視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第11章 宗教—
Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”
コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。
第11章 宗教
サシュール・ヘニンガー-レナー、パサデナ・シティー・カレッジ
sashur.henninger[at]gmail.com
学習目標
•宗教を定義し、人間の文化における宗教の重要性を説明する。
•人類学者によって開発された理論を要約して、人間のコミュニティーにおける超自然的な信念の重要性を説明する。
•宗教の4つの要素(宇宙論、超自然への信念、行動の規則、および儀礼)を特定し、それぞれの要素が宗教的実践にどのように寄与するかを説明する。
•通過儀礼、強化儀礼、再生儀礼を定義し、それぞれのタイプの儀礼の目的を説明する。
人間は、人生の意味、宇宙の本質、そして私たちの生活を形作る力について常に思いを巡らせてきました。数千年前に生きていた人々がこれらの種類の質問にどのように答えたかを確実に知ることは不可能ですが、いくつかの手がかりがあります。5万年前、人間の共同体は死者を石器、貝殻、動物の骨、その他の物体とともに埋葬しました。これは、彼らが、死者を死後の世界、すなわちこの世界を超えるような世界に備えさせたことを示唆する慣習です。3万年前、芸術家がフランスのショーヴェ洞窟に入り、この洞窟の壁に動物の劇的なシーンを抽象的なシンボルとともに描きました。抽象的なシンボルは、その画像が超自然的な信念システムの一部であり、おそらく安全や狩猟の成功を確かにすることに焦点を当てているものであることを示唆しています(図11.1)。[1]数千年後、ヴィーナス小像として知られる小さな粘土の彫刻のコレクションがユーラシア全域に出現し始めました。それらは生殖能力や母性についての考え方を表現しているようであり、魔術的に見られていたかもしれません(図11.2)。[2]
宗教を定義する
超自然についての考え方はすべての人間の文化において一部分をなしているため、これらの信念を理解することは人類学者にとって重要なことです。しかしながら、超自然的な信念を研究することはいくつかの理由で挑戦的です。最初の問題は、このトピック自体を定義するという課題から生じます。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの信仰の明確な形態への参加を指すために米国で一般的に使用される「宗教」という言葉は、普遍的に認識されている考え方ではありません。多くの文化には「宗教」のための言葉がまったくなく、多くの社会では、「宗教的」または「霊的」な信念や実践と、日常生活の普段の一部である他の習慣とを明確に区別していません。たとえば、先祖の霊のために設えられた家の中の祭壇で捧げものの香をたくことは、「宗教的な」実践というよりも、日常生活の単純な一部とみなされるかもしれません。超自然的な存在を信じているものの、それらを「神々」とは呼んでいない社会があります。一部の社会は、自然的と超自然的な観察の間の区別をせず、代わりに霊は人間と同じ物理世界を共有しているものとして見ています。「天国」、「地獄」、さらには「祈り」のような概念が、多くの社会に存在しません。また、「宗教」と、「霊性」や「魔術」のような関連する考え方との間の分離は、一部の文化的文脈では曖昧でもあります。
人類学者は、超自然的な信念を研究するために、文化相対主義の視点を養わなければならず、イーミックまたは部内者の視点から信念を理解するよう努めなければなりません。ある文化の定義または仮定を別の文化に課すことは、誤解につながる可能性があります。この問題の一例は、世界の主要な魔術的および宗教的信念体系の最初の包括的な研究をまとめあげようと試みたサー・ジェームズ・フレイザーによる初期の人類学的研究に見ることができます。フレイザーは人類学者の初期の世代の1人であり、彼の研究は旅行や参与観察ではなく、読書と宣教師や植民地の役人に郵送されるアンケートに基づいていました。その結果、彼は自分が執筆している信念について最小限の情報しか持っておらず、彼自身の意見をすぐに適用してしまいました。彼は、「金枝篇(The Golden Bough)」(1890)において、彼が記録した多くの霊的信念をはねつけました:「私は[それらを]単に虚偽としてではなく、荒唐無稽なばかげたものとして見ている」。[3]彼の同時代人のサー・E・B・タイラーは、なじみのない信念体系をそれほど軽視してはいませんでしたが、彼は宗教を最小限に、一部の人にとっては過度に狭い用語で「超自然的な存在の信念」と定義しました。この定義は世界中の人々が実際に信じているもののほとんどを除外してしまいます。[4]研究者が他の文化についてより多くの情報を得るにつれて、宗教についての彼らの考え方はより複雑になりました。社会学者のエミール・デュルケームは、宗教は単に「超自然的な存在」への信念ではなく、共同体のメンバーを一緒に結びつける一連の実践と社会制度であると認識しました。彼は、宗教とは、「聖なるもの、つまり選り分けられ禁じられているものに対する信念と実践の統一された体系であり、信念と実践はそれらを忠実に守るすべての人々をチャーチと呼ばれる単一の道徳的共同体へとまとめあげる」と述べました。[5]
宗教についてのデュルケームの分析は、人々の間の関係性にとっての霊的な信念の重要性を強調しました。世界中のコミュニティーにおけるその後の人類学的研究によって、超自然の信念に関連する儀式が、コミュニティーの生活を構築し、行動の規則やガイドラインを提供し、コミュニティーのメンバーを互いに結び付ける上で重要な役割を果たすことが確認されました。興味深いことに、神々や霊などの宗教的な「存在」も社会的資質を示します。ほとんどの場合、これらの存在は、性格、欲望、「行為主体性」、すなわち意思決定を行い行動を起こす能力を備えた存在として、馴染みのある言葉でもって思い描かれます。言い換えれば、超自然的な存在は人々とそれほど違いません。[6]この考えに沿って、宗教とは「人間社会と文化が非人間を含むように拡張されるために用いられる手段」と定義することができます。[7]この定義は意図的に広いものであり、多くの異なる種類の信念体系を包含するために使用することができます。
多くの宗教には、「魔術的」と表現できる考え方や儀礼が含まれており、宗教と魔術の間の関係性は複雑です。マルセル・モースは、彼の著書「魔術の一般理論(A General Theory of Magic)」(1902)で、宗教と魔術は霊的な信念のスペクトル上の2つの反対の極であると示唆しました。魔術はスペクトルの一方の端部にありました。それは私的で、秘密で、個人的なものでした。宗教はスペクトルの反対側の端部にありました。それは公的で、コミュニティーをまとめることに向けられていました。[8]モースの定式化は宗教と魔術を同一の一般的な考え方の一部として提示しましたが、多くの現代の人類学者は、宗教と魔術を区別することは人為的であり、通常は特に有用ではないと確信しています。この注意を念頭に置いた上で、魔術は超自然的な力を個人の管理下に置くことを目的とした実践として定義することができます。魔術師は、自身の目的のために魔術を使用しようとする個人のことです。魔法と魔術はどちらも歴史的に部外者(人類学者を含む)がなじみのない霊的信念を記述するために使用してきたラベルであるというのを覚えておくことが重要です。人々が自分自身についてどう考えるかを表すには、ほとんどすべての場合、現地語の単語が望ましいです。
宗教の理論
宗教的な神話を解釈するサー・ジェームズ・フレイザーの取り組みは、文化がさまざまな種類の霊的信念を発達させる理由を理解しようとする多くの試みのうちの最初のものでした。20世紀初頭、多くの人類学者は、宗教が人間の必要性に対処する方法に焦点を当てることにより、この問題に対して機能主義的アプローチを適用しました。パプアニューギニアの近くにあるトロブリアンド諸島で研究を行ったブロニスワフ・マリノフスキー(Malinowski 1931)は、宗教的信念が心理的な必要性を満たしていると考えていました。彼は、宗教は「憶測や省察から生まれるのではなく、ましてや幻想や不安から生まれるのでもなく、人間の人生の実際の悲劇から、人間の計画と現実との間の対立から生まれる」と観察しました。[9]
マリノフスキーの研究の時点で、トロブリアンド島民は、クラ・リングと呼ばれる催しに参加していました。このクラ・リングは、儀礼的な物品を交換するために、男性がカヌーを作り、近隣の島々の間の長く危険な旅に漕ぎ出すことを必要とする伝統でした。マリノフスキーは、これらの危険な旅行の前にはいくつかの複雑な儀式が行われなければならないものの、魚釣りの旅のための通常の航海は特別な準備を必要としないことに気づきました。違いは何だったのでしょうか?マリノフスキーは、より長い旅行はより危険であるだけでなく、男性たちは何が起こるかをあまりコントロールできないと感じていたために、より多くの不安を引き起こしていたと結論付けました。長い航海では、うまくいかないかもしれないものがたくさんありましたが、そのうちで、計画を練ったり避けたりすることができるものはほとんどありませんでした。彼は、宗教的儀式が、これらの状況を予想する際の不安を軽減または制御する方法を提供したと主張しました。[10]不安を軽減するための儀式の使用は、他の多くの状況で記録されています。ジョージ・グメルチ(Gmelch 1971)は、プロのアスリートの間での「ベースボールの魔法」の形態を記録しました。たとえば、野球選手には、どのように食事をするか、どのような服装をするか、さらには球場までどのように車を運転するかに関連する儀式があり、かれらはその儀式が幸運に寄与すると信じています。[11]
マリノフスキーは、機能主義者として、宗教が人々の間の連帯を作り出す共通の価値観と行動規範を提供すると考えていました。社会学者エミール・デュルケームもまた、宗教が、神聖なものと世俗のものの共有された定義を作り出すことによって、人々のつながりを築く上で重要な役割を果たしていると考えていました。神聖な対象物や考え方は普通のものとは分け隔てられ、大きな敬意と慎重さをもって扱われますが、世俗の対象物や考え方は普通のものであり、軽視されたり軽蔑されたりします。神聖なものには、神または神々、自然現象、動物、あるいはその他多くのものが含まれます。デュルケームは、宗教とは「聖なるもの、つまり選り分けられ禁じられているものに対する信念と実践の統一された体系であり、信念と実践はそれらを忠実に守るすべての人々をチャーチと呼ばれる単一の道徳的共同体へとまとめあげる」と結論付けました。[12]デュルケームは、ひとたびある人またはある物が神聖なものとして指定されると、儀式を通してそれを祝うことは、共有された価値観の周りに共同体を団結させるような強力な方法となると考えていました。[13]さらに、聖なるものを祝うことは、デュルケームが集合的沸騰と呼ぶ激しい感情的経験を生み出すことができます。これは、人々のグループが同じ思考と感情を共有するときに生じる情熱またはエネルギーです。集合的沸騰の経験は、ある出来事の感情的な影響を拡大し、畏敬の念や不思議な感覚を作り出すことができます。[14]
デュルケームに続いて、デイム・メアリー・ダグラスを含む多くの人類学者は、神聖と世俗の定義がどのようにして宗教的信念を構成するかを探ることが有用であると気付きました。彼女の著書「汚穢と禁忌(Purity and Danger)」(1966)では、ダグラスは、「汚い」または「不純な」ものについての文化的な考え方が宗教的信念に影響を与える方法を分析しました。ユダヤ人によって順守されるコーシャの食事規則は、この種の思考の適用の顕著な例の1つでした。[15]
哲学者であり歴史家のカール・マルクスは、よく知られているように、宗教のことを「民衆のアヘン」と呼んでいました。[16]彼は宗教をイデオロギー、すなわち権力と地位の不平等を正当化しようと試みる思考の方法と見なしました。彼の見解では、宗教は、人々が資本主義の下での生活の経済的困難に耐えるのを助けるような幸福の幻想を作り出すものでした。マルクスは、1つの制度として、キリスト教の教会が、普通の人々が安らぎと幸福を受け取ることを期待できる死後の世界のほうに向くよう奨励することにより、労働者階級の政治的および経済的不平等を正当化し、支援するのに役立っていると考えました。彼は、宗教指導者が天国に到達する手段として提唱した服従と順応は、人々が現在の生活におけるより良い経済的または社会的条件のために戦うことのないよう言いくるめていたとも主張しました。古代エジプトとインカの社会において神々自らによって力を与えられたと信じられていた神聖な支配者の存在を含め、権力の違いを正当化または理屈づけるために宗教を使用する多くの例が文化横断的に記録されています。正当化するという宗教の役割の兆候は、選挙で選ばれた公職者が聖書や別の聖典を使って職務の宣誓をするという米国の慣行にも見られます。
心理学者のジークムント・フロイトは、宗教とは、私たちが最も深く最も恐ろしい欲望に基づいて行動することを防ぐ制度であると考えていました。彼の最も有名な例の1つは、エディプスコンプレックスです。これは、母親と(知らないうちに)性的関係を持ち、ひとたびこれに気づいたときに、自分の目をくりぬいて暴力的で惨たらしい死を遂げたエディプスについての物語です。この物語の1つの可能な解釈は、男性には母親に対する無意識の性的欲求があり、女性には父親に対する無意識の性的欲求があるということです。これらの欲求は、社会に与えるであろう損害のために、決して認められることも、ましてやそれに基づいて行動されることもありません。[17]フロイトは、彼の最も有名な作品の1つである「トーテムとタブー(Totem and Taboo)」において、宗教的信念が、エディプスコンプレックスのような最悪の反社会的本能を抑えたままにするルールまたは制限を提供していると提唱しています。彼は、特定の動物や物体の崇拝に基づいた信念体系である「トーテム的宗教」の考え方を発展させ、これらの宗教の目的は、社会的に重要であり潜在的に混乱をもたらすような物体や関係性との相互作用を調節することであると示唆しました。[18]
デュルケーム、マルクス、フロイトの研究の上に構築された宗教的信念の興味深い解釈の1つは、牛を殺すことを禁止するヒンドゥー教についてのマーヴィン・ハリスの分析です。ヒンドゥー教では、その生殖能力、穏やかな性質、およびいくつかのヒンドゥー教の神々との関係から、牛は高く評価され、敬意をもって扱われています。ハリスは、彼の著書「牛、豚、戦争、および魔女(Cow, Pigs, Wars, and Witches)」(1974)の中で、牛についてのこれらの宗教的な考え方は実際には経済的現実に基づいていると示唆しました。インドでは、牛は、肉として死んでいるものよりも、牛乳の供給源として、または畑で仕事をするために生きているほうが価値があります。彼は、この理由のために、牛は神聖なものとして定義され、殺されて食べられる他の種類の動物とは区別されたと主張しました。その後の牛の特殊性に対する宗教的説明の発展によって、特別な扱いが強化され、正当化されました。[19]
宗教の研究への象徴的アプローチは20世紀半ばに発展し、超自然的な信念を分析する新しい方法を提示しました。象徴的アプローチを作り出すことを担った人類学者の1人であるクリフォード・ギアツは、宗教を「強力で、説得力があり、長く続く心的状態と動機を確立するように作用するシンボルの体系であって…存在の一般的な秩序の概念を定式化し、それらの概念に対してその心的状態と動機を独自の形で現実的に見せるような事実性のオーラを纏わせるもの」と定義しました。[20]ギアツは、宗教的な実践は重要な文化的な考え方を成立させる、または可視化する方法であると示唆しました。十字架や牛などといった、いかなる宗教で使用されるシンボルも、重要な文化的価値観を理解するために人類学者によって解釈される、または「読まれる」ことができます。同時に、宗教的なシンボルは、宗教共同体のメンバーの価値観や願望を強化します。死と復活の両方に関連するキリスト教の十字架は、犠牲についての考え方と、共同体の他の人の必要性を優先することを示しています。十字架はまた、人生そのものの性質についてのより深い考え方を象徴しています:それは、苦しみは前向きな結果をもたらすことがあり、現在の現実を超えた何かがあるということです。
宗教に対する象徴的アプローチは、宗教的信念を、部外者が解釈できる一種の「テクスト」または「パフォーマンス」として扱います。この章で説明する他の理論と同様に、象徴的アプローチにはいくらかの誤解のリスクがあります。宗教的信念には、個人的価値観と社会的価値観の複雑な組み合わせ、ならびに部外者がいつも理解したり認識したりできるわけではない具体化された、あるいは体の中の感情が含まれます。宗教的信念と実践に関するイーミック(部内者)とエティック(部外者)の説明の間の永続的な大きな隔たりのために、宗教の研究は文化人類学の最も挑戦的なトピックの1つとなっています。
宗教の要素
世界中の文化に見られる多種多様な超自然的な信念にもかかわらず、ほとんどの信念体系はいくつかの共通の要素を共有しています。これらの特徴のうちで最初のものは宇宙論であり、これは世界の起源または歴史についての説明のことです。宗教的な宇宙論は、人間の生命がどのように作られたかについての「全体像」の説明を提供し、世界で働く力に関する視点を提供します。宗教の2番目の特徴は、超自然、すなわち人間の直接的な経験を超えた領域への信念です。この信念には、1つまたは複数の神を含めることができますが、これは必須条件ではありません。以下で議論するように、かなりの数の宗教的信念に、超自然的な力についてのより抽象的な考え方が含まれています。ほとんどの宗教は、3番目の特徴:行動を司る規則も共有しています。これらの規則は、個人および社会全体にとっての適切な行動を定義し、個々の行動を霊的信念と調和させることに向けられています。4番目の要素は、宗教目的に役立つ儀礼、実践、または儀式であり、通常は宗教の専門家によって監督されます。儀礼は、神々を喜ばせるために設計された儀式のように、超自然的なものに向けられているかもしれませんが、同時に、個人またはコミュニティー全体の必要性に対処しています。たとえば、葬儀は、故人を死後の世界に確実に送り出すように設計されているかもしれませんが、同時に悲嘆に暮れている人々に感情的な慰めを与え、共同体が配慮とサポートを表現する手段も提供します。
宗教的な宇宙論
宗教的な宇宙論は、森羅万象の起源と現実を司る原則または「秩序」とを説明する方法です。最も単純な形では、宇宙論は起源の物語、すなわち世界の歴史、現在の状態、および可能な未来、そしてそこに住まう人々、霊、神、力の起源についての説明となります。古代ギリシャ人は、カオス(最初に存在したもの)からの創造行為から始まる起源の物語を持っていました。カオスから、闇を表す神エレボスと夜を表す神ニュクスが生まれました。ニュクスはアイテール(光)とヘーメラー(昼)を生みました。ヘーメラーとニュクスは交代で黄泉の国から出でて、昼と夜の現象を作り出しました。アイテールとヘーメラーは次に、すべての生命の母であるガイア(地)を作りました。ガイアは、空、山、海、そして最終的に神々の集まりを生み出しました。これらの神々の1人、プロメテウスは人間を泥で形作り、火の贈り物を与えました。この起源の物語は、多くの重要な文化的考え方を反映しています。それらの1つは、神々が頂点にあり、人間が神を称える義務を持つ、階層に組織された世界の描写です。
伝統的なナバホ族の起源の物語は、宇宙の構成についての異なる見解を提供してくれます。これらの物語は、世界が14枚の積み重ねられた「平板」または「円盤」のセットであることを示唆しました。創造は一番下のレベルから始まり、徐々に上に広がっていきました。下位のレベルには、昆虫のような動物とともに、明確な文化と社会を持つ独自の完全に形成された世界に住んでいた動物の人々と鳥の人々が含まれていました。最上位では、ついにファーストマンとファーストウーマンが現れ、他の人間のための準備を始め、スウェット・ロッジ、ホーガン(伝統的な家)を作り、神聖な薬の包みを準備しました。特別な儀式の間に、最初の人間の男性と女性が形成され、彼らが続く人々を作りました。[21]ギリシャの起源の物語と同様に、ナバホ族の宇宙論は人間のアイデンティティーを説明し、人間が超自然的な祖先に負っている負債を強調しています。
ユダヤ教とキリスト教の両方の基礎となる聖書の創世記の最初の2つの章は、世界とすべての生き物の創造について記述しています。正確な言葉はそれぞれの翻訳によって異なりますが、それは世界とその中にあるすべてのものを創造することを担った神について述べています。「はじめに神は天と地とを創造された。」6日間のプロセスは暗闇からの光の分割、水からの土地の分割、そして地からの天の分割によって始まりました。5日目に、「神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。」[22]6日目に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」[23]この宇宙論は、単一の神性、すなわち神による創造の行為を記述する点で他の宇宙論とは異なりますが、人々とその創造者との関係を強調する創造の記述についてはギリシャのバージョンやナバホ族のバージョンと共有しています。
これらの宇宙論を読むことは、それらがどのように解釈されるべきかという問題も提起します。これらの起源の物語は、それらが生まれた文化において文字通りの真実と見なされていますか?または、その物語は隠喩的で象徴的なものですか?この質問に対する単純な答えはありません。どの文化においても、個人個人では自身の宗教的伝統の性質について意見が一致しない場合があります。たとえば、キリスト教徒は、聖書の内容をどの程度事実として見るかにおいて異なります。文化相対主義では、宗教的信念を含む文化的な考え方が「正しい」か「真実」かについて人類学者が判断を下すことを避けるよう求めています。代わりに、より有用なアプローチは、人々が自身の宗教的信念を解釈する、または折り合いをつける複数の方法を理解しようとすることです。さらに、宗教的な宇宙論がより広い社会で持っている機能を考慮することが重要です。ブロニスワフ・マリノフスキーが観察したように、神話や起源の物語は「空想的な物語ではなく、しっかりと働いている活発な力」です。[24]
超自然的なものへの信念
ほとんどの宗教に共通するもう1つの特徴は、自然の法則に支配されていない超自然、霊、神性、または力の概念です。超自然的なものは多くの形をとることができます。いくつかの超自然的な存在は擬人化されており、人間の特徴を持っています。他の超自然的な力はより一般化されており、風の力のような現象で見られます。超自然的な力や存在が人間の生活にどの程度関与しているのかは、文化横断的に異なっています。
抽象的な力
多くの文化は、非人格的な超自然の力への信念を中心に組織されています。これはアニマティズムとして知られる宗教の一種です。マナの考え方はその一例です。この単語自体はオセアニアに由来し、元々は「強力な風」、「雷」、または「嵐」を意味していることがあります。今日でも、それは力を指しますが、より一般的な意味としてです。ソロモン諸島の牧師であるアラム・オロイは、マナを懐中電灯の点灯と比較しました:「あなたは、強力だが目に見えない何かを感じます。そして、パチッと押すと、その力が世界に現れます。」[25]伝統的に、マナを特定の場所に、または自分の体に蓄積する能力は、強力になること、または成功することと同義でした。[26]山や古代遺跡(マラエ)などの特定の場所には、特に強いマナがあります。同様に、性的または暴力的な行為を含む個々の行動は、伝統的に自分のためにマナを蓄積する方法と見なされていました。
興味深いことに、マナの考え方は、元の文化的文脈をはるかに超えて広がっています。1993年、リチャード・ガーフィールドはこの考え方をカードゲーム「マジック:ザ・ギャザリング」に取り入れました。発売開始以来、数百万のコピーを販売しているこのゲームのプレイヤーは、マナをウィザードや魔術的なクリーチャーと戦うための力の源として使用しています。マナは、非常に人気のあるコンピューターゲーム「ワールド・オブ・ウォークラフト」においても力の源となっています。[27]これらの例は、文化の盗用(別の文化から考え方を真似する行為、およびその過程でその意味を歪める行為)を示しています。しかしながら、それらはまた、抽象的な超自然的な力についてのアニミストの考え方が文化を超えてどれほど説得的であるかを示してもいます。大衆文化におけるアニミズムのもう1つの有名な例は、ジョージ・ルーカスのスターウォーズの映画に描かれた「フォース」です。フォースはあらゆるものを通じて流れるように描かれ、ルーク・スカイウォーカーがデス・スターを破壊するときの秘められた力と洞察の源として使用されています。
霊
自然と超自然の間の境界線はぼやけている場合があります。多くの人々は、人間には自然な身体の中に共存する超自然的または霊的な要素があると信じています。キリスト教では、この要素は魂と呼ばれます。ヒンドゥー教では、それはアートマンです。[28]フィリピンに住んでいるグループのタウスグ族は、魂には4つの部分があると信じています:それは、ある人が生きているときでも霊的な領域にとどまるような超越的な魂、身体に付随しているものの夢を通じて動くことができる生命-魂、常に身体に付随している呼吸、そして、人の影のような霊-魂です。[29]
多くの人々は、個人が死んだ後でも霊が生き残る(時には現世にとどまり、時には超自然的な領域に向けて出発します)と信じています。現世に残っている霊、または「幽霊」は、彼らの家族や共同体の生活に引き続き積極的な役割を果たすかもしれません。善意のものもいれば、悪意のあるものもいるでしょう。ほぼ普遍的に、故人の霊は施しを必要とし、生きている人に対して要求をするものと想定されています。このため、多くの文化には、死者への崇拝、すなわち故人への敬意を表すか、または彼らの好意や協力を得るための儀礼の伝統があります。祖先の霊は適切に扱われると、神々への使者となり、祈りや要求を受けた後に、生きている人に代わって行動することができます。もし彼らの不興を買った場合には、祖先の霊は怒り、病気や苦難によって生活を破壊するかもしれません。これらの問題を避けるために、好きな食べ物、飲み物、贈り物といった形態で供物を作り、霊をなだめます。中国では、他の多くの国と同様に、孝行の徳にとっては、生きている人が先祖の世話を続けることが必要とされます。[30]マダガスカルでは、自分が無視をされてきたと考えている死者の霊に対して不運と不幸が帰せられることがありますが、その場合には、遺体を繰り返し発掘し、骨を洗うことによって尊敬を示します。[31]
もし人間が超自然的な霊、本質、または魂を含んでいるならば、非人間の実体が独自の神性のひらめきを持っているかもしれないと考えることは論理的です。植物、動物、無生物、さらには天候などの自然現象にも霊的または超自然的な要素がある、という考え方に基づいた宗教は、アニミズムと呼ばれます。アニミズムの最初の人類学的記述は、サー・エドワード・バーネット・タイラーによってもたらされました。彼は、それが人間社会の中で発展する最も初期のタイプの宗教的実践であると考えていました。[32]タイラーは、夢をみることなどの人間の経験の通常の部分が、霊的な信念の基礎を形成することを示唆しました。人々が夢を見るとき、彼らは別の場所に旅行したと感じるかもしれませんし、家族の亡くなった人たちとコミュニケーションを取ることができるかもしれません。この変化した意識の感覚は、世界が目に見えている以上のものであるという考え方を生み出します。タイラーは、これらの経験は、人生の意味についての質問に答える差し迫った必要性と相まって、すべての宗教体系の基礎となっていると示唆しました。[33]彼はまた、アニミズムの宗教が、神または神々を含むより洗練された宗教体系と彼がみなすものに進化したと仮定しました。
今日、宗教の進化についてのタイラーの見解は見当違いであると考えられています。本質的に他の信念体系よりも洗練されているような信念体系はありません。今日、いくつかのアニミズム宗教が存在し、何百万人もの信者がいます。最も有名なものの1つは、日本の伝統的な宗教である神道です。神道は、植物、動物、岩、場所、そして時には人の中に存在するカミとして知られる霊を認識します。山、森、滝、神社など、特定の場所はカミと特に強いつながりを持っています。日本の神道の神社は、通常の現実と神聖な空間との間の分離をしるしづける鳥居という門によって標識されています(図11.4)。
神々
最も強力な非人間の霊は神々ですが、実際には、すべての人々に認められるような「神」の普遍的な定義はありません。一般に、神々は非常に強力であり、自然の一部ではありません — 人間や動物ではありません。その非自然的な在りようにもかかわらず、多くの神々は、人間に認識され、関係を持つことのできる性格や資質を持っています。それらはしばしば、人間の形で想像される擬人化されたもの、または動物の形で想像される擬動物化されたものです。いくつかの宗教では、神々は人間と直接相互作用しますが、他の宗教ではより遠くにいます。
人類学者は、一神教と多神教という用語を使用して、1つの神または複数の神々を中心に組織された信念体系を分類します。一神教の宗教は単一の最高神を認めています。今日、世界で最も大きな一神教の宗教は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教です。これらの宗教を合わせると、世界中で38億人以上の信者がいます。[34]多神教の宗教にはいくつかの神々が含まれます。ヒンドゥー教は、10億人を超える信者を擁する世界最大の多神教の宗教の1つであり、それぞれ異なる能力と関心を持つ神々の集まりを有しています。[35]
行動の規則
宗教的信念は、社会的統制の重要な要素です。なぜなら、これらの信念は、容認できる行動とともに、不正行為に対する罰(超自然的な結果を含みます)を定義するのに役立つためです。よく知られている例の1つは、十戒の中に表現されている考え方です。十戒は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の教えの中に組み込まれ、窃盗、殺人、姦通、不誠実、嫉妬などの行動を禁止すると同時に、人々の間の敬意と尊敬の必要性を強調します。この戒めに違反する行動は、その宗教の共同体の他のメンバーからの社会的不承認と神からの潜在的な罰との両方をもたらします。
世界で4番目に大きい宗教である仏教は、霊的な信念と日常の行動の規則との間の強いつながりを明示しています。仏教徒は仏陀の教えに従います。仏陀は学びと鍛錬を通して英知を獲得した普通の人間でした。仏教のいくつかの形態には単一神も神々もいません。代わりに、仏教を実践する個人は、瞑想のような技術を使用して、有意義な生活を送るために必要な洞察を成し遂げ、最終的に、多くの生涯の後に、解脱(苦しみからの解放)という目標を達成します。
仏教は何らかの人類学的なカテゴリーに簡単に分類されることを拒んでいますが、宇宙の道徳的な力であるカルマ(業)に代表されるアニマティズムの要素を備えています。個人の行動は自身のカルマに影響を及ぼします。たとえば、他者に対する優しさは肯定的なカルマをもたらす一方で、動物を殺すなどの仏教の教えで認められていない行為は否定的なカルマを生み出します。人が一生のうちに蓄積する肯定的なカルマの量が重要です。なぜなら、それが、個人がどのように生まれ変わるかを決定するからです。生まれ変わり、すなわち生き物が死後に新しい身体で別の生涯を始めることができるという考え方は、いくつかの宗教の特徴です。仏教では、人間の生まれ変わりの形は、生涯のうちに発達させたカルマの質に依存します。人間の形で生まれ変わることは幸運と見なされます。なぜなら、人間は自分の考えや行動を制御する能力を持っているからです。彼らは、八正道(人生のあらゆる面で規律、自制、謙虚、優しさの必要性を強調する、仏陀の教えに基づいた規則)に従うことができます。[36]
儀礼と宗教の実践者
どの宗教的な信念体系でも最も簡単に観察される要素は、儀礼です。ヴィクター・ターナー(Turner 1972)は、儀礼を「隔離された場所で行われるとともに、主体の目標と関心を代表して、超自然的な実体または力に影響を与えるように設計された…ステレオタイプ化された一連の活動」として定義しました。[37]儀礼には具体的な目的または目標があります(たとえば、人々の間で宗教的に認可された結合をもたらす結婚の儀式など)。しかし、儀礼は象徴的でもあります。儀礼に関係する物体と活動は、それらの実際の在りよう以上のものの「代わりを務める」か、または意味を持ちます。米国での結婚式では、ウェディングドレスの白い色は、純粋さの伝統的なシンボルです。
大量の人類学的研究は、多種多様なコミュニティーの宗教的儀式の特定と解釈に焦点を合わせてきました。これらの実践の詳細はさまざまな文化的な環境で異なりますが、その目標に基づいてそれらをいくつかのタイプに分類することは可能です。儀礼の1つのタイプは、通過儀礼、すなわち人生のいくつかの段階の間を個人が移行するために設計された儀式です。[38]第2のタイプの儀礼は、強化儀礼であり、これはしばしば危機の期間後にコミュニティーを一緒に結びつけるように設計された行動です。[39]再生儀礼もまたしばしばコミュニティーの危機の時期に続くものであり、霊的または超自然的な介入を通じて戦争、飢饉、貧困などの深刻な問題を解決する意欲的な試みです。[40]
通過儀礼
アルノルト・ファン・ヘネップ(Van Gennep 1909)は、彼の通過儀礼に関する独創的な記述の中で、これらの儀式は3つの異なる段階で行われることに注目しました:それは、分離・過渡・統合です。最初の段階では、個人は現在の社会的アイデンティティーから引き離され、人生の次の段階に入るための準備を開始します。その後の過渡の期間は、しばしば個人が新しい社会的役割に備えるために設計された試験、試練、または活動を行う時間です。統合という最終段階では、個人は新しい社会的に認められた地位を伴ってコミュニティーに戻ります。[41]
子供を大人としての新しい地位に移行させる通過儀礼は、世界中で一般的にあります。南アフリカのコーサ族の共同体では、10代の少年は伝統的に儀礼の3つの段階のそれぞれを通過する一連の行為を使用して男性へと移行しました。分離の段階では、少年たちは家を出て割礼を受けます。彼らは、手術中に苦痛や痛みの兆候を表現することが許されていません。割礼に続いて、彼らは傷が治癒する間、孤立して生活します。これは過渡の段階であり、彼らはその間、通過儀礼を受けている少年以外の誰とも話しません。このストレスに満ちた時間は少年たちの間の絆を築くのに役立ち、その絆は大人の男性としての彼らの人生を通して続きます。家に帰る前に、孤立した居住区は焼き払われます。これは幼少期の喪失を象徴しています。参加者が共同体に戻るとき(統合の段階)には、彼らは男性として認識され、共同体の秘密の物語を学ぶことが許されます。[42]
強化儀礼
強化儀礼もまた、世界中の共同体で非常に一般的です。これらの儀礼は、共同体のメンバーを結び付けて、共同体のメンバーとして自分自身を見ることを促すような共同体の感覚または団結感を作り出すために使用されます。この儀礼の特に劇的な例の1つは、南太平洋のバヌアツのペンテコステ島で毎年春に開催されるナゴル族のランドダイビングの儀式です。多くの儀礼と同様に、ランドダイビングにはいくつかの目標があります。その1つは、勇気の劇的な表示でもって霊に感銘を与えることにより、良い収穫を確保するのを助けるということです。これを達成するために、共同体の男性は、高さ60~80フィートの木造の塔を建設し、足首の周りに木のつるで作ったロープを結び、地面に向かって頭からジャンプします(図11.5)。ランドダイビングの準備には、共同体のほぼすべてのメンバーが関与します。男性は1か月以上かけて一緒に塔を建設し、つるを集めます。共同体の女性はこの式典のための特別な衣装と踊りを準備し、ダイビング中に怪我をする可能性のあるランドダイバーのことを皆で世話をします。ランドダイビングの準備とそれに続くお祭りは両方とも、力強い強化儀礼です。興味深いことに、この儀礼は同時に通過儀礼でもあります。少年は、共同体の年長者たちが見守る中で塔の高い部分からジャンプすることで、男性として認識されるようになります。[43]
再生儀礼
再生儀礼はすべて、困難な状況または壊滅的な状況に起因します。注目すべき例の1つは、南太平洋のタンナ島で発展した儀礼です。第二次世界大戦中、南太平洋の多くの島々が米軍によって一時的な基地として使用されました。タンナ島はそれらの場所の1つであり、このかつては孤立していた共同体は、米軍が電気や自動車などの近代的な利便性を導入したために、非常に急速な変化を経験しました。これらの発展を理解しようと試みる中で、島の住民はこれらの変化の理由についてさまざまな理論を発達させました。可能な説明の1つは、外国の物品は強力な神または先祖の霊によって島民に与えられたということでした。その存在は後にジョン・フラムという名前が与えられました。この名前は、軍事基地の運用中に島民が出会ったであろう一般名:「アメリカから来たジョン(John from America)」に基づいているのかもしれません。
戦争が終結し、米軍が去ったとき、タンナ島の住民は、享受していた物資が消えたためにある種のトラウマを経験し、ジョン・フラムの儀礼が始まりました。毎年2月15日に、島の住民の多くは米国の飛行機、滑走路、または管制塔のコピーを作成し、軍用ライフルとアメリカのブルージーンズのレプリカを着て軍隊の隊列で行進します。この儀式は、ジョン・フラムと彼が管理する物質的な富を島に引き戻すことを目的としています。この儀式はまだその意図された変化の効果がありませんが、参加者は儀式を続けています。ある村の長老は、彼の継続的な信仰を説明するように求められたとき、次のように説明しました:「あなたがたキリスト教徒は、イエスが地に戻るのを2000年の間待っており、そしてあなたがたは希望をあきらめていません。」[44]このジョン・フラムの慣習はカーゴカルトと呼ばれることがあります。これは、物質的な繁栄を引き付けようとする儀礼を記述するために使用される用語です。ジョン・フラムの儀礼は商品、つまり「カーゴ(貨物)」に焦点を当てていますが、一般的に、カーゴカルトという用語は人類学者には好まれません。なぜなら、それはこの儀礼に関わる複雑な動機を単純化しすぎているためです。「カルト」という言葉には、過激派や危険な信念の意味も含まれており、この関連性もまたこの実践の理解を歪めてしまいます。
宗教の実践者
儀礼は極端に複雑になる可能性があり、その結果はコミュニティーにとって死活的に重要であるため、しばしば専門の実践者が詳細を監督する責任を負います。多くの状況で、宗教の専門家は高い社会的地位を持ち、大きな敬意を持って扱われます。一部の人は彼らの貢献に対してお金を徴収することによって比較的裕福になるかもしれませんが、他の人は、時には物質的な世界の拒絶として故意に、貧困になるかもしれません。宗教の実践者のための普遍的な用語はありませんが、3つの重要なカテゴリーがあります:祭司、預言者、シャーマンです。
祭司は、どのようなジェンダーでもあり得る、専任の宗教の実践者です。祭司の地位は、実質的な職業の専門化を持つ社会でのみ現れます。祭司は、神(または神々)と人間との間の仲介者です。祭司の地位に入る個人にとって必要とされる資格は、宗教の宗派によって異なります。キリスト教の宗派では、祭司は正式な高等教育プログラムを修了するのが一般的です。プジャリとして知られるヒンドゥー教の祭司は、聖なる言語であるサンスクリット語を学び、ヒンドゥー教の儀式に習熟するために何年も費やさなければなりません。彼らはまた、菜食主義の食事などの厳しい生活様式の制限に従わなければなりません。伝統的に、バラモンのカースト出身の男性だけがプジャリになる資格がありましたが、これは変化しています。今日、女性や他のカーストの人々も祭司の地位に加わっています。専任の霊的な実践者を利用する社会の顕著な特徴の1つは、普通の信者と神や神々との間の分離です。祭司は、仲介者として、礼拝の実践に関連する規則を設定し、宗教儀式へのアクセスを制御する実質的な権限を持っています。[45]
シャーマンという用語は、兼任の宗教の実践者を指すために何百年もの間使用されてきました。シャーマンは、必要に応じて宗教的な儀式を行いますが、共同体の通常の仕事にも参加します。シャーマンの宗教的実践は、霊、神々、または超自然的な領域と直接コミュニケーションをとる能力に依存しています。シャーマンの重要な特質は、別の世界の超自然的な力と通信し、おそらくはそれらを操作するために、通常の現実を超越するという能力です。この能力は継承されることもあれば、または学ばれることもあります。[46]通常の領域から霊的な領域に超越することは、シャーマンに対して、失われた人や動物を見つけたり、病気の霊的な原因を特定することによって病人を癒したりといった多くのことを行う能力を授けます。
ロシア北部に住んでいるチュクチ族の中では、シャーマンの役割は特別な使命であると考えられており、この共同体の文脈の中では性格の特性が異常に見えるような人にとって特に適しているものかもしれません。たとえば、神経質、不安、または怒りっぽさに苦しむ若者は、シャーマニズムの実践を始めるという使命を感じる場合があります。[47]シャーマニズムが統合失調症のような状態に対処する文化的に受け入れられた方法であるかもしれないことを示唆する研究がいくつかあります。[48]もし真実であるならば、これはシャーマンの仕事にとって意識の変化した状態を達成することが不可欠だからかもしれません。夢、幻覚薬、リズミカルな音楽、ダンスによる疲労、またはその他の手段を通じて達成される変化した状態に入ると、シャーマンが超自然の領域と直接関わることが可能になります。
南米のアマゾン上流のシャーマンは、何世紀にもわたって幻覚作用のある植物から作られた飲み物であるアヤワスカを使用してきました。アヤワスカの効果は神経系から始まります:
この麻薬のコントロール下にある人は、目の前ですさまじい光景が展開するのを見ています:数センチの距離にある最も美しい風景、怪物のような動物、体に近づいて巻きついてくる、あるいは太いケーブルの巻きのように絡み合っている毒蛇。同様に、人は、本当の友人である人、彼を裏切る人、危害を加えてくる人を見ます。彼は自分が抱えている病気の原因を観察し、同時に最も有利な治療法が提示されます。彼は素晴らしい狩りに参加します。彼が最も愛しているもの、または最も嫌っているものは、これらの瞬間に、並外れた鮮やかさと色を獲得し、彼の人生がいつも通りに展開する場面は、最も美しく感情的な表現をとります。[49]
ペルーのシピボ族の人々の間で、アヤワスカは失われたり盗まれたりした魂を取り戻すためにシャーマンの魂が彼の体を離れることを可能にする物質であると考えられています。多くの文化では、魂の喪失が病気の主な説明です。シピボ族は、魂は身体とは別の存在であり、その意志によって離れたり戻ったりすることができるものであると信じています。シャーマンは魂を盗むこともできます。この共同体のシャーマンは、アヤワスカの影響下で、魂を見つけて取り戻すことができ、おそらく復讐として敵を殺すことさえできます。[50]
人類学者のスコット・ハットソン(Hutson 2000)は、シャーマンによって達成された意識の変化した状態と、レイブ(反復的なパターンを持つ大音量の音楽を特徴とする大規模なダンスパーティー)中に誘発される精神状態との間の類似性を記述しています。レイヴでは、明るい光、激しいダンス、時には幻覚薬の使用によって、シャーマンのトランスに似た心理的効果が引き起こされます。ハットソンは、レイヴを通じて個人は「自己の忘却状態」と通常の自己を超越する能力とによって特徴付けられる意識の変化した状態に入ることができると主張します。これらのイベントでのDJは、しばしば「テクノシャーマン」と呼ばれます。これは、伝統的なシャーマンが彼らの文化で果たす指導的役割に対する興味深い言及です。[51]
預言者とは、超自然の領域と直接コミュニケーションをとると主張し、神聖なメッセージを他の人に伝えることができる人です。神によって預言者ムハンマドに啓示された教えに基づくイスラム教を含む多くの宗教共同体は、預言から始まりました。キリスト教とユダヤ教では、モーセが神から直接啓示を受けた預言者の一例です。歴史的に重要な預言者のもう1つの例は、ジョセフ・スミスです。彼は、モロナイという名の天使から預言を受け、埋もれた一組の金版の場所に導かれた後、末日聖徒教会を設立しました。この金版からの情報がモルモン書の基礎となりました。
祭司と預言者の大きな違いは、彼らの権威の源です。祭司は、正式に組織された宗教制度の経典と職業上の地位から彼または彼女の権威を取得します。預言者は、彼または彼女の神性との直接的なつながり、およびカリスマを通じて他の人に自分の正当性を納得させる能力から権威を引き出します。預言者が提供する洞察と助言の類は、特に社会的な激変や苦難の時代には非常に説得力を持つことがあります。
多大な影響を与えた預言者の1人は、セヴンスデー・アドベンティスト教会の分派であるブランチ・ダビディアンの指導者であるデビッド・コレシュでした。ブランチ・ダビディアンは、至福千年説の信奉者(世界の大きな変化が差し迫っていると信じている人々)でした。デビッド・コレシュは非常にカリスマ的でした。彼はハンサムで雄弁な話者でした。彼は困窮している人々に避難所と慰めを提供し、その過程で終末の到来について説教しましたが、彼はそれがブランチ・ダビディアンの生活様式に対する米国政府の侵入によって引き起こされると信じていました。コレシュは非常に影響力があったため、1993年に米国政府がテキサス州ウェーコのブランチ・ダビディアンの施設に不法な武器を捜索しに入ろうとすると、このグループのメンバーは抵抗し、連邦政府の職員と銃撃戦を交わしました。その後、いまだに議論されているような状況下で、施設内で火災が起こり、コレシュを含む86人が死亡しました。[52]結局のところ、米国政府はこのグループの終末論的なビジョンを実現し、デビッド・コレシュが殉教者になることを手助けしました。ブランチ・ダビディアンは新しいグループ「ブランチ、我らの正しき主」に進化し、今日でも多くの人がコレシュの帰還を待っています。[53]
結論
宗教は、世界の大多数の文化の人々の生活にとって中心的な重要性を持っています。世界中の人々の10人中8人以上が何らかの宗教団体に共感しています。[54]しかしながら、宗教の所属を持たないと言う人の数が増えていることも事実です。現在、世界では、ローマカトリック教徒と同じくらい多くの人々が自分のことを宗教的に「無所属」であると考えています。[55]これは、文化自体と同じように、宗教は非常に動的であり、解釈と忠誠の絶え間ない変化に左右されるという重要な注意事項です。人類学は、宗教的信念、人々が超自然について考える方法、そしてこれらの信念が刺激する価値観と行動が個人や共同体の生活にどのように貢献するかを研究するための独特な視点を提供してくれます。今日の世界に存在する宗教的多様性の豊かさを完全に把握することができる理論や語彙はありませんが、文化人類学は、宗教が人間の経験に与える感情的、社会的、霊的な貢献を理解するための道具立てを提供してくれます。
ディスカッションのための質問
1.この章では、デュルケーム、マルクス、フロイトが開発した宗教に関する理論について説明しています。それぞれの理論の長所と短所は何ですか?もしあなたが別の文化の宗教的信念について学ぼうとしている場合、どの理論が最も有用でしょうか?
2.通過儀礼と強化儀礼は多くの宗教的宗派の重要な部分ですが、これらの同じ儀礼は世俗的な(非宗教的)文脈にも存在します。あなた自身のコミュニティーにおけるこれらの儀礼の例は何ですか?これらの儀礼は、人々を結び付ける上でどのような役割を果たすでしょうか?
3.デュルケームは、神聖なものと世俗のものとの区別が宗教の重要な特徴であると主張しました。あなた自身の文化について考えると、「神聖なもの」と見なされる考え方や対象物の例は何でしょうか?それらの対象物または考え方をどのように扱うべきかに関する規則は何ですか?それらの規則に従わない人に対する罰則は何ですか?
用語集
アニマティズム:非人格的な超自然の力への信念を中心に組織された宗教体系。
アニミズム:植物、動物、無生物、または自然現象には霊的または超自然的な要素があるという信念を中心に組織された宗教体系。
擬人化:人間の特徴を持つ物体または存在。
カーゴカルト:物質的な繁栄を引き付けようとする儀礼を記述するために使用されることのある用語。この用語は一般に人類学者には好まれません。
集合的沸騰:人々のグループが同じ思考と感情を共有するときに生じる情熱またはエネルギー。
宇宙論:世界の起源または歴史の説明。
文化の盗用:別の文化から考え方を真似する行為、およびその過程でその意味を歪める行為。
孝行の徳:若者が高齢者、場合によっては祖先の霊の世話をすることを必要とする伝統。
魔術:超自然的な力を個人の管理下に置くことを目的とした実践。
至福千年説の信奉者:世界の大きな変化が差し迫っていると信じている人々。
一神教:単一の最高神を認めている宗教体系。
多神教:複数の神々を認めている宗教体系。
祭司:専任の宗教の実践者。
世俗の:対象物や考え方は普通のものであり、軽視されたり軽蔑されたりします。
預言者:超自然の領域と直接コミュニケーションをとると主張し、神聖なメッセージを他の人に伝えることができる人。
生まれ変わり:生き物が死後に新しい身体で別の生涯を始めることができるという考え方。
宗教:超自然を含むように人間の社会と文化を拡大すること。
再生儀礼:霊的または超自然的な介入を通じて戦争、飢饉、貧困などの深刻な問題を解決する試み。
強化儀礼:しばしば危機の期間後にコミュニティーを一緒に結びつけるように設計された行動。
通過儀礼:人生のいくつかの段階の間を個人が移行するために設計された儀式。
神聖な:対象物や考え方は普通のものとは分け隔てられ、大きな敬意と慎重さをもって扱われます。
シャーマン:必要に応じて宗教的な儀式を行いますが、共同体の通常の仕事にも参加する兼任の宗教の実践者。
魔術師:自身の目的のために魔術を使用しようとする個人。
超自然的:自然の法則に支配されていない存在または力を記述します。
擬動物化:動物の特徴を持つ物体または存在。
著者について
サシュール・ヘニンガー-レナーは、比較宗教と心理人類学の分野で研究を行っている人類学者です。彼女は、ニューヨーク市のコロンビア大学で人類学の修士号を取得し、その後、研究と教育に携わっています。現在サシュールは、パサデナ・シティー・カレッジの講師であり、文化人類学および生物人類学の分野を教えています。サシュールは、自由な時間には世界を旅し、その途上で考古学的および文化的な場所を訪れています。彼女と彼女の夫は動物の救助に積極的に関与しており、最終的には、飼い主を見つけるのを待っている動物のための、自分たち自身の動物の救助団体を設立することを目指しています。
注記
[1] 以下を参照。Jean Clottes, Cave Art (London: Phaidon, 2010)
[2] O. Soffer, J. M. Adovasio, and D. C. Hyland “The ‘Venus’ Figurines: Textiles, Basketry, Gender, and Status in the Upper Paleolithic” Current Anthropology 41 n. 4 (2000):511–537.
[3] James Frazer, The Golden Bough (New York: Macmillan and Company, 1958[1890]),vii.
[4] Edward B. Tylor, Primitive Culture (London: John Murray, 1871).
[5] Emile Durkheim, The Elementary Forms of Religious Life, tr. Joseph R. Swain (London: George Allen and Unwin, 1965[1915]), 62.
[6] Jack David Eller, Introducing Anthropology of Religion (New York: Routledge, 2007), 9.
[7] Ibid.
[8] Marcel Mauss, A General Theory of Magic (London, Routledge, 1972[1902]), 24.
[9] Bronislaw Malinowski, Culture (New York: MacMillan Publishing, 1931).
[10] Bronislaw Malinowski, “Rational Mastery by Man of his Surroundings,” in Magic, Science, & Religion (New York: McGraw Hill, 1955).
[11] George Gmelch, “Baseball Magic” Transaction 8(1971): 39–41.
[12] Emile Durkheim, Elementary Forms of Religious Life (New York: The Free Press, 1912).
[13] Ibid.
[14] Kenneth D. Allan, Explorations in Classic Sociological Theory: Seeing the Social World, (Thousand Oaks, CA: Pine Forge Press, 2005).
[15] Mary Douglas, Purity and Danger (London: Routledge, 1966).
[16] Karl Marx, Critique of Hegel’s Philosophy of Right (Oxford: Oxford University Press, 1970[1844]).
[17] Charles Rycroft, A Critical Dictionary of Psychoanalysis (London: Puffin Press, 1995).
[18] Sigmund Freud, Totem and Taboo (New York: W.W. Norton & Company, 1950).
[19] Marvin Harris, Cows, Pigs, Wars and Witches: The Riddles of Culture (New York: Random House, 1974).
[20] Clifford Geertz, “Religion as a Cultural System,” in The Interpretation of Cultures: Selected Essays, ed. Clifford Geertz, 87–125 (London: Fontana Press, 1993), 90–91.
[21] Sam D. Gill, Sacred Words: A Study of Navajo Religion and Prayer (Westport, CT: Greenwood Publishing, 1981), 52.
[22] Gen. 1:21 NASB
[23] Gen. 1:27 NASB
[24] Bronislaw Malinowski, Magic, Science and Religion and Other Essays (Westport, CT Greenwood Press, 1984[1926]), 199
[25] この引用は以下から採られたものです。Aram Oroi, “Press the button, mama!:”Mana and Christianity on Makira in the Solomon Islands” (paper presented at the Australia and New Zealand Association of Theological Schools Conference held in Auckland, June/July 2013). 彼の仕事は、以下に引用されています。Alex Golub, “The History of Mana: How an Austronesian Concept Became a Video Game Mechanic” The Appendix 2 no. 2 (2014) http://theappendix.net/issues/2014/4/the-history-of-mana-how-an-austronesian-concept-became-a-video-game-mechanic
[26] Roger M. Keesing, “Rethinking ‘Mana’” Journal of Anthropological Research 40 no. 1 (1984):137–156.
[27] Alex Golub, “The History of Mana.”
[28] Jack David Eller, Introducing Anthropology of Religion.
[29] Thomas M. Kiefer, The Tausūg: Violence and Law in a Philippine Moslem Society (New York: Holt Rinehart, 1972).
[30] Charles Ikels, Filial Piety: Practice and Discourse in Contemporary East Asia (Stanford: Stanford University Press, 2004.)
[31] “Madagascar’s Dance with the Dead,” BBC, http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/7562898.stm
[32] Edward B. Tylor, Primitive Culture.
[33] Edward B. Tylor, “The Limits of Savage Religion” Journal of the Royal Anthropological Institute 21(1892): 283–301.
[34] Pew Research Center, “The Future of World Religions: Population Growth Projections, 2010–2050,” April 2, 2015 http://www.pewforum.org/2015/04/02/religious-projections-2010-2050/
[35] 多神教としてのヒンドゥー教の特徴付けは、議論されています。ヒンドゥー教の神々は、最も重要な超自然的な力であるブラフマンの顕現として見ることができます。
[36] Andrew Skilton, A Concise History of Buddhism (New York: Barnes and Noble Publishing, 2000).
[37] Victor Turner, “Symbols in African Ritual” Science 179 (1972): 1100–05.
[38] Arnold Van Gennep, The Rites of Passage (Hove, UK: Psychology Press, 1960).
[39] Eliot Dismore Chapple and Carleton Stevens Coon, Principles of Anthropology (New York: Henry Holt and Company, 1953).
[40] Anthony F.C. Wallace, “Revitalization Movements” American Anthropologist 58 (1956): 264–281.
[41] Victor W. Turner, “Betwixt and Between: The Liminal Period in Rites de Passage,” The Proceedings of the New American Ethnological Society, 1964.
[42] Casey Golomski, “Rites of Passage: 1900’s to Present: Africa,” in Cultural Sociology of the Middle East, Asia, & Africa: An Encyclopedia (Thousand Oaks: Sage Publications, 2012).
[43] さらなる情報については、以下を参照。Marc Tabani, “The Carnival of Custom: Land Dives, Millenarian Parades and Other Spectacular Ritualizations in Vanuatu” Oceania 80 no. 3 (2010): 309–329.
[44] Paul Raffaele, “In John They Trust,” Smithsonian Magazine, http://www.smithsonianmag.com/people-places/in-john-they-trust-109294882/?no-ist=&page=1
[45] Victor W. Turner, “Religious Specialists,” International Encyclopedia of the Social Sciences, 13(1972): 437–444.
[46] Piers Vitebsky, “Shamanism,” Indigenous Religions: A Companion, ed. Graham Harvey(New York: Bloomsbury Academic, 2000).
[47] Waldemar G. Bogoras, The Chukchi of Northeastern Asia American Anthropologist 3 no. 1(1901):80–108.
[48] Rick Strassman, DMT: The Spirit Molecule (South Paris, ME: Park Street Press, 2000).
[49] Avencio Villarejo, Asi es la selva (Lima, Peru: Centro de Estudios Teologicos de la Amazonia, 1988).
[50] Robert L. Carneiro, “The Amahuaca and the Spirit World” Ethnology 3(1964): 6–11.
[51] Scott R. Hutson, “The Rave: Spiritual Healing in Modern Western Subcultures,” Anthropological Quarterly 73(2000): 35–49.
[52] Kenneth G.C. Newport, The Branch Davidians of Waco: The History and Beliefs of an Apocalyptic Movement (London: Oxford University Press, 2006).
[53] John Burnett, “Two Decades Later: Some Branch Davidians Still Believe,” National Public Radio http://www.npr.org/2013/04/20/178063471/two-decades-later-some-branch-davidians-still-believe
[54] Pew Research Center, “The Global Religious Landscape,” December 18, 2012. http://www.pewforum.org/2012/12/18/global-religious-landscape-exec/
[55] Ibid.
画像のクレジット
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