国際関係論 -第14章 国境を越えたテロリズム-

Japanese translation of “International Relations” edited by Stephen McGlinchey

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第14章
国境を越えたテロリズム
カテリーナ・E・ブラウン(KATHERINE E. BROWN)

これまでの章で説明したように、グローバル化は、人間の開発において未曾有の機会と進歩をもたらしただけでなく、より大きなリスクをももたらしました。ある経済における出来事は、他の人々に素早く広まりますし、社会的、文化的、政治的な出来事についても同じことが言えます。私たちが詳細に検討していない一つのテーマは、グローバル化の時代にテロリズムがどのように進化したかです。ダークウェブがインターネットに便乗しているように、グローバル化の影の面は犯罪者や暴力グループに対して、メッセージを伝えたり、その活動を広げたりする能力を与えます。このグローバル化の影の形の影響は、そのようなグループの組織、資源、手法だけでなく、その理由付けや動機も変えます。このような状況下において、私たちは国境を越えたテロリスト集団の拡散を見てきました。それは、グローバル化された議題を持ち、その活動には多くの国が関与しているか、あるいは国境を越えた影響があります。

国境を越えたテロリズムとは何ですか?

テロリズムは、国境を越えたものであろうとなかろうと、非常に議論を呼ぶ分野です。今日まで、その定義に関してはほとんど同意がありません。テロ行為者の目的と機能、加害者、被害者、正当性、方法と標的に関して、意見の不一致が浮かび上がります。おそらく、「テロリズム」という用語の最も広く受け入れられている属性は、それが侮蔑的であり、非難のしるしであるということです。典型的には、あるグループをテロリストと表示することは、グループの正当性、合法性、そしてその対処方法に対する私たちの認識に否定的な影響を与えます。したがって、テロリスト集団を他の集団からどのように区別するかが重要です。この章の目的上、テロリズムは、政治的または社会的変化を追求することを目的とした、非国家主体による市民または政府に影響を与えるための暴力の使用または脅しと理解されます。これは意味論的または学問的な議論だけのためのものではありません。この表示は、ある集団に対応し暴力を行使するための相当な権限を国家に対して与え、国家がどのように行動するべきかという方法を大きく導くものです。間違った定義は、欠陥のあるテロリズム対策の戦略へとつながる可能性があります。さらに、国家はこの定義に同意することができず、テロリズムの本質と原因、そして誰がテロリストと呼べるのかについてそれぞれの主張を展開します。国家の対応を統制している合意された国際法はなく、彼らは脅威を取り除くために協力することに苦労しています。アチャリャ(Acharya 2008)によると、これは、国家が世界の舞台で荒野の西部の自警団やカウボーイのように行動することを許容します。

ラポポート(Rapoport 2004)はテロリスト集団の歴史を、それぞれがその時代の世界の政治によって特徴づけられる4つの連続した波に分けました。彼は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の終わりには、民族主義と反植民地主義のグループが勢力を持って出現し、一方で、冷戦時には反共産主義運動とアナーキスト運動が広がったと指摘しました。今日では、新たな、あるいは第5の波である現代的テロリスト集団が、グローバル化に関する重要な考え方の産物となりかつ挑戦者となっており、それによってテロリズムに国境を越える特徴を与えていると主張しています。過去のいくつかのテロリスト集団にも国境を越えるような目標がありましたが、彼らのメッセージを広げ、深めるための現代世界の道具が欠けていたことに留意することが重要です。今日の国境を越えたテロリズムは、多くの国家で活動していると見られており、人、武器、情報の「影のグローバル化」の流れを利用して、その目的をさらに推し進めます。この新しいタイプのテロリズムの動機は、世界中の人間の相互接続関係の深化を反映しています。ピーター・マンダビル(Peter Mandaville)は、「第5の波」のテロリスト・グループとして名指しされるグループの最初の1つであるアル・カイダについて書いた中で、彼らの初期の成功は、グローバルな技術、神話、イデオロギーを操っていたためだと主張しました(Mandaville 2007)。具体的には、9/11の壮大な攻撃の形での米国に対する軍事的成功と、アメリカを海外での高価な軍事活動に引きずり込んだという神話です。彼らの組織におけるフランチャイズのような性質と組み合わせることにより、彼らは組織に加わった小規模なグループを財政的、物流的かつ物質的に支援することによって、世界中の攻撃に対する責任を主張することができました。このような提携は、世界中のイスラム教徒を西側の抑圧の犠牲者として提示した世界政治のイメージを介して、いくつもの地元の動機を結びつけるグローバルなイデオロギーをアル・カイダが推進したために可能となりました。これらの構成要素は、彼らを世界的な規模で機能させ、複製することを可能にしました。

したがって今日のテロリズムは、動機、行動、効果の点で国境を越えています。その基本的な特徴は、国家にとっての新たな安全保障上の関心事であるため、国際関係における重要性を確実なものにしています。つまり、攻撃の危険性は他の国(戦争)から来るだけでなく、国家間を移動し、世界に分散する機動力のある犯罪団体(国境を越えたテロリズム)からももたらされます。国家は、テロリズムのこの新しい波を、特定の管轄権内における能力、正当性、自立性という彼らの主権の主要な要素に対する脅威として認識しています。この包括的な脅威は、さまざまな対応へとつながっています。それには、新たな刑事犯罪の創出、テロリズムの法的定義の拡大、拘束と逮捕に関するより強化された権限の付与、テロリズム対策国家機関の資金調達の改善などが含まれます。国境を越えた要素に照らして、各国家はまた、テロリズムの拡散を防ぐために、とりわけ警察と情報機関における政府機関の間の国境を越えた緊密な協力を求めています。また各国家は、反過激化イニシアチブを通じて、テロリストの暴力を支持する可能性のある思想の出現を防ぎ破壊することにより、新たな脅威に対応しています。これらは「ソフトな方法」と呼ばれることもあります。海外においては、安定化と政治上の穏健な声を作り出すことを促進するために、他国の開発目標を支援することが含まれます。国内の管轄区域では、「ソフトな」反原理主義化政策には、学校や大学における特定の極端な考え方への異議を重視することが含まれ、市民の過激化の兆候を監視し、暴力を美化する物の所有と流通を違法にします。これらの形式の介入は、しばしば何らかの法律に違反しているかにかかわらず、国家を市民の日々の生活に直接触れさせることになります。テロリズムは日常生活に影響を与える方法であるため、このような努力は、テロリズムが国家安全保障と同様に人間の安全保障の関心事であることを示しています。

動機と目標

個人は、さまざまな個人的、政治的理由でテロリスト集団に加わります。彼らの友人のほとんどがメンバーであるため、あるいは団体のメンバーであることが利益をもたらすという気持ちで参加するかもしれません。たとえば、イスラミック・ステート(ダイーシュ(Daesh)、ISIS、ISILとも呼ばれます)は、中東地域で新しく神学に基づく国家を確立しようとしており、世界中の戦闘員が自国で得られるものよりも良い生活条件と賃金を約束しています。グローバル化と石油の形でイスラミック・ステートが利用できる経済的資源によって、より自由に国境を越えて移動する能力がこれを可能にしています。個人がその目的に直接影響を受けていなくても、あるテロリスト組織に強く同情しており自身をこのグループと同一視するために、個人がこのグループに加わる可能性があります。グローバルなオンラインメディアは、テロリスト組織の目的にグローバルな魅力を与えることによって、この同一化を容易にすることができます。個人が国境を越えたテロリスト組織に加わり、とどまることを動機づけるものは、必ずしもそれらのグループのより広い目標と同じではないことに注意することが重要です。

個人がなぜ国境を越えたテロリスト集団に加わり、その一部として残っているのかを理解するための重要な方法は、過激化理論です。過激化は、「爆弾が爆発する前に起こるすべてのこと」(Neumann 2013)と理解されています。それは、ある人が過激派やテロリストになる道筋が存在し、それがダイナミックかつ非常に個人化された過程であることを示唆しています。その個々の性質のために、今日の国境を越えた世界では、たとえ特定の国であっても、単一のテロリストの人物像というものは存在しません。テロリストは、女性や、既婚者や、老人や、富裕層や、子供であるかもしれないし、そうでないかもしれません。したがって、行動の概略を描く試みは成功していません。ニューヨーク警察は、過激化の「兆候」と見なされるいくつかの一見して奇妙な特性(鉢植えの植物を栽培できない、キャンプを楽しめない)を記した、過激化を「見分ける」初期のガイドの1つを作成しました(Silber and Bhatt 2007)。その兆候は、範囲が非常に広く、ほとんどの人が潜在的に容疑者であったため、問題がありました。過激化の研究が示していることは、アイデンティティの追求とこの世界でのアイデンティティの大きな意義とが、苦しんでいる人々への共感と一緒になると、解決策を提供するように見えるテロリストのメッセージに個人がよりさらされやすくなります。また、テロリストに加担したり、テロリストの意見を支持している友人や家族がいる個人は、全く関係のない人よりもテロリスト組織に加わる可能性が高いことを示しています(Wiktorowicz 2006)。その結果、国境を越えた一匹狼の行為者たちは、非常に目立ち、メディアの注目を集めているにもかかわらず、非常にまれです。

集団のレベルでは、目標もまた国境を越えるものです。これは、アル・カイダとイスラミック・ステートを見ることで最もよく説明されます。これらの集団は、グローバルな宗教言語を利用して、世界を2つに分断するグローバルな政治の理解を作り出しています。一方にはイスラムの世界があります。これは宗教法が支持され、イスラム教徒が抑圧されていない良い場所です。反対側には、イスラム教徒が不公正で独裁的な指導者によって抑圧されている戦争の世界があります。彼らは、イスラム教徒が信者の共同体(ウンマ)としてお互いに持っている世界的なつながりのために、すべてのイスラム教徒はどこに住んでいるかにかかわらず、彼らと「抑圧者たち」との戦いに参加するべきだと主張します。彼らはまた、「抑圧者たち」がいたるところにおり、あらゆる所でイスラム教徒を攻撃しているため、彼らの目的と戦いはグローバルなものであると主張します。彼らは、彼らの組織のメンバーが戦う可能性のある侵略者として、「近くの敵」(地方政府)と「遠くの敵」(グローバルな力を持つ政府)を指さしています。これにより、彼らは地方の政治的苦情に入り込み、それらにグローバルで宗教的な修飾を与えることができ、また、グローバルな事件を強調して、地元の原因に関連していると主張することができます。世界をこのように理解することが、世界を「私たちと一緒か、それとも私たちに対抗するのか」と見なすいくつかの西側政府の考え方を再現している(または西側政府により再現されている)ことは注目に値します。

イスラミック・ステートとアル・カイダの思考を形作る世界的な抑圧の論理は、世界のイスラム教徒人口の大部分を代表するものではなく、イスラム学者によって広く非難されていることに注意することが重要です。また、テロ事件の大部分の報道は西側諸国の注目される事件に焦点を当てているように見えますが、2001年以降世界中でテロリストの攻撃で死亡した人々の大部分は実際にはイスラム教徒であり、イスラム教徒が多数派の国に住んでいるということに注意することも重要です。これは、さまざまな要因が原因です。第1に、貧しくイスラム教徒が多数派の国々で、あまり保護されておらず守られていない場所を対象にする方が簡単です。第2に、思想の面では、ジハード主義者の暴力に抵抗するイスラム教徒は、これらの集団によって不信者として悪者扱いされ、殺してもよい「敵」になります。最後に、それらの暴力行為は、イスラム世界で政府と市民との関係を変え、テロリスト集団の戦略的立場を改善することを目標としています(Mustafa and Brown 2010)。

活動

国境を越えたテロリズムの影響は、主としてイスラム教徒が多数派の国において感じられるにもかかわらず、脅威への恐怖と意識はヨーロッパと北アメリカで強く感じられています。テロリズムは「伝達的な行為」であり、生命と財産に加えられる実際の破壊を超えたメッセージを送ることを意味します。そのメッセージは3つの集団の人々によって受け取られます。第1の集団は、事件を目撃した地元あるいは世界の市民です。第2の集団は、テロリストの暴力に対応するよう求められている政府です。最後に、第3の集団は、テロ行為に加わることに魅力を感じる潜在的な支持者です。これらの3つの集団のそれぞれを順に見ていきます。

国境を越えたテロリスト集団は、幅広いメッセージを生み出すために、攻撃する相手と同程度に(より重視しているとは言わないまでも)、攻撃の場所に重点を置いています。場所の重要性は、イスラミック・ステート集団による2015年のパリの攻撃によって実証されます。パリは世界で最も人が訪れる都市のひとつであり、この集団はバー、サッカースタジアム、ロックコンサートなど、「日常の」場所を標的にしました。これは、誰もがどこいても標的であるという考えを示し、この集団の行動に対する恐怖と注目度を増大させました。この標的戦略は、国境を越えて行動してもいるものの、地域の政治情勢を重視する集団、例えばアフガニスタンとパキスタンの両方で活動するタリク・エ・タリバン(Tehrik-e-Taliban)やナイジェリアや周辺諸国で活動するボコ・ハラム(Boko Haram)の戦略とは対照的です。タリク・エ・タリバンは、「ジハード」の世界的な目標に関連しているものの、その行動は地元でなされます。彼らは美容院、警察署、市場の広場を標的にしています。なぜなら、彼らはこれらのものを、彼らが自分たちの土地に築きたい生活様式とは対照的なものとみなしているからです。ボコ・ハラムもまた、広範で世界的な政治目的に忠実であると主張しているものの、異なる国々の国境を越えて村落を標的にし、「日常生活」に関する彼らの新しい法律に準拠していない人々を処罰しています。しかしながら、これは、これらの集団が個人をターゲットにしていないと言っているわけではありません。タリク・エ・タリバンは活動家のマララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai)を女子教育に対する彼女の支援を理由として殺そうとし、ボコ・ハラムはナイジェリア北部の数百人のキリスト教徒の女子生徒を拉致しました。この学校は、国家の意図を奨励すると考えられているために標的となり、それらの集団が女子には家庭内の責任とクルアーンの学習のみに焦点を当てたイスラム教育を受けさせることを望んでいるために女子生徒が標的となっています。マララ・ユスフザイは、イスラム教育のこの解釈に反対し、世界中で女性の学校教育を推進するためのキャンペーンを行い、彼女のその努力のためにノーベル平和賞を受賞しました。さらに、ナイジェリア軍は、誘拐に対する世界的な怒りに後押しされ、ボコ・ハラムに対してより積極的な立場を取らざるを得ませんでした。したがって、これらは「地方の」目的や地元の標的ではありますが、より広範な影響という点では世界的で国境を越えたものです。

国境を越えたテロリズムの第2の特徴は、その活動は時として、人々の恐怖を生み出すとともに、国家を行動へと誘発するように設計されていることです。攻撃は頻繁に象徴的な目的を持ち、しばしばショック値を最大にするために高い死傷率を有します。例えば、米国が9/11の攻撃に対応しない、あるいはフランスがパリの攻撃に反応しないということは考えられませんでした。ここではテロ攻撃は、国家が民間人を保護していることを証明するために何らかの行動を起こすように、設計されています。たとえその行為が国家が信奉している価値観を損なうか、政府への支持が侵食されるほどコストがかかることさえあるかもしれないとしても、です。このテロリスト戦略は、チェ・ゲバラ(Che Guevara)によって最初に策定されました。彼は、米国主導の権威主義的バチスタ政権に抗したキューバの革命的な共産主義運動の指導者です。このアプローチは、テロリストが自分たちを大衆の革命の「先駆け」と思い描く「フコイスト」(または「フコイズム」)として知られています。中国の北西部地域で活動しているウイグル民族分離主義組織(今や、地域的イスラム主義テロリズムへの関連を有している)は、この戦略を10年以上にわたって適用してきました。中国は治安を提供し、中央政府の強さを実証する必要があるため、彼らの攻撃に対抗するように、影響を受ける地域に住む人々の市民的自由に対する弾圧をさらに強くしました。しかし、中国政府は攻撃の数や重大さを減らすことができず、また分離主義者に加わる人々を止めることもできませんでした。ある人たちは、欧州の対テロリズム政策は、中国の例と同じように、治安の名の下に政府が人権を抑圧するという同じパターンに従っているため、効果的であるというより反動的であると主張しています。欧州全体のイスラム教徒コミュニティに対してテロリズム対策法の影響が不均衡に感じられていることは、イスラム主義集団の募集キャンペーンにおける宣伝材料をより多く提供していると批評家たちは主張しています。

多くのテロリスト集団は、時間がたつにつれて、より多くの人々が彼らが抑圧されていることに気づきレジスタンス集団に加入すること、あるいは十分な報道により、国際社会が彼らの目的を支援するようになることを期待しています。パレスチナの例は、これをよく表しています。イスラエルからのパレスチナ独立を確立するために数十年にわたる政治的闘争(テロリストの戦術を含む)があったにもかかわらず、パレスチナの目的は比較的国内外において人気があるからです。一方、何か(独立したパレスチナ)を創るのではなく、この戦術を使って何かを破壊することもできます。ここでは、9/11の攻撃とその後の長年のテロリズムが、米国が政治的、経済的安定を損なう手段として中東に関与するように誘惑するための餌として用いられたことが指摘できます。この論理によって、最初にアル・カイダ、その後のイスラミック・ステート集団は、世界の権力とアメリカのイメージを崩壊させて、もはやイスラム教徒の土地に干渉しようとしないか、できないようにする戦略を追求しています。

これまで各国は、テロリストによるこうした類の暴力行為へ反応することをこらえてきました。社会主義の赤い旅団によって人気があったアルド・モロ(Aldo Moro)首相が誘拐・暗殺されたことに対するイタリアの反応を考えてみましょう。伝えられるところでは、カルロ・アルベルト・ダッラ・キエサ(Carlo Alberto Dalla Chiesa)将軍は、モロの誘拐事件の捜査中に、疑惑の旅団のメンバーを拷問することを提案した警察当局のメンバーにこう答えました。「イタリアはアルド・モロを失っても生き残ることができる。拷問を導入すれば、イタリアが生き残ることはできないだろう」(Dershowitz 2003, 134)。しかしながら、過去に見たことのないスピードとレベルで公衆とメディアによる精査が行われているため、政府、特に民主的に選出された政府が圧力に抵抗する能力は大幅に低下しています。大衆文化とのクロスオーバーも興味深いものです。軍事倫理学者たちは、「ジャック・バウアー効果」を報告しています。これは、テロリストの攻撃を止めるために時間が少なくなると個人を拷問するという、TVシリーズ「24」の中のこのキャラクターの傾向を指しています。バウアーの戦術は、多くの政府がテロリズムに対応するために使用してきた、強化された尋問道具を(劇的な形ではありますが)しばしば反映しています。援助と行動を求めている同盟国や近隣諸国からも政府に圧力がかかっています。例えば、タイ当局は、国境を越えて活動しているタイのイスラム教徒分離主義者のことをマレーシアが見て見ぬふりをしていると考えているため、2004年以降、タイとマレーシアの関係がかなり冷え込んでいます。

最後に、テロリストの暴力の第3の理由は、メンバーを募集し、既存の支持者の忠誠心とつながりを強化することです。非常に暴力的または高度に技術的な攻撃は、攻撃を実施しているグループの能力と意志とその総体的な支援を示しています。イスラミック・ステートの攻撃は劇的で壮観であるため、この集団の注目度が向上し、軍事的な洗練さが示されており、これにより各地域の国々の市民から彼らへ支援が送られるのが見られます。マンダビルはこれを成功の神話と呼びます(Mandaville 2007)。イスラミック・ステート集団のビデオや宣伝はよく、敵対者の死によって彼らの脆弱さを主張します。その映像は、彼らの敵対者を、牛やシューティングゲームのキャラクターのように扱い、非人間化します。コンピュータゲームのイメージを模倣した映像の使用とともに、イスラミック・ステートは人気のあるコンピュータゲームのための独自の「スキン」または「マップ」を作成もしています。彼らのグランド・セフト・オートのバージョンでは、都市がバグダッドであり、あなたに敵対する人々は警察と軍隊です。あるイギリス人の支持者は、イスラミック・ステートの支配下のシリアでの生活を「あのゲーム、コール・オブ・デューティよりもいい」と語りました。メンバーたちは、「再生」や「生まれ変わる」という意味のゲーマーの言葉である「復活」、そしてイスラム教の楽園であるジャンナという言葉を使い、「ジャンナで復活する」と語っています。これは、西洋の男性的な経験と結びつくことによって成員を募集し維持するように、明確に設計されています(Kang 2014)。

組織と資源

そのような国境を越えた組織を管理し、複数の場所やアイデンティティへと接続するためには、かなりの物流や組織的能力が必要です。ローカルな人々とグローバルな人々とにうまく入り込む実践は、「プラグ・アンド・プレイ」アプローチとして説明することができます。国境を越えたテロリスト組織は、地元の苦境へと「つながる」イデオロギーを持っているだけでなく、組織の構造や資源もこのような様態で機能します。

国境を越えたテロリスト集団についての主要な特徴の1つは、かれらが構造的に階層的ではなく、むしろ細胞的で無秩序であり、正式なリーダーを欠いているということです。マーク・セイジマン(Marc Sageman)は、「指導者なきジハード」(Sageman 2008)について語りました。彼は、アル・カイダのことをゆるく編まれた多孔質の組織として特徴づけましたが、この位置づけは、ブルース・ホフマン(Bruce Hoffman)によって強く異論が唱えられました(Hoffman 2006)。テロリスト組織は新しいテクノロジー、コミュニケーションの形態、グローバル化の他の側面を活用するにつれ、ますます脱中心化しており、ホフマンは議論に負けたように見えます。その結果として、国境を越えたテロリスト集団とのコミュニケーションは難しくなる可能性があります。交渉担当者は、彼らが話している人々がグループの代表者であるか、またはグループの他のメンバーに影響を与えるのに十分な力を持っていると確信することができません。そして、分裂したグループは、よりこうした状況になりがちです。このアプローチを採用するテロリスト組織には、特に情報と運用上のセキュリティ、調整の問題と弾力性に関連するリスクと脆弱性があります。その反面、継続性という点で利点もあります。中心的なリーダーシップがないと、運営の規模や範囲が大きくなり、妨害や壊滅が非常に困難になります。

個人に焦点を当てるよりも、プロセスに焦点を当てるほうが助けになります。国境を越えたテロリスト組織における重要なプロセスの1つは、資金と装備の分配と取得です。ここでは、国境を越えた犯罪、特に人体の臓器・薬物・銃の密輸や、人身売買との関連を見ていきます。犯罪者は、価格が適切であれば、テロリスト集団に必要なものを提供することができ、テロリストは必要に応じて犯罪行為に関与したり、容認したりします。失敗国家は、テロリズムと犯罪とがつながり収益を生むための肥沃な土地を提供します。米国政府のテロリズムの撲滅に関する国家戦略(National Strategy for Combating Terrorism 2006)は、テロリストが失敗国家を「活動のための計画、編成、訓練、準備」に活用していると主張しています。しかしながら、一部の学者は、国際テロリストが失敗国家から出現することはほとんどなく(Simons and Tucker 2007)、大部分の失敗国家または失敗しつつある国家は、それらの国家がその市民と周辺の国家に対する重大な安全保障上の問題をもたらしているとしても、テロリズムの輸出の原因ではない(Coggins 2015)と指摘しています。注目に値するのは、失敗した国家ではなく、統治が脆弱な国家も関係しているということです。パキスタンはこのような例の1つで、そこはアル・カイダの指導者オサマ・ビン・ラディンが、2011年の秘密作戦中に米軍によって殺害されたときに住んでいた場所でした。ちなみに、この作戦はパキスタンに知らされずに遂行されました。パキスタン政府はしばしば国家がテロリズムとの関係を持っていると非難されており、米国は彼がそこにいることをパキスタン政府の一部が知らなかったと考えることはできませんでした。

国境を越えたテロリズムへの対策

国境を越えて活動しているテロリズムの帰結として、国家に対してはいつどのように介入すべきかについての多くの決定事項が提示されており、これらの事項は互いに密接に関連しています。最初の決定事項は介入する場所です。一部の西側諸国は、「最前線」国家におけるテロリスト集団の出現を防ぐため、または既存のテロリスト集団の有効性を最小限に抑えるために、国際的に介入したくなっています。このような介入は、国際援助、軍事的助言と訓練、政府に対する財政的および軍事的支援の形で行われます。これは、非民主的な政府を支持し、紛争のある地域での軍事的行動に従事するリスクを伴います。パキスタンにおける米国のドローンの使用は、相当な論争を招いた一例です。第1に、パキスタンの主権を潜在的に損なうような国境を越える要素のためにであり、第2のポイントは、通常の民間人に恐怖の状態を課すことです。彼らはドローンを操作する人たちによって「精密な」または「標的化」と呼ばれる空爆の脅威にさらされていますが、その空爆は、これらの地域の民間人には無作為であると考えられています(Coll 2014)。このような活動は、実際にはテロリスト集団の議論を拡散する物語を与えることによってテロリスト集団を援助しており、西側が彼らの社会に積極的に介入することに対する地域の懸念を補強し、その介入に反対しなければならないものとします。

パラレルアプローチとは、テロリスト集団の西側社会へ対する攻撃能力とその効果を最小限に抑えるために、国家権力を強化することによって、自国で介入することです。しかしながら、その結果は、国内であろうと国外であろうと、市民の自由を減らし、人権を制限することになっています。人権と人間の安全保障との間には必要なバランスがあり、市民を守ること、すなわちその安全保障は政府の最初の義務であると考えられます。しかしながら、反論として、これらの基本原則を守ることに失敗すると、通常の犯罪処理の「外側で」扱うことによりテロリストの行為に報酬を与えると同時に、法律を遵守している市民を処罰することになるというものがあります。実際に、対テロリズムと反過激化政策との過程における人間の経験は圧倒的に否定的なものでした。私たちは、テロリズムとの戦いの名において、ジャーナリストや人権団体を含むエジプトでの抗議者たちの摘発にこれを見ることができます。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、エジプト政府が国家安全保障を引き合いに出してほぼすべての反対意見を黙らせることにより、その現代史において最も深刻な人権危機を生み出していると報告しました(Human Rights Watch 2015)。エジプトは、国境を越えたテロリストの行為と、海外のテロリスト組織と関係を持つように見える野党グループの存在とに照らして、これらの政策を正当化しようとしています。トルコでも、特に2016年のクーデターの試みが失敗した後で、同様のパターンが見られます。

西側諸国において安全保障への国家の試みは、しばしば特定の団体、特にイスラム教徒に対して不均衡な影響を与えています。国境を越えた要素はおそらく空港で最も強く感じられます。ブラックウッド、ホプキンス、ライヒャーは、空港を通過する際の「原型的な」イスラム教徒の物語があることを発見しました(Blackwood, Hopkins and Reicher 2013)。その物語は、空港や国境当局による行動によって引き起こされる、差別、屈辱、恐怖によって特徴付けられます。テロリズムに対抗するという名目であっても、国家が暴力を利用して、国民(の一部)に「恐怖の状態」を作るようにする能力は、一部の人がテロリストの主体の定義に国家を含めるよう要求するほどです(Jackson 2011, Blakeley and Raphael 2016)。批判的なテロリズム研究の分野で研究している人たちは、国家によるテロと非国家主体によるテロとの唯一の大きな違いは、暴力行為を行う行為者だけであると主張して、このアプローチを提唱しています。例えば、イスラエル軍がパレスチナ人グループを攻撃する場合、これは一般に「防衛」または「国家安全保障」と見なされます。しかし、パレスチナ人グループが侵略者や占領者と認識しているイスラエルの軍隊を攻撃するとき、彼らは一般に「テロリスト」とみなされます。国家主体と非国家主体の二分法を削除すると、上記の見方の代わりに双方とも正当な目的と目標を共有している2つの対立する勢力の間の闘争と見なされるかもしれません。複雑で感情的なこのような例のために、国家の行動を十分に調べることができないことがよくありますが、批判的な学者は、このような国家の行動が世界中の人間の不安の重大な原因であると主張しています。また、国家を超えて市民社会や日常的な抵抗運動に目を向けることも重要です。

結論

テロリズムとテロリストは、その目標、行動、組織形態という3つの方法で国境を越えています。しかしながら、これが新たな唯一のテロリズムの形態であると仮定する前に、私たちは慎重でなければなりません。すべてのテロリズムが国境を越えているわけではありません。アイルランド共和国軍(IRA : Irish Republican Army)やバスク祖国と自由(ETA : Euskadi Ta Askatasuna)のようなテロリスト集団は、いまだに1つの国を対象とした国家レベルで活動しています。国家も、テロリズムの形態を帯びる能力を発揮してきました。さらに、2001年以降の国境を越えたテロリズムの例は、ほとんどが宗教に触発されているように見えるかもしれませんが、これに関して必然的な何かがある、あるいはイスラム教が特に重要な要因であると結論づけることはできません。むしろこの例では、西側の政治的、社会的、経済的モデルが支配する世界に対して、イスラム教がいくつかの周縁的な集団のために説得力のある世界的な対抗言論を構築する枠組みを提供しているのです。そのため、他の種類のテロリズムを超えて、イスラムテロリズムが国際関係の継続する懸念事項として浮上していることはおそらく驚くことではありません。結論づけるべき重要な点は、テロリズムに対抗するのは国家に限定されず、市民社会と一般市民の日常行動にも役割があるということです。これには、国境を越えたテロリストの思想を支配している対立的かつ二元論的な世界観を打破するような、大衆文化、宗教間の対話、連帯の機会が含まれます。それにもかかわらず、テロリスト集団はその時代の産物であり、私たちと同じようにグローバル化した世界に住んでいます。彼らはグローバル化によって形成され、その行動によってグローバル化に貢献します。

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