リベラルアーツ教育について

Better Late Than Never
16 min readAug 13, 2015

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On Liberal Arts Education

Fareed Zakaria Keynote Address at Sarah Lawrence College Commencement 2014

外交雑誌Foreign Affairsの元編集長であり、現在CNNの番組でホストを務めるジャーナリスト、ファリード・ザカリア(Fareed Zakaria)氏が、サラ・ローレンス大学(Sarah Lawrence College)の2014年の卒業式でおこなったスピーチの翻訳です。こちらのトランスクリプトを使用しました。このトランスクリプトは、実際のスピーチとは結構異なります(…コンピュータサイエンスを学び、夜中にコードを書いて、会社を立ち上げ、株式公開して、リッチになる!等々)が、趣旨は伝わるはずです。リベラルアーツ教育受難の時代において、その価値を真正面から主張したスピーチです。(リベラルアーツを超えた教育の真の意義については、ディヴィッド・フォスター・ワレス(David Foster Wallace)氏のスピーチその翻訳がとても示唆に富んでいるのでこちらも是非。)

翻訳の公開を許可して頂いたSarah Lawrence Collegeに感謝致します。

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ローレンス学長、ジョン・ヒル理事長、理事会員、教職員の方々、ご両親、そしてもちろん、私たちがここにいる理由、卒業生の皆さん。この素晴らしい伝統の一員となるべくご招待頂いたことに感謝します。これは、米国人の人生における最も偉大な節目の1つであり、あなた方とこの場を分かち合えるのは喜ばしいことです。

今回は私にとって2回目のサラ・ローレンスの卒業式です。1度目は、2010年に私の妻ポーラがライティングで美術学修士号を取得した時でした。私は、彼女の熱のこもった説明から、あなた方が居るこの場所がどんなに特別でさらにユニークな場であるかを知っています。残念ながら、あの卒業式に参加したことで今日の私の役目が簡単になるなどということは全くありませんでした。2010年の卒業式のスピーチは女優のジュリアンナ・マルグリースでした。彼女は美しく心揺さぶるスピーチをし、その中で彼女自身の思いに従いニューヨークのオフブロードウェイの劇場に出演するために、2700万ドルのテレビ契約を断ったことを説明しました。正直にあなた方に言わなければなりません。私がそれに匹敵するようなことはできない、と。私は、子供たちと家にいるために、結構な講演料をたまには断りましたが、私の倫理基準がそのようなストレステストを受けたことはありませんでした。もしそのようなストレステストを受けたとしたら、おそらく不合格だったでしょう。

今回の講演を準備する中で、今年卒業する数人を知っていることが私の目に留まりました。まあ、実際には彼らの両親を知っています。それは、自分がある年齢を超えたことを知る時です。私は自分自身がまだ大学を卒業したばかりのようなものだと考えていますが、友人たちが子供やら姪っ子やらが卒業すると私に知らせるメールを受け取るたびに、サプリメントを買い込み始めるべきだと思い出されるのです。もちろん、そのことを思い知らされるのに子供を持つことに勝るものはありません。私たちの6歳の子、ソフィアが最近教えてくれたのですが、彼女は人類の歴史の中で塩が世界で一番貴重なものだった時があったと学校で習ったそうです。そして彼女は少し間を置いて言いました。「パパ、小さかったころ、塩はとっても高かった?」

ともあれ、ひとたび自分が卒業生たちから切り離された世代であるという事実を乗り越えれば、彼らの中に有名人、その人からの人類に対する贈り物が実のところ適切に評価されていない、目立たない有名人がいるのを知ることは喜ばしいものです。ナディア・ラーマンは今年サラ・ローレンスを卒業します。今、あなた方の多くは彼女のことを、素敵な才気あふれる人物として知っているでしょう。しかし、ナディアが世界で最も重要な数学の生徒であることを知っていましたか? そう、2004年、12歳の時、彼女は数学のテストの出来が悪く、そのことに発奮して、彼女の従兄に助けてくれるようお願いしました。しかし、彼は数千マイルのかなたに住んでいました。彼女たちは、バーチャル黒板を使ってオンラインで取り組むことに決めました。その従兄とは、サル・カーンであり、その黒板はカーンアカデミー、今や世界中で毎月1000万人の生徒が利用する素晴らしいオンライン学習センターの始まりとなりました。クリストファー・マーロウはトロイのヘレネーを1000隻の船を放った顔だと言いました。ナディア、あなたは3億の授業を放った生徒です。カーンアカデミーを利用したことのある全ての人から、ありがとう!

あなた方は、歴史的に興味深い時、リベラルアーツが率直に言って格好いいとはいえない時に典型的なリベラルアーツカレッジ、サラ・ローレンスを卒業します。あなた方は皆、今時であればするはずであることを知っています。コンピュータサイエンスを学び、夜中にコードを書いて、会社を立ち上げ、株式公開する。または、もしあなたが手を広げたければ、機械工学を専攻することができるでしょう。あなたがするべきでないことが、リベラルアーツ教育を受けることです。

これはまったく冗談でも何でもありません。テキサス、フロリダ、そして、ノースカロライナの州知事たちは、納税者のお金をリベラルアーツを助成するために費やすつもりは無いと公言しています。フロリダ州知事のリック・スコットは「さらに多くの人類学者を持つことは州の死活的な利益だろうか? 私はそうは思わない」と問いました。オバマ大統領でさえ、最近生徒たちに向けて、技術訓練を受けることが美術史の学位よりも有益になり得ることを覚えておくように呼びかけました。かつてはとても人気があり、尊敬されていた英語学のような専攻は、急激に落ち込んでいます。

私は、リベラルアーツに関する懸念もよく理解できます。なぜなら、私は1960年代と1970年代にインドで育ったからです。技術訓練は、よいキャリアのための必須の手段だと見られていました。リベラルアーツを学ぶ人は、変わり者か愚か者でした。(または女性でした。なぜなら、悲しいことにその時代には、人文学は主婦の卵に適した訓練であり、これからの職業人のためのものではないと見られていたのです。)もし聡明であるならば、科学を勉強しました。私もそうでした。私ですらコンピュータプログラミングを学びました。インドで、1970年代に! 私が大学進学のためにアメリカに来たとき、そのような考え方も一緒に持ってきました。イェールでの最初の年、私はたくさんの科学と数学の講義を取りました。しかし、私はまた、冷戦の歴史についての1つの講義も取ったのです。その講義は、私の目を覚まさせ、私が実際には何を愛しているかを気づかせてくれました。私は、歴史と英語学と政治学と経済学に飛び込み、以来その中にどっぷり浸かっています。

私自身の道のりについて思いを致す中で、私はあなた方にリベラル教育の価値についてのいくつかの意義を伝えたいと思います。しかし、最初に明確にしたい点が1つ。リベラル教育は、左派・右派という意味の「リベラル」とは無関係です。また、リベラル教育は諸科学を無視することもありません。ギリシャ人の時代から、リベラル教育にとって、物理学と生物学と数学は、歴史や文学と同様に不可欠なものです。私個人としては、数学と科学に対する興味を今日に至るまで持ち続けています。

リベラル教育とは、ニューマン枢機卿により1854年に最も明確に定義されたように、商売をしたり仕事をしたりするために技能を習得するのではなく、それ自体のために「知識の概要に広範に触れること」です。その当時、19世紀でさえ、ニューマン卿が教えてくれるように、「それで、リベラル教育は何につながるのか? どこにたどり着くのか? どうやって利益をあげるのか?」と問う批判的な人たちがいました。また、イェール大学の学長、故バート・ジアマッティ氏が彼の美しい講義の中の1つで問うたように、「何がリベラル教育の世俗的な利用法であろうか?」

美術史や人類学の学位は、いくつかの言語と文化の真剣な学習、外国で活動する能力、審美眼、そして激務に励むこと、どれも今日のグローバル化した時代におけるどのような職業にも有用であるこれらのことを、しばしば必要とすることが指摘できるかもしれません。そして、スコット州知事に対しては、特に、いくらかの人類学者を有し、フロリダ州民に対して他の99.5パーセントの人文学について何がしかのことを伝えることは、彼の州にとって死活的な利益となり得ると指摘することができるでしょう。

しかし私にとって、リベラル教育の最も重要な世俗的な利用法とは、それがいかにして書くかをあなたに教えてくれるということです。私の大学での1年目に、私は英作文の講義を取りました。私の教師、切れ味のよいウィットと、さらに切れ味のよい赤ペンとを備えた年配のイギリス人は、厳しい人でした。インドからやってきた私は、テストを受けること、記憶したものを吐き出すことはとても得意であるが、自分自身の意見を述べることはそんなに得意ではないと気づきました。その講義の期間を通して、私は自分自身が思考と言葉との間につながりをつくり始めたことがわかりました。

私は、リベラル教育はあなた方に考えることを教えてくれると言わなければいけないのでしょうが、しかし考えることと書くこととは密接に結びついているのです。コラムニストのウォルター・リップマンは、ある特定のトピックについて彼の考えを問われたとき、「私は、そのことについて自分がどう考えているかを知らない。私はまだそれについて書いたことがない」と返答したと言われています。現代哲学では、思考と言語とのいずれが先に来るかに関して重要な論争があります。私はそのことについて言うことを持ち合わせていません。私が知っている全てのことは、私が書き始めた時、私の「思考」は、大抵生焼けのごちゃ混ぜで、合間が論理的な大穴を介してつながれている支離滅裂な衝動なのだと気づいたということです。それらについて考え抜き、整理することを私に強制したのは、書くという行為なのです。あなたが小説家であろうと、ビジネスマンであろうと、マーケティングコンサルタントであろうと、歴史家であろうと、書くことはあなたに選択を行うことを強制し、あなたの着想に明瞭さと秩序をもたらします。

もしあなたが、これがまったく世俗的な用途ではないと考えるなら、アマゾンの創業者、ジェフ・ベゾスに尋ねてみましょう。ベゾスは、上級役員たちに、しばしば印刷で6ページの長さになるようなメモを書くように要求しています。そして、上級経営会議を、時には30分にもなる沈黙の時間で始め、その間に全員がそのメモを読み、それに書き込みをします。あなたが人生の中で何をするにしても、正確に、きれいに、そして、私が付け加えるとすれば、すばやく書く能力は、計り知れないほど重要な技能であることがわかるでしょう。そして、それは様々な仕方でリベラル教育の中心的な教えなのです。

2番目のリベラル教育の優れた長所は、それがあなたにどのように話し、あなたの意見を語るかを教えてくれるということです。インドの学校とアメリカの大学との間の他の差異の中の1つで私の心を打ったことは、私の成績の重要な部分が話すことだったということです。私の教授たちは、主題を考えぬき、私の分析と結果とを声に出して示す過程に基づいて、私を判断しようとしていました。様々な仕方でリベラル教育の中心にあり、そしてこの大学の中心にある演習は、読み、分析し、詳細に吟味し、そして何よりあなた自身の意見を述べることをあなたに教えてくれます。そして、明瞭に表現することに重きを置くこの姿勢は、すべてのリベラルアーツカレッジを取り巻く多くの課外活動、演劇、討論、政治結社、学生自治体、抗議団体の中で、補強されます。あなたは、人々の関心を引き、彼らにあなたの主張を納得させなければなりません。

正確に、そして簡潔に話すことは、人生において大きな長所です。あなたは、イギリスから来た誰かがクラス内で話すときはいつでも、そのアクセントのおかげだけで5点余分に得ていることにきっと気づいているでしょう。実際には、イギリスの教育は、そしてイギリスの生活は、詩の暗唱と朗読、討論と演説の遠大な伝統を通して、話術について長く強調し、教えてきました。そのことが、差を生み出しています。しかしアクセントが助けにもなっています。

最後のリベラル教育の長所は、それがあなたにどのように学ぶかを教えてくれるということです。私は今や、私が大学と大学院とで身に付けた最も価値のあるものは、ある特定の一組の事実やひとまとまりの知識ではなく、どのようにして知識を獲得するかであるということを理解しています。私は、どのようにして評論を厳密に読み、新しい情報源を見つけ、仮説を証明や反証するためのデータを探し、著者が信頼に値するか否かを導き出すかを学びました。私は、どのようにして本をすばやく読み、それでもその本質を得るかを学びました。そして、とりわけ、私は、学ぶことは楽しみであり、探求の大冒険であると学びました。

あなたがどのような仕事に就こうとも、あなたが大学で学んだ特定のことは、それが何であれ、ほとんど無意味であるか、急速に無意味になることがわかると私は保証します。たとえあなたがコードを書くことを学んだとしても、それを学んだのが数年前であったなら、アプリの世界を前にして、あなたは改めて学ぶことになるでしょう。そして、今日の産業と職業とを変容させる変化のペースを考えれば、あなたは、常に学び、且つ再編するその技能を必要とするでしょう。

これらがリベラル教育の強みであり、それが、あなたが職業人生を歩む際に、あなたを助けてくれるでしょう。もちろん、もしあなたが職業的成功を望むなら、あなたは時間をかけ、鍛錬を積み、他者とうまく仕事をし、幸運をつかまなければならないでしょう。しかし、これは誰にも当てはまることです。エンジニアにさえもね。

もちろん冗談です。私がインドで育ったことを思い出してください。私の親友の何人かはエンジニアです。そして正直に言って、私はエンジニアと技術者と医者と会計士に非常に大きな称賛の念を抱いています。しかし、私たちが皆、認めなければならないことは、教育はゼロサムゲームではないということです。専門的な技能は、人文学の犠牲の上に称賛されてはなりません。コンピュータサイエンスは美術史より優れてはいません。社会はその両方ともを、しばしばその組み合わせを必要とします。もしあなたが私を信じないのであれば、スティーブ・ジョブスを信じてください。彼は、「アップルのDNAの中には、テクノロジーのみでは不十分だということがある。我々の心が歌いだすような結果を我々にもたらすのは、リベラルアーツと結びついた、人文学と結びついたテクノロジーなのだ。」と言いました。

テクノロジーとリベラルアーツとの結合は、今やいたるところで見られます。20年前、テクノロジー企業は工業製品の製造者だったでしょう。今日、テクノロジー企業はデザイン、マーケティング、そしてソーシャルネットワーキングの最前線に位置しなければいけません。多くの他の企業もまた、彼らの注意の多くをこれらの分野に集中しています。なぜなら、製造業はますますコモディティ化しており、付加価値は、どのように心に思い描かれ、提供され、販売され、維持されるかというブランドの中に含まれるためです。そして、その製品を世界中に輸出しているアメリカの最も影響力のある産業、その核の部分で物語、映像、そして絵画により推進されているエンターテインメント産業があります。(ジュリアンナ・マルグリースが2700万ドルのオファーを受けたことを話しましたっけ?)

今までのところ、リベラル教育があなた方に仕事をもたらし得る、あるいはあなた方のキャリアで役に立ち得る方法について、私が話してきたことに気づいているかもしれません。それは重要なことですが、しかし唯一の美点というわけではありません。あなた方はただ良い仕事に就くだけではなく、良い人生を過ごす必要があります。偉大な小説を読み、国の歴史を調べ、卓越した芸術や建築物を見つめ、数学と音楽との間につながりを作る、これら全てのことがあなた方の人生を豊かに気高いものとする方法なのです。これからの数十年の中で、あなたが誰かのパートナーに、そして親になり、友人をつくり、本を読み、音楽を聴き、映画を観て、演劇を観賞し、会話をリードするとき、それらの経験はあなたのここでの日々によって彫琢され、深みを増すでしょう。

リベラル教育はあなたを善き市民にします。リベラルという言葉は、「自由」を意味するラテン語の liber に由来します。その本質において、リベラル教育とは、ドグマから、支配から、制約から精神を自由にする教育です。それは自由の実践です。それこそが、アメリカの建国の父たちがその重要性を熱烈に信じた理由です。建国者たちの中で最も現実的であり、生まれながらにして偉大な実業家であり発明家であったベンジャミン・フランクリンは、ペンシルベニア大学のために、本質的にリベラルアーツ教育である学習要項を提案しました。トマス・ジェファソンの墓碑は、彼がアメリカ合衆国の大統領であったことに言及していません。そこには、彼が、もうひとつの典型的なリベラルアーツカレッジ、バージニア大学を創立したことが誇らしげに記されています。

しかし、シチズンシップよりもさらに強い衝動があります。究極的にはリベラル教育とは、人間となることについてのものです。2000年以上前、偉大なローマ時代の哲学者、法律家、政治家であるキケローは、我々がそれ自身のために学ぶこと、技能を習得したり商売をしたりするためでなく、それ自身を向かうべき目標として学ぶことがなぜ重要なのかについて説明しました。学ぶことこそが我々を人間たらしめるがために我々は学ぶのだ、と彼は言いました。「誰もが皆、知識の追求にひきつけられている」ことが我々の本性なのです。それが私たちを動物から隔てるものです。私たちが泥より生み出されて以降、私たちは宇宙の謎を解明し、真実と美を捜し求める探求の途上にあります。

あなたが世界に向けて進みだすに際し、あなたの情熱を追及し、リベラルアーツを学び続ける中で、何者にもあなたを貶めたり、甘やかしたりさせてはいけません。あなた方は、人間の歴史の中で最も偉大な伝統の1つ、星々の運行を明らかにし、想像もできない美の作品を創造し、そして、驚くべき生産性の社会を組織してきたものの継承者です。この伝統を継続していく中で、あなた方は社会組織の最も偉大な実験、民主主義を増強していくのです。そして何よりも、あなた方は養っていくのです。人間の精神の最も基本的な衝動、知ることを。

2014年卒業生の紳士淑女の皆さん、幸運を。

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