視点:文化人類学への開かれた招待 第2版 —第3章 フィールドワークを行う:文化人類学の方法—
Japanese translation of “Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”
コミュニティーカレッジ人類学協会(SACC)のサイトで公開されている教科書“Perspectives: An Open Invitation to Cultural Anthropology, 2nd Edition”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。
第3章 フィールドワークを行う:文化人類学の方法
ケイティ・ネルソン、インバーヒルズ・コミュニティーカレッジ
knelson[at]inverhills.edu
http://kanelson.com/
学習目標
•民族誌学フィールドワークのユニークな点と、それが人類学の重要な戦略としてどのように浮上したかを議論する。
•民族誌学フィールドワークに対する従来のアプローチと現代のアプローチがどのように対比されるかを説明する。
•現代の民族誌学フィールドワークの技術と視点のいくつかを特定する。
•人類学的フィールドワークを行う際の倫理的な考慮事項のいくつかについて議論する。
•人類学者がどのようにしてフィールドワークのデータを意味を伝える物語へと変換するかを要約する。
フィールドを見つける
学生の人類学者としてのフィールドワークに関する私の最初の経験は、ブラジル北東部の小さな先住民コミュニティーで行われ、ラゴア・エンカンタダ(エンチャンテッド・レイク:魅惑の湖)のジェニパポ-カニンデ族を研究するものでした。私は先住民族のメンバーの間での土地保有に関する独立した研究プロジェクトを実施することを計画しており、そして、コミュニティーで数か月を過ごす許可を得ていました。私のブラジルでのホストファミリーは親戚を手配し、彼のバイクの後ろに私を乗せて田舎のコミュニティーまで運んでくれました。赤道の猛烈な暑さの中、凹凸のある一連の道路を数時間走行した後、私は居留地の端に到着してほっとしました。彼はエンジンを切って、私は疲れて汗をかいた背中から重いバックパックを降ろしました。私たちが到着したことを聞くと、最初に子供たちが、そして大人がゆっくりおずおずと私たちに近づき始めました。私は好奇心旺盛な見物人たちに挨拶し、私が誰であるかを簡単に説明しました。子供たちのグループがカシーク(首長/政治リーダー)を連れてくるために駆け出し、私は集まっていた数人の男性に私の研究課題を説明し始めました。私は、土地の私的所有なしに部族がどのようにして土地の使用権を交渉するのかについて学ぶことに興味があると述べました。私が話し言葉で「インディオ」(インディアン)という言葉を使ったのを聞いた後、ある男性(あとでカシークのいとこであることが判明しました)が出てきて、「まあ、あなたの仕事は難しいものになるだろう。なぜなら、ここにはインディアンがいないからだ。私たちはただのブラジル人だ。」と私に言いました。そうすると、突然、別の男性が怒って彼に答えました。彼は、このコミュニティーがインディアン居留地にあり、ブラジル政府が自分たちを先住民部族として認識しているため、実際に自分たちはインディアンであると断言しました。その後、数人の女性が矢継ぎ早の討論に入ってきました。私はこのコミュニティーでの最初の交流の激しさに驚き、一歩後ずさりしました。カシークが到着すると議論は沈静化しましたが、それは私の心に強い印象を残しました。最終的に私は元の研究計画を破棄し、このコミュニティー内で彼らが何者であり、何者でないかに関するこの不一致に焦点を合わせました。人類学では、この種の信念の対立は競合するアイデンティティーとして知られています。
私はすぐに、ジェニパポ-カニンデ族の多くがインディアンというアイデンティティーの標識を受け入れていないことを知りました。この部族のメンバーは全員、単一言語のポルトガル語の話者であり、ずっと前にすでに元の言語と多くの伝統を失っていました。1980年代以来、数人の地元の研究者がこのコミュニティーの中で研究を行い、このコミュニティーに先住民族としての起源があると結論付けていました。これらの研究者は、先住民族の居留地としての公式の州および連邦の地位のためにコミュニティーに代わってロビー活動を行い、1997年に国立インディアン財団(Fundação Nacional do Índio)がこのコミュニティーを訪問し、土地を先住民族の居留地として公式に画定することに同意しました。
20年以上経った今でも、このコミュニティーはその画定が決定するのを待っています。コミュニティーの一部の人は、多くの利点があったために、先住民族の地位を受け入れました。セアラー州は、財団からの部分的な資金を使用して、コミュニティーへのアクセスを改善する新しい道路を建設しました。政府もまた、小学校と共同井戸を建築し、新しい電線を敷設しました。これらの利益にもかかわらず、コミュニティーの一部のメンバーは、先住民族の地位を受け入れませんでした。なぜなら、ブラジルではインディアンとみなされることは軽蔑的な意味合いを持っていたためです。多くの人々は、この標識が彼らを貧しく疎外されたブラジル人の階級と関連付けることによって彼らに汚名を着せると感じていました。他の人々は、コミュニティー内での長年にわたる家族および個人間の対立のために、この標識に抵抗しました。
フィールドワークは、文化人類学者がデータを収集して研究の質問に答えるための最も重要な方法です。文化人類学者は、日常的に人々のグループとやり取りしながら、彼らが観察したものと知覚したものを文書化し、必要に応じて研究の焦点を調整します。彼らは通常、彼らが研究している人々の中で生活するのに数か月から数年を費やします。
「フィールド」は、パプアニューギニアの高地にある村やミネアポリスのダウンタウンにあるスーパーマーケットなど、人々がいるならどこでもかまいません。海洋生物学者が海洋動物の行動を学ぶために海で時間を過ごし、地質学者が岩石の形成を観察するために山脈に旅行するのと同じように、人類学者は人々がいる場所へと行きます。
人類学を行う
この短編映画では、マサチューセッツ工科大学人類学部の3人のメンバーであるステファン・ヘルムライク、エリカ・ジェームズ、ヘザー・パクソンが、現在の仕事とフィールドワークを行うプロセスについて語っています。
奇妙なものを馴染みのあるものにすることと、馴染みのあるものを奇妙なものにすること
フィールドワーク中の文化人類学者の目標は、ある人々のグループを、その文化の奇妙なまたは異常な特徴を馴染みのあるものにするとともに、馴染みのある特徴を並外れたもののように見せるような形で、他の人に説明することです。ポイントは、自分の文化と他の文化とを比較することにより、人々が自分自身の文化のさまざまな側面について新しい方法で考えるのを助けることです。人類学者のマーガレット・ミードが、彼女の研究論文「サモアの思春期(Coming of Age in Samoa)」(1928)の中で記述した研究は、このことについての有名な例です。1925年、ミードはアメリカ領サモアに行き、そこで彼女は、思春期の少女たちおよび彼女たちのセクシュアリティーと成長についての経験に関する民族誌研究を行いました。ミードの指導者である人類学者のフランツ・ボアズは、文化的決定論の強い支持者でした。文化的決定論とは、ある人の生物学ではなく文化的な育ちと社会環境が主に行動を決定するという考え方です。ボアズは、ミードがサモアに行ってそこで思春期の人の行動を研究し、彼らの文化と行動を米国の思春期の人のものと比較して、彼の仮説を支持するよう奨励しました。「サモアの思春期」の序文で、ボアズは彼女の研究の重要な洞察とみなすものを次のように説明しました:「彼女の骨の折れる調査の結果は、私たちが人間本性に帰するものの多くが私たちの文明によって私たちに課せられた抑制に対する反応に過ぎないという、人類学者が長年抱いていた疑念を裏付けている。」[1]
ミードはサモアの3つの村で25人の若い女性を調査し、アメリカの思春期の人のストレス、不安、混乱はサモアの若者には見られないことを発見しました。むしろ、サモアの若い女性は、ストレスや困難が比較的少ない状態で、成人期へのスムーズな移行を経験していました。彼女は、サモアの思春期を特徴付けるような、社会的に受け入れられている性的実験、性的嫉妬とレイプの欠如、そして一般的なくだけた態度の事例を記録しました。「サモアの思春期」は急速に人気を博し、ミードのキャリアをアメリカで、そしておそらく世界で最も有名な人類学者の一人として打ち出しました。この本は、特に20世紀半ばのアメリカでの10代の経験を特徴付けるように思われた性的抑圧と混乱の観点から、アメリカの思春期がどうあるべきかについて、自分たち自身の文化的前提を再考するようアメリカの読者を促しました。サモアとアメリカの社会の違いの分析を通して、ミードはまた、米国の青少年の教育と育児の変化を説得力をもって呼びかけました。
馴染みのあるものを奇妙なものにすることを試み、読者に自分たちの文化を別の方法で考えるように促した人類学的な文章のスタイルのもう1つの古典的な例は、ホラス・マイナーの「ナシレマ族の身体儀式(Body Ritual among the Nacirema)」(1956)です。このエッセイは、文化的な部内者にとっては極端で、誇張され、文脈から外れたように聞こえる方法で、ナシレマ族(Nacirema (「American:アメリカ人」の逆綴り)の口腔衛生習慣を説明しました。彼は、ナシレマ族を、奇妙で風変りな慣習を持つ、あまり知られていない文化グループであるかのように見せました。マイナーは、人類学者が故郷から遠く離れた小規模な伝統的社会から米国などの大規模な産業革命後の社会へと焦点をちょうど拡大し始めた時代にこのエッセイを書きました。彼は主として、人類学者がしばしば他の文化を風変りに見せるような方法で「他者」について書き、その他者が人類学者の文化と共通して持つ特徴については適当にごまかすことの風刺としてこのエッセイを書きました。このエッセイはまた、米国の読者全般と特に人類学者に対して、自分たちの文化について異なった考え方をし、何が「正常」なものかについての文化的前提を再検討するように挑戦しました。
イーミックとエティックの視点
人類学者がフィールドワークを行うとき、彼らはデータを収集します。人類学的データを収集するための重要なツールは、民族誌学です。これは、人々の日常的な実践と生活に関する綿密な研究です。民族誌学は、特定の時間と場所における研究される集団の詳細な説明を作成します。これは、「厚い記述」とも呼ばれ、人類学者クリフォード・ギアツの1973年の書籍「文化の解釈学(The Interpretation of Cultures)」で、このタイプの研究と文章を説明するために作られた用語です。厚い記述は、問題とされている行動や文化的イベントだけでなく、それが発生する文脈と人類学的解釈も説明します。そのような記述は、ある文化の中の人々が彼らがしているように振る舞う理由と、なぜその振る舞いが彼らにとって意味があるのかの内部論理を読者がよりよく理解するのを助けます。文化的な部内者の態度、視点、動機を理解することが人類学の中心にあるため、これは重要です。
民族誌学者は多くの異なる情報源からデータを収集します。1つの情報源は、人類学者自身の観察と思考です。民族誌学者は、自分の考え方や省察、および研究している人々との活動に参加する(参与観察として知られる研究テクニック)ときに自分が何をし、何を観察するかを記録したフィールドノートを書きます。他のデータ源には、非公式の会話や、より正式な録音されて書き起こされるようなインタビューが含まれます。彼らはまた、手紙、写真、工芸品、公的記録、本、報告書などの文書も収集します。
さまざまな種類のデータはさまざまな種類の民族誌学的記述を作り出します。それらは、視点に関しても異なります。その視点とは、研究される文化の視点から(イーミック)のもの、または観察者の視点から(エティック)のものです。イーミックの視点とは、特定の文化に属する人々にとって意味をなすような形での行動や信念の記述のことを指します。たとえば、どのようにして人々が自分の文化や経験を認識して分類するのか、なぜ人々が彼らがやっているような行動をやると考えるのか、どのようにして彼らは物事を想像し説明するのか、などです。イーミックの視点を明らかにするために、民族誌学者は人々と話し、彼らが何をするかを観察し、彼らと日々の活動に参加します。ある文化の詳細な理解を獲得し、自分自身の文化的信念を通じて他者を解釈することを避けるための人類学者の努力には、イーミックの視点が不可欠です。
エティックの視点とは、観察者にとって意味をなすような方法で外部の観察者によって行われた行動の説明のことを指します。人類学者にとって、エティックな記述は通常、民族誌学者と人類学コミュニティーの間の会話から生じます。これらの説明は科学に基づいている傾向があり、歴史的、政治的、経済的研究やその他の種類の研究によって情報が与えられています。エティックなアプローチは、ある文化のメンバーが自分たちのしていることを注目に値する、または普通でないものと見なす可能性が低いことを認めています。彼らは立ち止まって、彼ら自身の行動を客観的に、または別の視点から見ることは簡単にはできません。たとえば、あなたは歯を磨く方法や歯医者に行く習慣、または10代をどのように経験するかを熟考したことはないかもしれません。あなたにとって、あなたの文化のこれらの部分はとても普通で「自然」であり、あなたはおそらくそれらを疑問視することを決して考えないでしょう。イーミックなレンズは、ある人々の包括的な見方を構築するときに不可欠な、代替の視点をあなたに提供してくれます。
ほとんどの場合、民族誌学者は、研究と文章にイーミックとエティックの両方の視点を取り入れています。彼らはまず、研究対象の人々の行動とその理由の理解を明らかにし、その後、人類学の理論と分析に基づいてその行動に関する追加の説明を展開します。両方の視点が重要であり、両者の間を行き来するのは難しい場合があります。それにもかかわらず、それはまさに優れた民族誌学者がしなければならないことなのです。
伝統的な民族誌学的アプローチ
初期の安楽椅子の人類学
民族誌学が完全に発展した研究方法になる前、19世紀から20世紀初頭の人類学者は、世界中の人々についてのデータを収集するために信頼性の低いテクニックを使用していました。初期の学者たちは、家と図書館の安楽椅子の快適さの中で、他の人たちの旅行記録を収集し、それらを使用して、遠く離れた文化と人々について結論を導きだしました。それらの報告は通常、宣教師、入植者、冒険家、ビジネス旅行者からのものであり、しばしば不完全、不正確、および/または誤解を招き、重要な情報を誇張または省略し、文化を美化していました。
ヴィルヘルム・シュミットやサー・E・B・タイラーなどの初期の学者は、旅行者や宣教師によって持ち帰られた工芸品や物語をふるいにかけ、関係する人々について彼らが頻繁に抱いていた先入観にもっとも良く合致するものを選び出しました。この欠陥のあるデータに依拠することによって、彼らはしばしば不正確または人種差別的ですらある結論を導き出しました。彼らには、情報がどれほど正確であるかを知る方法も、情報が収集された完全な文脈を理解するための方法もありませんでした。
サー・ジェームズ・フレイザー(1854–1941)の研究は、そのような人類学的な企てに関連した問題の良い例を示しています。フレイザーはスコットランドの社会人類学者であり、世界中の神話や宗教に興味を持っていました。彼は図書館や本のコレクションにある歴史的な文書や宗教的な文章を読みました。彼はまた、世界各地の宣教師や入植者に質問用紙を送り、彼らが接触した人々について尋ねました。その後、彼はこの情報を使用して、人間の信念体系についての包括的な結論を導き出しました。彼の最も有名な本「金枝篇(The Golden Bough)」で、彼は世界中の魔術的・宗教的実践の類似点と相違点を記述し、人間の信念は原始的な魔術から宗教へ、そして宗教から科学へという3つの段階を経て進歩すると結論付けました。この理論は、一部の人々は他の人々よりも進化しておらずより原始的であることを暗示しています。もちろん、現代の人類学者は、どのような人々であっても、他の人よりも進化していないといったように見ることはありません。その代わりに、今日の人類学者は、ある文化や社会が他の文化や社会よりも進んでいると仮定するのではなく、人々の行動の背後にある歴史的、政治的、文化的理由を明らかにしようとしています。
フレイザーの結論に伴う主な問題は、彼が自分自身ではいかなる研究も行わず、彼が依拠した情報には人類学者によって収集されたものがまったくなかったという事実にまでさかのぼることができます。彼は、自分が研究している人々と時間を過ごしたことはありませんでした。彼は自分が書いた宗教的な儀式を観察したことは一度もなく、もちろんそれらに参加したことも決してありません。もし彼がそれをやっていたならば、彼は当時の(そして現在の)すべての人間集団が、等しく実際的で、思慮深く、知的で、論理的で、「進化している」ことを理解できたかもしれません。彼はまた、情報を収集する方法と理由が情報の質に影響するという事実も理解したかもしれません。たとえば、もし植民地の行政官が人々が語る物語に対して代金を支払うことを申し出た場合、語り手の一部は、経済的利益のために物語を誇張したり、さらには物語をでっちあげるかもしれません。もしキリスト教の宣教師が最近改宗した教区民に彼らの宗教的実践を説明するように頼んだなら、彼らは教会内での非難を避け、立場を維持するために非キリスト教的な実践と信念を省略する可能性が高いでしょう。男性の旅行者がある文化の通過儀礼の伝統を文書化しようとした際に、その文化では男性が女性にそのような質問をすることを禁止していたならば、その旅行者は女性がそのような活動に参加しなかったことを誤って示唆するデータを生み出してしまいます。これらの例はすべて、安楽椅子の人類学の落とし穴を示しています。
ベランダを離れて
幸いなことに、安楽椅子の人類学の統治は短いものでした。20世紀の変わり目の頃に、自然科学の訓練を受けた人類学者が、人類についての科学がどのように見えるべきか、そして社会科学者が文化集団を研究するにはどのようにするべきかを再考し始めました。それらの人類学者の一部は、研究される人々を実際に観察し、話すことに少なくともかなりの時間を費やすべきだと主張しました。フランツ・ボアズやアルフレッド・コート・ハッドンなどの初期の民族誌学者は、通常、対象となる人々が住んでいる遠隔地に旅行し、そこで数週間から数か月を過ごしました。彼らは、人々や地域に精通している地元の西洋人のホスト(植民地の役人、宣教師、ビジネスマンなど)を探し、彼らを通して滞在先を見つけました。彼らは時にはガイドなしで共同体に飛び込みましたが、彼らは一般に地元の人々とあまり時間を費やしませんでした。したがって、彼らの観察は主として軒先の(ベランダからの)、比較的快適で安全な場所から行われました。
ポーランドの人類学者のブロニスワフ・マリノフスキー(1884–1942)による参与観察の先駆的な方法は、民族誌学者と研究対象者との関係を根本的に変えました。1914年、彼はトロブリアンド諸島を訪れ、そこの人々の中で4年間近くのフィールドワークを行いました。その過程で、彼は、正確で包括的な民族誌データを収集するのに最も適していると見なした厳密な一連の詳細な民族誌学的テクニックを開発しました。彼の方法の特徴の1つは、研究者が原住民と交流し、さらには原住民の間で生活するためには、ベランダを離れる必要があるということでした。彼の研究についての有名な本「西太平洋の遠洋航海者(Argonauts of the Western Pacific)」(1922)で、マリノフスキーは、彼の研究テクニックと、それらがクラの儀式(社会的エリートのメンバーの間でのサンゴの腕輪と装身具の交換)についての彼の分析で果たした役割について記述しました。彼は、この儀式がトロブリアンドの生活の中心にあり、危険な遠征と慎重な計画を含むクラ・リングと呼ばれる数年にわたる複雑な事業の集大成を表していると結論付けました。究極的には、この儀式の重要性を発見するための鍵は、彼がクラ・リングを観察しただけでなく、それに参加したことでした。この参与観察の手法は、今日の人類学研究の中心です。マリノフスキーは、ただ遠くから人々を観察する以上のことをしました。彼は人々と積極的に交流し、彼らの日々の活動に参加しました。また、翻訳者を介して仕事をしていた初期の人類学者とは異なり、マリノフスキーは地元の言語を学んだため、文化の中に浸かることができました。彼はすべての観察と思考を注意深く記録しました。マリノフスキーの技術は、現在では、民族誌学フィールドワークの中心的な構成要素です。
サルベージ民族誌学
マリノフスキーは民族誌学と人類学一般に多大な貢献をしましたが、それにもかかわらず彼はその時代の人間でした。20世紀前半の一般的な見方は、多くの「原始的」文化は急速に消滅しつつあり、それらの文化の特徴は失われる前に保存(回収:サルベージ)する必要があるというものでした。マリノフスキー、フランツ・ボアズなどの人類学者、および彼らの多くの学生は、近代化、移住、および外部グループとの接触によって急速な変化を経験しているネイティブアメリカンやその他の伝統的な社会などのグループの「死にゆく」文化の文化的伝統を文書化、写真撮影、その他の方法で保存しようとしました。彼らはまた、文化的工芸品を収集し、それによって共同体から財産を取り上げ、それを博物館や個人コレクションの中に収めました。
科学や人類学の正式な訓練を受けていない他の人々もサルベージ活動に参加しました。たとえば、ロバート・フラハティは、彼の「ドキュメンタリー」映画「極北のナヌーク(Nanook of the North)」(1922)の中で、カナダ北極圏のナヌークという名前のイヌイット男性とその家族の生活を撮影しました。フラハティは、すぐに失われるであろう伝統的な生活様式であると多くの人々が信じていたものを映画に保存するために、その文化のことを過去にそうであったと彼が想像したものとして表現するようにかなりの創作上の特権を使いました。その中には、映画をより「本物」に見せるように特定のシーンを演出したり、イヌイットの男性にライフルの代わりに槍を使用するように依頼することが含まれていました。
写真家や芸術家も同様に、絵画や写真の中で伝統的な先住民の生活を捉えて保存しようとしました。たとえば、有名な画家のジョージ・カトリン(1796–1872)は、19世紀の先住民が政府によって積極的に迫害され、彼らの土地から追放され、持続不可能な生活様式に追い込まれて、飢餓と戦争につながったという困難な現実を誇張するような形で場面を装飾したり、彼らを描いたりしたことで知られています。写真家エドワード・S・カーティス(1868–1952)は、「本物の」ネイティブの場面の美化されたイメージを強化したことで批判されています。特に、彼は高貴な野蛮人という問題のある考え方を永続させ、その過程で、先住民が直面している深刻な社会的、政治的、経済的問題から注意をそらしたと非難されています。[2]
今日、人類学者は、人々が社会的、政治的、経済的、その他の外部および内部の影響に反応することで人間の文化が絶えず変化することを認識しています — ある文化がより本物である、あるいはより原始的であるような瞬間などはありません。彼らは、文化は流動的であり、時間と空間で孤立したものとして扱うことはできないことを認めています。私たちが人々を人間開発の初期段階の原始的な痕跡として描写すべきではないのと同じように、私たちはまた、文化を美化したり、他者の苦しみをより本物または自然なものとして理想化したりするべきでもありません。
全体論
20世紀前半の人類学者たちは、サルベージ民族誌学の苦悩の中で、絶滅の危機にあるとみなした文化について、可能な限りありとあらゆる物事を積極的に記録しました。彼らは工芸品を収集し、古代遺跡を発掘し、筆記法を持たない言語の辞書を記し、文化的伝統、物語、信念を文書化しました。米国では、これらの取り組みは、今日では4分野アプローチまたは単に一般人類学として知られているものに発展しました。このアプローチは、複数の科学的および人文学的視点を、文化人類学、考古学、生物人類学/自然人類学、および言語人類学で構成される単一の包括的な学問分野へと統合します。
4分野アプローチの特徴は、その全体論的な視点です:人類学者は、私たちを人間にするすべての物事を研究することに興味を持っています。したがって、彼らはあらゆる時間の、そして世界のあらゆる場所の人間を理解するために複数のアプローチを使用します。彼らはまた、人々を完全に理解するためには、生物学、文化、歴史、または言語のうちの1つだけを見るのではだめだということも認めています。むしろ、それらすべてを考慮しなければなりません。人類学の4つの下位分野の間の相互関係は、今日の多くの人類学者にとって重要なものとなっています。
たとえば、言語人類学者のエドワード・サピアとベンジャミン・ウォーフは、文化、言語、認知の相互関係を調べました。彼らは、ある人が話す言語が、特に時間、空間、および物質を理解するという点において、その人が思考する方法を決定する上で重要な役割を果たすと主張しました。彼らは、異なる言語を話す人々は、その結果として世界を異なって見ると提案しました。よく知られた例では、ウォーフはホピ語と英語を対比しました。ホピ語の動詞には未来形や過去形が含まれていないため、ウォーフはホピ語を話す人は英語を話す人とは根本的に異なる方法で時間を理解していると主張しました。英語を話す人による観察は時間の違いに焦点を合わせる一方で、ホピ語を話す人による観察は妥当性に焦点を当てるでしょう。[3]
別の例では、ピーター・ゴードンは長年ブラジルのピラハン族の中で生活し、彼らの言語と文化を学びました。彼は、ピラハン語には数字のための単語が3つしかないことを指摘しました:1、2、そしてたくさんです。彼はまた、ピラハン族がそのような数字のためのポルトガル語の単語を学んだ後でも、3を超える量と数字を覚えるのが難しいことを観察しました。[4]
ピラハン語の数字の単語
この短編映像では、言語学者のダニエル・エヴェレットがピラハン語の数字の単語を説明しています。
一部の学者は、ウォーフとゴードンの結論を過度に決定論的であると批判していますが、彼らの研究は、言語と思考の間、そして文化的影響と生物学的影響の間の関係の存在を確かに示しています。言葉は人々に特定の考え方を強いるわけではないでしょうが、それらは私たちの思考プロセスや私たちが周りの世界をどのように見るかに影響を与えることがあります。人類学の全体論的な視点は、私たちの文化、言語、言語のための身体的および認知的能力が複雑な方法で相互に関係していることを理解するのに役立ちます。
今日の民族誌学
人類学の際立った研究戦略
民族誌学は、文化人類学の際立った研究戦略です。それはもともとは、小規模で比較的孤立した文化集団を研究するために人類学者によって開発されました。通常、これらの集団は比較的単純な経済と技術を持っており、より大きく、技術的に高度な社会へのアクセスが制限されていました。初期の民族誌学者は、特定の文化の全体性を理解しようとしました。彼らは数か月から数年をかけて共同体の中に住み、その間に、彼らの言語、生存戦略、政治システム、家族や結婚の形成、宗教的信念など、人々の生活のあらゆる側面を非常に詳細に文書化しました。これは、研究者が社会生活のあらゆる側面の相互接続性を理解するのに役立つために、重要なものでした。この民族誌学的アプローチの成功の鍵は、日々の活動に従事している人々の自然な環境でその人たちを観察するのにかなりの時間を費やすことだけでなく、それらの活動にも参加することでした。参加することによって、その文化についてのイーミックな視点を知ることができました。これは、以前の社会科学研究では欠けていたものでした。
民族誌学的な研究戦略は、イーミックの視点を発展させることにおいて有用であるため、社会学、教育、心理学、政治科学を含む他の多くの学問分野で採用されています。たとえば、教育研究者は、民族誌学を使用して教室での子供たちを研究し、彼らの学習戦略と、彼らが学習経験をどのようにして理解し意味付けるかを特定します。社会学者は民族誌学を使用して、新たに現れつつある社会運動を研究するとともに、そのような運動の参加者は、時に対立する目標を持つにもかかわらず、どのようにしてやる気とつながりを保つのかを研究しています。
民族誌フィールドワークの新しい場所
研究される文化や人々と同じように、人類学と民族誌学は進化しています。民族誌学研究のためのフィールドは、もはや遠く離れた、孤立した、工業化されていない社会に限られていません。人類学者は、米国の複雑で技術的に高度な社会や世界各地の都市環境で、民族誌学研究を行うことが増えています。たとえば、私の博士研究は米国で行われました。私は、ミネソタ州の滞在許可のないメキシコ人移民の大学生のアイデンティティー形成を研究しました。私の情報提供者の何人かは、私のフィールドワークが終わったときにメキシコに住んでいたので、私はメキシコのベラクルスにも旅行し、そこでも研究をするのに時間を費やしました。多くの場合、移住、ディアスポラ、そして移動する人々を研究する人類学者は、複数の場所で研究を行わなければなりません。これは、マルチサイト民族誌学として知られています。
人類学者は、人々がいるどのような場所であっても、そして人々が相互に交流するどのようなやり方であっても、民族誌学を使用して人々を研究します。あなたが通常、友人、家族、教授、上司とやり取りする多くの方法を考えてください。それはすべて対面のコミュニケーションですか、それとも時にはテキストメッセージを使用して友達とチャットしますか?あなたはまた、教授にメールを送って課題についての説明を求めたり、上司に電話してスケジュールを話し合ったりすることがありますか?Facebookで面白いビデオを他の人と共有したり、その後で親戚とSkypeのビデオ通話をしたりしますか?これらの人間の相互作用の新しい技術的な「場所」は、多くの民族誌学者にとって魅力的であり、フィールドワークの定義を拡大しています。
問題指向の研究
初期の頃、民族誌学者は文化の全体性を探求することに興味を持っていました。帰納的アプローチを採用していたために、彼らは一般に、比較的狭いあらかじめ定義された研究トピックを扱うことには関心を持っていませんでした。その代わり、目標は、人々、彼らの文化、彼らの故郷、そして彼らについて以前に書かれたものを探ることでした。研究の焦点は、彼らがフィールドにいる時間の間に徐々に現れるものとされていました。しばしば、民族誌学へのこのアプローチは、かなり一般的な民族誌学的な記述をもたらしました。
今日、人類学者はますます民族誌学的な研究に対してより演繹的なアプローチを取るようになっています。彼らは調査の目標についての一般的な考え方だけをもってフィールドに到着するのではなく、到着する前に特定の問題を選択し、その問題を調査の指針にする傾向があります。私の場合には、ミネソタ州の滞在許可のないメキシコ人移民の若者が、彼らのことを指すときに違法やよそ者といったさまざまな非人間化するラベルを使うような社会の中に住んでいるときに、どのようにしてアイデンティティーの感覚を形成するのかに興味がありました。それが私の研究の「問題」であり、それは私の研究を最初から最後まで方向づけ、導きました。情報提供者の生活のあらゆる側面を記録したわけではありません。代わりに、私は自分の研究の問題に最も密接に関連することに集中しました。
定量的な方法
文化人類学者は、定性的なアプローチを補完するために、ますます定量的な研究方法を使用しています。人類学の定性的研究は、人間の行動とそれが発生する文脈を包括的に記述することを目的とする一方で、定量的研究は人間の行動の側面を説明できる数値データのパターンを求めます。量的パターンは、統計分析、地図、チャート、グラフ、およびテキスト記述から収集できます。調査(サーベイ)は、回答者が同意または不同意の程度、多肢選択式の回答、選択肢のランク付けのような事前に定義された選択肢のリストから回答を選択するクローズドエンド型の質問を通常は伴う、一般的な定量的手法です。調査には通常、定性的研究に付随するような文脈的詳細が欠けていますが、それらは数値的にコード化するのは比較的容易である傾向があり、その結果、定性的データよりも分析が容易になります。調査は、大規模な集団内の特定のデータポイントの収集にも役立ちます。それは多くの定性的手法では困難なことです。
人類学における栄養分析は、定量データの収集に一般的に依拠している研究分野です。栄養人類学者は、文化、環境、経済的および政治的システムなどの要因がどのように相互作用して人間の健康と栄養に影響を与えるかを探ります。彼らは、人々が摂取および消費するカロリーを数え、食物摂取のパターンを記録し、体重と肥満度を測定し、寄生虫感染または栄養素不足の存在をテストします。キャサリン・デットワイラーは、民族誌「踊る骸骨:西アフリカにおける生と死(Dancing Skeletons: Life and Death in West Africa)」(1993)で、彼女がマリでの栄養研究をどのように行ったかを説明しました。それは、研究対象の計量、測定、テストを行い、さまざまな定量的データを収集して、彼女が子供の栄養失調の原因と結果を理解するのを助けるようなものでした。
混合手法
近年、人類学者は民族誌学を他の種類の研究方法と組み合わせ始めています。これらの混合手法アプローチは、定性的および定量的証拠を統合して、より包括的な分析を提供します。たとえば、人類学者は民族誌学データをアンケート、統計データ、メディア分析と組み合わせることができます。人類学者のレオ・チャベスは、彼の著書「ラティーノの脅威:移民、市民、ネイションの構築(The Latino Threat: Constructing Immigrants, Citizens, and the Nation)」(2008)の研究を行うために、混合した方法を使用しました。彼はある1つの問題から始めました:特に、ラティーノというラベルが貼られる人々の間において、米国の主流メディアでアイデンティティーの目印として市民権がどのように議論されているのだろうか、というものです。その後、彼はさまざまなタイプのデータを探し、民族誌のケーススタディ、および調査とアンケートからの定量データに依拠しました。チャベスはまた、ラティーノの人を描いた写真、雑誌の表紙、漫画からの一連の視覚的画像を分析し、アメリカの主流において彼らがどのように表現されているかを探りました。
混合手法は、米国などの複雑で技術的に高度な社会で問題指向の研究を行う場合に特に役立ちます。これらのタイプの社会については、詳細な統計データと定量データがしばしば利用可能です。さらに、一般の人々は通常、読み書きができ、アンケートに記入するという考え方についてさほど気にかけません。
民族誌学の技術と視点
文化相対主義と自民族中心主義
現代人類学の指針となる哲学は、文化相対主義です。それは、私たちは他の人の信念や行動のことを、自分たち自身の文化の視点からではなく、彼らの文化の視点から理解しようとするべきだという考え方です。人類学者は、自身の価値観に基づいて他の文化を判断したり、他の文化において物事を行う方法を劣っていると見なしたりはしません。その代わりに、人類学者は、人々の信念のことを、彼らが物事を説明するために持っているシステムの中で理解しようと試みます。
文化相対主義は、研究を行う際の重要な方法論的な考慮事項です。フィールドでは、人類学者は自分自身の価値観、道徳、および審美的判断を一時的に中断し、他の文化の価値観、道徳、および審美性を彼らの観点から理解し、尊重するよう努めなければなりません。これは、ある文化が自分が育ってきた文化と大きく異なる場合、特に困難な作業になることがあります。
私のブラジルでの最初のフィールド経験で、私は文化相対主義がいかに難しいかを直接学びました。ブラジルを訪れるアメリカ人が気付くであろう最初の違いの1つは、物理的な近接性と人の身体について気兼ねなく話すことへの選好です。アメリカ人と比較して、ブラジル人は一般的に、近くに立ったり、触れたり、手を握ったり、さらにはお互いに匂いを嗅いだりすることさえ特に気に留めず、しばしばお互いの身体について話し合います。子供と大人は一般に、彼らの体の大きさ、体の形、または肌の色を指す遊び心のあるニックネームを使用してお互いを呼びます。近所の人や見知らぬ人でさえ、頻繁に路上で私を止めて、私の肌の色(肌の色が過度に青白かったりピンクだったりすることは、人を心配させます — 私は病気なのか?私は日焼けしたのか?)、私の髪の質感(私はどうやって髪をそんなにサラサラにしたのか?私は髪を真っ直ぐにしたのか?)、そして体の大きさと形(「あなたは素敵なバストを持っているけど、真ん中のあたりの体重が少し減るとさらに魅力的になるよ!」)について話しかけてきました。
ブラジルでの最初の数か月間、私はこれらの言葉が失礼、無礼、または不適切ではないことを常に思い出さなければなりませんでした。私が米国にいるならばそのように感じるでしょう。それとは逆に、その言葉は人々が私に向けて愛情を示す方法の1つでした。文化相対主義的な視点では、その言葉は彼らが私を気遣い、私の福利に関心を抱いており、私がコミュニティーの一員になることを望んでいたことを示しました。もし私が最初に文化相対主義的な見方をせず、代わりに自分の文化の視点に基づいてこの行動を判断した場合、私は絶えずイライラし、コミュニティーの人々を混乱させ、怒らせることになったでしょう。そして、あなたの情報提供者やコミュニティーの他の人々を怒らせることは、確実に高品質の民族誌を完成させる助けにはなりません!もし私がブラジルでのコミュニケーションにおける身体接触と物理的近接性の重要性を完全には理解していなかったなら、私はその文化の重要な要素を見逃していたでしょう。
人類学者によって拒絶されている別の視点は、自民族中心主義です。これは、自分自身の文化を、最も重要かつ最も正しいものであり、他のすべての文化を測定するための基準と見なす傾向のことです。自民族中心的な見方を持つ人々は、自分自身の文化を中心的かつ正常であるとみなし、他のすべての文化を劣等で道徳的に疑わしいものとして拒否します。結局のところ、多くの人々と文化はある程度は自民族中心的です。自民族中心主義は人間に一般的な経験です。なぜ私たちは私たちがしているようなやり方で反応するのでしょうか?なぜ私たちは私たちがしているようなやり方で行動するのでしょうか?なぜ私たちは私たちが信じているものを信じるのでしょうか?ほとんどの人は、この種の質問に答えるのが難しいと感じます。多くの場合、答えは単に「それはそのように行われるものだから」です。彼らが自分の信じていることを信じているのは、それが人の通常信じることであり、他の方法で物事を行うことは間違っているように見えるからです。
自民族中心主義は、世界中の多くの都市やコミュニティーの場合のように、異なる文化的背景を持つ人々が互いに密接に接触する状況では、有用な視点ではありません。人々は、コミュニティーを管理する際に、またコミュニティーのメンバーと相互にやり取りする指針として、文化相対主義的な視点を採用しなければならないことにますます気づいています。フィールドにいる人類学者にとって、文化相対主義は特に重要です。私たちの観察が偏らないように、私たちは生まれ持った自民族中心主義を脇に置き、文化相対主義が私たちの探究と他者との相互作用を導くようにしなければなりません。文化相対主義は、人類学の学問の中核にあります。
客観性とアクティビスト人類学
文化相対主義の重要性にもかかわらず、それは常に可能であるとは限らず、時にはフィールドで完全な客観性を維持することは不適切です。研究者は、強く抱かれた道徳的価値観に対する侮辱であったり、集団の一部の人権を侵害したりするような文化的実践に遭遇するかもしれません。他の場合には、彼らは部分的には特定の問題のため、または疎外化されたグループの権利を擁護するために研究を行っているのかもしれません。
たとえば、女性生殖器切除(FGC)(女性生殖器除去(FGM)としても知られています)を取り上げてみましょう。これは、世界のさまざまな地域、特にアフリカと中東の一部でよく見られる慣行です。非医学的および文化的理由による女性生殖器の変更を伴うこのような慣行は、陰核切除(陰核の部分的または完全な除去)から陰門封鎖(陰核および内陰唇と大陰唇の除去、および尿と月経液の通過のための小さな穴だけを残して膣開口部を狭くする縫合)までわたります。そのような慣行が一般的である地域で働く人類学者は、しばしばもっともなことに強い否定的な意見を持ち、その慣行を医学的に不必要であり、深刻な感染症、不妊、および出産による合併症のリスクをもたらすと見なしています。彼らはまた、女性が性的快楽を経験する権利(彼らが基本的な人権とみなしているであろうもの)を侵害していると感じているためにそれに反対するかもしれません。人類学者は、少女と女性がこの慣行にさらされるのを防ぐために介入すべきでしょうか?
人類学者のジャニス・ボディは、スーダン北部の農村部でFGC/FGMを研究し、文化相対主義的な視点からそれを説明しようとしました。彼女は、一部には、それが女性の貞操を保ち、性的欲求を抑え、結婚後に浮気をしなくさせると信じられているため、この慣行が続いていることを発見しました。ボディの研究は、ある女性の性的行為が文化的に重要な家族の名誉の象徴であるような文化の文脈の中で、この慣行がどのように意味をなすかを示しました。[5]
ボディの相対主義的説明は、この慣行を理解しやすくし、それが文化の内部でどのように一貫しているのかを文化の部外者が理解できるようにします。しかし、疑問は残っています。ひとたび人々がFGC/FGMを実践する理由を人類学者が理解したら、彼らはそれを受け入れるべきでしょうか?ある慣行の文化的意味を明らかにするためには、彼らは中立的な姿勢を維持しなければなりませんか、それとも彼らは不正義と見なされる慣行と戦うべきですか?人類学者は何が正しいのかをどのように知るのでしょうか?
残念ながら、これらの質問に対する答えが単純であることはめったになく、集団としての人類学者が適切な職業的立ち位置と責任に関して常に合意するとは限りません。それでも、FGC/FGMなどの慣行を調べることは、私たちが人類学における客観性と「活動(アクティビズム)」をめぐる議論をより明確に理解するのを助けてくれます。一部の人類学者は、民族誌における客観性を追求することが最重要だと感じています。客観性が完全に達成できない場合でも、人類学者の民族誌は可能な限り主観的な意見から解放されているべきです。他の人は反対の立場を取り、人類学的な研究と文章を、無力化されたグループや声を持たないグループの平等と正義のために戦う手段として生み出しています。アクティビズムがどれだけ受け入れられるか(そもそも受け入れられるかどうか)についての議論は進行中です。明らかなことは、人類学者は民族誌研究における客観性とアクティビズムの間の議論を呼ぶ関係性に取り組み続けているということです。
科学と人文主義
人類学者は、自分の分野のことを科学の中で最も人文主義的であり、人文学の中で最も科学的であると説明しています。初期の人類学者は、人類学を頑健な科学的研究分野として正当化しようと戦いました。そうするために、彼らは物理科学から方法論と技術を借りて、人類学的調査にそれらを適用しました。実際では、今日の人類学は、社会学、心理学、経済学、政治科学とともに、米国のほとんどの学術機関の中で社会科学として分類されています。しかしながら、ここ数十年で、多くの文化人類学者は科学指向の研究から距離を置き、象徴的かつ解釈的な視点を含む、より人文主義的なアプローチを受け入れてきました。解釈人類学は、演繹的または帰納的推論に基づいて仮説をテストしようとするのではなく、文化を「テクスト」の集まりとして扱います。テクストは、特定の主観的な視点から特定の図を提示します。解釈人類学者は、客観的にテクストを調べる必要はないと考えています(あるいはそもそもそのようなことはできないと考えています)。むしろ、彼らはテクストを研究して、テクストに埋め込まれたさまざまな意味の網をほどいていきます。その結果、解釈人類学者は、彼らの解釈の文脈、彼ら自身の視点、そして重要なことには、研究参加者が自分自身と彼らが彼らの人生に帰する意味とをどう見るか、を含めます。
人類学者は、単一のアプローチが最善であると結論付けることはまずないでしょう。代わりに、人類学者は特定の問題に最も適したいかなるアプローチも、そしてあらゆるアプローチを適用できます。人類学は、研究を行うために使用されるアプローチの多様性と、その傘下に収まる幅広い姿勢のために、学問分野の中でも独特のものです。
人類学における科学
人類学における科学についての議論に関しては、アメリカ人類学会によって公表された以下の記事を参照してください:人類学における科学をめぐる公衆の議論へのAAAの返答(AAA Responds to Public Controversy Over Science in Anthropology)。
観察と参与観察
民族誌学の調査を実施するために使用されるさまざまな手法と道具のうち、一般的に観察が、そして特に参与観察が最も重要なものです。民族誌学者は、夕食の調理などの日常的な活動から、毎年の宗教的なお祝いなどの主要なイベントに至るまで、フィールドにいる際に彼らの周囲で起こっているすべてに注意を向けるよう訓練されています。彼らは、人々がどのように相互にやり取りするか、環境が人々にどのように影響するか、そして人々が環境にどのように影響するかを観察します。人類学者にとっては、通常はフィールドノートを書くとともに、自分の感情や認識を個人的な日誌や日記に記録することにより、観察結果を厳密に文書化することが不可欠です。
前述したように、参与観察には、民族誌学者が情報提供者と一緒に活動に参加しながら観察することが含まれます。この手法は重要です。なぜなら、人々がなぜ彼らがやっているようなことをやるのかについて、研究者がイーミックの視点からよりよく理解することを可能にしてくれるからです。マリノフスキーは、参与観察は「ネイティブの視点や、彼らの生活の関係を把握し、彼らの世界の見方に気づく」ための重要な道具であると指摘しました。[6]
参与観察を行うために、民族誌学者は情報提供者と一緒に暮らすか、情報提供者とともにかなりの時間を費やして、彼らと強い信頼関係(ラポール)を築かなければなりません。ラポールとは、情報提供者と民族誌学者がお互いに安心し、一緒に働くことに同意できるような、信頼の感覚と快適でうまくいく関係のことです。
参与観察は、私自身の研究の重要な部分でした。2003年、私はメキシコのチアパス州の高地にある2つのマヤの村で6か月間暮らしました。私はミネソタ科学博物館を代表して民族誌学研究を行い、ウィピルの布地デザインの変化を記録しました。ウィピルは、この地域のマヤの女性が織って、着る一種の手織りのブラウスで、どの町にも独自のスタイルとデザインがあります。大きな街の市場では、ウィピルの色とデザインから、それぞれのウィピルを織った人の出身地を簡単に特定できます。何百年もの間、ウィピルのデザインはほとんど変わりませんでした。その後、1960年頃から、いくつかの町のウィピルのデザインと色が急速に変わり始めました。私は、なぜいくつかの町のデザインが他の町のものよりも急速に変化しているのかを学び、博物館の既存のコレクションを補うためにウィピルの例を収集することに興味がありました。
私は、シナカンタンとサン・アンドレス・ララインサルの2つの町で過ごしました。シナカンタンは、主要都市であるサン・クリストバル・デ・ラス・カサスの近くに位置していました。そこは毎年多くの観光客を受け入れ、地元の人々がサン・クリストバルに食料やその他の品物を買いに行くために使用するバスとバンのルートが定期的に確立していました。町の男性の何人かは、米国で働き、家族の家を建てたり事業を改善するためにお金を持って戻ってきました。他の家族は、米国またはメキシコの他の地域で働いている親戚からの送金によって支えられていました。一方、サン・アンドレスは比較的孤立しており、サン・クリストバルからははるかに離れていました。そこのほとんどの家族は、自給自足農業または断続的な農業労働に依存しており、観光や外部の共同体へのアクセスが制限されていました。サン・アンドレスは、メキシコの先住民グループの自治、認知、および権利の拡大をもたらした1990年代半ばの先住民の大きな反乱の場所でもありました。政治的および社会的に、そこは多くの点で進歩的なコミュニティーでしたが、他の点では保守的なまま残っていました。
私はまず、シナカンタンの人々に、ウィピルのデザイン、モチーフ、色がほぼ毎年変化するように見える理由を尋ねました。多くの女性が知らないと言いました。他の人は、布を織ることは簡単で退屈なので、ウィピルを興味深いものに保ち、織るのに飽きないように変更を加えるのが好きなのだと述べました。私がサン・アンドレスの人々に対して、シナカンタンの女性が言ったことについてどう思うかと尋ねると、サン・アンドレスの女性は、「ええ、おそらく彼女たちは簡単に退屈してしまうでしょう。しかし、サンアンドレスの私たちは優れた機織りであり、私たちはデザインを変更する必要はありません」と答えました。どちらの反応も違いの背後にある完全な物語のようには見えませんでした。
私は何百時間もかけて、女性が織物を織るのを準備したり、織ったり、織物を観光客に売ったりするのを観察しましたが、自分自身で織ろうとするまで、女性たちが私に言っていることを本当に理解してはいませんでした。私がそれを見ているときには、そのプロセスはとても簡単で単純に見えました。彼女たちは、腰帯型の織機の両端に糸の列を垂直に取り付けました。織るときには、彼女たちは腰帯とともに前後に傾くことによって経糸の張力を増減させ、経糸を介して水平に個々の糸を通して、所望のパターンを作成しました。それぞれの糸が配置された後、彼女たちは滑らかで平らな木製のこてを使って大きな力でそれを押し下げました。彼女たちはそのプロセス全体を非常にやすやすと、流れるように行いました。私が見ているだけで参加しなかったとき、シナカンタンの女性たちが織るのが簡単だと言うのを、私は信じることができました。
私が織り始めたとき、単に腰帯型の織機をつけて正しく座り、適切な張力をかける方法を学ぶために数日かかりました。私は、垂直に張られた糸をつけて織機を準備するのに繰り返し失敗し、1つのデザインを作成できるようになることは決してありませんでした。したがって、私は参与観察を通じて、織ることは非常に難しい作業であることを学びました。何十年もの経験を積んだ熟練した織工でさえ、間違うことがあり、多くの家で作りかけの織物や放棄された布がちらばっていました。女性は織っている間に他の仕事をすることができるように見えますが(火をかきたてる、小さな子供を呼び寄せる、食べ物を調理する)、それでも製織はうまくやるためにかなりの集中力を必要としました。
参与観察を通じて、私は他の要因が彼らの織物の変化を推進した可能性があることを認識することができました。最終的に私は、シナカンタンのウィピルのデザインの変化率は、居住者と観光客の相互作用と比較的頻繁な都市環境への旅行に起因するコミュニティー全般の文化の変化のペースに関連している可能性が高いと結論付けました。参与観察は私の研究における重要なツールであり、今日のほとんどの民族誌学研究の中心にあります。
会話とインタビュー
民族誌データを収集するためのもう1つの主要な手法は、単に人々と話すことです(通常の話題についてのくだけた構造化されていない会話から、特定の話題についての正式な定期インタビューまで)。会話やインタビューを成功させるための重要な要素は、情報提供者とのラポールを確立することです。時として、会話をすることは、そのラポールを確立することの一部です。民族誌学者は、特定の必要性に基づいて、単一の研究プロジェクトのために複数の形式の会話とインタビューを頻繁に使用します。彼らは会話やインタビューを音声録音装置で記録することもありますが、多くの場合、単に会話に参加し、その後思い出したことをすべて書き留めます。会話とインタビューは、ほとんどの民族誌研究の設計の重要な部分です。なぜなら、話し言葉によるコミュニケーションは人間の経験の中心だからです。
生活史の収集
誰かの人生の個人的な物語を収集することは、価値のある民族誌のテクニックであり、しばしば他のテクニックと組み合わされます。生活史は、個人が文化を経験し作り出す文脈を提供し、個人が生活の間に起こった変化に対してどのように反応し、応答し、貢献したかを記述します。それらはまた、人類学者が、個人にとって生活を有意義にするものをより認識し、彼らの経験および彼らにとって重要なパターンの意味するところにおいて、個人の生活の詳細に焦点を当てるのを助けます。研究者は、読者を情報提供者の生活に密接に結び付ける方法として、しばしば民族誌の文章に生活史を含めます。
系図法
系図(親族)法には、民族誌学の中で長い伝統があります。それは、部族グループの家族システムを記録するために人類学研究の初期に開発されたもので、現在でも血縁関係、出自、結婚、および社会システム全体のつながりを発見するために使用されています。親族関係と系図学は多くの産業化していない社会で非常に重要であるため、この手法は、社会の基盤を形成する重要な関係に関するデータを収集し、共同体内でより広く社会関係を追跡するために使用されます。
人類学者が使用する場合、系図法では、シンボルと図を使用して関係性を記録します。円は女性と少女を表し、三角形は男性と少年を表し、正方形は曖昧または不明なジェンダーを表します。個人間のイコール符号は、結合または結婚を表し、結合から降りる縦線は親子関係を表します。個人の死と結婚の終了は、それぞれの記号とイコール符号を横切る斜線で示されます。親族図は、エゴと呼ばれる1人の視点から図式化されており、図の中のすべての関係は、他の人がエゴとどのように関係しているかに基づいています。図の中の個人は、数字または名前で識別される場合があります。添付のリストは、より詳細な情報を提供します。
主要な情報提供者
あらゆる文化やサブカルチャーの中には、他の人よりもその文化についての知識があり、より詳細なまたは特権的な知識を持っている特定の個人が常に存在します。フィールドで民族誌学研究を行う人類学者は、特定の問題をより深く理解し、そうでなければ答えられないような質問に答えるために、そのような文化の専門家を探すことがよくあります。人類学者がこれらの個人とのラポールを確立し、他の人よりもその人の情報に頼り始めるときには、その文化の専門家は主要な情報提供者または主要な文化コンサルタントと呼ばれます。
主要な情報提供者は、フィールドでの非常に優れた資産になることがあり、研究者が他の方法では理解できないような行動や実践の意味を民族誌学者が明らかにすることを可能にしてくれます。主要な情報提供者は、特に研究者が立ち会うことが許可されていない状況や、研究者の存在が参加者の行動を変える可能性がある場合に、他者を直接観察し、その観察結果を研究者に報告することによって、研究者を助けることもできます。さらに、民族誌学者は、他の情報提供者から得た情報を確認し、それを文脈の中に置いて、正確性を確認することもできます。フィールドの中で主要な情報提供者を得ることは、研究協力者を得るようなものです。その関係性は成長し、非常に実り多いものになります。
主要な情報提供者が民族誌学者の研究で果たすことができる中心的な役割の有名な例は、ウィリアム・フート・ホワイトの「ストリート・コーナー・ソサエティ(Street Corner Society)」(1943)の中のドクという男性です。1930年代後半、ホワイトは、第1世代および第2世代のイタリア人移民が居住するボストンの市街地スラムで、ストリートギャングと「コーナーボーイズ」との間の社会的関係を研究しました。あるソーシャルワーカーがドクにホワイトを紹介し、2人は意気投合しました。ドクは、ホワイトの研究の成功に貢献しました。彼は、ホワイトを家族や社会グループに紹介し、緊密なコミュニティーの中で彼の保証人となり、それ以外の方法ではホワイトが得ることができないようなアクセスを提供しました。
フィールドノート
民族誌学研究を行う際には、フィールドノートは不可欠です。そのようなノートを作成するのには時間がかかりますが、それらは観察の第1の記録を形成します。一般的には、民族誌学者は2種類のノートを書きます:フィールドノートと個人的な省察です。フィールドノートは、民族誌学者が観察し経験するすべてのことについての詳細な記述です。それらには、フィールドで何が起こったのか、民族誌学者の感覚的印象、観察された人々が使用した特定の単語やフレーズについての詳細が含まれます。また、民族誌学者が行った会話の内容や、民族誌学者が他の人の言ったことを耳にしたものも頻繁に含まれます。民族誌学者は、フィールドノートを書いた経験についての個人的な省察も含めることがあります。多くの場合、人類学者が活動を観察して参加している間には、短いメモがノートに書き留められます。その後、彼らはそれらの簡単なメモを拡張して、より正式なフィールドノートを作成し、それを整理しタイプして報告書にします。民族誌学者は、フィールドノートの作成と整理に1日の数時間を費やすことが一般的です。
民族誌学者は、研究を行っている間、自分の感情や個人的な経験についての情報を含むような個人的な日誌や日記をつけることがしばしばあります。これらの個人的な省察は、フィールドノートと同じくらい重要です。民族誌学は客観的な科学ではありません。研究者がフィールドでやったり経験したりすることはすべて、彼らの個人的な人生経験を介してフィルタリングされます。2人の民族誌学者は、フィールドでのある1つの状況を異なる方法で経験し、その経験を異なるように理解するかもしれません。このため、研究者は状況に対する自分の反応に自覚的であるとともに、自分の人生経験が認識にどのように影響するかを意識しておくことが重要です。実際、この種の再帰的な洞察は、研究者の理解を向上させる有用なデータ源および分析ツールであることがわかるようになるでしょう。
人類学者のレナート・ロサルドの研究は、人類学者がどのようにしてフィールドワークでの状況に対する感情的な反応を利用して研究を進めることができるかについての有用な例を提供します。1981年、ロサルドと彼の妻であるミシェルは、フィリピンのルソン島北部のイロンゴット族の中で研究を行っていました。ロサルドは、激烈な感情にとらわれて、他人の頭を切り落とすことによって暴力的に殺害したことのあるコミュニティーの男性を研究していました。ロサルドが到着するまでにはこの慣習は禁止されていましたが、コミュニティーの文化的な精神の中には首狩りを続けたいという切望が残っていました。
ロサルドが男に首狩りに関与した理由を尋ねたときはいつでも、その答えは怒りと悲しみが彼に他人を殺すようにさせたというものでした。フィールドワークの開始時には、ロサルドはその返答が過度に単純化されていると感じ、それ以上のものがあるに違いないと仮定しました。彼は、その現象のより深い理解を発見できなかったので、イライラしていました。その後、1981年10月11日、ロサルドの妻は渓谷を歩いていた際につまずき、足を踏み外し、65フィートも落下して死亡しました。ロサルドは悲しみに暮れる独り身の父親になりました。ロサルドは後に、彼のエッセイ「悲しみと、ある首狩り人の怒り(Grief and a Headhunter’s Rage)」の中で、イロンゴット族の男性が悲しみと怒りを説明するときに何を意味していたかを彼が真に理解するのを助けたのは、彼の妻のために悲しんでいる際の彼自身の怒りとの苦闘だった、と書きました。
この前書きの以前のバージョンの最初の草稿を完成するわずか1週間前に、ミシェルの死の6週間ほど後に書かれた私の日記を再発見した。その中で私は、「悲しみと、ある首狩り人の怒り」を書くことによって人類学の執筆にどのようにして戻るか(もしそうすることができたとして)について私自身に誓いを立てた。…私の日記は、イロンゴット族の解決法に対する私の望みを語ることによって、死、怒り、首狩りに関するより幅広い内省へと向かっていた。彼らはキリスト教徒よりもはるかに現実に触れている。だから、私は自分の怒りを持つ場所が必要だ — そして、想像という解決法は彼らのものよりも優れていると私たちは言えるのだろうか?そして、私たちが村々にナパーム弾を落としているときに、私たちは彼らを非難することができるだろうか?私たちの理由付けは彼らの理由付けよりもはるかに正当なのか?これらはすべて、絶望と怒りの中で書かれた。[7]
妻を失うという非常に個人的かつ破壊的な感情の経験を経て初めて、ロサルドは首狩り人のイーミックな視点を理解することができました。その結果、影響力のある洞察力に富んだ民族誌の説明ができました。
倫理的な考慮事項
倫理的ガイドライン
1つの学問分野としての人類学の初期の時代から、研究に参加する人々の倫理的扱いについての懸念が重要な考慮事項となっています。倫理的な問題はあらゆる研究プロジェクトの中心にあり、人類学者は倫理的責任を特に真剣に受け止めています。この章を通じて議論したように、人類学者は情報提供者への共感を深め、彼らの文化や経験をイーミックの観点から理解することを目指しています。また、多くの人々は、フィールドで働きかけた地元の人々の福利に対する個人的な責任感も持っています。
アメリカ人類学会は、すべての人類学者が彼らの仕事で従うべき倫理規約を開発しました。この規約で概説されている多くの倫理的責任の中では、危害を及ぼさないこと、インフォームド・コンセントを得ること、対象者の匿名性を維持すること、研究結果をアクセス可能にすることが特に重要な責任です。
危害を及ぼさない
何よりもまず、人類学者は、彼らのコミュニティーへの関与が情報提供者を傷つけたり困惑させたりしないようにしなければなりません。研究者は、法的、感情的、政治的、経済的、社会的、文化的側面など、研究に関連する潜在的な危害を慎重に検討し、情報提供者をそのような危害から隔離する措置を講じなければなりません。また、最初にすべての潜在的な影響を予測することは常に可能であるとは限らないため、人類学者は自身の研究の設計と方法がリスクを最小限に抑えるように、作業を継続的に監視しなければなりません。
残念ながら、危害を及ぼさないという禁止規定は見かけによらず複雑な要件です。彼らの最善の努力にもかかわらず、人類学者はフィールドで倫理的問題にぶつかってきました。アマゾンの孤立した先住民族であるヤノマミ族の中でのナポレオン・シャグノンによる研究は、人類学研究における倫理的問題のよく知られた例です。シャグノンは画期的な民族誌「ヤノマミ:獰猛な人々(Yanomamö: The Fierce People)」(1968)で、ヤノマミ族を激しく暴力的で敵対的な人々として描写しました。この民族誌は最初は好評でした。しかしながら、出版から間もなく論争が勃発しました。人類学者や他の学者は、シャグノンが暴力をたきつけてそれを記録し、ドキュメンタリー映画のために戦いや場面を演出し、データを捏造しているとして、シャグノンを非難しています。
今日、「危害を及ぼさない」は人類学における中心的な倫理的価値観です。しかしながら、フィールドにいるときや仕事が公開された後に遭遇する可能性のあるすべての課題を予測することは困難です。人類学者は、情報提供者やコミュニティーに危害を与えないように、研究と執筆を継続的に再評価しなければなりません。フィールドワークを開始する前に、大学や機関の研究者は通常、研究計画を組織内倫理委員会(IRB)に提出しなければなりません。IRBは、提案された研究が対象者に危害を及ぼさないことを保証するために、研究計画をレビューします。多くの場合、IRBは人類学研究における独特な課題と約束を認識しており、潜在的な倫理問題を排除または軽減する上で研究者を導くことができます。
インフォームド・コンセントを得る
人類学者は、危害を及ぼさないように注意することに加えて、研究を行う前に、すべての情報提供者からインフォームド・コンセントを得なければなりません。インフォームド・コンセントとは、研究に参加する情報提供者の同意のことです。もともとは医学的および心理学的研究の文脈で発展したこの倫理的ガイドラインは、人類学にとっても意味を持っています。情報提供者は、人類学者が誰であるか、研究トピックが何であるか、研究を財政的およびその他の方法で支援しているのは誰か、研究がどのように使われるか、研究にアクセスできるのは誰か、を知っていなければなりません。最後に、参加は任意であり、強制であってはなりません。彼らはいつでも参加をやめることができるべきであり、参加に関連するどのようなリスクも認識し、納得しているべきです。
米国における医学および心理学の研究環境では、研究者は通常、参加予定の参加者に対して研究と参加に伴うリスクの概要を示す文書に署名するよう求めることによって、インフォームド・コンセントを得て、彼らが参加に同意したことを認識します。しかしながら、一部の人類学的状況では、このタイプのインフォームド・コンセントは適切でない場合があります。人々は、たとえば、国家、官僚的プロセス、または権威を信頼していないかもしれません。正式な法的な見た目の文書に署名するように依頼することは、彼らをおじけづかせるかもしれません。同様に、もしコミュニティー内の多くの人が文字を読むことができない場合には、署名された文書によってインフォームド・コンセントを得ることはできません。人類学者は、特定の研究環境の文脈の中でインフォームド・コンセントを得るための最も適切な方法を決定しなければなりません。
匿名性とプライバシーを維持する
フィールドの人類学者にとってのもう1つの重要な倫理的考慮事項は、保護を必要とする情報提供者の匿名性とプライバシーを確保することです。私が滞在許可のないメキシコ人移民の大学生を調査したとき、情報提供者の法的地位が彼らをかなりのリスクにさらしていることを私は認識していました。フィールドノートを書くときであっても、すべての情報提供者に仮名を使用するように注意しました。私の文章の中では、情報提供者の親戚、友人、学校、職場の名前を変更して、彼らが特定されないようにしました。プライバシーと匿名性を維持することは、人類学者が関与によって危害を及ぼさないことを確実にするための重要な方法です。
結果をアクセス可能にする
最後に、人類学者は、自身の最終的な研究結果を常に情報提供者や他の研究者がアクセス可能なようにしなければなりません。情報提供者にとって、研究者の母国語で書かれた報告書は結果を伝える最良の方法ではないかもしれません。報告書を翻訳したり、結果をよりアクセスしやすい形式に変換したりすることができます。人類学者が結果をアクセス可能にする創造的な方法の例には、研究データ用のアクセス可能なデータベースの確立、既存のデータベースへの貢献、結果を描写する映画の制作、情報提供者のコミュニティーに具体的な支援を提供する文章または推奨事項を発展させること、が含まれます。文化的に適切な方法で研究結果をアクセス可能にすることは必ずしも容易ではありませんが、他の人々、特にその作成に参加した人々が研究を見直して利益を得る機会を手にすることができるようにすることが不可欠です。
民族誌を書く
研究における発見の分析と解釈
フィールドワークのすべてまたは大部分が完了すると、民族誌学者は、書き始める前にデータと研究での発見を分析します。研究の戦略と目標に基づいて選択することのできるデータ分析の手法が多くあります。特定の手法に関係なく、データ分析には、研究者がデータが意味すると考えるものの体系的な解釈が含まれます。民族誌学者は、収集されたすべてのデータを検討し、その検討からの発見を総合し、それらの発見をそのトピックに関する以前の調査と統合します。分析が完了すると、民族誌学者はフィールドワークの説明を書く準備が整います。
民族誌の権威
近年、人類学者は、民族誌の権威の観点から民族誌がどのように書かれるべきかについて懸念を表明しています:つまり、民族誌学者が自分自身と情報提供者を文章の中で提示する方法のことです。ノンフィクションの文章では、著者は読者とトピックの間の仲介者であり、その文章は読者がなじみのないトピックを理解するのを助けるように書かれています。民族誌においては、そのトピックは人々であり、人々は当然に、思考、意見、信念、および視点の点で異なります。つまり、彼らは個々の声を持っています。過去には、人類学者は一般的に、彼らがそのトピックに関する究極の最も完全な科学的知識を持っているかのように民族誌の記述を書いていました。その後、人類学者は、特に文章や分析の中に情報提供者の声が含まれていないときには、その執筆スタイルに挑戦し始めました。この批判の一部は、この執筆のスタイルでは女性の経験と視点が頻繁に省略され、誤って伝えられていると指摘したフェミニスト人類学者に端を発していました。他の人々は、この執筆のスタイルが、西洋の人類学者の声を最も重要なものとする既存のグローバルな権力のダイナミクスと特権を強化すると考えていました。
多声性
民族誌の権威についての批判に応えて、人類学者は多声性を含め始めています。多声の文章とは、複数の人の声が提示されるものであり、その使用は、研究者の声で書きながらも情報提供者の視点を文章に提示することから、情報提供者の実際の言葉を言い換えずにそのまま含めたり情報提供者とともに民族誌を共同で執筆したりすることまで、幅広くなり得ます。多声性の良い例は、人類学者のルース・ビハールの著書「翻訳された女性:エスペランサの物語とともに国境を越える(Translated Woman: Crossing the Border with Esperanza’s Story)」(1993)です。ビハールの本は、メキシコの路上の行商人、エスペランサ・エルナンデスのライフストーリーと、彼女たちのユニークな友情を記録しています。この本の大部分はエスペランサ自身の言葉であり、彼女にとって重要な問題について議論しています。またビハールは、彼女自身のライフストーリーの一部と、エスペランサの物語の人類学的分析も含めています。
多声性を使用することにより、研究者は究極的な民族誌の権威の視点から執筆するのを避けることができます。また、多声のスタイルは、読者が文章により深く関与することを可能にします。なぜなら、彼らは民族誌データについての自分自身の意見を形成する機会や、おそらくは著者の分析を批判する機会すら手にするからです。またそれは、人類学者が自分の方法とデータを提示する際に、より透明性を持つように奨励します。
再帰性
再帰性は、民族誌研究と執筆に対するもう1つの比較的新しいアプローチです。1960年代から、社会科学の研究者は、自分の人生経験、地位、役割が自分の研究と分析に与える影響について、より慎重に考え始めました。彼らは自分の個人的な経験、思考、ライフストーリーについての情報を含む自分自身のことを文章の中に挿入し始め、その記述の中でそれらの特性がどのように研究や分析に影響したかを分析し始めました。
再帰性の採用は、おそらく、過去50年間に民族誌がどのように研究され、書かれているかの中での最も重要な変化です。それは人類学者に対して、彼ら自身も彼らが研究している世界の一部であり、したがって真に客観的となることはできないと認めるよう求めます。再帰性はまた、研究における不平等な権力のダイナミクスとそれらのダイナミクスが結果に与える影響を人類学者が理解することにも貢献しています。再帰性は、いかなる文化的シナリオであっても解釈する方法が複数あることを民族誌学者に思い出させます。彼らの背景が解釈にどのように影響するかを認めることにより、人類学者は民族誌的な権威の玉座から自分たちを取り除き始め、他のあまり力を与えられていない声を聞こえるようにすることができます。
ディスカッションのための質問
1.民族誌学のフィールドワークの独特な点は何ですか?そして、それは人類学の重要な戦略としてどのように浮上してきましたか?
2.民族誌学のフィールドワークに対する従来のアプローチは、現代のアプローチとどのように対照されますか?
3.現代の民族誌学のフィールドワークの技術と視点にはどのようなものがあり、なぜそれらは人類学にとって重要なのでしょうか?
4.人類学的なフィールドワークを行う際の倫理的考慮事項にはどのようなものがあり、なぜそれらは重要なのでしょうか?
5.人類学者は、どのようにしてフィールドワークのデータを意味を伝える物語へと変換しますか?再帰性と多声性は、人類学者が自分の仕事を伝える方法をどのように変えますか?
用語集
競合するアイデンティティー:あるグループの集合的なアイデンティティー、または複数のアイデンティティーについてのグループ内の対立。
文化相対主義:私たちは他の人の信念や行動を、自分たち自身の文化の視点からではなく、彼ら自身の文化の視点から理解することを目指すべきだという考え方。
文化:学習され共有された信念、実践、およびシンボルのセット。それらは一緒になって人々を結びつけ、彼らの世界観と生活様式を形作るような、包括的で統合された全体を形成します。
演繹的:一般的なものから特定のものへの推論。帰納的推論の逆。演繹的研究は、人類学よりも自然科学でのほうが一般的です。演繹的なアプローチでは、研究者は仮説を立て、仮説を証明または反証する研究を設計します。演繹的研究の結果は、他の状況に一般化することができます。
ディアスポラ:元々の故国を離れ、現在さまざまな場所に住んでいるような、人々の集団が散在していること。ディアスポラとして生きている人々の例は、米国およびヨーロッパのエルサルバドル移民、さまざまな国のソマリア難民、および世界中に住んでいるユダヤ人です。
イーミック:研究される文化についての、その文化のメンバーまたは部内者の視点からの記述。
自民族中心主義:自分自身の文化を、最も重要かつ最も正しいものであり、他のすべての文化を測定するための基準と見なす傾向。
民族誌:人々の日常の実践と生活の詳細な研究。
エティック:研究される文化についての、観察者または部外者の視点からの記述。
先住民:特定の場所に長期間(他の人が到着する前に)継続して住んでいた人々、またはある場所と歴史的なつながりがあり、周囲の支配的な集団とは文化的に異なる人々。先住民を指すために使用される他の用語は、アボリジニ、ネイティブ、オリジナル、ファースト・ネイション、およびファースト・ピープルです。先住民の例は、北米におけるネイティブアメリカン、オーストラリアのアボリジニ、北アフリカのベルベル人(またはアマジグ)です。
帰納的:一般的な結論を引き出すために特定の情報を使用する推論の一種。帰納的アプローチでは、研究者は仮説を明確に証明または反証しようとはせずに、証拠を収集しようと試みます。研究者は通常、仮説や研究の質問を特定する前に、まずフィールドで時間を費やして、人々に精通します。帰納的研究は通常、他の状況に一般化できません。
主要な情報提供者:彼らの文化について他の人よりも知識があり、人類学者にとって特に助けになる個人。
親族:人間のグループ内で家族を形成するような血縁、共通の祖先、および社会的な関係。
土地保有権:土地へのアクセス、使用、管理、および譲渡の許可がどのように与えられるかなどを含む、社会内での土地の所有権の割り当て方法。
高貴な野蛮人:先住民族や少数民族の文化を、無垢な、子供のような、または「文明」の否定的な特徴によって汚されていないものとして描写する不正確な方法。
参与観察:観察の1つのタイプであって、人類学者が、情報提供者が従事しているのと同じ活動に参加しながら観察すること。
定性的:人間の行動の詳細な、文脈化された理解を得るために設計された人類学的研究。
定量的:統計、数学、および/または数値データを使用して人間の行動を研究する人類学的研究。
送金:地域外または国外で働く移民が故郷や家族に送り返すお金。メキシコでは、送金がいくつかの町の人口の総収入のかなりの部分を占めています。
厚い記述:人類学者のクリフォード・ギアツが1973年に著した「文化の解釈学」の中で造られた用語で、問題とされている行動や文化的イベントだけでなく、それが発生する文脈と人類学的解釈を説明するような、研究されるグループについての詳細な説明を記述するもの。
滞在許可のない(Undocumented:文書化されていない):国家からの正式な許可なしにある国に住んでいる移民のための好ましい単語。文書化されていないとは、これらの人々が合法的に国内に居住することを許可する公式文書を欠いているという事実を指します。不法移民や不法外国人などの他の用語が、この集団を指すためにしばしば使用されることがあります。人類学者は、これらの用語を差別的かつ非人間化するものと見なします。滞在許可のないという言葉は、正式な居住許可を確立できないにもかかわらず、移民が居住国で発展させてきた人間の尊厳と文化的および政治的つながりを認めています。
著者について
ケイティ・ネルソンは、インバーヒルズ・コミュニティーカレッジの人類学の講師です。彼女の研究は、人類の歴史における、そして現在の米国、メキシコ、モロッコにおける移民、アイデンティティー、帰属、および市民権に焦点を当てています。
彼女は、マカレスター・カレッジで人類学およびラテンアメリカ研究の学士号、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で人類学の修士号、セント・トーマス大学で教育および指導技術の修士号、メキシコ、グアダラハラに拠点を置くCIESASオクシデンテ(Centro de Investigaciones y Estudios Superiores en Antropología Social:社会人類学研究および高等教育センター)で博士号を取得しました。
ケイティは、教えることと学ぶことは人類学者としての実践の中心であり、職業生活を相互に強化するような要素であると考えています。彼女は、アメリカ人類学会の一般人類学部門の一部である人類学教職関連グループの元議長(2016~2018年)であり、現在、ティーチング・アンド・ラーニング・アンソロポロジー・ジャーナル誌のオンラインコンテンツ編集者を務めています。彼女は、著者と編集者の両方として、いくつかのオープンアクセスの教科書プロジェクトに貢献しており、手頃な価格で質の高い学習教材は、高等教育における公平さと包摂性の難問の重要な部分であると考えています。以下を参照: http://perspectives.americananthro.org/ および https://textbooks.opensuny.org/
global-perspectives-on-gender/
書誌情報
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注記
[1] Franz Boas, “Foreward,” in Coming of Age in Samoa by Margaret Mead (New York: William Morrow, 1928).
[2] カーティスの写真の例は次の本の中で見られます。Edward Curtis, The North American Indian: The Photographic Images (New York: Aperture, 2005).
[3] Benjamin Lee Whorf, “Science and Linguistics,” MIT Technology Review 42 (1940): 229–248.
[4] Peter Gordon, “Numerical Cognition Without Words: Evidence from Amazonia,” Science 306 no. 5695 (2004): 496–499.
[5] Janice Bodd, Civilizing Women: British Crusades in Colonial Sudan (Princeton NJ: Princeton University Press, 2007).
[6] Bronislaw Malinowski, Argonauts of the Western Pacific: An Account of Native Enterprise and Adventure in the Archipelagoes of Melanesian New Guinea (London: Kegan Paul, 1922), 25.
[7] Renato Rosaldo, “Grief and a Headhunter’s Rage,” in Violence in War and Peace, ed. Nancy Scheper-Hughes and Philippe I. Bourgois (Malden, MA: Blackwell, 2004), 171.
画像のクレジット
この本の中で使用されている画像の多くは、著作権者の許可を得て掲載されています。本書の図は、元の画像情報で特に明記されていない限り、パブリックドメインまたはクリエイティブコモンズでライセンスされているとみなされるべきではありません。
Figure 1: Photo by Katie Nelson, 2001.
Figure 2: Photo by Katie Nelson, 2001.
Figure 3: Photo by Katie Nelson, 2001.
Figure 4: Image of Bronislaw Malinowski is public domain from the London School of Economics Library Collections. https://en.wikipedia.org/wiki/Bronis%C5%82aw_Malinowski#/media/File:Wmalinowski_trobriand_isles_1918.jpg
Figure 5: Image reproduced from Benjamin Lee Whorf, “Science and Linguistics.” MIT Technology Review: 42 (1940).
Figure 6: Chart courtesy of Katie Nelson.
Figure 7: Photograph courtesy of Katie Nelson.
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