国際関係論 -第11章 人々を守る-

Japanese translation of “International Relations” edited by Stephen McGlinchey

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第11章
人々を守る
アレックス・J・ベラミー(ALEX J. BELLAMY)

国際連合(UN : United Nations)は1945年に設立され、「戦争の惨害から将来の世代を救う」と「基本的人権に関する信念を確認する」という憲章を定めました。3年後、世界人権宣言が国連で署名され、国家が共に働き、誰もが「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」を享受することを確実にするよう求めました。前章で述べた世界的な不平等と貧困の問題に加えて、人を危害から守る方法を見つけることは、現代的な議論における主要な事柄です。全体像は改善しているかもしれませんが、国際社会は幾度となく、残虐行為、内戦、その他の人為的な災厄から人々を守るにはあまりにも遅すぎ、あまりにも少なすぎる行動しかとれていません。20世紀には、数千万の人々が国家間の戦争で殺害されましたが、さらに多くの数が自国政府によって殺されました。このような事実は、私たちが世界の政治について考える方法に大きな課題を提起します。私たちの現代的な国際秩序は、国連憲章に盛り込まれている特定の領土に関する独占的な管轄権と非干渉および非介入の権利を享受する国家社会に基づいています。このシステムは、国家とは主として市民の安全を守るために存在するという前提のもとに置かれています。言い換えれば、国家は個人に安全を提供するものであるため、国家の安全保障は重要であり、保護する価値があると考えられています。しかし、無数の例が示すように、すべての国家がその国民の幸福を保護するわけではありません。シリアのような最近の例から過去の時代の例まで、個人の安全保障への脅威は、他の国家よりも自分の国家からより多くもたらされる傾向があります。このような事実は、国際平和と安全保障に大きな課題を提起し、個人の安全保障が国家の安全保障よりも上の特権になるべき状況があるかどうかについての疑問も提起します。

重要な立場

人間の保護に関する議論は、国家の安全が保証されて外部からの干渉を受けないという権利が、市民に対する特定の責任の達成に関して、最も明確なものでは集団的な暴力からの保護に関して、条件付きであるべきかどうかという問題にかかっています。私たちは、2つの軸に沿ってこの質問に対するさまざまな反応をプロットすることができます。最初の軸は、道徳的進歩が世界の政治で可能であるかどうか(より楽観的かより悲観的か)というものであり、もうひとつの軸は、いずれの主体が特権を持つべきか(国家かまたは個人か)に関するものです。第1の軸は、世界の政治の可能性と限界を理解する方法を指します。いくつかのアプローチは、コミュニティ間の対話が道徳的合意と共有された目的を可能にするという楽観的ビジョンを前提としています(Linklater 1998)。これに対するものは、世界政治の宿命論的な、すなわち「悲劇的な」概念であり、世界は価値観の異なる文化的に別れた単位で構成され、協力の可能性が限定された独自の目標をそれぞれが追求するという見解に基づいています(Lebow 2003)。この説明は進歩に対して懐疑的であり、道徳性が世界問題において役割を果たすか(または果たすべきか)どうかを疑い、道徳的価値を広める努力は高くつき非生産的であると予測します。第2の軸は、どのような種類の主体 — 国家かまたは個人か — が特権的であるべきかに関係しています。国際関係論の理論では、国​​家が世界問題の主要な主体であり、秩序の主要な源であり、国際的な権利と責任を担っていることを理由として国家を特権的とするのが一般的です。これの代わりとなる視点は、唯一の還元不可能な主体として個人に特権を与えます。個人は目的のための手段になることはできません。彼らはそれ自身で目的とみなされなければなりません。この2つの軸から、私たちは4つの倫理的立場を導き出します。

1.楽観的かつ国家中心:ルールが支配する国際社会

この立場は、国際問題の進展は可能であるものの、根本的な違いを特徴とする世界では進歩の基礎づけはルールが支配する国際社会の中における国家間の自発的協力でなければならないとする立場です。この象限に含まれている見通しは、国連憲章にある共存の規則に特権を与えることによって、共通善が最大限に発揮されると主張しています。これは、特に、武力の使用の法的禁止と、その禁止の2つの例外が濫用されないこと(第42条および第51条)を保証することに焦点を当てています。この見解によれば、他の国家の人身保護を促進するための自由な手段を許可することは、ある国家が他の国家に対して価値観を守り、押し付けるような戦争を可能にすることによって、無秩序を作り出すことになるでしょう。無秩序は、国際システムを弱体化させ、人間の発達を傷つけ、国家間の協力をより困難にするでしょう。この見解は、国連安全保障理事会が認めた場合を除き、一般的に干渉が禁止されるという共有された法的見解に沿っています。この説明は、共有された道徳的原則について合意に達するための国家の能力について不必要なまでに悲観的です。集団的行動が人間の保護のような新たな平和と安全保障の分野に徐々に拡大することが、より大きな混乱をもたらしていることを示唆する証拠は比較的少ないです。またこの説明は、もし安全保障理事会が決断した場合には、変化する状況を考慮して国際平和と安全保障におけるその役割を再定義するという、安全保障理事会に組み込まれた柔軟性を見過ごしています。

2.悲劇的かつ国家中心:国際的な自然状態における生活の現実

この観点は、コミュニティの多様性と価値の相対性に関するコミュニタリアン的見解を支持しますが、実質的な規則はもちろんのこと、有意義な共存のための規則に合意するような国家の能力についての基本的な主張さえも拒絶します。この説明は、経済的利益、領土および国益などの重要な要素に反するように設定された場合には、規範および規則は行動の原因としては無意味であることを示唆しています。著名なリアリスト、エドワード・ハレット・カー(Edward Hallett Carr)の言葉を言い換えると、「保護」のための国際的な干渉は、実際には、普遍的な道徳という偽装を施した有力国家の利益と嗜好以外のなにものでもありません。この説明は、人道主義的行動にクギを刺すものです。それは国家の能力が利他主義的であることを疑うものであり、したがって、国家のすべての行動を世界秩序を損なうような権力の自己目的使用の行使として見ます。このアプローチに公然と受け入れる国家は、もしいたとしても、ほとんどありません。国家が自分たちの利益であると認識していることだけを行う傾向があるのを受け入れることは、私たちを分析的に非常に遠くへ導くことはありません。国家がどのように行動するのかを理解するためには、様々な国家(たとえ似たような国家であっても)が自分の利益を構築する方法のバリエーションを理解する必要があり、これには国の意思決定を導く要因を深く理解する必要があります。

3.楽観的かつ個人中心:人間性と共通の価値観を守る

第3の視点​​は、最も積極的に人間の保護を促進することに配慮するものです。それは通常、すべての人間が単一の世界的な共同体に属しているというリベラリズムと広い意味でのコスモポリタンな見解に関連しています。この立場は、人権はどこでも守られなければならない普遍的な権利であるため、国家は専制主義から他国の人を守る権利と、そうするための積極的な義務とを有していると主張しています。この学派の理論家によると、各国家は所定の最低限の行動基準に合意しています。したがって、国境を越えた人間の保護を支援する行動は、いくつかの強力な国家の意思を押し付けることではなく、国際社会の基本的価値観および/または集団意志を守り実行することです。この見解は、国連安全保障理事会が執行措置を強制する理論上の権利の場合には強い根拠がありますが、より一般化された介入の権利について言えば、この理論は、それに反対するよう勧める法的思想と国家慣行の強力な一群と矛盾しています。したがって、驚くことではありませんが、リベラルなコスモポリタンは、既存の国際法の枠外にそのような一般的な介入の権利があるかどうかによって分断される傾向があります。

4.悲劇的かつ人間中心:人道的行動の独特性

これらの説明は、伝統的な人道援助に特権を与える傾向があります。またこれは、軍事介入に関しては、状況を悪化させ、人道危機の主な根本的原因である軍事主義を強化するという理由から、深い懐疑を示しています。しかしながら、まさにこの懐疑的な理由から、これらの説明は、人々を保護するために使用される可能性のある道具の理解を広げるのに役立ちます。これらのアプローチは、人間の保護を促進するための強制的な行動の本質的な制限のいくつかを明らかにするなかで、介入が選択的、部分的であり、かつ単に人道的なものだけではないことを強調しています。しかし、この立場に対する批判者は、政治的な立場を取ることなく苦痛を緩和すること、ましてや防ぐことはどのようにして可能なのか、そして人道的な行為だけでもたらされる身体的保護には本当の限界があるのではないか​という​疑問を投げかけています。この「個人中心の」アプローチは、「悲劇的な」概念に対して浴びせられた多くの批判に対して脆弱です。特に、その処方箋は、しばしば脆弱な集団を保護するために必要なものよりも不十分です。

人間の保護のための新たに発生する規範

冷戦の終結以来、人間の保護の実践は、少なくとも8つの相互に接続された規範、規則、慣習、制度的発展の流れを通じて進化してきました。これらはそれぞれ、特に戦争中の民間人の苦しみの問題に対処するために登場しました。以下で、順番に説明します。

国際人道法

国際人道法は、兵士の行為を制限するように設計された軍事法である米国政府の「一般命令第100番」(リーバー規約としてよく知られている)の発展と、赤十字運動が発足した19世紀にその起源を持ちます。第二次世界大戦後、国際人道法が発展し、一連の国際条約として成文化されました。1948年には、新しく設立された国連総会が、大量虐殺の犯罪を禁止し、すべての国家にそれを防止し、加害者を処罰する法的義務を課すジェノサイド条約を承認しました。国際司法裁判所(ICJ : International Court of Justice)は、国連の司法機関として設立され、国家間の紛争およびその他の法的問題に関する裁定を担当しています。この裁判所は、ジェノサイド条約の結果、すべての国家は既存の法律のなかで、ジェノサイドを防止するためにできることをする法的責任があると判断しました。

戦争に関する法は、4つのジュネーブ条約(1949年)、2つの追加議定書(1977年)、および特定の通常兵器の使用を扱う一連の議定書でさらに成文化されました。特に重要なのは、すべての非戦闘員の人権を尊重することを締約国が約束した1949年ジュネーブ諸条約の共通条項第3条と、占領された地域の非戦闘員に法的保護を提供する文民の保護に関する条約でした。ジュネーブ追加議定書(1977年)は、非戦闘員に与えられた法的​​保護を非国際的な武力紛争の状況にまで拡大しました。それらはまた、武力攻撃は軍事目的に厳密に限定され、非戦闘員やその財産に対する攻撃を禁止することを強調しました。これらの原則は、本質的に無差別と見なされていた地雷やクラスター爆弾などの兵器を禁止する条約のキャンペーンが後に続くための法的および道徳的基盤を提供しました。国際人道法は、非戦闘員への攻撃を禁止し、特定の武器の使用を制限するだけでなく、大量虐殺などの特定の犯罪の防止と加害者の処罰を求める文民保護の規範的基準を作り出しました。

文民の保護

国連安全保障理事会のこのテーマに関する正式な関与は、カナダの要請により、国連がどのように文民の保護を改善するかについての定期報告を提出するよう事務総長に要請する議長声明を採択した1998年(訳注 : 議長声明採択は1999年2月12日)にさかのぼります。それ以来、国連安全保障理事会は、文民の保護に関する一連の公開討議を開催し、文民の保護を主題となるべき関心の一つとして確立しました。1999年に安全保障理事会は、「文民を目標とした武力紛争の状況や、文民への人道的援助が意図的に妨げられている状況」に対して「適切な措置」を検討する「意思」を表明する決議1265を全会一致で採択しました。さらに、安全保障理事会は、危機に瀕している文民へのより良い保護をもたらすために、平和維持義務を再構築する可能性を探求する意思を表明しました。2006年には、決議1674を採択しました。この決議1674は、武力紛争の当事者に対して文民への人道的なアクセス全面的に認めることを要求することによって、この進展をさらに踏襲しました。

安全保障理事会は、文民の保護について主題となる関心を進展させるにつれ、保護活動の実践を発展させ、強化してきました。そうすることで、新しい地平を切り開いてきました。2011年に採択した決議1973では、安全保障理事会はリビアにおける文民保護目的のために武力の使用を認めました。安全保障理事会の歴史の中で、このような決議が当事国の同意なしに採択されたのは初めてのことです。この決議とこれに先立つ決議(決議1970)を通じて、安全保障理事会は、国連憲章によって与えられた集団的安全保障の権限の全範囲を利用しました。3年後の決議2165は、シリア政府の同意なしに、シリアに人道援助を届けることを認可しました。安全保障理事会がこれを行うのは初めてでした。したがって、文民を保護する必要性の新たな理解を基に構築された、2つの非常に重要な先例が確立されました。

今世紀に入る前は、一般的に文民の保護は平和維持の核となる部分とはみなされていませんでした。1999年にシエラレオネでの国連使節団に始まり、安全保障理事会は、平和維持部隊が文民を保護するために必要なすべての手段を使用することを認めるために国連憲章第7章をますます規則的に発動しています。憲章第7章は、国連安全保障理事会に、国際平和と安全保障の維持のために、武力の使用を含め、必要とみなすあらゆる手段を認可する権限を与えます。設計上、それは国際的な侵略に対する主要な抑止力として意図されていました。今日では、文民の保護とそのために「必要なすべての手段」を認めることは、国連の平和維持の核となる側面であり、多くの新しい義務の中心となっています。コンゴ民主共和国(DRC : Democratic Republic of the Congo)では、安全保障理事会は、文民に対する集団暴力を採用していた非国家武装集団との戦いを「強制介入旅団」に任せることにより、これをさらに進めました。今日、国連の12万人の平和維持部隊の大部分は、文民を危害から守るために必要なすべての手段を使用するという命令を受けて派遣されています。

特定の脆弱性に対処する

第二次世界大戦の終結以来、国際社会は、特定の脆弱性にさらされているグループを定期的に認識し、その脆弱性に対処し、これを軽減するためのメカニズムを確立しています。このうち、最も発展したのが国際難民制度であり、それは1951年の難民条約とそれに続く1967年の議定書に規定されています。それは国連難民高等弁務官(UNHCR : UN High Commissioner for Refugees)によって監督されています。この制度は、迫害に直面している人々に難民を申請し、第三国への移住を認める権利を与え、UNHCRには難民が彼らの移住に対する保護と永続的な解決策にアクセスできるようにすることを義務付けています。1990年代には、このシステムは新しい難民危機、すなわち国内難民の危機に対処することができないことが明らかになりました。国内難民は、人々が集団暴力やその他の災厄によって家から追い出されても、その当事国内に残っているときに起こります。これはほとんど国内問題であるとして、このような難民を規定する国際条約に対する意欲はほとんどありませんでした。その代わりに、UNHCRはすべての難民の保護のためにその任務を拡大し、国連職員はその取り扱いのための「指針原則」を策定しました。

1990年代になってようやく政治的な注目を集めたもうひとつの長期にわたる集団暴力の側面は、性的およびジェンダーに基づく暴力でした。さまざまなケースで強姦が戦争の武器として使用されたことは、2000年に決議1325で採択された「女性、平和、安全保障」アジェンダの主要な要素の1つとして、女性と少女の保護を確立するよう国連安全保障理事会を後押ししました。それ以来、国連は事務総長特別代表のポストを創設し、この問題に永続的な焦点を当て、これらの犯罪がどこで犯されているのかを特定し、対応すべき措置を提唱している一連の年次報告書を作成しています。国連は、例えば、女性保護アドバイザーの配置などを通じて、女性と少女の保護を「主流化」し始めています。国連を越えたところでは、英国政府は、紛争下の性的暴力防止イニシアチブを開始しました。これは、とりわけ、世界の国の3分の2が「紛争下の性的暴力防止に関する宣言」を支持する助けとなりました。これらの進展は、武力紛争における児童の保護に焦点を当てた様々なイニシアチブと並行して行われてきました。また、国連安全保障理事会に率いられて、国連は子どもたちが直面している独特な保護の課題や児童の兵士の募集などの関連する問題について報告する、児童保護のための特別代表を任命しました。2014年に、国連教育促進大使であるゴードン・ブラウン(Gordon Brown)前英首相は、自然災害や集団暴力によって引き起こされた人道危機の際に、子どもたちに教育を提供するための緊急基金を確立するためのグローバル・イニシアチブを立ち上げました。

人権

人権は全体としては多くの疑問に晒されていますが、その高い地位は間違いなく人間の保護に重要な貢献をしました。特に2つの側面が際立っていますが、重なり合いが大規模で複雑なため、決定的なものではなく説明的なものです。第1に、(主に国連の人権理事会の強制的な審査プロセスを通じて)各国が互いの業績を評価しコメントするピアツーピアレビューの新たな原則と実践は、集団暴力を含む様々な形態の虐待から人々を守るために、国家が取るべき措置の種類について期待を作り出します。最も非妥協的な国は依然として動じていませんが、ピアレビュー活動が多くの国家に影響を及ぼしているとの証拠が増えており、彼らが「見られている」という圧力のために人権義務をより遵守するように促しています。第2に、過去20年間で国際社会は、集団暴力に関する意思決定において、人権の監視と報告のための恒久的かつ特別な取り決めの利用を増やしてきました。独立委員会や調査機関、特別報告者、事実認定団体などのさまざまな仕組みを通じ、国際社会は人権メカニズムを利用して集団暴力を監視し、予防しています。最も明らかには、この報告制度は、重要な機関に信頼できる情報を提供することによって、集団暴力に関する意思決定を支援するのに役立ちます。またこれは、各国が国内の人権慣行の国際的認識を高めることによって、人権を尊重するよう奨励します。

国際刑事司法

ある種の犯罪は非常に深刻であり、加害者の訴追が普遍的でなければならないという考え方は、国際刑事裁判所と一連の特別裁判所の活動を通じて、過去20年間で著しく発展しました。これらの機関は1990年代半ば以来から普及しており、個々の加害者に対して彼らの行動に責任を負わせることに貢献しています。推進者は、加害者に対する刑罰が免除されないようにすることによって、そのような機関が将来的に加害者を抑止し、犠牲者に法的保護を与えるのに役立つと主張しています。最初の暫定的な措置は、1990年代半ば、安全保障理事会がボスニアとルワンダの重大犯罪の加害者を起訴する法廷を設立したときにとられました。1998年に国際刑事裁判所を設立したローマ条約は、国家が広範かつ体系的な戦争犯罪、人道に対する罪、大量虐殺が起きたことを指摘する証拠を調査したくない、あるいは調査できないことが判明したときには、この裁判所の管轄権が発動される可能性があると主張しました。この裁判所の検察官は、事件が裁判所の管轄下にあると裁判官の合議体を説得することができる場合、署名国が訴状を提出した場合、または事件が安保理から検察官に付託された場合に手続を開始することができます。現在までに、裁判所は39の個人を告発し、124の国を加盟国とみなしていますが、米国、ロシア、中国はまだ加盟していません。国際刑事裁判所のような発展はまだ未成熟であると述べておくことは重要ですが、過渡的な司法措置が再発をより起こりにくくし、国家内の一般的な人権を改善することを証拠が示唆しています。それはまた、国際刑事裁判所の(まだ)メンバーでない国を含め、他の国へと波及する抑止効果を有します。

人道的行動

文民が戦時に人道援助を受けるべきだという考え方は、19世紀にさかのぼり、必要な人に救命援助を提供するという人道的な考え方の発展に欠かせないものでした。これらの権利と期待は国際人道法に組み込まれていましたが、1990年代にかけて徐々にその適用範囲が拡大しました。国連安全保障理事会は、人道援助の提供を支援するために平和維持派遣団を認可し始め、ソマリアとボスニアの場合、この目的を達成するために武力の使用を認めました。それ以来、安全保障理事会はこれらの目的のために武力を使用することを定期的に認めています。しかしながら、より重要なことは、文民の保護に関する逐次の決議と危機に対する実質的な決議において、安全保障理事会は、武力紛争の当事者に人道機関の無制限なアクセスを与えるよう求めています。

地域の取り組み

1970年代には、ヘルシンキ合意に基づき、欧州の文民保護の取り組みの基盤が築かれました。時間が経つにつれ、これらは欧州安全保障協力会議のメカニズムに基盤を提供することになり、1990年代までには児童の保護と拷問に対する保護を含む保護の問題への具体的な言及を組み込むことになりました。これが1995年に欧州安全保障協力機構に改正されたとき、少数民族のための上級代表を含む人権保護のための追加の責任と能力が与えられました。

欧州連合はまた、共通の外交・安全保障政策の一環として、2003年にコンゴ民主共和国でフランスが率いる多国籍部隊や、その他の広範な活動などに例示されるような、文民保護の役割を展開し始めました。アフリカ連合は、集団暴力からの文民の保護に重点を置いた危機管理と対応のための総合的な地域システムを確立しています。アフリカ連合の設立法第4条(h)は、ジェノサイドや大量虐殺に関する問題について、加盟国の問題にアフリカ連合が介入する権利を謳っています。アフリカ諸国の指導者が主権の主張を継続していることから、この条項は正式には発動していませんが、アフリカ連合のダルフールにおける平和維持活動には文民の保護義務が含まれており、マリ、中央アフリカ共和国、ソマリアへの派遣団は文民保護を支援しています。ラテンアメリカでは、各国家は総合的な地域的人権メカニズムを確立しています。形式的には国家の内政の非干渉の原則に則っている東南アジア地域でも、ASEANの人権に関する政府間委員会を通じて、人権と保護を促進するための独自のメカニズムが発展し始めています。これらの仕組みは「権利」をまったく同じようには理解したり追求したりしないかもしれませんが、残虐行為の犯罪は重大な人間の過ちであるという共通理解と、これらの犯罪の予防へのコミットメントに基礎を置いています。

保護する責任

2005年後半に世界の指導者たちは、国連世界サミット成果文書第138–140パラグラフの保護する責任(R2P : Responsibility to Protect)を満場一致で採択しました。このコミットメントは、その後、国連安全保障理事会と国連総会によって再確認され、国連総会はその実施についても継続的に検討することを約束しました。保護する責任は3つの柱に基礎を置いています。第1は、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪(以下、総称して「残虐犯罪」と呼びます)から自国の国民を保護するための適切かつ必要な手段を用いる各国の責任です。第2の柱は、各国がこの責任を果たすのを奨励し、助けるための国際社会のコミットメントを指します。第3の柱は、国家当局が4つの残虐犯罪から彼らの国民を明らかに保護していない時に、適時かつ断固とした方法で国連を通じて対応する国際的責任を指します。この原則は当初、潜在的な武力の使用や他の主権の侵害を象徴するものとして議論の余地があると考えられていました。しかしながら、時間が経つにつれて、この原則に関する国際的な合意が広がり、深まりました。

さらに言えば、保護する責任は政治危機に対する国際的関与を枠組み付ける使用言語の一部となっており、安全保障理事会は40以上の決議でそれに言及しています。それは、政府に対して保護する義務を喚起し(例:イエメンに関する決議2014)、文民を保護するための積極的な措置を求め(例:シリアに関する決議2139)、政府が自国の国民を保護することを支援するよう平和維持部隊に任務を与え(例えば、マリに関する決議2085)、集団暴力の加害者に法的責任を問うことを要求しました(例:コンゴ民主共和国に関する決議2211)。安全保障理事会は、保護する責任に関する自らの仕事と、小規模武器や軽武器の管理、ジェノサイドの防止、テロ対策、国際治安活動などを通じた予防外交や紛争予防に焦点を当てた国際的な取り組みとを結びつけています。この焦点の変化に伴い、国家間の議論は、「保護する責任」の原則よりも、その実施へと焦点を当てるようになっています。

問題と課題

今日の世界はかつてよりも人間保護の危機に対応する可能性が高いですが、シリアが示しているように、私たちは人間の安全の問題の解決に近いところにいるとはとても言えません。たとえ規範的および政治的文脈がそれを許容するとしても、人々の残虐犯罪からの効果的な保護は、大きな実践的課題に直面しています。これらの課題が何であるかについて正直になることが重要です。

第1のポイントは、外国にいる人々を保護するために外部者ができることに重大な制限があるのを認識することです。多くの国内紛争は、容易に解決することができないほど非常に複雑で危険なため、外部の仲介を容易に受けいれる余地がありません。協調した国際的行動は、集団を保護したり大量虐殺を防いだりすることができるかもしれませんが、暴力か平和かの主要な決定要因は、通常、国自身と指導者の立場にあります。国連の観点からみると、この問題は、世界で最も困難な事案のみに直面する傾向があるという事実によって複雑化します。ある状況は通常、他の国が問題を解決しようとして失敗した場合にだけ国連安全保障理事会に到達します。大まかに言えば、紛争に簡単な救済策がある場合、解決策は地方、国または地域のレベルで見つけられる傾向があります。世界的な組織は、他の人たちが解決策を見いださなかった危機でのみ主導権を引き受ける傾向があります。このような状況では、ささやかな成功率は、国連システムに提出された事案の莫大な困難の一部を反映している可能性があります。

第2の課題は、人間の保護が世界の限られた対応能力のなかで活動しており、注意と資源を引き付けるために他の大切な規範や価値観と競合していることです。限られた資源というこの問題は、2008年の世界的な金融危機から生じる緊縮財政の環境によって悪化しています。多くの主要援助国は、自らの国家予算を削減し、自国の国民に対する緊縮財政措置を課し、他国の人々の保護に対する支援への圧力を強めています。したがって短期的には、人的保護という目的が、重要な新しい資源を呼び出すことができないというのが、厳しい現実です。

第3の課題は、人間の保護の追求が政治的に敏感であるのを認識することです。人間の保護は、政治によって可能にもされ、制限もされます。例えば、ある国が危機に陥る危険性があると特定され、いくつかの政府が反対するような行動が要求されるときなどは、人間の保護が激烈な議論や論争を引き起こす可能性があります。多くの場合、長期的な予防措置さえも、国家内政へのかなりの程度の侵入を伴い、これは常には歓迎されそうにはありません。国家は用心深く主権を守り、彼らの行為や国内状況に対する批判や彼らの権利に関する侵入を敏感に知覚します。したがって、彼らは援助を招き入れることはほとんどありませんし、彼らの管轄内の残虐行為を防ぐための外部からの努力を優しく見ていることもほとんどありません。国連の活動は、主権を擁護する加盟国からなる政治的(司法的ではない)機関によって監督されていることを覚えておくことは重要です。問題の1つの側面は、国家によっては、残虐犯罪を防止しないことが彼らの利益に最も資すると判断することが時々あるということです。これは幅広いケースで見ることができますが、2011年から数十万人が殺害され、数百万人が避難したものの安全保障理事会が断固とした行動をとらなかったシリアの例ほど印象的なものはおそらくありません。歴史的に国連は、強力な国家、特に安全保障理事会常任理事国の利害が錯綜する目標に取り組んでいるような状況においては、優位性を主張することに苦労してきました。

「政治的意思」の問題のもう一つの側面は、国家は自国市民の幸福を優先させる利己的な主体だということです。そのため、他の国の残虐犯罪を防止するために広範な資源を投入することには、一般に消極的です。ここでの問題は、政府が残虐行為防止を目標として支持しているのかどうかではなく、医療や社会福祉などの大切な国内目的を含めた他の目標との相対的な支持の深さです。政治的、外交的資本も有限の資源です。場合によっては、国家全体で最大の利益または最小の損害を達成するためにトレードオフが行われる必要があると判断することがあります。例えば、2003年のダルフール危機の冒頭で、いくつかの国家は、南部の反政府勢力と政府の戦争を終結させる交渉を危うくする恐れがあることを懸念して、スーダン政府に余り激しい圧力をかけないことにしました。この南部の反政府勢力は、最終的に南スーダンの創設によって2011年にスーダンから分離し、自らの国を設立しました。

結論

人間を差し迫った危機から守るための国際行動の美徳と実用性についてどのような立場をとっているとしても、過去数十年間に保護を向上させるためのメカニズム、制度、実践が普及してきたことは明らかです。これには、武力紛争と集団的な残虐行為の両方の世界的な衰退を伴っています。少なくとも8つの異なってはいるものの互いに接続された実践的な流れを通じて、受け入れ可能な行動規範の成文化、第三者国家と国際機関に対する責任の確立、脆弱な人々の保護を目的とした一連の慣行の出現を見てきました。その結果、今日の集団暴力は、必ずしも完全に効果的ではないにしても、典型的にはさまざまな種類の主体からの複雑な応答により対処されています。それにもかかわらず、国際的な保護の慣行は過去数十年間に著しく改善され、残虐犯罪の発生率と致死率の全体的な低下に寄与しています。最も重要な点は、これがすべて未完成の仕事のままであるということです。取り組むべき政治的問題が数多く残っているだけでなく、実施に関連する実用的な問題にはようやく手が付けられ始めたばかりです。どのような状況においてどの戦略が最も効果的に保護を提供するのかという質問は、世界中の人々を守るという約束が永続的な現実に向き合うならば、対処される必要があるでしょう。

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