国際関係論の理論 -第20章 「主義」は邪悪だ。「主義」万歳!-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
22 min readJun 27, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第20章 「主義」は邪悪だ。「主義」万歳!
アレックス・プリチャード(ALEX PRICHARD)

この最後の章で私は、私たちのやり方でIR理論を分類する際に起こるいくつかの問題を探求したいと思います。ここで1つの問題から始めましょう。なぜ私たちは世界政治の理論のことを、イデオロギーではなく理論と呼ぶのでしょうか?この質問に答えるにあたって、「主義(ism)」がどのように使用されうるか、使用されるべきかについて私たちが少し深く考えると現れる複雑さと問題のいくつかを明らかにするために、私は少しのメタ理論 — つまり理論についての理論 — に取り組みます。この章の要点は、この本の前の章がどのように結びついているかについて、あなたが理論的に考えるのを助けることです。言い換えれば、あなたはすでにさまざまな「主義」の共通の特徴を見つけているかもしれませんが、この章では、その共通点がそもそもなぜ存在するのかを理解するための道具を提供したいと思います。

要するに、ここでの主張は、IR理論は理論としてだけでなく、イデオロギーとしても理解されるべきであるということです。私たちが進んでいく中で、理論とイデオロギーの近接性と差異はより明確になるでしょうが、私が示したい要点とは、私たちがIR理論のイデオロギー的要素を理解したとき、私たちは、そもそもの初めにIRを一組の主義のセットに分裂させた企てについて、批判的により良く考えることができるようになるということです。

この章は、政治研究とIR理論における主義の上昇と下降の概要を簡単に説明することから始まります。おかしなことに、多くの人々にとって、私たちはポストイデオロギーの時代に住んでおり、IR理論家がイデオロギーではなく理論について語っているという事実はそのことの証拠だというのです。そこで私は、IRにおける哲学的思考を区画化する手段としての主義を拒絶するべき理由を議論し、概念分析とイデオロギーの批判がいかにして良い代替物となるかを示します。しかし私は、世界政治の説明を枠づけるのを助けるためだけでなく、学者が扱う政治的および道徳的な仮定を明らかにするための原材料としても、私たちはイデオロギーや私たちの主義を必要としていると主張することで終わります。うまくいけば、この最後の章は、あなたがIR理論に対して遊び心をもったり、実験的になったりするよう促すでしょう。

「主義」は、世界についての多かれ少なかれ体系的な信念、意見、および/または価値観の集合を表す接尾辞です。この接尾辞は、ある何かが、非常に具体的なものから、より広範な、または一般的な見解、信念、態度を包含するものに移ったときに加えられます。例えば、フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は、彼に特有の一般的な見解を持っているかもしれませんが、彼か他の誰かがそれらを統一的な世界観に体系化するまで、私たちはドゥテルテ主義について、例えばマルクス主義と同じようなやり方で話し始めることはありません。

複数の人物が最初の見解の集合に寄与したり、発展させたりした場合、主義はさらに広がります。現代マルクス主義には、膨大な数の考え方や理論、アプローチ、認識論や存在論が組み込まれています。実際に、他の主義も、主に他の亜種と自らを区別するために、マルクス主義の大部分を自分自身に加えています。例えば、正統的あるいは異端的なマルクス主義の両方があったり、リベラルフェミニズムあるいはマルクス主義フェミニズムの両方があったりします。要するに、政治科学では、主義は一般的にイデオロギーとその洗練を表しています。

しかしながら、IRでは、私たちは主義のことをイデオロギーではなく理論であると考えています。これは奇妙です。なぜ私たちはマルクス主義をIRでは理論と呼び、政治科学ではイデオロギーと呼ぶのでしょうか?これは単なる語義の問題ではありません。実際にこれは、IRが20世紀への変わり目において独立した社会科学として登場した時代に、IRが自らについてどう考えていたのかという核心へと向かいます。IR学者がその時にイデオロギーよりも理論を主張した理由とは、国際関係は、私たちが主なイデオロギーの構造の中において見出せるような精緻化された良き生の総合的なビジョンのようなものを従順に受け入れることはない、ということが一般的に考えられていたためでした(Wight 1966)。リアリストたちは、世界政治の道徳的なもやを切り裂いて世界政治に繰り返し起こる問題に到達する能力に誇りを持っていました。リアリズムはイデオロギーではなく、ますます政治についての普遍的な真実の単純な集合としてみなされるようになりました。

IR理論とイデオロギーを区別するこの傾向は、ほとんどすべての人がポストイデオロギー的になっていた冷戦終結の時に、固められました。これにはいくつかの核となる特徴がありました。冷戦の終結は、リベラリズムはもはやイデオロギーではなく、歴史の構造の中に与えられたものであるという広範な合意へと駆り立てました。この歴史の構造は、フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)によると、いまや「歴史の終わり」(Fukuyama 1989)を表す結実へと至りました。西洋のリベラリズムに対して唯一存在する代替物を提供していた対抗的な覇権強国だったソビエト連邦は崩壊しました。フクヤマのような多くの人々にとって、これは私たちがポストイデオロギー時代に入ったことを意味しました。これは、リベラリズムの支配とその主な挑戦者 — ファシズムと共産主義 — の崩壊とが、単にリベラリズムのほかに何のイデオロギーもないことを意味し、リベラリズムを歴史の終わりに現れた真実とするような時代です。しかしながら、このリベラリズムの説明の一部は、人間の合理性についての非常に特殊な概念を含んでいました。それは、あなたの自己利益を最大化することは、合理的であり、人間精神の普遍的な特徴であるというものでした。

制度主義、方法論的個人主義、合理主義はすべて理論的な概念です。これらは、ただ「仕事をする」概念であり、少なくともその表面上では、政治的にはほとんど力を入れていない言葉です。そのような言葉を展開する人々は、通常、理論の発展への非イデオロギー的なアプローチに誇りを持ち、そのような概念はむしろ科学的な道具であると提案します。これらの道具は、実際に何が人々を動機づけているのかを見るために、イデオロギーの表面的なものを切り開きます。これらの「合理主義的な」説明によると、ソビエトに動機を与えたのは共産主義ではなく自己利益でした。さらにそれは、共産主義者と資本主義者との間の衝突が示唆したように、世界に秩序をもたらすあれやこれやのイデオロギーの前に世界がひざまずくのではなく、利害の調整を助けるのには「制度が重要である」(Keohane and Martin 1995)というもっと平凡な主張でした(Jahn 2009)。

リベラルな科学がイデオロギー的内容を隠蔽しているという批判の中で左派が生き残っていると思うかもしれませんが、奇妙なことに、左派の大部分も同じ時期にポストイデオロギー的思考の彼ら自身のバリエーションを採用しました。ポスト構造主義理論は、冷戦終結の時に始まりました。ポスト構造主義者によって開発されたイデオロギーに対する最も重要な批判の1つは、世界とその歴史に関する記述的に正確な意見というよりも、力の様式としてより重要な世界と歴史のビジョンとしてイデオロギーのことをとらえています。リベラリズムとネオリベラリズムは、世界がどのように機能しているかの説明ではなく、(自己)統治の様式として再記述されました。ひとたび合理性についての仮定を受け入れると、私たちは、この理論がただ説明することになっていたはずの自己本位の人間へとなります。イデオロギーは政治的主体を生み出します。このようにして、イデオロギーは本質的に規制的かつ支配的と見なされるようになりました。それらは世界の記述ではなく、私たちをそれに従って行動させるようにする方法でした。

1990年代後半にかけて、これらの相争う哲学的、世界歴史的な変化は、国際関係論の中に乗り込んできました。ここでは、イデオロギーは「理​​論」として再記述されました。その詳細については、この本の前のページでアクセスできます。彼らの様々な理論をイデオロギーとして話す貢献者は、(もしいたとしても)ほとんどいません。そうすることは、あらゆる種類の批判を招くことになるでしょう。上記の批判だけを要約しても、イデオロギーは非科学的で、支配的で、道徳的であると見なされています。一言でいえば、終わったものです。これとは対照的に、理論は科学的であり、ある程度検証可能であり、少なくとも名目上は非政治化されており、私たちが通常イデオロギーと関連付ける良き生の世界歴史的かつ総合的なビジョンを欠いています。しかし、IRでは、それぞれの主義は独自の専門誌と学位プログラムを用いて、独自の内輪の産業を発展させています。それにもかかわらず(というよりも、もしかしたらそのために)、もはや理論と理論の間ではほとんど誰も議論をしません。過去にはこの学問分野の中心であった偉大な議論は消えてしまったように思われますが、それらはそもそも決して本当の議論であったことなどなく、ましてや偉大などでもなかったという証拠が増えています!(Wilson 1998)皮肉なことに、私たちがこの本で扱っている主義は、これまでこの分野で定着したことはなく、そのさまざまな主唱者によって武器として使われたこともほとんどありません。1つの最近の見解によれば、私たちは「IR理論の終わり」(Dunne, Hansen and Wight 2013)にたどり着いています。

私たちがIR理論におけるイデオロギーについて話していないのであれば、私たちは何について話しているのでしょうか?デイヴィッド・レイク(David Lake)によると、私たちはそれぞれの主義の周りに発展している学術的な派閥について話しています(Lake 2011)。これらの派閥は、上級の学生(通常は博士号取得研究に乗りだした学生)に彼ら自身を箱に入れ、人生のための1つの主義を受け入れ、それらの「神学」の儀式と法典に特化し続けるよう要求します。最終的には、高度な学者が主義を超えて、あるいは主義を横切って考える能力が剥がれ落ちてしまいます。最新の「現実世界」の出来事の要求を満たすためにそれぞれの主義を更新しようとすると、主義はより狭く定義されるようになり、あるいはそれらが実質的にイデオロギーになるほどに広範に定義されるように引き延ばされます。いずれにしても、それらは自らが現れてきた歴史的、社会的、地政学的な文脈から解き放たれるようになります。それから私たちは、「制度が重要である」のようなフレーズを、冷戦時にはどのようにしてそれらが重要であったのかや、現在ではそれとは異なった仕方で重要になるであろうことを理解せずに、繰り返し始めます。これは「具象化」として知られています。

しかしながら、レイクは、イデオロギー、神学、哲学、理論の間に絶対的な区別をつける方法で理論を理解しました。レイクにとっては、主義は理論よりもはるかに広い思考のカテゴリーです。理論は変数間の関係を仮定し、検証可能な仮説を生成する一方、流派とは、それらの仮説を引き出すために人々が整理する必要のある、乱雑で非体系的な考え方の重なりです。

例えば、リベラリズムとリアリズムの両方とも、より幅広い、より長続きしているイデオロギー的流派から来ていますが、それらをIRの理論とするには、いくつかの中核原理を特定しなければなりませんでした。この場合、両方の流派はアナーキーと物質的利益が世界政治の重要な特徴であるという見解を共有していますが、それらは異なる理論を生み出すための変数を追加しています。1)一般的な仮定を精緻化する、2)理論的概念の関係を定める、3)検証可能な仮説を生成する、というこの一般的なパターンを追求するにあたっては、理論とみなされるもの、証拠とみなされるもの、展開可能なIRの主題とみなされるものが指数関数的に狭まっていくことは疑いありません。レイクは、IR理論がその言葉の非常に狭い意味で科学的であることを目指していると仮定し(Lake 2011, 470)、そして彼は、そうではないものはIRにはあまり適していないと言います。歴史に終点があるかどうかや、歴史を形成するのは物質的な力かあるいは考え方かなどの、メタ理論的な質問(理論についての理論)は、最終的な答えのない非科学的な質問です。むしろ、私たちは、彼が「中間レベルの理論」と呼ぶもの、すなわち経験的な証拠と照らし合わせて検証できる仮説に焦点を当てるべきです。それは例えばどの制度が暴力をもっとも良く制限するかといった問題です。このような方法で、私たちは、思弁的な哲学を通してではなく、世界が実際にどのように機能しているかを理解するに至ることができるとレイクは考えています。

IR理論が、より単純な質問と思われるものを問うべきだとするこの要求には、多少の問題があります。レイクの解決策は、私たちがIRの理論で日常的に使う概念の深いイデオロギー的な性質を無視するように私たちに求めています。私たちは、例えば資本主義とは何かといった、背景にある仮定や概念の一貫性についての思弁的な質問をもはや行うことができないため、私たちは、すでに存在するIR理論のストックを、検証可能な仮説を引き出すために必要とするであろう資料の源として扱うことになります。国家とは何であるかや、ましてやそれが暴力を制限する最良の制度であるかどうか、について意見の一致がほとんどないという事実は、非常に重要です。

逆説的に、レイクの批判は、IR理論、特により難解なものを、イデオロギーと非常そっくりにしますが、ここでのポイントはすべての理論がイデオロギーであるという点です。彼が認めようとはしないこととは、彼が優先するアプローチもまた、それ自体がイデオロギーである科学の標準的概念、すなわち実証主義 (別の主義)に深く影響を受けていることです。この説明によると、真の知識とは、経験的に検証可能な知識であり、私たちが経験できるものだけが真の証拠とみなされます。私たちが実証主義や経験主義といった科学的イデオロギーについて、彼の隠された仮定を明らかにすることができる程度まで身に着けるほどに幅広く理解していない限り、私たちはレイクについてこれを知ることができませんでした。科学以外のすべてをイデオロギー的であると豪語する現代の英米のIRに非常にありふれた巧妙なごまかしからは、何も得ることはできません。

この問題を回避する方法を提案する前に、学生たちが何が主義であるかと、主義を何に使っているかを明確に考えていないときに現れる問題のいくつかを素早く概観しましょう。上述のことから、IRは主義なしにうまくやっていけると思うかもしれませんが、それはいくつかの点ではおそらく正しいでしょう。主義が自己完結型の仮説製造機であると考えることによっては、学生や研究者にとって得られるものは何もありません。また私たちは、すべてを説明することができると主張し、一般的な結論として世界を修復する救済策を提供する理論を歓迎すべきでもありません。私は、誰もがこれを正しく疑うだろうと思います。しかし、主義について最初からこのように考えることには本当の問題があり、そうしなければならないわけでもありません。

私たちがイデオロギーであると考えるものを変更したならばどうなるでしょうか?これはIRの中の主義を再考するのにも役立つでしょうか?

イデオロギーは、集団思考の構造についてのユニークな洞察を私たちに与える不思議で、多孔質で、複雑で進化するものです。イデオロギーへの2つの有名なアプローチが、私がここで意味しているものを明らかにするはずです。

最初のアプローチでは、イデオロギーを概念のネットワークとみなしてみましょう。中心となる概念は、周縁の概念が時間とともに進化するにつれて接続および切断するようなノードとして機能します(Freeden 1996)。したがって、例えば、自由はリベラリズムの中心になるかもしれず、白人至上主義や民主主義のような周縁の概念は、時間の経過とともに前者は後退し、後者は前進していきました。同様に、私たちはおそらく、概念は特定の歴史的文脈で使用されていることを理解しておくべきです。つまり、概念は、いま使用している方法とは異なる意味を持っていたかもしれません(Berenskoetter 2016)。国家のような概念はそれ自体で主義を生成する一方、ある概念の特定の意味はその主義の用語をもって初めて理解されるかもしれません。

例えば、現代リベラルが自由という言葉によって何を意味するかを理解することなく、リベラリズムが何であるかを本当に理解することができるでしょうか?そして、イデオロギーと概念のどちらが先に来るでしょうか?これは軽薄な議論ではありません。なぜなら、私たちが使っている言語の歴史的な特異性を適切に把握できなければ、それが私たちの言葉が常に使われてきたやり方だと単純に仮定するよう誘惑されてしまい、現在によって私たちが「だまされて」されてしまうでしょう(Skinner 1998)。

ひとたび私たちが重要な概念、その論理、一貫性、他の概念との関係を調べ始めると、イデオロギーの関係をお互いに地図に描くことができます。例えば、リアリズムとリベラリズムの両方は、アナーキー、国家、物質的な力などの核となる概念を共有しています。しかし、それぞれの相対的な重要性は、協力や資本主義、制度や覇権のような、「周縁の」概念や他の「核となる」概念がどのように相互に関連して展開されているかを見て初めて実際に理解することができます。あなたは、なぜあるイデオロギーのいくつかの側面に同意するが、他の側面には同意できないのかと疑問に思ったり、あなたの分割された忠誠心をどう整合性を取ったらよいかについて悩んだりしたことはありますか?イデオロギーの構造を理解するこの方法は、私たちが慣れておく必要のあるイデオロギーの相互接続されたタペストリーをより良く示してくれます。IRの学生が本書に掲載されているすべての理論で実行する価値のある努力です。

つまり、イデオロギーは、理論と同様に、概念のタペストリーでもあります。しかし、一歩下がってみて、第2のアプローチを探るためにイデオロギーの批判に取り組んでみましょう。まず、そもそもリアリズムやリベラリズムのような理論を想起することが可能になったのは何のためでしょうか?ポスト植民地主義とフェミニズムを除いて、ほとんどのIR理論は広義には西洋の白人男性で、主に所得の上位1–2%を占める者、または上位の中流階級の出身者によって開発されました。実際、これを指摘するためには、フェミニストとポスト植民地主義の理論家が出現しなければなりませんでした。これを行うために、それらの理論家は世界の複雑な説明と、どのようにしてそれが団結し主流の基本概念や前提となったのかを発展させなければなりませんでした。レイクとは対照的に、理論的発展がそもそも可能になったのは、フェミニストとポスト植民地主義の理論家(とその他の人たち)が既存の概念とカテゴリーを探究したためでした。そして、これは、IR理論をイデオロギーとしてさらけ出すことを含んでいました。これが弁証法的な思考が機能するやり方です。それは、概念的な一貫性であろうと、歴史的な特異性であろうと、何であろうと、ある所与の考え方の可能性の条件を探り、そしてそれを超えるよう押し出します。

IR理論が真実かどうかは重要ではありません。重要なことは、それらが行動、学術、政治的なもの、または神学的なものを導くことができるように思考を形作るのに役立つかどうかです。イデオロギーと理論を継続的に精査しなければならないのは、それらが行動を導き、形作り、制約し、それに意味を与えるからです。イデオロギーは、社会を形作り、その相違を反映するような、背景にある認知的・道徳的構造であり、それがどのように動作するかを理解することは、私たちが住んでいる世界について非常に多くのことを教えてくれるでしょう。

何かで試してみましょう。あなたのテレビをつけてください。ほとんどの国、特に西洋諸国で放映されているものは、驚くほど似通ってはいませんか?ただ単に料理と不動産に関する多くのプログラムがあるというだけでなく、番組の背後にある根本的な前提にはある種の共鳴があるということです。あなたは不動産ショーのプレゼンターが資本主義の不当な構造を嘆いたり、所有権は窃盗であると宣言したりするのを見ることはありません!むしろそこには、財産所有権の論理の不可避性や、目的は最高の価格を可能にすることであるという共有された感覚があります。男の子と女の子が彼らの見ているアニメの中で異なった形で興味をひかれるようにされていることを考えてみてください。ジェンダー化された役割は疑問視されるのではなく、ほとんど決まった形で与えられています。

スティーブ・スミス(Steve Smith)は、「世界の非理論的な説明の選択肢は単に利用できない」と主張しています(Smith 2007, 8)。そういうものとして、あなたは、理論とは何なのか、それはどのように機能するのか、それはどのようにしてあなたが見る世界を形作るのか、ということに慣れる必要があります。イデオロギー批判は、当然だと思われている考え方、概念、態度、および理論によって、あるいは通常の言語が理論に束縛され、理論に依存しているようなやり方によってコミュニケーション一般が抑制され、制限される方法を探究します。理論は、そしてIR理論も、それ自体がイデオロギーを反映しています。それらは同じような方法で批判を受けるべきです。

結論

主義とそれらの広範な理解を3つの方法で考えてみましょう:

第1に、主義はイデオロギーであり、IR理論もまたイデオロギーで満たされています。これはそれだけで悪いことではありません。ひとたび私たちがこれを知ると、私たちはイデオロギーの内部一貫性を調べ、その美徳を他のものと比較することができるはずです。

第2に、イデオロギー自体が私たちの住んでいる社会を形作っています。そのため、イデオロギーが人々の生活や行動の仕方を形作り、構造化する方法を探ることによって、私たちの社会と世界政治をよりよく理解しなければなりません。多くの点で、IR理論もこれらの生き方と行動の仕方を反映しています。したがって、私たちは、IR理論はそれ自体で、私たちの周りの世界のイデオロギー的な反映と考えることができます。R・B・J・ウォーカー(R. B. J. Walker)は、「国際関係の理論は、世界政治の説明としてよりも、説明される必要のある現代の世界政治の側面としてのほうが、より興味深い」と議論を呼ぶ示唆をしています(Walker 1993, 6)。あなたはそこまで遠くに行きたいとは望まないかもしれませんが、IR理論について政治的またはイデオロギー的に中立的であるものなどないことは疑いがありません — そして、IR理論をその歴史的および知的な文脈に置くことは、これを不可逆的にさらしだします。

第3に、イデオロギーは間違うかもしれませんし、その価値観が非難に値したり、醜悪なものであったりするかもしれませんし、その核となる前提が不合理なものかもしれません。これは、私たちが同意しないかもしれない慣行や政治を持つ人々によってそれらが使用されているからです。ロバート・コックス(Robert Cox)にとって、理論とは常に「誰かのため、何らかの目的のため」にあるだけでなく、必然的に階級的偏見も反映するものです(Cox 1981, 128)。私たちは、これに気づき、理論を幅広い批判の対象とする必要があります。マルクス主義を理解することは、これの不可欠な前提条件となるでしょう。私たちがイデオロギーとしての理論が存在することを否定したり、私たちの現代的な生き方と思考方法がイデオロギー的構造にどれほど深く関与しているかを見落としたりすると、これを行うことが不可能になるかもしれません。

私たちが拒絶しようとしているものの複雑さをまず最初に理解しない限り、主義を拒絶することによって得られるものは何もありません。主義は邪悪かもしれませんが、私たちはそれらを越えていくために必要な批判的な反省を発展させるために、それらにしかるべき敬意を払わなければなりません。

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