国際関係論の理論 -第16章 アジアの視点-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
19 min readJun 26, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第16章 アジアの視点
ピチャモン・エオファントン(PICHAMON YEOPHANTONG)

中国やインドのような上昇しつつある勢力が世界の問題を形作る上でより重要な役割を果たすと見られる、いわゆる「アジアの世紀」の出現とともに、アジアは重要な研究地域となっています。これらの世界的な傾向は研究の新しい方向性と一致し、アジアは世界政治の研究の非西洋的アプローチの発展のための概念的なアンカーとなっています。したがって、アジアのIR情勢の中に、IR研究の最も魅力的な理論上の課題や革新が登場し、生産されています。この大陸全体で広範囲に見られる社会文化的、政治的多様性を考えると、アジアのIRは多くの異なる視点から構成されています。そこには、グローバル・サウスの国に由来するものもあれば、日本の視点などのようにそうでないものもあります。したがって、アジアのIRはグローバル・サウスのIRの視点に絡んでいますが、それとは異なるものとして残っています。同様に、アジアの視点は主流のIR理論について話すものの、独自の政治的伝統と慣行に基づいています。

アジアの視点の基礎

IR理論は、主に西洋の思考様式と世界観に由来する仮定に基づいています。そしてこれは、IR理論に「非常に狭い源泉と、あまりに大きな影響力」(Acharya and Buzan 2010, 2)を持たせることになります。この結果、非西洋的な視点と理論的な洞察は、この学問分野において系統的に放置されたり完全に無視されたりしています。多くの学者にとって、この非西洋的なIRの声の沈黙は、深刻な懸念の原因となっており、複雑で文化的に多様な世界を理解するためのレンズとしての主流理論の有用性に疑問を投げかけるものとなっています。IRの英国学派を考えてみましょう。英国学派の基礎となる主要な概念とその国際社会の構想(例えば、国家主権と主権の平等の原則)は、歴史的なヨーロッパの経験に基づいています。一例として、中国は、他のアジア諸国と同じように、植民地時代のヨーロッパ諸国との遭遇を通してこれらの概念を学んだだけです。中国の帝国はそれまで、中国の皇帝が、天下あるいは「天の下にあるすべて」(基本的に、世界の残りの全て)を支配するものと見るとともに、中国が世界の政治的、文化的中心地として活動するような中国中心的な世界観に基づいて、他の国との取引を行っていました。主権の平等は、19世紀まで中国人の心には概念として決して存在しませんでした。アジアで見られる独特の歴史、文化、国家間の動態を考えると、私たちは、IR研究で一般的に想定されている前提や概念の普遍性を当然のものとすることはできません。

国家間の政治に関するアジアの見解が存在しており、実際には何千年も存在してきました。カウティリヤ(Kautilya, 前300年頃)と孔子(Confucius, 前551–479年)のような古代インドと中国の政治理論家たちは、外交政策についていくつかの顕著な観察を提供してきました。IR研究がより多くのものを代表するようにする努力が始まった1990年代半ばになってようやく、これらの思想家の貢献がこの学問分野によって真剣に受け止められ始めたのです。それ以来、私たちは、IRにおける古い思考に挑戦するような成長する理論的革新とともに、言語障壁が崩壊するのを見ています。中国、日本、朝鮮、東南アジアのIRや他の可能性を含む、様々な学派や理論を構築する実現性についての議論が収束しています。このように、まだ議論といくらかの不確実性の中にはまり込んでいますが、これらの議論の究極の成果は、グローバルな学問分野としてのIRの未来にとって中心的なものになるでしょう。

現時点では、国際関係論における単一の統一された汎アジア学派や理論は存在しません。なぜそうであるのかについて、さまざまな理由が考えられます。例えば、非西洋のIR理論の「隠れた」性質、つまり、非西洋的な視点をたとえ私たちが目にしているとしても認識することの困難さや(Acharya and Buzan 2010, 18)、理論的な「輸入」への挑戦と非西洋的な理論構築の価値の認識の失敗(Puchala 1997, 132; Chun 2010, 83)があります。もちろん、IRの理論化について、本質的に「西洋」であるものなど存在しません。しかし、私たちがアジアのIR理論について正しく話すことができるかどうかは、私たちが「理論」をどのように定義し、「アジア」をどのように理解するかによって大きく左右されます。

このような観点から、アジアのIRは、自己完結した一枚岩の言説としても、純粋に壮大な理論の産出を目的とした知的事業としても見なされるべきではありません。IRの中国学派と日本学派は、非西洋のIR研究で多くの注目を集めていますが、他のいくつものアジア思想の中の2つの線を表しているに過ぎません。国際的なシステムがどのように運営されているかについての検証可能な観察を進めるという意味での「理論」ではなく、アジアのIRアプローチの大部分のことを世界を理解するための視点として記述する方が良いかもしれません。次にこれは、統一されたアジアのIR理論が実際に望ましいのかどうかという重要な疑問を浮かび上がらせます。一例として、シッダース・マラバラプ(Siddharth Mallavarapu)は、一枚岩の理論を推進することにはあまり興味がなく、「世界がこの特定の場所からどのように見られているかについて、より興味をそそられて」います(Mallavarapu 2014)。ナブニタ・チャダ・ベヒーラ(Navnita Chadha Behera)も同様に、IRのインド学派を作り出すという考え方は、そのような試みが西洋のIR(他者)に対するインドのIR(自己)を単純に対抗させるような「自己-他者の二値法」をもたらすとの懸念から、これを拒否しています(Behera 2010, 92)。これは、統一された思考の学派を構築することは、ひどく単純化され分極化したカテゴリーを作り出し、その結果、支配的な知識の体系を別のものに置き換えるだけになるという、より広い懸念を示しています。同様の感情は中国学派についての議論にも浸透しており、中国の様々な視点の多様性を代表する単一の学派の実現可能性について懐疑的な学者もいます。

概念的多元主義は、非西洋のIR理論家の本来の意図、すなわち世界政治の研究に多様性を取り戻すためによりよく役に立ちます。これに続いて、西洋のIRアプローチとアジアのIRアプローチとの間の違いを誇張しないことも重要です。実際に、アジアと西洋のアプローチの共通の属性は、それらの規範的な性質、すなわち世界がどうあるべきかに対する彼らの関心にあります。例えば、カウティリヤは、正義の戦争(例えば、王が同盟者の土地を取らないもの)の必要性を指摘する一方、儒教の学者は、可能な国政を通じて世界の「調和」(平和と安定)をどのように維持するかに関心を持っていました。

西洋のIR理論と同様に、アジアの視点は政治思想に深く根ざしています。多くの場合、それは国政、社会、人間の性質の理論をグローバルな領域へと移す問題です。トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)やジョン・ロック(John Locke)のような啓蒙思想時代の哲学者がIR理論の発展にとって中心的であったのと同様に、孔子と孫武(Sun Tzu, 前544–496年)から白鳥庫吉(1865–1942年)と西田幾多郎(1870–1945年)までにわたる古代と現代の哲学者たちは、アジアの学者たちにとって重要なインスピレーションの源泉です。

ベノイ・クマル・サルカール(Benoy Kumar Sarkar)によると、初期のヒンズー教の政治理論家は、「自治」と国権の行使に対する国家の独立の重要性を認識した土地固有の主権構想をすでに持っていました(Sarkar 1919)。しばしば世界で最も初期のリアリストの1人として賞賛されているインドの政治家・哲学者カウティリヤは、この点で重要な人物です。帝国建設の仕事の中心となる行動原理を明らかにするために、彼のマンダラ(影響範囲)理論は、王が周辺諸国との同盟や敵対関係をいかに管理すべきかという考えを進化させました。例えばそれは、王たちの間の信頼を築き、不必要な外国での絡み合いを避ける手段として非介入の有用性を認めるとともに、「幸福」を達成するための道具としての「強さ」の初期の概念化を提案しました(Vivekanandan 2014, 80)。

同様に、権力、秩序、国政に関する儒教的思考の要素は、中国が今日どのように外交政策を行っているかから抽出することもできます。グローバルな秩序を守るために調和を保つことの重要性は、中国では依然として人気の高い儒教の概念です。同様に、国家が権力を行使するためには国内と国際で同等の責任を負わなければならないという考え方は、責任あるステークホルダーとしての中国の現代のアイデンティティーを定義するものです。それはまた、特にグローバルな秩序と安定を管理し確保するために、中国は上昇する大国としてある種の避けられない義務と責任を負っているという考えを進めるような、対応する「責任論」の基礎となっています(Yeophantong 2013)。

この分野への独自の貢献を明らかにすることを目指して、日本のIRもまた、京都学派の創始者であった西田幾多郎をはじめとする有名な哲学者たちの仕事から非常に多くのものを引き出しています。西田は、彼が文化的要素やアイデンティティー構築に与えた卓越さから、しばしば「プロト構成主義者」と呼ばれていますが、彼は、日本が東洋と西洋のどちらに属しているのかという根本的な難問に対処するためのアイデンティティーの哲学を進めました。ここで彼は、日本のアイデンティティーは、「東洋と西洋という、相対するものの共存」の中に存在し、その結果、日本は普遍的な訴求力を養うことができると主張して、弁証法的アプローチを採用しました(Inoguchi 2007, 379)。言い換えれば、日本は東洋とグローバルの両方の気づきを奨励できる立場にあるため、世界で特別な役割が与えられています。この主張は、文化的差異の認知とこれらの差異の統合を通じて「真の世界文化」が達成されるとする、西田の多文化世界に関するより広い視野に適合しています(Krummel 2015, 218)。

主流のIR理論が、この学問分野における覇権的地位に対する批判にもかかわらず、アジアのIR学者の間で新しい考え方やアプローチが成長するための肥沃な土壌を提供するのにどのように役立ったのかに言及しておく必要があります。例えば、韓国のIR学者たちは、主流のIR、具体的には、現実世界の問題に取り組むことに焦点を当てた理論の影響を強く受けています。中国のIR学派を構築する努力の背景にある理論的根拠もまた、アメリカが支配している学問分野の中で、中国の考え方や関心をよりよく表現したいという願望に由来しています。しかしながら、1949年以前の時期および1980年代~90年代に活動していた中国のIR学者を、2つの陣営に分けることが可能です(Lu 2014)。一方は、西洋の理論から学び、それを模倣しようとした人たちであり、もう一方は、西洋のIRを批判と代替的な視点の発展の根拠として使用した人たちです。

冷戦後の世界は必ずや文化的に駆り立てられた紛争によって定義されると主張した、サミュエル・ハンティントン(Samuel Huntington)による1993年の「文明の衝突」の記事が、西洋国家と「儒教-イスラム」国家との間の来るべき紛争という物議をかもす推論のために、どのようにして1990年代半ばに中国の内部で熱い議論を巻き起こしたかを思い起こしてみると興味深いでしょう。これは、西洋の理論とそれらの東洋文化の誤った表現に対する中国の深まる不満につながっただけでなく、中国の学者がIRの中国学派を設立する勢いを新たにすることにもなりました。

あなたはおそらく、もしアジアのIR理論がないとしたら、アジアの視点は主流のIR理論よりも国家間のダイナミクスの(より)説得的な説明を本当に提供することができるのだろうか?と疑問に思っているでしょう。

確かに私たちは、統一的な一組の核となる理論的前提の欠如を、現在のアジアのIRアプローチの大きな制限として見ることができます。私たちはリアリズムや構成主義の主要な教義を容易に特定することができますが、アジアの視点は、より大きな程度の概念的流動性と文脈特異性を示す傾向があります。しかしながら、現実には、アジアのIRが「中距離理論化」(具体的な現実世界の現象を説明する事実に基づく理論の策定)や、「アジアの指導者たちの思考と外交政策のアプローチ」(Acharya and Buzan 2010, 11)によって示された政策主導の理論を指す「ソフトなIR理論」に著しい貢献をした例があります。これらは、通常、アジア諸国家の外交政策の行動を動機付ける要因への洞察とともに、政策の処方を作り出すために依拠されています。

影響力のある中距離理論の1つは、赤松要の地域開発における「雁行モデル」です。この理論は、アジアにおける日本の経済的リーダーシップを正当化するために用いられたばかりでなく、日本の開発途上国への経済的援助の背後にある論理的根拠ともなります(Korhonen 1994)。赤松は、開発途上国が先進国との交流を通じてどのようにして先進国に追いつくことができるのかを説明するために、1930年代にこの理論を提唱しました。19世紀後半からの日本の急速な工業化と第二次世界大戦後の東アジア諸国の顕著な経済発展により、日本はこの理論の中で、新興アジア経済からなるV字型の形態の「先頭の雁」として描写されるようになりました。ここで日本は、他の開発途上国に、(例えば、経済援助プログラムを通じて)より古い技術やノウハウを渡すことによって、地域の工業化と経済成長を刺激するのに役立ちました。

ソフトな理論的寄与の一例は、「非同盟」(どの側にも立たない)という概念です。分裂的な冷戦政治を背景にインドのジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)によって開発された非同盟は、1950年代から1960年代の間に米ソのライバル強国の中道の場所を占めることを目指していたアジアとアフリカ諸国が採択した影響力のある政策枠組みとなりました。

IRの中国学派の発展に関するアジアの視点

中国では、IR理論の中国学派の建設は、中国のグローバルな願望と強く共鳴する国家的な関心事となっています。中国政府がこの国の豊かな文化遺産、すなわち儒教を公式な修辞で強調している時代において、中国のIR学者たちは、時代と地理の両方を超越した洞察のために古代中国の政治思想にますます注目しています。

1920年代後半から開発され続けているとはいうものの、中国学派を建設しようとする初期の試みは、1950年代後半へとさかのぼることができます。この時期には、学術的な議論の焦点が、西洋から学ぶことから、西洋のIRを拒絶して、別個の中国によるIRアプローチを発展させることへと熱心に移行し始めました。この移行は、1960年代、1970年代、および1980年代の中国-ソビエト関係の亀裂とともに結晶化し、そこから、ソ連のIRへのアプローチは中国国内で正式に非難されました。1980年代後半には、西洋のIRアプローチを支持する中国の学者と、中国の特徴を持つIR理論を推進する中国の学者との間で、より明確な分断が出現しました。梁守德(Liang Shoude)のような毛沢東主義の学者は、西洋の理論の拒絶と代わりとなる中国のモデルの開発を主張しました。その後の2000年代初頭の議論は、主として西洋のIRの覇権的地位を中心にしていました。ここでは、中国学派を設立するという考え方は、中国の特徴を持つ理論化といった、よりイデオロギーに推し進められた目的を置き換えました。

このように、中国学派のプロジェクトは、「偏見のある」IRの学問分野に反対するものとして定義されるようになっただけでなく、アメリカが支配するグローバル化する世界の中で、勃興する強国としての中国が直面する課題に照らしても定義されるようになりました(Wang and Han 2016, 54)。このようにして、中国のIRの視点は、西洋のIR理論を利用する一方で、毛沢東主義-社会主義思想、古代中国の政治思想、国際的な地勢を進んでいく中国自身の経験によっても均等に色づけされています。

秦亚青(Qin Yaqing)によれば、「関係性」の理論とは、社会主体としての国家は、その行動を、他国との関係の性質に基づいたものにすると主張するものです(Qin 2016)。関係性の論理は、「主体が、親密さの度合および/または特定の他者との関係の重要性に応じて決定を下す傾向をもつ」(Qin 2016, 37)ように影響を与えます。この論理は、古代中国の哲学に基づいており、それは、社会的、さらには宇宙的安定のための関係の階層(例えば皇帝と天国の間、王と臣民の間、父と息子の間)を尊重し、それに沿って行動することの重要性を強調しています。しかし、ここで特に重要なのは、他のすべての関係を支配すると見られる2つの反対の力、の間の関係です。の存在はに依存していると見られ、それは実質的にはそれらが全体の2つの相補的な半分となります。「ペアのそれぞれが他のものを含む」(Qin 2016, 40)という包括性の考え方は、中庸(「中間の道」)の概念の中心であり、それは、どのようにして反対のものが肯定的な相互作用を生じさせ、紛争ではなく調和を自然の状態とするかを示唆しています。関係性の理論は、矛盾がどのように共存できるか、それらの共存が関係を機能させるためにどのように必要なのかを説明しようとするものです。ある国家がある瞬間には同盟国であり、次の瞬間には脅威であると認識されるような相反する関係に基づいて世界政治が機能しているやり方を考えると、関係性は有益な理論になっています。

例えば、中国とフィリピンの関係を考えてみましょう。これらの2つの国の間の政治的結びつきは、長年にわたるものではありますが、貴重なガス田と戦略的重要性を持つと考えられる南シナ海の島々と環礁をめぐる領​​土主張が競合していることから、険悪なものとなっています。島々の所有権を主張しようとする試みの中で、両国とも大胆になってきており、緊張が高まっています。2016年、フィリピンは中国が南シナ海の歴史的権利を主張する法的根拠がないと結論づけた仲裁事件で勝利しました。中国政府は常設仲裁裁判所の判決を断固として拒否しました。間もなく、両国間の軍事衝突が近づいているとの憶測も出てきました。しかし、軍事衝突は起きませんでした。この問題について両国の敵意はあるものの、中国とフィリピンの経済関係は引き続き拡大しています。

関係性の視点からは、政治的緊張と経済協力の両方が中国-フィリピン関係を構成します。中庸の概念を適用すると、この関係の中では紛争が避けられないものではないと考えることができます。もしあったとしても、軍事衝突は、現状維持に対する例外的な状況となり、両者にとってコストの高いものとなるでしょう。このような見通しは、関係の中の相対する力の間のバランスを回復させる手段として、中国とフィリピンが紛争解決と協力の新たな道筋を模索するよう、両国に迫っているのかもしれません。フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は、仲裁判決の直後、中国と南シナ海の問題について直接交渉したいとの要望を発表し、争いのある水域で共同資源開発を提案し、フィリピンのインフラ整備を支援するよう中国政府に要請しました。判決後に発表された中国のある白書(White paper 2017)は、南シナ海での中国の主張を再確認する一方で、交渉と協議を通じて紛争を解決するという北京のコミットメントを繰り返し示しました。

関係性の視点から見ると、緊張にもかかわらず両国の協力が続く中で、調和のとれた矛盾が中国-フィリピン関係を特徴づけ続けることが期待できます。これは、中国学派の価値を示す重要な証拠であり、国際的なアナーキーの紛争状態における国家間の相互作用の分析に基礎づけられた主流のIR理論家が私たちに期待させるようなものに反しています。

結論

国際関係論はますます人気の高い科目となっており、特にIRコースが多くの大学で不可欠となっているアジアでは、IRが、政治的、文化的な違いを正当に評価するとともに、共有された歴史と人間性を反映するような、真のグローバルな学問分野になってほしいという必要性があります。中国やインドのような非西洋の強国の台頭に伴う不確実性や不安を踏まえると、IR研究は、現実世界の現象を分析するためのレンズとしてだけでなく、変わりゆくグローバルな環境の中で私たちがどのように行動すべきかを導く有用で実用的なガイドとしても役割を果たさなければなりません。それは、「アジア」は「西洋」と同じくらい社会的な構成であり、潜在的には一枚岩かつ覇権主義的になる可能性もあるものだということです。そのようなものとして、私たちは役に立たない「自己-他者」の二値化を生み出すような単純なカテゴリーを作成することには慎重になる必要があります。意味のある対話を始めるためには、学者たちが東と西を調和させる包括的な見通しに向かって努力し続け、主流の視点やアジアのIRの視点から得られる洞察の多様性と統一性を捉えることが不可欠です。

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