国際関係論の理論 -第13章 クィア理論-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
19 min readJun 25, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第13章 クィア理論
マークス・ティール(MARKUS THIEL)

クィア理論は、確立されたIRの概念と理論を解体し、再構築するための重要な手段を提供します。クィア研究は、IRの狭い視点を超えた様々な分野に由来するものであり、セクシュアリティー、ジェンダー、その他のものについての新たな批判的視点を進めるための学際的な見通しを応用します。IRのような多様な分野において、ある単一の視点だけでは、学問的視点の範囲を不必要に制限することになるでしょう。またそれは、IRにおけるレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の視点、クィア研究、クィア学問的政治の内容と形態についての微妙な議論を排除するかもしれません。これらのテーマのために、そしてその多様性のために、クィア理論を正確に定義することは困難です。実際に、それを1つの狭い定義で表したとしても、それはクィア理論的な教義に沿ったものではないでしょう。クィア理論はセクシュアリティーや性的権利に限定されているわけではありません。それはまた、確立された社会的、経済的、政治的な権力関係に疑問を呈し、安全保障の概念を批判的に尋問します。

クィア理論の基礎

クィア理論の起源は、セクシュアリティーとジェンダーに焦点を当てたLGBT研究にあります。それはすぐに、LGBT研究で示唆されている安定したアイデンティティーとの意見の不一致により、これらのアプローチから離れました。クィア理論は、流動的で人間的に行われたセクシュアリティー — よりよくは、いくつものセクシュアリティー — の性質を強調しています。クィア理論は、性的(異性愛者/同性愛者)、ジェンダー(男性/女性)、階級(富裕/貧困)、人種(白人/非白人)の分類に挑戦することに特に焦点を置いて、社会的に確立された規範と二元論的なカテゴリーに疑問を投げかけます。こういったいわゆる「二値的なもの」を超えて、それは、一般的な政治的(民間/公的)や国際的(民主的/権威主義的)な二値的秩序にも挑戦します。これらは、過度に一般化された理論的構成と見なされ、そのような構成は物事を明確にするよりも隠しているとともに、微妙な差異や矛盾を検出することができないあれか/これかの分析モードを生成します。しかし、クィア理論はまた、セクシュアリティーとジェンダーの経験に関連しているために、特に社会的および政治的規範のことを分析し、批判しています。これらは私的なものとはみなされません。フェミニストがジェンダーのことを社会的に構築された公的・政治的事柄として認識す​​るように、クィア理論家はセクシュアリティーとジェンダーの表現に関して主張します。

「クィア」という言葉は19世紀に同性愛者を描写するのに使われており、クィア理論は、その系統を私的および公的な形式におけるセクシュアリティーの研究へと辿ります。この用語に帰属する一般的な意味は、セクシュアリティーとジェンダーの面で不適合であることを中心に展開しているため、クィアであることやクィアとして振舞うことに対してあいまいな概念が追加されています。したがって、性的平等へ向けたクィア的アプローチは、クィア思考がより挑戦的で流動的な見方を表現するので、アイデンティティーに基づくLGBTの支持運動を複雑にします。この分裂は、性的指向とジェンダーアイデンティティーの国際政治がますます大きな程度の公衆の注目を受けているため、さらに顕著になっています。一部の国家では、彼らが「現代的」または「西洋的」であることを十分に証明するために、実質的な平等規定を実施していますが、他の国では同性愛嫌悪の法律と迫害の形で抵抗をもって答えています。性的指向とジェンダーアイデンティティの権利は、それ自身が人権と民主主義という西洋の自由主義的規範に過度に依存しているとして、クィア理論家によって疑問視されていますが、また国内の文化戦争を誘発する政治的な論点になってもいます。

トランスジェンダーの個人が自分の選択したトイレを自由に使うべきかどうかについての米国での議論を検討しましょう。IRにおけるセクシュアリティーとジェンダー政治の地位は、このような国内政治を素早く超えて国際的な領域に入る可能性があるケースでは、明らかに高まっています。さらに、防衛政策、医療、労働市場規制などの見た目上は無関係な政策にも影響を与え、従来のIR概念の再構築に向けた新たな道が開かれました。その結果、社会的、政治的な世界の内在的な部分を説明するためには、新たな視点が必要とされています。クィア理論は、現実への一様なアクセスを想定しているのではなく、むしろセクシュアリティー、ジェンダーおよびその他の社会的側面についての主観的知識が、既に存在しているというより構築されるものであり、安定したものというよりも流動的なものであり、必ずしも社会規範に沿ったものではないことを認めています。この意味で、クィア理論は単にセクシュアリティーとジェンダーの経験に焦点を当てることを超えて展開しています。

部分的にはセクシュアリティーとジェンダーは当初は公的ではなく私的な領域に結び付けられていたため、セクシュアリティーの政治とそれに関連するクィア研究は理論的なシーンに遅れて到着しました。研究者は、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)、ジュディス・バトラー(Judith Butler)、イヴ・コゾフスキー・セジウィック(Eve Kosofsky Sedgwick)らの著書から批判的でフェミニスト的な視点を前進させました(Foucault 1976, Butler 1990, Sedgwick 1990)。フーコーによるセクシュアリティーおよび知識と政治権力との画期的な結合や、バトラーによる安定した性的指向とジェンダーアイデンティティーへの拒絶と、日々行われるものへの賛意は、基盤的な見解として残っています。コゾフスキー・セジウィックの社会における同性愛/異性愛の曖昧な定義への注目の呼びかけは、クィア思考をさらに定義しました。これらの学術的な言明は、それらが客観性を拒否し、安全保障と統治というIRの問題を含む社会的、政治的秩序における条件付きで不安定な人間性を強調したため、主流の政治学ではほとんど受け入れられませんでした。したがって、クィア理論は、IR理論化に大きく侵入することなく、文学、哲学、社会学、クィア研究プログラムの中で大きく進展しました。

これらのより広い起源からのクィア理論のはっきりした出現にもかかわらず、いくつかの疑問が残っています。主要な問題の1つは、「クィア」が、超越的な(社会的に受け入れられない)思考や行動形式のラベルとしてどの程度採用されるべきかということです。これは次にクィア/主流の二値を作り出すかもしれません。これはクィア研究者が反対するものです。もう1つの問題は、クィア理論の教義と用語の漠然とした定義にあり、これはクィア理論のレンズが広範囲の個人によって様々な分野でどのように展開されるべきかについての不確実性をもたらします。IRへの応用において、クィア理論は、セクシュアリティーとジェンダーに無関係な世界政治についての多くの仮定に挑戦します。それは、確立された単純な二値法(例えば、不安/安全保障や戦争/平和)を解体することを目指し、政治的、社会的秩序の本質的な不安定性を認識します。代わりに、それは世界政治の流動的で、遂行的で曖昧な側面を包含します。したがって、それは自然で道徳的な階層を想定した政治と社会へのアプローチを批判します。例えばそれは、非伝統的なセクシュアリティーが、結婚と子育てへの志向を含む「異性愛-規範的な」基準に従って正常化される方法を問題化します。クィア理論家は、これが性的マイノリティーを主流の消費者社会に社会的に統合する結果になり、彼らがより深い政治的不平等に対抗する意欲が低下する(または不可能になる)と主張しています。

クィア理論は、セクシュアリティーとジェンダーのことを、性的指向やジェンダーアイデンティティーが一般に公開され、それによりしばしば操作されたり歪められることのある黒か白か問題に還元される方法を形作る社会的構成物として認識します。より古典的なIRトピックに関して言えば、それは、すべての社会が政治的・経済的発展の線形経路に沿った異なる地点にあるか、普遍的な規範を遵守するという仮定を批判的に評価します。したがってそれは、多くの外交または開発政策において明白な、支配的な進歩的思考に対する対抗手段としてのあいまいさ、失敗、および紛争を包含します。学問的な仕事として、クィア理論の研究は、「当然ととらえられている意味と結果としての権力関係の不安定さを強調する概念的枠組みの中に位置するあらゆる形式の研究」を構成します(Nash and Browne 2012, 4)。

ウェーバー(Weber 2014)は、IRのクィア研究は存在するが、認識されていないと主張して、標準的なIR理論の閉鎖性を糾弾することにより、クィア理論への注意の欠如を強調します。国家の同性愛嫌悪(Weiss and Bosia 2013)や集団的なアイデンティティーの政治(Ayoub and Paternotte 2014)の事例研究や、IR研究のための国境を越えたLGBTの権利の言説の重要性の高まりなどとともに、クィア理論の不可視性はゆっくりと変化しています。しかし、この分野の実証的研究が主としてそれらを取り巻く政治構造における集団の作用に集中しているならば、LGBTの支持運動の観点については何が「クィア」なのでしょうか?これらの仕事は、私たちが受け入れるようになっている国家の役割に対して疑問を呈することにより政治主体を理論化する新たな方法を特定するための、地域的、文化的、理論的な周縁からの比較事例研究を提供します。それらは、主権、権力、安全保障、ナショナリズムなど、IRの見た目上は明白な核となる概念(あるいはウェーバーが呼んでいるような「神話」)を批判的に検討するような、以前にあまり認められていなかった視点についての知識を広げることによってIRを豊かにします。彼らは外部者の立場からそれを行い、これらの着古されたIR概念に批判的考察と解釈を加えます。重要なのは、彼らが、国家/システム、現代的自由主義/前近代的な同性愛嫌悪、西洋/その他のような主流のIRにおける既存の二元論的二値法を問いただしていることです。クィアIR研究者は、クィア分析が政治的個人を再想像するために提供できる寄与と、人々が埋め込まれている国際的な構造を探しています。

クィア理論の可能な未来を反映するように、考慮すべき様々な重要な側面があります。LGBT政治の進展は、主にグローバル・ウェストとグローバル・ノースに限られており、そのような支持運動がどれだけ異性愛規範的であるべきかについての文化戦争を呼び起こします。そして、それは、LGBTの権利が促進されるような文化侵略的なやり方についての国際的な(同性愛)植民地主義者の闘争を引き出します。これは、強力な国境を越えた団体、政府、国際機関が、特定の国々への対外援助支出の条件として平等改革をすることを提案したときに明らかになります。同時に、彼らは明示的なLGBTの支援が特定の国家におけるマイノリティーの疎外化を増加させることを十分に認識していません。しかし、LGBTの多くの組織は、典型的にはそれらが組んでいる政府間機関よりも弱い立場にあるものの、地域の状況をより良く理解しており、しばしば地元の活動家の協力を得て行動していることを言及しておく必要があります。セクシュアルな支持運動の政治が過度にリベラルで恩着せがましい政治の犠牲にならない限り、LGBTの政治とクィアIR研究は、互いに影響を及ぼし、並び立つことができます。国内的な場であろうと国際的な場であろうと、LGBT政治の進展が主張されているところにもたくさんの問題が残されています。もし、結婚や養子縁組の平等のような主としてゲイとレズビアンの権利を狙いとしているならば、トランスジェンダーの個人への医療へのアクセスや憎悪犯罪からの保護がいまだ欠けているときに真の平等について語ることができるでしょうか?そして、もし西洋のLGBTの個人を消費的で脱政治化された人々へと正常化することが、外国のLGBT活動家との連帯を弱め、その違いを認めることに結び付いたとしたならば、これはグローバルなLGBTの解放にどのような影響を及ぼすのでしょうか?クィア理論は、これらの議論の複雑さをよりよく理解することを助けてくれる重要な道具です。

クィア理論とヨーロッパにおける性的平等

グローバル化は、クィア理論家や活動家に介入のための広がりのある領域を与えています。LGBT支持運動の政治に関しては、西洋で組織された数多くの非政府組織とともに、自らが生み出す大きな宣伝力 — 肯定的であろうと否定的であろうと — を備えた地方のLGBT運動の出現が、国境を越えた政治をこれまでは知られていなかった程度にまで広げています。どちらもが、市民を規制し、保護するという国家の中心性を少しずつ削り取っています。これが検知できる重要な場所は、加盟国に対して超国家的(法律制定)権限を持つ国際組織である欧州連合(EU)の議論の中にあります。

みじめな少数派としてではなく、固有の尊厳と個別の表現の自由の権利を持つ人権の担い手としてのLGBTの個人の包含は、国家レベルとEUレベルの両方で、周縁化された市民と政府の権威との間の関係を変えるかもしれません。しかし、クィア理論は、ヨーロッパでの国境を越えたLGBTの権利支持運動によって進められた支配的な政治戦略と常に快適に一致するとは限りません。それは、欧州政治の基盤となる新自由主義的資本主義や規制的な市民権など、多くの既存の社会・政治的制度に異議を申し立てます。LGBTの支持運動は、時には、クィア理論によって、その特定の価値を担った西洋の含みにおいて、同調的、異性愛規範的、ステレオタイプ、さらには(同性愛)国家主義的と見なされます。これは、平等と包摂の西洋基準のために努力することは普遍的に適用可能であり、解放と包摂につながると仮定しているからです。これらは、より保守的な欧州諸国家に対し特定の政策を採用するよう圧力をかけることにより、しばしば非生産的な緊張を引き起こし、脆弱な少数派をさらけだしていることからも明らかになっています。LGBTの支持運動は、クィア理論が取り組んでいるような違いを認識するのではなく、既存の表現形式に含まれることを目指しています。したがって、LGBT組織は、しばしば社会の他の人々から承認を得る政治目的のために、「脱クィア化」しているように見え、これは、しばしばその表現や目標についての内部の議論につながることが多いです。

主流派の支持運動と急進的クィアアプローチの間の緊張は、単純なIR分析アプローチを再考する必要性を意味します。「現実の」世界における政治的な緊張は、クィアIR理論家に、一般に受け入れられ確立された国際的な統治の考え方に疑問を投げかけるよう促します。そうすることで、クィア理論家は、映画や公演などの既存の文献や視聴覚資料を使い、見た目上は明らかなことを超えて、IRの事象やプロセスを解体し、再構築します。彼らは、しばしば、主体間の違いや国際的な出来事の解釈を隠して平らにならしてしまう傾向がある、自然に想定される空間と時間の条件に向けて、批判的な視点を示します。例えば、シンシア・ウェーバー(Cynthia Weber)は、2011年に国連で行われたヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)の性的権利についての演説を使用し、これをコンチータ・ヴルスト(Conchita Wurst)の2014年のユーロビジョン・ソング・コンテストを勝ち取った歌唱と比較して、統治に対する伝統的で、ジェンダー化され、二値的なアプローチに異議を唱える「国政に対するクィア論理」を強調しています(Weber 2016)。ウェーバーは、クリントンが彼女のスピーチの中で同性愛者の概念を異端者から通常の権利保持者に変えたにもかかわらず、彼女が依然として進歩的な国家と不寛容な国家とを対置する国際的な二値法を作り出しているやり方を強調します。一方、トーマス・ノイヴィルト(Thomas Neuwirth)によって創造されたキャラクター、コンチータ・ヴルストは、ひげをはやした姿でドラッグを演じることにより、何が正常あるいは逸脱とみなされるのかについての受け入れられている概念に挑戦しました。この過程で、ヴルストは、ヨーロッパ人であることは何を意味するのかについての人種、性別、ジェンダー、地政学的な考え方を不安定化させました。まとめると、どちらのケースも、国際関係における一見安定した考え方が自然からはほど遠いことを示しています。その代わりに、それらは意図的に創造され、正常化され、挑戦を受け、再構成されます。

ヨーロッパ内の問題をより深く見てみると、EUの新自由主義的市場政策に関する性別による非差別の正当化は、限定された平等規定を提唱する際のEUのあいまいな立場を強調します(Thiel 2015)。この差別禁止政策は、EUの機関を権利の「授与者」とし、加盟国を必ずしも従順とは言えない「受容者」とし、LGBT団体をその間のどこかに置くような、EUの複雑なマルチレベルの統治制度の中で実施されています。この潜在的に問題のある設定に加えて、EUの差別禁止政策のパッケージは、雇用関連の差別にのみ適用されます。しかし、ヨーロッパ最大のLGBT擁護団体、国際レズビアン・ゲイ・トランス・バイセクシャル・インターセックス協会(ILGAヨーロッパ)は、他の多くの団体とともに、生活のあらゆる分野をカバーするような広範な差別禁止法を求めています。これは、いくつかの強力な国家が既存の市場ベースの法律を拡大することを望まないという事実、およびEUが経済的権利と自由というその焦点を超えるのを躊躇していることによって複雑になっています。

EUの主要な原理としての新自由主義の優越性は、代替的な批判的見解を制限するため、LGBTの個人の権利取得を制限することが明らかになっています。EUの方向性を考えると、非政府組織は、政府やEUからの資金調達に依存しつつ、労働参加などの市場原理を優先させるよう圧力をかけられています。同時に、この非政府的な支持運動の増加は、社会・福祉分野における政府の撤退と軌を一にしています。これは、EUからの資金調達を維持したい場合、その団体は差別禁止運動をより社会的にしたり労働市場を含めたりしなければならないため、潜在的に既存の政策とその正当性を争う可能性を減少させます。新自由主義的なEUの目標を取り巻くような方向変更は、権利の階層を生み出し、それは社会的包摂とより広い平等感をその底辺に置く危険にさらします。

したがって、この事例研究は、非政府的な支持運動機関と、国家の福祉政策の抑制に少なくとも部分的に責任を負う超国家的統治システムとの協力に疑問を投げかけています。さらに、EUの権利の評価は、不可分な権利が経済的価値と成果の対象となっているため問題があります。そしてそれは、EUの政策立案が専門家主導の性質に基づく非政治性を想定した規制により保護されているようなシステムの中では、批判されることはありません。それは、フーコーの知識と力のつながりを思い出させます。それはまた、EUの政策プロセスにおいて新自由主義的な異性愛規範性が政治主体によって望まれており、それに対してジェンダー/性別に基づく権利団体によって(再)生産され、あるいは挑戦されるような方法で、規範を考察することが必要であることを意味します。IRへのフェミニストの貢献は不平等なジェンダー化された力関係を強調しますが、構造的な不正義への懸念を市民社会の包摂についてのクィア理論の慎重な批判と結びつける批判的な政治経済の視点は、性的権利の認識の政治に深遠な洞察を加えます。これは、政治主体の明確な地位としばしば厄介な公共政策の内容を真剣に取り上げるなどの、クィア理論の理論的教義を検討する場合に最も重要な意味を帯びます。

結論

IRにおけるクィア理論の発展は、国際政治におけるLGBTの問題の影響のより厳しい質問が、ようやく答えられ始めたことを示唆しています。それは、性的およびジェンダー表現に関するこれまで認識されていなかった視点を通じてIRを分析する貴重な貢献を強調します。クィア理論は、LGBTやフェミニスト研究が時にはそうではないようなやり方で、理論的に包摂的であることも証明されています。残る質問は、クィア理論家が、彼ら自身の人種的、階級的、西洋中心的な方向性を認識し、それを超越できるかどうかです。そのような広がりは、他の影響を受けているマイノリティーとの共通の目的を見つけることを容易にします — それだけではなく、純粋に批判的または解体的なやり方からより変革を起こす生産的なやり方へ移行します。正確には、クィア理論は一般的な分析原理によってセクシュアリティーとジェンダーへの焦点を超越することができるため、広範囲のIRの現象を調べることができます。IRがしばしば偏狭であると非難される時代においては、クィア理論は国際秩序の強力な神話や語り口に対する必要な是正措置です。

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