国際関係論の理論 -第12章 グローバルな正義-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
16 min readJun 25, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第12章 グローバルな正義
アリックス・ディーツェル(ALIX DIETZEL)

グローバルな正義は、コスモポリタニズムの広い学派の中に存在する理論です。コスモポリタニズムは、国家、共同体、文化とは対照的に、個人の重要性に焦点を当てるものです。コスモポリタンは、すべての人間が等しい道徳的価値を持ち、したがって等しい道徳的配慮の権利を持つと信じるため、個人を出発点として捉えています。この意味では、たとえコスモポリタンたちの中で、個人が等しい道徳的関心事の対象であることを確実にする方法に同意がなくても、それらの異なるアプローチの焦点は、個人の価値に置かれています。正義の理論は伝統的に、国家の範囲に限定され、政治的(国際的ではない)理論の領域に含まれていますが、この個人の道徳的重要性に焦点を当てることは、正義の理論に対して批判的に関わるようにコスモポリタンの学者たちを導いています。この努力は、国籍や地位にかかわらず、地球上のすべての個人にとって公正な人生をいかにして最善に確保するかという問題を調査しようとするグローバルな正義の理論につながっています。

グローバルな正義の基礎

正義は、その核心では、誰が何に値するのか、それはなぜかに関心を持っています。現代のグローバルな正義の研究者は、彼らのコスモポリタン的な出自に忠実に、出生の場所に関係なく個人の道徳的価値に関心を持つとともに、個人がまだ道徳的に等しいものとして扱われていない、または道徳的な焦点が伝統的に国家にあるようなグローバルな共存の問題に焦点を当てます。そのような問題に取り組むために、グローバルな正義の研究者は、通常、世界中の個人がどのような価値があるのかと、これらの権利の分配がどのように達成できるかに焦点を当てています。これらのタイプの質問に対する回答は、どの問題に対処するかによって大きく異なります。

ジョン・ロールズ(John Rawls)の正義論は、政治的構造(典型的には国家)が、法律を制定し、税金を引き上げ、公共支出を分配する権限のために、誰が何に値するのか、それはなぜかを判断できるという理論を打ち出しました(Rawls 1971)。したがって、そのような構造は、すべての市民の権利と義務の公正な分配を確実にするために慎重に構築されるべきです。そのため、ロールズの考え方は分配的正義のうちの1つでした。ロールズは、すべての富が平等に共有されている共産主義を支持していたのではなく、(理由が何であれ)恵まれていない人々が少なくともまともな人生を送ることができるように、不平等が緩和されている社会を支持していました。ロールズは、そのような構造が民主化社会、あるいは別の言葉で言えば、特定のタイプの国家内にしか存在しえないと理論化しました。したがってロールズの正義の説明は、公正な人間的存在は、そのような国家の中で暮らすに足るほど幸運な人間にとってしか存在しない可能性を述べています — しかし、彼の理論は、グローバルな分配的正義の正式な構造が存在しないため、国際的に適用されるようには設計されていませんでした。

コスモポリタンな研究者は、ロールズの国家中心の正義へのアプローチの問題を取り上げ、国家との関連性にかかわらず、正義の問題にすべての人間を含める必要があると主張します。例えば、チャールズ・ベイツ(Charles Beitz)は、現代のグローバルな時代において正義の問題を国レベルに限定することは道徳的に不適切であると主張しています(Beitz 1975)。なぜなら、私たちは現在、税金の徴収や法律の制定など、国家の基本的な機能の一部を実行することができるグローバルな機関を持っているからです。トマス・ポッゲ(Thomas Pogge)は、個人間のグローバルな不平等が、そのような不平等に効果的に対応できるグローバルな正義へのアプローチを必要としていると強調します(Pogge 1989)。これらの学者は、さまざまな形で議論を展開していますが、どちらも、グローバルなレベルへと正義の範囲を拡大することを提唱しています。これらのタイプの議論が、「グローバルな正義」という用語の生まれてきた場所であり、それがIRの理論として出現するための基盤を提供します。

グローバルな貧困について議論するとき、トマス・ポッゲとジリアン・ブロック(Gillian Brock)は、貧困緩和は富裕な個人と貧困な個人との間の富と資源の再配分に焦点を当てるべきだと主張します(Pogge 2001, Brock 2010)。人道的介入を分析する際に、メアリー・カルドー(Mary Kaldor)やダニエル・アーチブージ(Daniele Archibugi)などの学者は、個人は国家中心の非介入の法よりも優先されなければならないと論証します(Kaldor 2010, Archibugi 2004)。さらに、ギャレット・ブラウン(Garrett Brown)などの学者は、グローバル・ヘルスの問題を分析し、個人の健康はグローバルな構造によって決定されると主張して改革を要請します(Brown 2012)。現代のグローバルな正義の研究者は、ジェンダーの不平等、移民と難民、戦争と気候変動といった多様な問題に焦点を当てています。これは、誰が何に値するのか、それはなぜかという問題は、幅広い話題をカバーしており、その大部分は現代の国際関係の問題であることを含意しています。これがグローバルな正義の学問分野がIRと非常に関連している理由です。なぜなら、グローバルな正義の研究者は、グローバルな共存によって引き起こされる根本的な問題を分析し、評価することに関心を持つためです。この意味で、グローバルな規模の問題が存在する限り、それは現代的な理論であり続けます。

グローバルな正義の研究者は、通常、グローバルな問題を探求する際には、個人が道徳的な関心の中心的な単位でなければならないと主張していますが、これらの学者は、個人が等しい道徳的関心の対象であることを確実にするために、しばしば異なる目標を優先することがあると指摘しておくことが重要です。例えば、研究者の中には人権を重視するものもいれば、機関が公平に運営される(手続き的正義と称される)ことの重要性を論じるものもいれば、人間の能力の重要性を強調するものもいれば、公正なグローバルな社会プロセスに関心を持つ人もいます。グローバルな正義を研究する際には、この多様性を念頭に置いておくことが重要です。どの2人の研究者もまったく同じ目的を持っていることはなく、これはこの分野内の考え方の健全な多様性を意味しています。これは、気候変動の問題に対する公正な対応がいかにして達成できるかについて、人々がさまざまな考え方を持っているような気候の正義などのより狭い主題の中でも当てはまります。

地球上のすべての人間をより良く扱うアプローチは人気がある、あるいは論理的であるとあなたは当然に考えるかもしれませんが、グローバルな正義はいくつかの注目すべき批判を引き付けています。デイヴィッド・ミラー(David Miller)は、コスモポリタンのグローバルな正義よりも国の境界のほうが重要であると主張します(Miller 2007)。ミラーは、正義の原則に合意することは、共通の歴史と文化を必要とし、グローバルな原則を定義することは、何が「良い」または「正しい」のかという概念の国による違いのために不可能であると考えています。トマス・ネーゲル(Thomas Nagel)とマイケル・ブレイク(Michael Blake)はどちらも、強力でグローバルな機関の支援なしには、グローバルな正義は達成できないと主張しています(Nagel 2005, Blake 2001)。しかしながら、個人や国家を超える力を持つグローバルな機関は、(まだ)存在せず、正義のグローバルな原則についての議論を無益なものとしています。最後に、アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)は、コスモポリタニズムを、それが有すると主張するグローバルな魅力を持たない西洋中心の理論と見なしています(Young 2011)。結局のところ、グローバルな正義は個人の重要性に基づいており、しばしば人権やその他のリベラルな規範に訴えかけますが、それらの規範はある人たちにとっては西洋の理想であり、普遍的なものではないと認識されています。これらの批判は、グローバルな正義の重要性を払拭するものではありません。IRのすべての理論のように、その批判に答えることによって、その理論的発展は促進されます。

グローバルな正義と気候変動

気候変動は、世界中の主体が集まり、前進する方法に同意することを必要とします。気温が上昇し続け、グローバルな対応が科学者の推奨するものに比べて遅れているため、グローバルな正義の研究者は、気候変動とそのグローバルな管理(の失敗)にますます関心を集めています。問題のグローバルな性質とそれが提示する不公正に駆り立てられて、グローバルな正義の研究者はまた、いくつかの重要な理由により気候変動に注目してきました。

第1に、気候変動は間違いなくグローバルな問題であり、グローバルな正義の研究者はそのような問題に対して熱心に関心を向けています。温室効果ガスの排出は1つの国家内に限定することはできず、それは大気中に上昇し、元の国境の内外で地球規模の温度変化を引き起こします。直接の責任や失敗を立証することは困難ですが、それにもかかわらず事実上すべての個人、国家、企業が気候変動にある程度貢献していることは否めません。この意味で、気候変動問題のグローバルな性質は、国家主権と正義に関する従来の仮定に反するものであり、それがこの問題をグローバルな正義の研究者にとって非常に興味深いものとしています。

第2に、気候変動にはグローバルな解決策が必要であり、これはグローバルな共存の問題の提言に関心を持つグローバルな正義の研究者に適しています。どの1つの国家も気候変動を独力で止めることはできません。気候変動に対処するには協調的な努力が必要であり、それがグローバルな協定の必要性を含意していることは間違いありません。そのような協定に達するためには必然的に、どの主体がどれだけ排出量を減らさなければならないのかや、さらにはどの主体が気候変動の費用を負担すべきか(例えば、特定の人々の海面上昇や異常気象に適応することを助けるなど)についての議論が含まれることになるでしょう。これらは本質的に分配的正義の問題であり、したがってグローバルな正義の研究者にとって興味深いものです。

第3に、気候変動は、グローバルな正義の研究者の鍵となる関心事である道徳的に平等な個人間に対して、利益と負担の不公平な分配をもたらします。気候変動は、気候変動の原因に最も貢献していない低開発国に住む人々に最も悪影響を及ぼし、最も排出に貢献した先進国に住む人々は、最も苦痛を感じない可能性が高いです。これは、低開発国がよりしばしば、気候変動に関連した問題に直面する地域に位置しているためです。さらに、開発途上国は典型的には、危険な気象パターンに適応するための資源を先進国ほど多くは有していません。例えば、ソロモン諸島は気候変動の結果として5つの小さな島をすでに失っていますが、この国は世界で最も排出量の少ない国の1つです。ポール・ハリス(Paul Harris)は、気候変動の影響が、すでに脆弱で、自分たちを十分に保護できず、問題に大きく貢献していない人々に不均衡に降りかかっているため、気候変動問題が「正義を真に必要としている」と主張しています(Harris 2010, 37)。

グローバルな正義の研究者は気候変動が個人に影響を及ぼし、そのためこの問題に取り組むことに関心を抱いていますが、これらの研究者は正確には何が危機に瀕しているのか、それゆえ何に優先順位をつけるべきかについて、異なる考え方を有しています。例えば、サイモン・キャニー(Simon Caney)は、気候変動によって脅かされると予測される3つの異なる権利を定義しています(Caney 2010)。それは、生存の権利、食糧の権利、そして健康の権利であり、気候変動に対抗するどのようなプログラムもこれらに違反するべきではありません。

ティム・ヘイワード(Tim Hayward)は、気候変動の問題に特有の権利を定義しています(Hayward 2007)。それは、健康と福利に適した、有害な汚染のない環境に住む人間の権利です。ヘイワードのアプローチは、国際法に既に存在する人権を保護するのではなく、守らなければならない新たな気候関連の権利を創造することを優先課題としているため、キャニーのものとは異なります。

パトリック・ヘイデン(Patrick Hayden)の権利の概念は、環境特有の実質的な権利と手続上の権利の両方を包含します(Hayden 2010)。ヘイデンの実質的権利には環境の危害から保護される権利が含まれ、彼の手続上の権利には、環境災害の潜在的な影響について完全に情報が与えられる権利、気候政策立案のための民主的手続に参加する権利、既存の条件に不平を言う権利が含まれています(Hayden 2010, 361–362)。この意味で、ヘイデンは単に基本的な権利だけでなく公正な手続きにも関心を持っています。

権利に関する議論は重要です。なぜなら、誰が何に値するかを定義することは、気候変動について何をすべきか、そして誰が気候変動の行動に責任を負うべきかについての議論を導く助けとなりえるためです。例えば、健康への権利が保護されなければならない場合、これは排出量の削減では十分ではなく、集団が他の方法、例えば、脆弱な人々に特定の病気の予防接種をすることや、干ばつが起こりやすい地域で清潔な飲料水を提供することにより、病気から保護されなければならないことを含意するかもしれません。

気候変動対策の責任者は誰かという問題は、グローバルな正義の研究者の間での議論のもう1つの重要なポイントです。IRの学問分野は伝統的に、国家間の関係に関心を持っています。この伝統とこれらの議論に従う一部の学者は通常、どの国家が気候変動対策にどれくらい貢献すべきかに焦点を当てています。

ヘンリー・シュー(Henry Shue)は、気候変動対策を誰が(そしてどのくらい)支払うべきかを決定する際に、誰が問題を引き起こしたかの検証に基づく汚染者負担原則と、責任は富裕層によって負担されるべきであると主張する支払い能力アプローチを支持しています(Shue 2014)。トーマス・リッセ(Thomas Risse)は、これらのアプローチに反論し、1人当たりの富と1人当たりの排出率を測定し、次に各国をいくつかのカテゴリに分類するような指標を支持しています(Risse 2008)。

この意味で、この議論は気候変動に対する責任をどのように配分すべきかということであり、これは、国家間の進行中の議論、もっとも最近では2015年のパリ協定を締結する際のものを反映する国際関係にとって重要です。他の研究者は、気候の正義と責任という彼らの概念に非国家主体を含めることを熱望しています。

ポール・ハリス(Paul Harris)は、コスモポリタニズムは伝統的に国家のみならず個人にも関心を持っていると指摘します。この理由から、彼は個人がどのように気候変動に影響を与えているかを研究し、どこの国に住んでいるかにかかわらず、温室効果ガスを最も多く生産しているのは豊かな個人であることを発見しました。彼が言及しているように、「豊かさは、地球環境の劣化の主要で不均衡な原因です」(Harris 2010, 130)。これらの個人は、(例えば)旅行を少なくしたり、肉の消費を減らしたり、贅沢品の購入を抑えたりすることによって気候変動に取り組む責任があります。サイモン・キャニーは、個人、国家、企業、国家より下位の政治当局、国際金融機関など、排出に寄与し、これらを低下させる手段を有するすべての主体(裕福なものに限られない)は責任を負わなければならないと主張しています(Caney 2010)。

非国家主体の気候に対する責任についてのこれらの議論は、伝統的に国家同士の関係に関心を持っているIR理論にとって重要です。グローバルな正義の研究者は、いずれの他の主体が気候変動に責任を持つのかを議論することにより、国際関係論の学問分野を新しい方向に向けることができます。

結論

国際関係論の理論は、伝統的にグローバルな(無)秩序に過度に関心を持ってきました。グローバルな正義の研究者は、惑星規模でその焦点を個人へと移すことによって、IR理論の範囲を広げることに貢献してきており、それによりグローバルな共存の問題に新しい形でアプローチしています。しかし、学術界における進歩の兆候にもかかわらず、各国家は、グローバルな合意に到達することやお互いを公正に扱うことよりも、紛争、不信および無秩序を管理することに焦点を当てているように見えます。その理由から、問題としてのグローバルな正義は、政策において過小評価されており、グローバルな正義の研究はリアリズムやリベラリズムのような主流のIR理論と同じ顕著さにはまだ達していません。それにもかかわらず、国境を越えたテロリズム、グローバルな不平等の高まり、移民の危機、疾病のパンデミック、気候変動の時代には、グローバルな協力、公平さ、公正への配慮がこれまで以上に重要です。

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