国際関係論 -第2章 外交-

Japanese translation of “International Relations” edited by Stephen McGlinchey

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第2章
外交
スティーブン・マグリンチー(STEPHEN McGLINCHEY)

前章で示したように、戦争は、公衆の注意を引き付ける焦点となり、人間の生活にはっきりとした痕跡を残し、私たちの世界を形作る要因となりす。一方、その重要性にもかかわらず、外交はあまり注目されません。軍事理論家カール・フォン・クラウセヴィッツ(Carl von Clausewitz)が1800年代初頭に、戦争とは異なる手段による政策の継続であると述べたとき、彼は現代政治における戦争の考え方を正常化しようとしていました。しかし、彼の言葉はまた、国家が目標を達成するのを助けるために、戦争に満たない行動も利用可能であることも示していました。それらは典型的には外交官の行動です。そして、彼らの仕事は戦争よりはるかに安く、はるかに効果的で、はるかに予測可能な戦略です。実際、戦争がありふれたものであった過去の数世紀とは異なり、今日において外交は、国際関係を支配する正常な状態として私たちが理解しているものです。さらに現代では、国民国家間だけでなく、欧州連合や国連などの非国家主体も外交を行っています。

外交とは何でしょうか?

外交は文明がある限りおそらくずっと存在してきました。外交を理解する最も簡単な方法として、それを2人または複数の当事者間の確立したコミュニケーションのシステムと見なすことから始めましょう。隣接する文明の間を移動する特使による定期的連絡の記録は、少なくとも2500年前に遡ります。それらには、大使館、国際法、専門的な外交部門など現代外交の特徴や共通点の多くが欠けていました。それでも、たとえどのように組織されていようとも政治的共同体というものは、通常は平時のコミュニケーションの方法を見出し、それを行うための幅広い慣習を確立してきたということは強調されるべきでしょう。外交が貿易、文化、富、知識を増進させる交流を促進できることを考えると、その利益は明らかです。

迅速な定義を求める人のために、外交とは、あるシステム(国際関係)内に存在し、平和的なやり方で彼らの目的を達成するための民間および公的対話(外交)に従事する主体(通常は国家を代表する外交官)の間のプロセス、として定義できます。

外交とは対外政策ではなく、対外政策とは区別されなければなりません。対外政策の一環として外交を捉えることが有益かもしれません。国民国家が対外政策を立てるとき、それは国家の利益のために行います。そして、それらの利益は、幅広い要因によって形成されます。基本的には、国家の対外政策には2つの重要な要素があります。国家の目標を達成するための行動と戦略です。ある国家と他の国家との相互作用は、その対外政策の行為とみなされます。この行為は通常、外交を通じた政府職員間の交流を介して行われます。外交なしで交流することは通常、国家の対外政策の行動を紛争(通常は戦争ですが、経済制裁を通じたものも含みます)またはスパイ活動に限定することになるでしょう。その意味で、外交は今日の国際的なシステムの中でうまく活動するために不可欠な道具です。

そのため、国家が優位性を占めるシステムという現代の状況では、私たちは当然に、外交のことを大部分は国家間で行われるものとみなすことができます。実際、外交を支配する適用可能な国際法(1961年の外交関係に関するウィーン条約)は、外交的主体として、国家にのみ言及しています。しかし、現代の国際制度には、国家ではない強力な主体も関与しています。これらは国際的な非政府組織( INGO : international non-governmental organisations)および国際的な政府機関(IGO : international governmental organisations)などであるでしょう。これらの主体は、外交の分野に定期的に参加し、しばしば実質的に成果を形作ります。例えば、この章の後半で強調されるケーススタディでは、国連と欧州連合(2つのIGO)が外交を実質的に形作っています。そして、グリーンピースのような一定の範囲のINGOは、国際的な環境交渉のような人類の健康と進歩に関連する重要な分野において、条約や協定に向けて有意義な進歩を推し進めています。

戦争は現代の生活の中ではどこでも存在するものであるため、この本の読者はある程度その概念に精通しているでしょうが、外交は遠く離れた、見慣れないものとして現れるかもしれません。一方では、これが外交とは何であり、それがどのように行われるかの結果です。外交とは最も多くの場合、通常は閉ざされた扉の後ろで国家の代表者または非国家主体が行う行為です。このような場合、外交とは、一般の外交官や代表者が実行する日常的な(しばしば非常に複雑な)形式で働く静かなプロセスです。おそらくこれは、初心者のために外交に光を当てる最良の場所ではありません。他方では、公衆に対して、ブリーフィングや声明、あるいはまれに外交問題の全面的な開示が提示されることもあります。もしそれらが国際的に重要な問題に関わり、高官が関与している時には、これらが公衆に意識されることがよくあります。それらは報道の見出しに現れ、歴史書に収められているため、この章の中ではこのタイプの外交の例を、よりとっつきやすいアクセスポイントを提供するものとして使用します。

読者が外交とは何であるかと、なぜそれが重要であるかを理解できるように、この章では2つの相互に関連するケーススタディを使用します。最初のケーススタディは、核兵器の拡散を管理するための探求を含みます。20世紀後半は、核兵器を持つ超大国であるアメリカ(US)と、しばしばソビエト連邦と呼ばれるソビエト社会主義共和国連邦(USSR)の間の紛争によって支配されるようになりました。この緊張した情勢では、外交は、核兵器を開発する他の国民国家がほとんど現れないことを確実にしました。したがって、核兵器の拡散を抑制する外交的成功は重要なものであり、それは国民国家の主体とともに非国家の主体をも巻き込んだものです。第2のケーススタディは、米国とイランの関係です。この事例は、第二次世界大戦の終結から現在に至るまでの重要な数十年にまたがります。時代が変わるにつれて、国際関係の構造も変化し、しばしば両国間の外交パターンに実質的なシフトを引き起こしました。この関係を見ることにより、2つの中心となる国家間のハイレベル外交の重要性を示すだけでなく、国際的な政府組織であるEUの重要性を検討することも可能になります。2つのケーススタディは、完全に敵対しており、両立不可能な経済的、政治的、または宗教的システムのために共通点がほとんどなかった2つの国の間の外交を垣間見ることができるように選択されました。しかし彼らは外交を通して、戦争を避け、最も重要な分野で進展を達成する方法を見つけることができたのです。

核兵器の規制

1945年8月、米国が日本で初めて原子爆弾を使用した後、世界は変容しました。米国が長崎と広島に投下した2つの爆弾により引き起こされた完全な荒廃の報告と写真は、戦争の本質が永遠に変わったことを確証しました。ある記者は、以下のようにこの場面を説明しています。

原子爆弾による被害は、私がこれまでに見たことのある、いかなるものとも比較することができない。爆弾が破壊された建物や骨組みを残すのに対し、原子爆弾は何も残さない。

(Hoffman 1945)

米国が最初に核爆弾の爆発に成功した国でしたが、他の国々もこの技術を研究していました。爆弾の爆発に成功した第2の国家は、ソビエト連邦(1949年)でした。英国(1952年)、フランス(1960年)、中国(1964年)も続きました。核兵器保有国の数が1から5に増えたことで、これらの危険な兵器が制御不能なまでに他の多くの国々に蔓延するという真の懸念がありました。

拡散は数字の問題だけではありませんでした。核兵器が日本へ落とされたものから洗練されたものに発展するにつれて、それらは桁違いなまでに破壊的になり、人類全体に重大な脅威をもたらしました。1960年代初頭までに、爆発地点から何百キロも越えて荒廃を引き起こすことのできる核兵器が製造されました。冷戦として知られている競争システムに縛られていた米国とソ連は、それぞれが保有する爆弾の量と質の面で互いに競争しているようでした。両陣営の核兵器の存在によって、両者の間の伝統的な戦争はほとんど思い描くことができなくなったものとして、冷戦が捉えられていました。もし何らかの形で彼らが直接的な紛争に巻き込まれるならば、彼らはそれぞれ相手を完全に破壊し、そうすることで人間文明全体を危険にさらす力を持っていました。

奇妙に見えるかもしれませんが、その攻撃力にもかかわらず、核兵器は主に防御手段として保有されており、使用される可能性はこれまで低いままでした。これは抑止力として知られている概念によるものです。相手を消し去ることができる武器を握ることによって、その相手はあなたを攻撃することはありそうになくなります。特に、あなたの武器が相手の攻撃を切り抜けて、報復することができるならばなおさらです。冷戦のように安全でない環境では、核兵器を得ることは抑止力と、それ以外の方法では達成できない安全保障の手段とを達成する方法でした。これは明らかに国家にとって魅力的な選択肢でした。このような理由から、冷戦時代には、核兵器に関する穏健化の国際的な体制を作り出すという希望は無駄のように見えました。

瀬戸際に行き、そして戻った

国際外交に焦点を当て、より安全な世界を創出するために1945年に創設された国連(UN)は、1940年代後半に核兵器を禁止しようとしましたが無駄に終わりました。この失敗に続き、一連のより制限的でない目標が促進されました。最も顕著なものは、核兵器の実験を規制することでした。開発中の武器は爆発実験を必要とし、それぞれの実験は大気中に大量の放射性物質を放出し、生態系と人間の健康を危険にさらしていました。

1950年代後半までに、国連の枠組みの下でのハイレベル外交では、米国とソ連の核実験の一時的猶予(または一時停止)を確立することに成功しました。しかし、1961年までに、両国間の不信感と緊張感が高まり、実験が再開されました。1年後の1962年、ソ連が米国の南海岸から150キロ圏内のカリブ海にある小さな島嶼国であるキューバに核弾頭を置こうとした時、現在ではキューバのミサイル危機と呼ばれている核戦争の瀬戸際に世界は直面しました。キューバの指導者フィデル・カストロ(Fidel Castro)は、1961年に米国が支援した反カストロ勢力の侵攻に続く米国のキューバ政治への干渉を阻止するように、この武器を要求していました。ソビエト首相ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)はこう述べています。「最も強力な2つの国がお互いに対して身構えていて、ボタンの上に指をおいている。」(Khrushchev 1962)互いを瀬戸際まで押しやった後、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)米国大統領とフルシチョフは、外交を通じて、相手国の基本的な安全保障の要求を満たす妥協案に同意できることを見出しました。一連の交渉を通じて、米国がトルコとイタリアに配備したミサイルを取り除く見返りに、ソ連のミサイルがキューバから撤去されました。二国間の競争のために両国がお互いを完全に信頼することができなかったため、この外交は、独立して履行をチェックする国連による検証の原則に基づき(そして成功し)ました。

キューバに関する即時の危機が解消された後も、ハイレベル外交が続きました。いずれの国も、このようなコミュニケーションの劇的な崩壊が再び起こることを望んでいなかったので、モスクワのクレムリンとワシントンのペンタゴンとをつなぐ直通のホットラインが確立されました。さらに勢いを増して、1963年7月には核実験を地下の場所に限定した部分的核実験禁止条約が合意されました。それは完璧な解決策ではありませんでしたが、進歩でした。そして、このケースでは、それは緊張した状態を解消したいと思っていた2つの超大国の指導者たちによって推進されたものでした。

核兵器を規制する早期の動きは成功と失敗の混ざったものだったにもかかわらず、ケネディとフルシチョフが持つ外交を構築するという信念は、冷戦の過程で中枢にあり、合意を形成する分野を見出すためのさらなる進展を促しました。キューバのミサイル危機に続く時期には、冷戦時代の外交は、超大国間の「デタント」の期間として知られるようになった中で高水準の領域に入り、彼らは主要な武器の制限条約を含む様々な問題で外交的に取り組もうとしました。そのような中で、核拡散についても進展がみられました。

核拡散防止条約

初期の進展を踏まえて、1970年代は、核拡散防止条約(NPT : Non-Proliferation Treaty)として知られている核兵器の不拡散に関する条約(1970年)が発効することで幕を開けました。この条約は、原子力技術を民間用途に移行させるとともに、さらなる核兵器拡散が国際社会に与える不安定な影響を認識することを目的としていました。それは外交の勝利でした。この条約の特徴は、当時の国際政治の現実を認識していたことでした。大国は、自国の安全保障が弱まることを恐れて、核兵器を単に放棄することはしなかったため、これは軍縮条約ではありませんでした。核拡散防止条約は、核兵器廃絶という不可能な目標を追求するのではなく、既に核兵器を保有していた米国、ソ連、英国、フランスおよび中国という5カ国に、保有国を凍結することを目指していました。同時に、これらの5カ国は、民間の原子力エネルギーのような非軍事的核技術を他の国々と共有し、それらの国々が核兵器の探求に誘惑されないようにすることを奨励されました。一言で言えば、核兵器を持っていた国はそれを保つことができます。核兵器を持たない国は、既存の核保有国の非軍事的研究と革新の恩恵を受けることが許されるでしょう。

条約とその施行についての十分に考慮された設計のために、それは非常に成功したものとみなされてきました。冷戦終結後、1995年には核拡散防止条約が永久に延長されました。核兵器保有国の数を5にとどめることはできませんでしたが、その数は依然として10未満です。この数は、条約が1970年に発効する前に、大西洋の両側の外交官によって予想された20以上というものからは離れた数字です。ブラジルや南アフリカなどの初期の核兵器プログラムを持っていた国々は、条約への参加という国際的な圧力のためにそれらを諦めました。今日では、限られた数の国家だけがその範囲外にいます。インド、パキスタン、イスラエルは決して加盟しませんでした。なぜなら、彼らは、(それぞれの場合において議論の余地がありますが、)国家安全保障の優先事項であるために、核兵器への野望をあきらめる準備ができていなかったからです。2003年に、北朝鮮が以前の核兵器開発の計画を再始動することを決めたとき、彼らは核拡散防止条約を破るのではなく脱退しました。これは、核拡散防止条約の重要性を強調しています。現在のところ、北朝鮮は、核拡散防止条約を脱退した唯一の国です。

国際的な意志に反する北朝鮮の核兵器拡散の追求に最もよくあらわされているように、核不拡散体制はもちろん完璧ではありません。いくつかの国は核兵器を最初に開発したために核兵器を保有することが許されており、それらの国の行動にかかわらずこの状況は続いているため、核不拡散体制は内在する偏見を持ったシステムでもあります。しかし、人類は核兵器という究極の武器を開発してきたものの、その広がりを緩和する上で外交はなんとか優勢になっています。イランのように、ある国が核爆弾を開発しようとしていると噂されたとき、国際社会の反応は常に共通の警戒警報となります。IRでは、普遍的になっている考え方のことを「規範」と呼びます。数十年にわたる巧妙な外交のために、不拡散は私たちの国際制度を支える中心的な規範の1つとなっています。

米国とイラン

第二次世界大戦が終わると、イランは自分たちが地政学的に不安定な場所に置かれていることに気づきました。イランは北にソ連との長い国境を共有し、その結果としてソ連の中東進出への地理的緩衝地としての役割を果たしました。ペルシャ湾として知られている、イランのより広い土地は、知られている中で世界最大の石油の油田を含む地域でした。石油の安定供給は、西洋経済を支えるために不可欠でした。そのため、時間、場所、政治、経済の偶然が、ほとんどの点で脆弱な未開発のこの国家を重要なものであると決定しました。シャーとして知られているイランの王が強力な左派政権により脇に追いやられていることに気づいたとき、米国は英国と結託して、1953年に秘密のクーデターで彼を復活させるように共謀しました。冷戦の間、米国は、いくつかの国家における左派政治の進展が、共産主義革命及び/又は共産主義のソビエト連邦との同盟をもたらすであろうことを恐れていました。したがって、いくつかの場合には、米国は共産主義を広めることを妨げるために、介入的な行動をとりました。クーデターは米国・イランの歴史の重要点でした。シャーは不安定な地域で米国の忠実な同盟国となったため、その後25年間続く緊密な関係のパターンを確立しました。この不安定さは、米国とソ連の間の冷戦の地政学的対立によるものだけではありませんでした。脱植民地化によって引き起こされた一連の危機と、その結果生じたアラブ・ナショナリズム、イスラエルの創設への地域的な反対、そしてインドとパキスタンの間で進行中の大規模な紛争という現象に、より広い地域が巻き込まれました。それから現在まで、ここは世界で非常に不安定な地域です。

イランは、その内部の形態や特質の表現が異なっていたとしても、国際的により大きな地位に、あるいは少なくとも地域的に優位に立つことを常に切望してきた国家でした。例えば、シャーの独裁政権は1979年の革命によって政権が打倒され、イランイスラム共和国が創設されましたが、彼は中東の主要国家としてのイランの壮大なデザインを胸に抱いていました。このビジョンは、シャーの支配下で、核兵器ではないものの高度な兵器でイランを武装化した米国によって共有されていました。米国はシャーを支持することにより、地域の安定を助けるためのイランの権力を拡大し、深化させることができると期待していました。今日のイランは、シャーの時代のイランと同じ国境内に存在し、同じ国民の国家であるという意味ではあまり違いはありません。しかしながら、重要な注意点は、イランイスラム共和国が心に描く役割は、アメリカ政治のあらゆる側面に深く敵対しているのに対し、イランがシャーの下で演じていた地域的および世界的役割はアメリカの欲望にほぼ沿っていたということです。それゆえ、米国とイランの関係は、その歴史と両国の経験した多岐にわたる道のりのため、洞察と策謀で満たされています。

イランの人質危機

米国とイランのケーススタディを外交の問題に関連付けるためには、イランイスラム共和国の誕生をはるかに飛び越える必要はなく、イランの人質危機として知られるエピソードに目を向けることで十分です。1979年11月、イランの学生たちがイランの首都テヘランにある米国大使館に侵入し、そこで見つかった人員を捕まえました。これは、追放されていたシャーが癌治療のためにニューヨークに居を構えた後に発生しました。抗議者たちは、政治的反体制派の拷問などの彼の政権が犯した様々な犯罪の裁判を受けさせるために、彼の帰国を要求しました。そのため、大部分は米国の外交官である捕らえられた人たちは、交渉の材料として人質とされ、彼らの自由はシャーの帰還と引き換えであると申し渡されました。かつて亡命していた反シャーの聖職者ルホラ・ホメイニ(Ruhollah Khomeini)師が率いるイランの新政権が公式に人質をとることを認めた時、米国とイランは未知の領域に乗り出しました。

確立された外交慣習のために、大使館は外国の土地に建てられているものの、許可が与えられていない限り受入国の人間が入ることは禁じられています。だから、イランの抗議者たちがテヘラン駐在の米国大使館に侵入したとき、彼らは外交官が自由に仕事をすることを可能にするために何世紀にもわたって発展してきた外交の重要な特徴に違反しました。WikiLeaksの設立者であるジュリアン・アサンジ(Julian Assange)は、ロンドンの無味乾燥な外見のテラスを持つ家に住むことにより英国警察の逮捕を避けることができました。その家はエクアドル大使館であり、警察は入ることを拒否されました。奇妙なことに聞こえるかもしれませんが、警察官は、アサンジが立ち去ることを決めた場合にアサンジを逮捕できるよう待ち構えるため、ドアの外に駐留していました。この事業は、英国の納税者に何百万ポンドもの費用を負担させています。そのような外交習慣が国々によって非常に高く評価されており、たとえ国々の間に争いがあるときでさえ、これに対する変化がほとんどないことは、アサンジの例から明らかです。

イランの場合、確立された外交原則に対する無視は、衝撃的で極端なものでした。それは確立された外交原則に違反しただけでなく、国家による人質奪取はジュネーブ条約のもとで戦争犯罪と定義されています。予想通り、米国はイランの要求を拒否し、人質の危機は444日間続く緊張した外交上の膠着状態になりました。それはイランを国際的なのけ者に変えました。国際システムのルールだけでなく、ニュースカメラの前で拘束されて猿ぐつわをかまされた人質を見せびらかすという人間の品性に対する無視に、世界的な怒りが沸き起こりました。また、それはイランが、シャーの時代にとっていた親アメリカのスタンスとは正反対の、新たな反西洋政治への道をとることを告げました。1981年1月に人質が最終的に解放されたにもかかわらず、かつて親しかった国は敵になりました。この危機のあと、核拡散の問題が30年後に彼らを同じテーブルに座らせるまで、米国とイランの直接の外交関係はすべて中断されました。

核を持つイラン

イランが核兵器を保有しているという考えは、明らかに議論の余地があります。イランが国際法や慣習を無視していることは、人質危機によって証明され、テロリストや過激派を支持しているという度重なる告発により強められており、これに対して国際社会は不信感を募らせています。イランが兵器化の兆しを見せる現代的な核計画の開発を開始したというニュースが流出した2002年以来、イランの核の野望に関するニュースは、国際的な外交上の主要な焦点でした(Sinha and Beachy 2015 および Patrikarakos 2012を参照)。これは、イランが核拡散防止条約加盟国であり核兵器の受領も開発もしてはならないという事実にもかかわらずでした。イランは、そのプログラムは民間利用や平和目的のためだけだと抗議しました。しかしながら、イランの国際的な立場のために、これはほとんど信じられませんでした。米国が9/11のテロ攻撃の後に「テロリズムに対するグローバルな戦争」を宣言したばかりであることを考えると、緊張した時期でした。

2002年に米国は、核問題に関してイランとの外交のための意欲を持っていませんでした。米国はすでに2001年後半にアフガニスタンに侵攻しており、2003年初頭にはイラクに侵攻する準備を進めていましたが、これは9/11の攻撃を準備したアル・カイダなどの国境を越えたテロ組織に安全地帯を提供する可能性のある政権を中東から排除するキャンペーンの一環でした。米国はまた、より大きな目標を持っていました。アメリカが世界の主要なテロ支援国とみなすイランにおける政権交代を確実にすることです。その論理は、世界の主要テロリストをターゲットにしなければ、テロとの戦いは無意味であるというものでした。これは、イランの近隣諸国への侵攻を通じてアメリカの力を実証することにより行われます。アフガニスタンはイランの東側に接し、イラクはイランの西側で国境を接していることに注目してください。これにより、イランの指導者に対して自発的に改革するよう国内からの圧力をかけることになるかもしれません。それは別の革命を扇動するかもしれませんでした。それが失敗した場合、米国は、イラクとアフガニスタンに対してしたように、軍事手段を用いて核研究施設を破壊し、場合によっては政権交代を成し遂げるために、イランと何らかの形で関わっていく準備ができていました。これは、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領がイランとの関係に関して繰り返し述べている「すべての選択肢がテーブルに載っている」という言葉によって最も良く表現されており、より詳細な文言では、公式政府文書からの次の文章で概説されています。

イランの政権はテロリズムを後押ししており、イスラエルを脅かし、中東の平和を妨害しようとし、イラクの民主主義を混乱させ、自由のための自国民の願望を否定している。核問題とその他の懸念は、イラン政権がこれらの政策を変え、政治体制を開放し、国民の自由を確保するという戦略的決定を下した場合にのみ、最終的に解決することができる。これが米国の政策の最終目標である。その間の期間に、私たちは彼らの悪い行為の悪影響から国家と経済の安全保障を保護するために必要な措置を引き続き講じる。

(The National Security Strategy of the United States of America 2006, 20)

そのような状況では、外交は成功の見込みがないようでした。しかしながら、欧州連合(EU)という予期しない参加者が争いに加わりました。2003年には、英国、ドイツ、フランスのEU3カ国が、この状況に対して戦争を防ぎ、仲介を導入することを試みるため、イランとのハイレベル外交を開始しました。この会談は、上述のような目標を有していたため、会談に参加することを拒否した米国によって拒絶されました。欧州諸国にとって外交は追求する価値がありました。英国、フランス、ドイツは米国の伝統的な同盟国であったにもかかわらず、ヨーロッパには中東におけるさらなる戦争のための意欲がありませんでした。イラク戦争は、戦争を遂行することを拒否した国連を含む多くの国がその理由づけを受け入れていないことから、議論を呼ぶものでした。2003年のイラク侵攻は、ヨーロッパを政治的に分裂させ、大衆の抗議を引き起こしました。この文脈では、イランに対する関与は大胆な外交の動きでした。それは実質的には、世界の唯一の超大国が最も好戦的だったときに、その進路に入り込むようなものでした。会談は当初は決定的なものではありませんでしたが、少なくともイランを外交に関与させ、核計画を停滞させ、対立以外の解決への道のりの提示に成功しました。

侵攻に続く数年間で、イラクとアフガニスタンでの軍事作戦は、両国が(異なる理由で)不安定に陥り、深刻な問題となりました。これは計画されていたよりも長期的かつ、より実質的な軍事的駐留を米国に要求しました。その結果、米国は泥沼にはまり、イランに対する軍事戦略を現実的に追求する立場にはありませんでした。このため、米国はしぶしぶではありますが2006年にEUイラン首脳会談に加わりました。中国とロシアも参加し、それは真に国際的な外交関係になっていきました。それは10年近くかかりましたが、参加者たちは2015年7月に最終的に合意に至りました。この合意は外交の驚異です。米国とイランの間の何十年もの間の不信を特徴とする相反する立場について、両国が受け入れられる妥協が見出されるまで、多くの外交交渉であらゆるレベルの外交官によって苦労して取り組まれました。

外交官間の個人的な関係も交渉の年月の間に構築され、これらは国家の敵対を超越する助けとなりました。ウェンディ・シャーマン(Wendy Sherman)米国主席交渉官は、イラン当局の彼女の交渉相手であるアッバス・アラグチ(Abbas Araghchi)とともに、この交渉の期間中に祖母と祖父となり、彼らの孫のビデオをお互いにどのように共有したかを覚えています。このような個人的な関係は、どちらの側でも事前に設定された国益を損なったり変更したりすることはありませんが、それらは、両者が疲れをものともせずに働き、重大なパラメータに合意できるまであきらめないという決意をどちらの側でも支えてくれました。同様の個人的関係は、交渉の最終段階でウィーンでの激しい議論に17日間も拘束されたとき、最高レベルの関係者間でも生じました。シャーマン氏はその後、最終日にすべての外交官が集まった場でジョン・ケリー(John Kerry)米国務長官が両当事者に演説した場面を説明しました。

ケリー長官が最後に話しました。彼は21歳のときにベトナム戦争に赴いたと述べました。彼は、決して、もう二度と戦争を起こさないことを確実にするために、自分の人生の中でできることを何でもすると誓いました。部屋は完全に静止していました。沈黙がありました。そして、イラン人を含む誰もが拍手喝采しました。なぜなら私たちがやってきたことは、戦争ではなく平和を保障しようとしていることを、私たちの全員が理解していたからです。

(Sherman 2016)

キューバミサイル危機の解決と同様に、合意を強調する外交戦略の成功の鍵は、信頼を確立するという不可能と思われる目標ではなく、検証に重点を置くことでした。外交官は、解決が可能な1つの領域で努力し、双方にとって受け入れられる方法を見つけました。イランにとっては、これは明らかに、米国が主導した懲罰的経済制裁の段階的除去と、直接の軍事的脅威の暗黙の除去を含むものでした。アメリカにとっては、この取引は、イランが容易に核兵器開発をしないことを保証するために、イランを厳格な検証制度のもとに置くものでした。もしアメリカがこれを行うことができたならば、イランの兵器が使用可能になる前に国際社会が対応できるような時間を得ることができるでしょう。これは「ブレークアウト」期間として知られています(Broad and Peçanha 2015を参照)。このようなことは、イランが合意したイランの施設に対する厳格な国際査察という前例のないシステムを介してのみ可能です。

米国とイランの核問題の解決は、2003年の緊張した時期に外交プロセスを開始する3つのEU加盟国の大胆な動きなしには不可能だったでしょう。イランと米国の深刻な対立が回避されただけでなく、イランの核拡散防止条約への取り組みを確保することで、国際関係の中心となった重要な核不拡散原則が支持されました。イランの核取引は、大きな不確実性に直面した際の外交的成功の明確な例ではあるものの、論争を呼ぶものであり、脆弱でもあります。米国とイランでは、この先何年にもわたってそれを崩壊させる可能性のある複数の政治的変化を乗り越える必要がありますし、それは互いに不信感を持ち続ける国家間の敵対心を排除するものではありません。しかしながら、後から振り返れば、それは1979年の人質危機に始まった関係の有害なパターンを徐々に置き換える可能性のある、両国間の和解の道を開くものと見ることができるかもしれません。米国とイランが対立の道を再開したとしても、重要な時期に中東で核兵器が拡大するのを防ぎ、主要な戦争になるかもしれないものに対して代替案を提示したという、この件に関する外交の勝利を奪うことはありません。

結論

現代における外交、すなわち1945年以降の主要な戦争の不在のために時に「長い平和」(Gaddis 1989)と呼ばれる時代における外交は、複雑さが深まり、広がっています。今日では、国家間の戦争の直前の行動や戦争に応じた行動を外交の記述の基盤とすることは賢明ではありません。今日の外交とは、私たちの長い平和の期間を存続させ、私たちが住んでいる世界ができるだけ個人や国家の進歩の助けになることを確実にするために不可欠なものです。今日の世界はこれまで以上に相互に関連し、互いに依存しており、気候変動、パンデミック、国境を越えたテロリズム、核拡散などの、解決されずに放っておかれれば私たちの破滅の元になるかもしれない、増え続ける共通の課題のリストの中を人類がうまく切り抜けるようにするためには、効果的で巧みな外交が不可欠です。そのため、あなたは外交努力に携わっている多くの人たちの名前を知らないかもしれないし、メディアに登場する彼らの困難な仕事の多くを見ることもないかもしれませんが、彼らの仕事はこれまで以上に私たち全員にとって重要なものなのです。

この訳文は元の本のCreative Commons BY-NC 4.0ライセンスに従って同ライセンスにて公開します。 問題がありましたら、可能な限り早く対応いたしますので、ご連絡ください。また、誤訳・不適切な表現等ありましたらご指摘ください。

--

--

Better Late Than Never

オープン教育リソース(OER : Open Educational Resources)の教科書と、その他の教育資料の翻訳を公開しています。