国際関係論 -第18章 交差点とろうそく-

Japanese translation of “International Relations” edited by Stephen McGlinchey

Better Late Than Never
40 min readFeb 28, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第18章
交差点とろうそく
ピーター・ヴァーレ(PETER VALE)

「暗闇を呪うよりも、ろうそくに火をともすほうがいい」
W. L. Watkinson
1838–1925

古い教訓の教えるところによれば、結末は初めよりも書くのが困難です。それはそうかもしれませんが、私は、国際関係論(IR)の理論と実践の両方での40年近いキャリアを反映することなく、IRが作り出す世界について書き始めることさえ難しいと思っています。これは、私のIRに対する知的な関与は、私が何者であるかということと不可分であるためです。同じ点をもう少し高尚な言い方で述べるなら、学者としての視線は客観的であるという伝統の中で私は訓練を受けましたが、私の学問的巡礼は、個人的なもの、政治的なもの、および専門的なものの間の連続する交差点の1つであり続けています。私は初期の職業人生を、南アフリカのアパルトヘイトの特に厄介な時期に過ごしました。少数派の白人が支配する政府は、あらゆる形態の政治的異議を弾圧しただけでなく、激しい反共産主義にも結びついていました。このような状況では、世界を考える上で学問的客観性を発揮することは困難でした。これらの年月は、私に人生と学習についての貴重な教訓を教えてくれました。IRにおいて完全に客観的または価値観から自由な見解があると信じることは、「彼は目撃者のように嘘をついた!」という古いロシアの言葉を思い起こさせます。私たちは皆、自分の経験を通して世界を理解するようになります。このため、最も客観的な人でも、世界についてのあらかじめ決められた理解を持っています。

国際関係という単語の標準的な辞書の定義では、この言葉は「国家を基礎とする主体の間の国境を越えたすべての相互作用を識別するために使用される」となっています(Evans and Newnham 1998, 274)。これは確かにIRの学術分野を示唆していますが、この学問分野の多くの境界線の亀裂の間に落ちてしまうような国際的な関係性や、これらの問題を取り巻く個人的な不安と恐怖を説明することには役に立ちません。結局のところ、冷戦の極点では、地球全体が核戦争によって破壊されるという恐怖が本当にありました。そのような状況では、未来に対して不安になったり、家族のために恐怖したりしないということは困難でした。ですから、おそらく私たちは、定義に対して単に境界を画定するよりも多くのことを要求するべきです。より内省的な視線は、私たち、つまり将来の学生や名誉教授が、学術IRを「行っている」とき、実際に私たちがやっていることが何なのか、そしてなぜそれが私たちにとって重要なのか、という点を見つめます。

1マイル4分

なぜそれが私にとって重要なのかを理解するために、私は、植民地時代における私の少年時代と、中年後期の私自身との間の交差点の物語 — とても最近のもの — から始めましょう。この特別な物語は、私が生まれた国であり、私が市民である南アフリカではなく、イギリスで起こりました。

過去と現在の交差点がなぜ私自身のIRの理解のために重要なのかを説明するために、いくつかの個人的背景が必要となります。植民地時代の南アフリカで成長したために、わたしの家庭にはイングランド文化がちりばめられていました。南アフリカ生まれの母親は、50歳になるまでイングランドを訪れたことはありませんでした。さらに、私が入学した寄宿学校は、英国のパブリックスクールの伝統に緩やかに基づいていました。そこで、私たちは、イングランドから世界への「贈り物」であった組織化されたスポーツに参加するよう奨励されました。お分かりのように、なにが国際的なものを形作るかということについての私の最初の考え方は、イングランドの文化的権威と大英帝国の圧倒的政治力によってもたらされました。これを踏まえ、ロジャー・バニスター(Roger Bannister)の1マイル4分切りの話は、若い私自身を特に魅了しました。これについて説明すると、1マイルの計測は、1950年代初頭の競走の競技で重要な試練となっていました。誰も4分以内に1マイルを走行することはできないと長い間信じられていました。しかし、第二次世界大戦の後、計時のための道具とともに物理的な訓練と栄養技術が改善されたとき、1マイル4分は次第に征服へと近づきました。実際、この障壁を破ることは、個々のアスリートと彼らが代表している国の両方にとって、競争上の目標の一種の節目となりました。

私の1マイル4分への最初の興奮は、ロンドンから学校の図書館へと送られてきたEagle Sports Albumのある版によって火をつけられました。そのページでは、私の家族のような世界の遠くにいる英国人と英国にとっての、バニスターの偉業の重要性が大いに強調されていました。この劇的な出来事は、生涯にわたる陸上競技への関心を呼び起こしました。ついに、2015年10月にオックスフォードへの旅行の際に、私はイフリー・ロードの競技場を訪れました。そこでバニスターは有名な1マイル測定を走ったのです。多くの巡礼者のように、その訪問は興奮するものであり、歓びであり、啓発でした。この競技場の現在の呼び名である「ロジャー・バニスター・ランニング・トラック」に立ったとき、私はバニスターが有名な走行の直前に見た教会の旗竿を探しました。スパイクのついたランニングシューズを持った若い男が歩いてきたとき、ほんのつかの間ですが、私は競走の興奮を思い出しました。しかし、走ることよりも重要なことは、その有名な日に起こったことが、いかにして私が最初にIRの世界を知り、理解するようになったかを教えてくれたことへのゆっくりとした認識でした。

その出来事の日に起こったことが、典型的な現代性の瞬間、つまり時間による空間の征服だったということは、この訪問の日まで、私の頭に思い浮かぶことは決してありませんでした。IRにおいては、当然のことながら、行政の道具立てと技術、およびそれに続く統制を通じて領土を管理するということが、この学問分野のまさに本質です。したがって、領土が主権の管理下にない限り、国際的という考え方は意味を持ちません。その結果として、統治されていない土地を国際的という考え方へと導いてくることは、国際関係における仕事の第一歩です。IRを可能にする力である主権という概念は、「国際」と「国内」との間の境界線に沿ったどちらが管掌するかが決まっていない空間を境界分けした後に生じてきます。技術は、地図とその作成という形によって、支配者、特に植民地の支配者の心に「恒久的」なそのような境界を作るのを助けました(Branch 2014参照)。

厳密に言えば、境界線がなければIRは存在し得ないでしょう。しかし、現代性という道具によって描かれた境界線の間の分断は、旅券、ビザ、移民書類などの管理技術を備えた厳密にパトロールが行われる国境ではありません。それは包含と除外が絶え間なく交渉される限定的な空間です。そして、正統なIRが国家の贈り物であると主張するような命令と管理に組み込まれることに抵抗する集団の間の相互作用の形態がかつて存在し、現在もまだ残っています。2015年に始まったヨーロッパの移民危機が示すように、このどっちつかずの空間は大きな悲劇の場でした。多くの場所において、現代のメディアの権威のある視線の届かないところで、国境は殺戮の場でした。文明化とキリスト教の旗印の下で、地球上の一番遠い場所をも1つの政治的全体に導いたヨーロッパの植民地化は、非常に暴力的でした。もし植民地化の一面が殺戮であった場合、別の面は、何百万人もの人々の生活様式の破壊でした。人々の生活におけるこの激しい破壊は、世界中に国際的という考え方が普及するにつれ、1960年代まで継続しました。

1つの例は、1965年のある合意であり、その中で英国はインド洋の島々を米国に渡しました。チャゴス諸島と総称されるこれらの島々の住民は、強制的に移住させられました。過去50年の間に、島民自身とその子孫は、この決定を覆すために多数の法的試みを行ってきましたが失敗しました。人類学者、歴史家、国際弁護士たちが調査しているにもかかわらず、一般に、世界の辺境で起きるこのような悲劇はIRでは無視されています。

私の頭に浮かんだ第2の点は、これらの事柄について発言した人の力でした。文学の分野や、次第に社会科学の分野では、これは「声」の問題です:誰が話をするのでしょうか、どのようにして話すようになるのでしょうか、そしてなぜこれが起こるのでしょうか。IRの政策的な面では、悲しいかな、フェミニストがこの学問分野にもたらした革新的な洞察にもかかわらず、声の問題が重要な問題であると考えられることはほとんどありません。それらは、女性が国際というものの創造において重要な役割を果たし、そして果たし続けているにもかかわらず、女性が国際というものを男性とは異なる方法で経験し、女性が国際的な物語の中では沈黙させられるような種々のやり方を明らかにしてきました。

イフリー・ロードの2つの標識は、バニスターの勝利を宣言しています。石の門の上に載っている最初のものは情報を与えています。それには、「ここイフリー・ロードのトラックにおいて、1954年5月6日にロジャー・バニスターによって初めて1マイル4分切りの走行が行われた。オックスフォード大学」と記されています。2つ目はイフリー・ロードに面した木製のフェンスの上に位置しています。オックスフォード大学の紋章の下で、「ここで、1954年5月6日に、ロジャー・バニスターは3分59.4秒の新しい世界1マイル記録を樹立した。4分未満で走られた最初の1マイルである」と記されています。もし最初の標識が情報を伝えるとしたら、2番目の標識はバニスターの達成を真実として宣言します。ここでは、時間による空間の歴史的征服において、あいまいさの余地はありません。

いくつかのことを明確にしましょう。もちろん、イフリー・ロードの競技場は、最初の「計時された」、「認証された」または「測定された」4分未満の1マイルが実行された場所でした。しかし、 — これはIRにおいて、またあらゆる形態の知識において批判的な質問が重要である理由ですが — それまでの人類史上において、他の誰も、どの場所においてもこの距離を4分未満で走らなかったというのは、あり得なさそうです。実際に、今日の医療科学は、特定の種類の生理学的特徴を持つ人間が、それらを持たない人間よりも長い距離を速く走れることを示唆しています。私のIRに対する認識を理解するという私たちの目的に関して言えば、この表記 — その宣言とその権威への主張 — は、白人、西洋、男性が支配する世界に根ざしています。これは私が生まれ育った世界です。これ以外には、何も認識する価値がありません。それは、バニスターが有名な1マイルを走った1950年代初頭の後期帝国主義の視線には、非西洋への理解や関心がほとんどなかったことを認めています。

このような偏見が挑戦される必要があることは明らかですが、主流のIRが非西洋の世界の否定を芸術の域にまで高めているため、これは困難です。多くの人にとって、IRの仕事は、IRが正式な学問分野として登場した20世紀の初期の数十年を特徴付けるような人種、階級、ジェンダーの常識的な理解に支えられています。その結果、世界の多くの地域で、IRは「突然変異」の学問分野と呼ばれています(Vale 2016a)。これは、IRには主権の境界を越えて、あるいはその境界の下に住む人々の日常生活を説明するための概念的能力がない — 社会理論家に言わせれば文法や語彙がない — ように見えるためです。そして、それらを含めるのに十分なカテゴリもないため、IRはそれらを理解することができません。

帝国の召使い

イフリー・ロードの標識の主張と、権威の声が社会秩序を保護し維持するためにどのように使われているかとの間には、明らかな関連があります。イフリー・ロードの場合では、権威の主張と歴史の形成は、急速に変化する世界に英国の権威を置くことを目的としていました。第二次世界大戦後、英国は、米国の戦後の勃興状況に直面する中で、世界的地位を再確認するために奮闘しました。ロジャー・バニスターの業績と世界の偉大な大学の1つであるオックスフォードが提供している権威はそうするための1つの方法でした。当時、この1マイル4分は、イフリー・ロードのトラックにおける出来事のほぼ一年前に行われた、国際的にイギリスを再配置しようとする別の試み — 英国主導の探検隊による世界一高い山(エベレスト)の登頂 — と関連付けられました。

英国が世界で直面していたジレンマは、ディーン・アチソン(Dean Acheson)米国務長官による「英国は … 帝国を失い、いまだ役割を見いだしていない」(Acheson 1962)という有名な指摘によって、最もよくとらえられました。もはや帝国主義勢力ではなくなりましたが、英国の世界の問題解決における影響 — そして、英国がIRを通してどのように組織化され研究されるか — は、その文化と言語によって継続されます。しかしながら、それはかなり奇妙な方法で表れてきます。この結果は、1960年代後半にアデン(現在はイエメンの一部)の植民地総督リチャード・ターンブル(Richard Turnbull)によって予告されました。ターンブルは、将来の英国の閣僚であるデニス・ヒーリー(Denis Healey)に、「大英帝国がついに歴史の波の下に沈んだとき、それはただ2つのモニュメントを残すだろう:一つはサッカーの試合、もう一つは「ファック・オフ」という表現だ」(Healey 1989, 283)と伝えました。このような下品な言葉がIRで聞かれることはほとんどありませんが、イギリスの文化帝国主義はこの学問分野に残っており、なぜIRが英語で表現されるのかを説明しています。これは、すくなからずグローバルな文化の言語がますます英語になっているためです。ただしこれは、英国ではなく米国のグローバルな到達範囲に容易に起因する事実です。これはIRと現代性の間の別の関係を示唆しています。時間と空間の後に続く、現代性の第3の手段は言語です。他の2つと同様に、英語は、世界とIRによる研究における包含と排除の境界線を設定しています。

国際関係を促進する中における言語と文化の場所は、ソフト・パワーの考え方で説明されています(Nye 1990)。この概念は、文化の問題をIRの中心へと向けて有益に描きだしましたが、言語の次元については沈黙していました。これは、すでに述べたように、英語は「グローバルな言語」と宣言されており、それゆえ世界のありようについての見解を客観的に示しているからです。しかし、中立的な言葉などありません。さらに2つの点が、IR、そして実際には他の社会科学においても、ある言語の独占を持つことの限界を示唆します。まず1つ目は、(言語の概念上の限界を指摘した)オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)の考えに基づいており、彼の有名な言葉である「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」に捉えられています。そのため、言語が社会的な世界にアクセスするための道具としてどれだけ支配的であっても、その語彙は私たちの理解に限界を設定します。第2の点は、英語がIRの言語として残った場合には、この学問分野はグローバルエリートの領域であり続けるだけでなく、内部の人間にサービスを提供し奉仕してきたその長い歴史を継続するでしょう。英語を知らない人はIRから除外されるか、この言語の専門能力を養うことによってのみ、この学問分野にアクセスできます。これは明らかに差別的です。また、英語には、その語彙の外にある概念を理解することができないという課題もあります。例えば、サンスクリット語の「ダーマ」は「宗教」として翻訳されていますが、ヒンズー教の宇宙論のダーマには、キリスト教のように神聖によって定められているわけではない権利、義務、法律などの様々な慣習や概念が含まれています。「国家」、「文明」、「秩序」など、IRの語彙における他の重要な用語は、翻訳の中で失われることがあります。

世界を作り上げる

この学問分野での偉大な決まり文句の1つは、IRは修復のための中立的な手段であるためにIRが祝福されているということです。IRは世界を「作り上げる」というよりは、むしろそれを「修復」するものです(Kissinger 1957)。この論理によれば、この学問分野は、戦争によって荒廃した世界がこの学問分野の科学によって修復できるような有用な道具、時には希望に満ちた心を提供します。しかし、ここでも反対の意見が必要とされます。この楽観主義にほとんど欠けているのは、誰が世界を再構築する権利を持っていて、その再構築により誰の利益が守られるのか、という互いに関連した質問です。これらの質問は、南アフリカ戦争(1899–1902)の終わり、第一次世界大戦(1914–1918)の終わり、そして第二次世界大戦(1939–1945)の終わりという、以前の3つの機会において国際社会を構築し、あるいは再構築した責任者たちを悩ませることはなかったでしょう。確かに、それらの瞬間のそれぞれは、絶望とその後に来るかもしれないものについての希望の気持ちとが交錯する時として提示されました。それぞれは、地元とグローバルの両方の政治の特定の構成によって特徴づけられていました。そして、それぞれは、その時点の語彙で捕らえられていました。このそれぞれの出来事を順番に考えてみましょう。

アフリカーナーとして知られるアフリカの地におけるヨーロッパ人の子孫と、英国との間で南アフリカ戦争(第二次ボーア戦争としても知られる)が戦われました。これは、ウェストファリア式国家とそれを取り巻くように発展した外交慣例が、ヨーロッパの中心地からアフリカに移住したことが理由です。それは、現代国家という異質な社会形態を新しい大陸に位置づけるための多くの競争の集大成でした。最近の研究が示すように、南アフリカ戦争後の世界の構築は、その当時の国際組織の支配的な形態であった大英帝国の再編に関係していました。主として英国と、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカという4つの入植者が統治する土地との間で、何が主権のアイデンティティを構成するかについての理解が、帝国主義的な設定から、ある種の「国民の間の」やり取りへとシフトしたという考え方は、第一次世界大戦後の数年間で大きな影響を受けました。他の3つの支配地が、地方と国際が滑らかに再配置できることを示していたとしたら、南アフリカは、その多様な人々と共に、来るべき厄介な世界の先駆けでした。したがって、帝国の理論家たちにとって、南部アフリカの植民地を南アフリカという単一国家に再編成することは、帝国の解体のモデルを予示していました。それゆえ、選択された道は「有機的な連合」という考えであり、帝国の兄弟関係を似せた中で主権の重要性を強調する体制でした。現代的に言えば、それは多国間主義の特殊な歪みでした。

その後、この組織へは白人が統治するインドも併合され、その結果、イギリス連邦が生まれました。ここから、1930年代には、時に「世界国家」(Curtis 1938)とも呼ばれた、白人が支配的な「世界連邦」という考え方が成長しました。この世界構築における思考犯罪 — それ以外にこれを表す言い回しはありません — とは、すべての国際的な想像力が、「信託統治」の意味を除いて、他の人種を除外していることでした。第一次世界大戦後、この信託統治という地位は、ダーウィンの梯子の下のほうにいるとみなされた人々の利益のために、外国の空間を管理することのできる「信頼できる」国家に授与されました(Curtis 1918, 13)。この動きの遺産は、学問分野としてのIRにおける大きな未踏の物語として残っています。なぜなら、IRは、富、人種、ジェンダーによってもたらされる視線によって国際的なものを定義するという傲慢さに悩まされ続けているためです。

IRの伝承においては、第一次世界大戦後の世界の修復は神聖な基盤です。この学問分野の祝福された物語は、科学として体系化された国際的なるものが、いかにしてよりよい世界を構築するかということです。この学問分野が制度化されたのは、ウェールズにある現在のアベリストウィス大学でアメリカの28代大統領であるウッドロー・ウィルソン(Woodrow Wilson)にちなんで命名された学術講座が創設されたときでした。ケン・ブース(Ken Booth)は、「デヴィッド・ダヴィーズ(David Davies)が1919年にアベリストウィスで国際政治学部を創設したとき、彼はあらゆる場所におけるこの科目の助産師になった」(Booth 1991, 527–8)と指摘しています。この米国への卑屈な追従は、この学問分野の確立が「すべての戦争を終わらせるための戦争」を終わらせることにおけるアメリカの重要性を認めていることを示唆しています。ウィルソンは勝利をもたらすのを助けただけでなく、国際平和の未来を確保するための手段として国際連盟を提案しました。しかし、国際連盟がそのようなものになることはありませんでした。1930年代に国際連盟は別の戦争を防ぐことに失敗しました — また、この学問分野が確立される際に抱いていた初期のIRの理想主義も打ち砕かれました。この解決策の失敗は、制度的にも理論的にも、IRの年代記によく記録されています。

新しい世界の建設は、主として、自由貿易、強力な政府、多国間主義と結びつくような組み込まれた自由主義の考え方を通して探求されました(Ruggie 1982)。しかし、不都合な真実が残っていました。それ自身には、グローバルな人種差別が埋め込まれていました。この平和へ向けた偉大な協議に欠けていたものは、世界の構築の外側に位置し、IRの設立交渉によって除外された人々の声でした。そこでの真実とは、主権とそれが与える国家の地位の保証は、出生と肌の色によって特権を与えられた人々にしか利用できないということでした。除外された人々を理解するという科学的課題は、IRではなく、他の学問分野、特に応用人類学(これについては、Lamont 2014を参照)のためのものでした。

IRの民間伝承は、国際システムはアメリカの理想主義の勝利に負うところがあると考えています。1940年代におけるアメリカの孤立主義の終焉は、世界で最も強力な国を、その「自明な宿命」の生まれ変わりへと誘い込みました。「自明な宿命」とは、入植者たちは北米中に広がるようにあらかじめ定められていたという19世紀の信念に根ざすものです。それは、1847年のメリーランド州民主党のウィリアム・F・ジャイルズ(William F. Giles)からの引用にあるように、白人の優位性という理解にまみれた信念です。

私たちは海から海へ進まなければなりません。 … テキサスから太平洋まで真っ直ぐ進まなければならず、それをさえぎるのは渦巻く波だけです。 … それは白人種の運命であり、それはアングロサクソン人種の運命です。
(Zinn 1980, 153)

この呼びかけは、かつて技術、暴力、そして自信を用いて国民を作りあげたように、いまや「国際的なもの」を作り上げることを目指すようになりました。この未来への希望は、特にアメリカ人の文化の勢いを強めることによって伝えられました。この感情が伝えた「自由」の感覚は感染性であり、植民地化された場所を含むすべての空間にますます広がっていきました。そうする中で、インドの社会理論家、アシス・ナンディ(Ashis Nandy)が書いたように、それは世界中で「楽観主義の時期」を促進しました(Nandy 2003, 1)。興味深いことに、これだけ自由の考え方が祝福されたにもかかわらず、この文脈はひどい記憶喪失に苦しみました:ハイチ革命(1791–1804)の物語のことです。現代史における唯一成功した奴隷革命であり、黒人が国家を作り上げ、外交を行い、自由を実践するという強力な例は、新たに生れ出る物語から排除されました。

しかし、アメリカの楽観主義とそれが約束する将来は、科学による自然の征服が世界により多くのものを届けることを約束した時代に生まれました。アメリカの首席科学者ヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)は、自然科学のことを「無限のフロンティア」(Bush 1945)と呼びましたが、第二次世界大戦の最後の年月に、この言葉がどのように受け取られていたかを今日において過小評価することは困難です。

これをはっきりと表すように、典型的な科学の産物である原子爆弾が戦争を終結させました — 日本の天皇からの降伏の叫び声は、科学が日本人や世界の人々に何をもたらしたかについての異なる理解を予示していましたが。長崎に2度目の爆弾が投下された後、裕仁天皇は次の言葉とともに降伏しました。「私たちは、堪え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことを決意した。」

従来のIRの歴史によれば、政治と科学の両方が、それ自身で、あるいはともに作用することによって、世界中の人々の解放への切望を加速させ、それにより公式な植民地主義が終結しました。これは確かに名目上はそうですが、この自由の範囲は、再び、主権国家の枠内に収められました。もし自由が1945年以降のアメリカの影響を受けた世界の1つの次元であった場合、これは新しい世界の構築を管理することを目的とした一連の国際的な官僚機構によって補完されました。これらは、主権国家 — 新たに独立したものと確立したものの両方 — を、現代性によって強く要求され、社会統制の技術的ノウハウと手法を備える官僚的権威へと近づけました。作り上げられている途中の国際社会は、人類学者が「管理された共同体」と呼んでいるものになろうとしていました。この管理された共同体では、国家と個人の両方が、彼らの自由を祝福していたとしても、統制されているでしょう。

そのため、権利に基づく談話の中では断続的に隠蔽されていましたが、1945年以降の著名な多国間構造 — 国連とブレトンウッズ体制、すなわち国際通貨基金、世界銀行、関税と貿易に関する一般協定 — は、統制するための制度でした。この典型は国連安全保障理事会であり、そこでは中国、フランス、ロシア、英国、米国の5つの国に拒否権が帰属していました。既に恩恵を受けているグループの利益(あるいは種々の利益)に対する脅威を制御することを目的としたこの「無効化する力」は、致命的に不平等でまったく公平さを欠く国際構造の象徴として残っています。

学術的なIRにおいて、1945年以降の世界の再建は、「自由世界の指導者」として直面した課題に対して、米国がいかにして国際的なるものに対する欧州の「理解」を充足し適応したかについての物語です。証拠はこの説明を支持しています。少なくとも64人の第一世代の移住した学者(主としてドイツ出身)が、米国において政治科学とIRを教えました。IRの指導的な人物であったハンス・ケルゼン(Hans Kelsen)、ハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)、ジョン・ヘルツ(John Herz)、カール・ドイッチュ(Karl Deutsch)などを含めて、その半分以上が法律分野から来ました。彼らが伝えた世界のありよう — 文化、外交、法律 — は、本質的に白人、西洋人、男性のまま残りました。学問上のIRにおいて、非西欧は、最も重要な問題の2つ、すなわち脱植民地化と人種差別をその理論的懸念から排除することによって、意図的に沈黙させられました(Guilhot 2014)。ウィーン生まれの故スタンレー・ホフマン(Stanley Hoffman)が、IRは「アメリカの社会科学」(Hoffman 1977)であると宣言したのは、この遺産によってでした。

悲惨な、しかし本当に歴史的な、核兵器の出現は、確実にIRの内部に倫理的懸念を引き起こす疑問を提起しました。その中で最も重要なものは、既に私たちの道の前に現れています。人類はこの惑星を破壊するのでしょうか?しかし、この問題に関して事実と異なる質問、つまり重要であるべきだが決して尋ねられたり答えられたりすることのなかった質問とは、次のようなものです:米国は白人の西洋国に原爆を投下したでしょうか?IRの中心には、白人至上主義のイデオロギーがあり、まだ残っています。これは、ヨーロッパ人だけが — 問題点をはっきりさせるなら白人だけが — 歴史の「内側に」生きているという理解によって支えられています。アシス・ナンディ(Ashis Nandy)が論じたように、他のすべての人々はその「外側で生きている」(Nandy 2003, 83–109)のです。

南アフリカ戦争、第一次世界大戦を終結させた1919年のパリ講和会議、1945年の第二次世界大戦の終結という、これら3つの再建の瞬間が世界の再構築を表していたならば、冷戦の終結はどうなのでしょうか?冷戦の終結は、国際的なものについての本質と考え方についての大いに期待されていた根本的な再考というよりは、継続的なものであるということに疑う余地はありません。その瞬間は確かに新しい語彙によって印づけられていましたし、その中でグローバル化という言葉は新しい地平を約束しました。しかしながら、それは急速に新自由主義経済学の称揚とフランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)の言う「歴史の終わり」(Fukuyama 1989)によって特徴付けられた、「薄い」形の民主主義の暗号となりました。本質的にフクヤマは、自由民主主義と資本主義が他の社会制度よりも優れていることが証明されたと主張しました。冷戦終結を予言することに困惑するほど失敗したIR学者たちは、この理論に飛びつきました。IR理論家にとって、冷戦を特徴付ける二極性は、両方の超大国にとって安定したシステムでした。したがって彼らは、どちらの大国にも冷戦を終わらせようとする理由を見出しませんでした。彼らが想像していなかったのは、ソビエト経済の内部崩壊が、東欧において従属させられていた人々のいや増す反抗と相まって、ソビエト体制を中から崩壊させるということでした。これは、冷戦終結の前後にIR理論の批判的な転回が始まった理由の1つに過ぎず、IRは国家を超えて個人へと向かうようになりました。

しかしながら、この恥辱からそれほど経たずに、勝ち誇った態度への復帰がありました。ジョージ・H・W・ブッシュ(George H. W. Bush)米大統領は、冷戦に「西側が勝った」と宣言しましたが、それですら十分ではありませんでした。その前に横たわっていたのは、リアリスト思想の一人の信奉者が「文明の衝突」(Huntington 1993)と呼んだ新たな挑戦でした。私はここに一つの個人的な物語を挿入しましょう。1989年に冷戦終結の幕開けを象徴するイベント、ベルリンの壁が崩壊した直後に、私は世界の大きなシンクタンクの一つであるニューヨークにある外交関係評議会が開催した上級レベルのパネル会合に参加するよう招待されました。私の共同パネリストには、歴代のアメリカの政権の元メンバー、CIAの元長官、IRコミュニティの多くの学識者が含まれていました。いくつかの会合の過程で、イスラム教がアメリカの「グローバルな利益」に対する脅威として構築され、それが標的にされていることが私には明らかになりました。この種の思考は、イラクとアフガニスタンで連続した戦争を引き起こしたある種の知的泥沼と、IRがそのような「脅威」に不均衡に集中する危険な傾向とを作り出しました。世界がどのように作られているかに対して、これがどういう影響を持つかはまだ分かりません。

IR産業

IRの最近の歴史において、シンクタンクの登場よりも大きな影響を与えた学術的発展はありませんでした。これは確かに大胆な主張ですので、私の国で見られた物語でそれを説明しましょう。アパルトヘイトが終結した時期において、安全保障研究所(ISS : Institute for Security Studies)と呼ばれるシンクタンクの出現は、アパルトヘイト終了直後の希望を、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)大統領の高い理想主義から安全保障を中心とする社会へと転換しました。ここは、約1,000万人の子供(54%以上)が貧困の中で暮らしている国です。そのほかの場所では、他の人々が示しているように(Ahmad 2014参照)、シンクタンクは米国でイスラムに対する戦争を推し進め、英国のブレア政権が2003年にイラクへの侵略を熱心に支持するよう促すことに対して、重要な役割を果たし続けています(これについては、Abelson 2014を参照)。

IRの形成においてシンクタンクの人々を中立的かつ利害関係のない当事者として見るのではなく、私たちは彼らを真剣に受け止めなければなりません。ドイツ生まれの批判的思想家、ハンナ・アレント(Hannah Arendt)は、彼女の著書「暴力について」(Arendt 1970, 6)の中でこう述べています。

ここ数十年の間の、政府の評議会における科学的思考の専門家集団の威信が着実に増加していることよりも恐ろしいことは、ほとんどありません。問題は、彼らが「考えられないようなものを考える」ほど冷血であるということではなく、彼らは考えることをしないということです。

今どきの経済の言葉で言えば、シンクタンクの人々は「規範的な起業家」です。客観的な分析を提供すると主張しながら、その実、政治的であれ、経済的であれ、社会的であれ特定の議題を追求することに加担している、政策やその成果に関する何らかの立場の主唱者です。

シンクタンクの人々は、常に、IRのレパートリーを十分に教え込まれています。彼らはその語彙を習得し、その学問的な伝統に精通しています。これを利用して、シンクタンクの人々は、優勢なメタ・ナラティブを無批判に用いることにより、現在の流行の政策を宣伝することが奨励されています。例えば冷戦の間、西側のシンクタンクはその仕事の大部分で、ソビエト連邦(とその同盟国)によってもたらされる「脅威」を宣伝しました。その脅威は、リアリスト的思考の様々な派生物にも組み込まれていました。

私自身の巡礼の早い段階で、私はそのようなシンクタンクの1つ、南アフリカ国際問題研究所(SAIIA : South African Institute of International Affairs)に勤めました。その研究所は、現在では自らのことを、南アフリカで「最高の国際問題に関する研究機関です」と言っています。私がそこに勤めていたときには、そのような言葉を掲げることは決してありませんでした。それはもしかしたら、私がスタッフの中で2人だけの学術専門家のうちの1人だったからかもしれません。もう1人の専門家は、元南アフリカの外交官であった私の上司のジョン・バラット(John Barratt)でした。彼はIRを学んだことはありませんでしたが、まず南アフリカで歴史学の学位を取得した後、オックスフォードで近代史を専攻しました。私たちの仕事のための合い言葉は、「事実」と「客観性」でした — 自然科学を実践している人たちが行うように「真実」を追求することです。研究方法におけるこの見解では、知識とは中立なものであり、SAIIAの役割とは、公衆が自分たちで決断することができるように、国際問題におけるできるだけ多くの意見を提示することでした。これは、SAIIAが模範としたロンドンのチャタムハウスの「非政治的」精神の中にみられるものです。

1970年代の南アフリカでこの地位を維持するのは突拍子もないことでした。アパルトヘイト政府が内部の反対意見を押し切った結果、検閲は大学でさえも普及していました。例えば、亡命した集団の中で起こっていた南アフリカの解放に関する激しい議論へアクセスすることはできませんでした。もっと重大なこととして、この国の黒人コミュニティーは、SAIIAの経営と事務への発言権が一切ありませんでした。その一方、彼らはただお茶を淹れていたのです。1970年代には、私はしばしばこう考えていました:SAIIAの古典派様式の本部に集まった善き人々と偉大な人々の見解とは、アパルトヘイトの残酷な分裂の反対側にいる人たちは国際的なものについての想像力や、実際のところ経験を有さないというものだ、と。

ジョン・バラットは、私と同様このような状況に苛立つことが多く、私たちはこの分断をつなげるようないくつかの努力をしましたが、ほとんどは成功しませんでした。SAIIAのスポンサー企業がそのような努力をしたのかは不明です。私が知っていることは、多くの機会に白人のリベラルたち — と、さほどリベラルでない人たちが — が、眉を顰めるのに直面したことです。その人たちと言えば、他の独立した黒人国家に対する南アフリカの支援活動がアパルトヘイトの政策に適合しているかどうかや、あるいは制裁に直面する中でのこの白人国家の西側に向けた疑いのない忠誠について議論するために集まったような人たちです(Vale 1989)。

私たちはここで小休止して、ハンナ・アレントの懸念に戻る必要があります。誰がシンクタンクの仕事から利益を受けるのでしょうか?主として、その資金はビジネス部門につながっています。想定されることは、シンクタンクの活動(出版物、公衆への解説、会議)は、スポンサーの利益と現状維持を反映しているということです。確かに、私が働いていたときのSAIIAの控えめな傾向は、私自身を含む批判的学者たちが絶えず指摘しているように、1970年代の南アフリカのビジネスの利益を反映したものでした。この個人的な経験は4つのことを確証します。第1に、南アフリカでは確実に、しかしそのほかの場所でも同様に、この学問分野へのアクセスが限られた人に限定されていました。IRはエリート主義の追求でした。第2に、会話は特定の語彙によって制限されていました。確かに、彼らは深い疑問を尋ねるという意味で批判的ではなく、また、日常の忙しさの中で、自分たちが何をしているかを思案するにあたっても批判的ではありませんでした。第3に、特定のメタ・ナラティブ — 冷戦 — がすべての分析を枠付けました。第4に、しかし、ほとんどのシンクタンクは社会学者が「総合機関」と呼んできたものであり、窮屈な管理、厳格な監督、「型どおりの」専門的な振る舞いの規則を持つ機関です。数年後、私がロンドンの国際戦略研究所(IISS : International Institute for Strategic Studies)にある、より国際的なシンクタンクコミュニティーの研究協力者として過ごしたときに、これらの観察は裏付けられました。

冷戦が終わると、IRのメタ・ナラティブが変化しました。今日では、リベラルな改革の「優位性」のほぼ事前にパッケージ化された理解(ほとんどの場合、単に経済的緊縮策のための規約)が、現代のシンクタンクにとっての商売道具となっています。国内・国際の社会工学の手段としての新自由主義経済がますますこの学問分野の上を飛び回っていますが、安全保障と地政学はIRの政策目標の主たる要として残っています。実際、これらのものを一つに縫い合わせることは新しいことではありません。1973年9月のニクソン政権のチリへの介入が、(IRの界隈​​ではひどく見過ごされていますが)最も有名な例です。民主的に選出された政府に対するこのクーデターは、米国の20年にわたるこの国に対する直接関与の中頃で起こりました。冷戦における反共産主義に牽引された米国は、マルクス主義に傾倒しているサルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)政権を監視していくことに決めました。右翼による軍事クーデターの成功は、1975年以降力を強めた社会統制政策の先駆けであり、新自由主義経済政策に基づいていました。しかし、より最近の典型例では、グローバル化というユートピア的な見方の下で、「新自由主義的な企業買収は … アメリカの世界における中心性を主張している」という感覚があります(Buell 2000, 310)。

シンクタンクについて、さらに3つの点を述べておく必要があります。第1に、この学問分野が一般的な学術科目となっているため、より多くのIRの卒業生が仕事を得ており、シンクタンクは重要な雇用の場所となっていることです。実際、シンクタンクに基礎を持つ学術的な「産業」として、IRについて話すことも可能です。これは、第2の点に関連しており、シンクタンク、スポンサー、そして報道やソーシャルメディアとの間に三角関係が存在するということです。最後に、同じ文法と語彙で訓練された人々の相互作用は、しばしば集団的思考と閉じられた内部の人間のための用語を生み出します。閉鎖された、そしてしばしば自分たちで選抜した — 「専門家」と呼ばれる — 集団は、お互いに同じ考え方を繰り返すようにほとんどあらかじめ運命づけられており、この集団を超えて物事を見ることが不可能になります。これらの慣行のいったい何が、健全な政策的な成果に資するものでしょうか?ここでは、1980年代初めに始まり、その後10年にわたって下位分野のいくつかに広がったIRの「批判的転回」が、IRの将来とそれが作り出す世界とを理解する上で特に重要になってきます。批判理論の登場は、この学問分野の中に内在する理論と実践の聖域に、正当に疑問を呈する空間を開きました。これによって、私は確かに自分自身の思考について自己に言及することができ、南アフリカの安全保障理論と実践についての探求となる質問をたずねることができるようになりました(Vale 2003)。

すべての学問分野、そして生命と知識のすべての面におけるのと同様に、確実性の根源は絶えず疑問視されなければならず、批判的な視点はIRがそうするための場所を解放しました。私たちの職業生活、特にIRにおける絶え間ない挑戦とは、どの質問が知的に興味深いかを理解することと、それが本当に世界をより良い場所にするかとの間の空間をうまく処理することです。

会話、文章、技術

IRが作り出す世界の中で技術は重要です — 常にそうでしたし、これからも常にそうです。なぜなら技術は、私たちが世界を理解し説明するのを助け、それを形作るのにも役立つからです。中東やその他の地域の人々を殺しているドローンを開発するのに役立ったのと同じ種類の技術は、世界の遠隔地でより効果的な健康管理を提供することを可能にしました。今日では、技術は、学者や学生がどのように情報にアクセスし、どのようにして受容可能でプロフェッショナルな方法で情報が処理され公開されるかを、おそらく逆戻り不可能な形で変えたように思われます。なぜなら技術は、IRが作り出している世界の理解よりも速く変化しているからです。

技術はまた、IRのまさに「そのもの」を絶えず変化させます。例えば、IRとグローバル化の考え方との間の複雑でまだ解決されていない関係は、新たな技術が主権、秩序、権力、そして「国際的なもの」のまさにその考え方というこの学問分野の中心的な教義を侵食したという事実をIRが理解していないことの結果かもしれません。

技術は、IRの学問分野が自然科学の実践からたどり着くことを望んでいた、公平で客観的な真実を探求するという希望を、最終的に打ち砕いたのかもしれません。IRの学者は、技術(メディア、インターネット)がどこか遠い場所で死体が積み重なっていることを定期的に思い起こさせるとき、問題に対して客観的であるよう装うことができるのでしょうか?

IRが理解と合理性を提供することを約束しているにもかかわらず、技術は社会的、政治的および経済的レベルで概念的な亀裂を広げたように見えます。私がこれらの言葉を書いているとき、この秩序の侵食と、それに続く悩みには終わりがないように見えます。IRの忙しい窓口を大慌てでノックするような、技術によって生成された3つの問題を考えてみましょう。第1に、ジカ、エボラ、HIV/エイズなどのウイルスが広がっている際に、技術がこれを食い止めることができるかどうかというのは不変の問題です。第2に、技術によってイデオロギー的なメッセージを束にまとめることにより、イスラミック・ステート集団は大惨事を起こし続け、世界的に支持者を引きつけ続けています。最後に、世界的な金融システムは、ビットコイン — グローバルなレベルでお金が何であるか、そしてどのようになり得るかの技術による再考 — によって打ちのめされています。

国家、主権、国際制度の物語を語るIRの1つの伝統は、結末を迎えているのでしょうか?以前は、中心と周縁との間で手紙や指示がゆっくりと移動するため、国際的なものは遅くて穏やかでした。今日、国際的なものは瞬間的なプロセスになっています。国際的なものはビット、バイト、ブログで作られ、再製作されています。この学問分野は、さまざまな形式とオープンアクセスにより提供されるこの新しい知の方法に対応するように挑戦を受けています。この新しい知の方法は、本章の載っているこの本を作るものでもあり、それはIRの未来への投資です。

結論

この章の冒頭にあるエピグラム、英国メソジスト教会の聖職者W・L・ワトキンソン(W. L. Watkinson)の言葉に戻ることにより、IRの「成すこと」についての私の感想を締めくくります。それはアムネスティ・インターナショナルのモットーでもあります。タイトルの「交差点」という考えが、冒頭からなされたように、個人的、職業的、政治的なものが40年以上にわたる私のIRへのアプローチに織り込まれているという私の告白から来ているとすれば、タイトルのもう一つのイメージは、IRは、(特に批判的な態様では)しばしば非常に暗い場所へ光を当てるろうそくのようなものである、という信念を要約しています。

IRの学問分野につきまとう矛盾があります。IRが平和を語る際、その世界観の中心にある主権の原則は、厄介な(しばしば非常に暴力的な)社会的関係に直面します。本章では、これらの社会的関係を作り、そして作り直すにあたって汚染されていない場所などないことを示唆してきました。したがって、IRは妥協、譲歩または和解を避けて通ることはできません。しかしながら、この本を超えたところにある課題とは、私たちが教え込まれた全てのことにもかかわらず、IRはまだほとんど未踏の世界であるということを認識することです。それは無限の可能性と大きな希望の場所として残されています。

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