではない他の人々に非常に関連性のあることでした。

おそらく、サミュエル・ハンティントンの「文明の衝突(Clash of Civilizations)」をめぐる論争全体が、失われた機会です。私たちは、ハンティントンが言ったことに対する罵りを積み上げる代わりに、他の学者が注意を払うであろうような慎重な学術的方法によって、提示された特定の立場を弱体化させることができたかもしれません。

グロ・ハーレム・ブルントラント博士(元世界保健機関事務局長)は、環境に関する国連の委員会に参加しており、「持続可能性」という考え方を生み出しました。彼女の考え方はその当時はよく考え抜かれていませんでした。それでも、それは参照枠組みを変えました。それは、私たちが環境問題から抜け出す方法を発明するだろうという楽観的な感覚を、私たちが将来の世代の選択肢を減らさないようにできることは何かを問うことへと置き換えました。

最後の例:私はオスロの主要新聞に大学の機能に関する論説を書いたところです。大学がより説明責任を果たし、現代社会の特定の必要性にもっと素早く反応するように、大学を計画および再設計しようとする委員会がいくつもあります。私がしたことと言えば、「いいですか、私たちは、大学の第1の仕事が、変化する世界に向けて適切な訓練を受けた人材を育成することであることを忘れてはなりません」と述べたことです。それは単に今日のための技能を提供するだけでなく、明日これらの学生が自分自身を見出すであろう世界に向けて準備させることです。私が言っているのは、ポイントは問題を見る新しい方法を提案することだ、というものです。

RB:あなたの論説からどのような反応を期待しますか?

FB:大学の議論に携わる人の多くがこう言い始めることを望みます:「しかし、問題は、確立された種類の知識や能力を社会に配備する方法だけではなくて、私たちが将来のために創造性と想像力が花開く場所を確保する方法でもある。」私たちは、知的に覚醒している人々を訓練しなければなりません。さまざまな学問分野が崩れています。私たちは、変化する世界に対処するために、学術的なコミュニティーとして創造的になることができなければなりません。私は、大学を担当している政府の教育部門が、別の視点から大学を再編成する計画を検討することを望みます。私の同僚は、単純に他の人が枠づけたやり方で(説明責任として)この問題に取り組むのではなく、研究のためのより多くのお金、より高度な訓練、博士号取得後の学生へのより多くの投資を擁護するためにこの議論を使い始めるかもしれません。

私は、他の人とこれを議論するために呼ばれたとしても気にしません。対処しなければならない特定の優先度の高いものを抱えていると言う人もいるかもしれませんが、それならば、私は自分の提案した方法でそれらにどのようにうまく対処できるかを示さなければならないでしょう。彼らは私に挑戦するかもしれません。彼らは私の議論を調べて、事実が歪められた、不完全な、不公平な、または論理が失敗したポイントを見つけるかもしれません。しかし、議論は変わるでしょう。私たちは、共通の立場から事実と論理について議論していることでしょう。ええ、私たちは皆、大学がより良い方法で専門家を訓練することを望みますし、私たちは彼らがより公的な責任を負うことを望みます。私たちは、現在の政治的パッケージングと修辞法に従わないような、問題へのさまざまなアプローチ方法について議論していることでしょう。

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