国際関係論の理論 -第5章 マルクス主義-

Japanese translation of “International Relations Theory”

Better Late Than Never
18 min readJun 23, 2018

国際関係論についての情報サイトE-International Relationsで公開されている教科書“International Relations Theory”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。以下、訳文です。

第5章 マルクス主義
マイア・パル(MAÏA PAL)

マルクス主義は、IR理論の主流派の政策主導アプローチに常に疑問を呈することを望む批判的アプローチであるとともに、哲学者のカール・マルクス(Karl Marx 1818–1883)の名を冠する哲学的・社会学的学派を通じた古典的アプローチでもあります。事実として、マルクス主義は、IRにおいて人の名前にちなんで命名された唯一の理論的視点です。私たちが利用できる偉大な思想家の範囲の中では、マルクスが最も「国際主義者」であるとは自動的には認められないかもしれません。実際、マルクスの(そして時には共著者フリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)の)仕事の大部分は、国家の形成やそれらの間の相互作用に主たる関心を持っていませんでした。彼らの関心をIRに結びつけたのは産業革命であり、この事象こそが究極的にはマルクスが目撃して理解しようとしていたものでした。彼は、エンゲルスと共に革命的なアプローチを開発し、人々の国境を越えた運動を構築する方法についての実用的なアドバイスを提供しながら、国家の違いを超越した一連の概念を概説しました。世界中の工場の労働者 — プロレタリアート — は、産業革命によって加速され、拡大された資本主義の搾取的で不平等な影響に対抗する政治的革命運動に組織されなければなりませんでした。グローバルなプロレタリアートとしての大部分の人類の間の潜在的なつながりというこのビジョンは、マルクス主義が他の理論とは異なる視点からIRへ入る場所であり方法です。

マルクス主義の基礎

マルクス主義者が用いる概念はすべて、彼らが人類とその環境のより大きな善と認識しているものに貢献するための共通の目標によって結ばれています。アドリエンヌ・リッチ(Adrienne Rich)の言葉を借りると、理論とは

木とともに森を示すことにより、パターンを見ること — 理論は、地球から上昇し、雨雲に集まり、何度も地球に戻ってくる露となりえます。しかし、もしそれが地球のにおいがしなければ、それは地球にとって良くないことです。(Rich 2002, 65)

言い換えれば、マルクス主義者は、社会とその環境の基本的かつ最も一般的な側面について情報を持ち、思慮深くなければなりません。これはまた、産業革命(そして一般的に資本主義)が石炭、過密な工場、ガソリンの煙のにおいがするならば、次の革命のにおいはより致死的でなく、より汚染が少なく、より地球を保護するはずであることを意味します。マルクス主義を理解するためには、資本主義の起源と機能に関するマルクスの革新の基本的要素を理解する必要があります。加えて、これらの起源と機能は、国内と国際レベルで同時に起こり得ることを理解する必要があります。これらの課題を組み合わせることは、マルクス主義がIRに提供する最も重要な貢献であることは間違いありません。すなわち、(ほぼ同時に現れた)資本主義の生産様式と現代の主権国家制度は、自然な出来事でも避けられない出来事でもありません。それらは特定の歴史的条件と社会関係の相互依存的な産物です。マルクス主義者の仕事は、それらの条件と社会関係を図に描写して線を引き直すとともに、資本主義の生産様式と主権国家制度がどのように現れたかを理解することです — 同じコインの両面なのか、異なるコインなのか、もしかしたら異なる通貨なのかもしれません。この2つの主要な歴史的事象の相互依存の程度についての議論は進行中であるかもしれませんが、IRにおけるマルクス主義の成果は、私たちがそれらを別々に考えるのを止めたことです。マルクス主義はまた、概念とは単に私たちが世界を理解するのを助けることを意味するものではなく、私たちが世界を変えるのを助けるべきであることを助言しています。

IRにおけるマルクス主義を説明するためには、資本主義の発展に関するマルクスの主要な理論、すなわち史的唯物論から始める必要があります。最も簡単に言えば、史的唯物論は、人間は — お互いの関係や環境との関係も含めて — 生き抜き、繁殖するための物質的条件により決定されると主張します。したがって、マルクス主義は、様々な事象とともに、人間の行動によっても物質的条件が変わる可能性があると主張しています。例えば気候変動を考えると、それは物理現象であるとともに人間の行動にも依存しています。言い換えれば、これらの物質的条件は歴史的なものであり、時間や空間によって変化します。しかし、過去が現在の重しとなると言うように、それらも常に過去の過程や考え方に依存し、しばしば妨げられています。マルクス主義者は、IRとは単なる国家の外交政策や政治家の行動だけではなく、生存(より広義には生き方)、生殖、技術、労働に関するものであると強調します。もしこれが正しければ、政治と経済、あるいは公的と私的の分離には問題があります。なぜならそれらのカテゴリーは、国家と外交政策がグローバル経済の社会関係と構造 — 多国籍企業や国際金融機関 — によって決定される方法を隠すからです。別の言い方をすれば、マルクス主義は、IRの中の「国際的なもの」とは何かについて、根本的に疑問を投げかけます。それがリアリストのためのアナーキーであろうと、英国学派のための国際社会であろうと、マルクス主義者は、そのような概念は、世界についての錯覚や神話を私たちに信じさせるので問題であると主張します。例えば、アナーキーという概念は、国家が合理的な行動をすると予測される自律的なエージェントであるという幻想を作り出します。しかしながら、これは、地域格差の持続性や、国家、暴力、グローバル政治経済の主要主体間の構造的かつ歴史的なつながりを無視しています。

国際的なプロセスを説明するためにマルクス主義の考え方を最初に応用したのは、ローザ・ルクセンブルグ(Rosa Luxemburg)、ルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)、ウラジミール・レーニン(Vladimir Lenin)など、20世紀初頭の共産主義者や革命家によるものでした。これらの著者たちは、第一次世界大戦とヨーロッパの諸帝国のゆっくりとした崩壊へとつながる帝国間の競争の世界に、資本主義がどのように拡大し、適応したかを理解するために、帝国主義の古典理論と呼ぶものを開発しました。

1974年、イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)は20世紀後半の変化を取り入れ、伝統的なアプローチが帝国主義を国家主導のプロセスとして理解する傾向に対抗するための「世界システム理論」を開発しました。ウォーラーステインのアプローチは、さまざまな分析単位を使用し、国家とその相互作用の歴史のより長期的な視点を取りました。彼は、国家または地域の3つのグループを区別しました:中央(コア)、半周辺、周辺です。その目的は、16世紀以来、どのように国家が互いの関係を発展させてきて、それにより国々が特化した経済と産業の特定のタイプに応じて、異なる国家のグループ間の依存関係を作り出してきたかを理解することでした。したがって、これらの依存関係とグループは、国家より広い単位で世界を理解することを必要としました。これらの単位 — あるいは世界システム — は、非常に不均等で異なった方法であったものの、すべての国家が資本主義になった理由というジレンマに対処するのを助けました。中央(コア)グループの国家(例:西欧や北米)は、高い賃金を提供し、高いレベルの投資と福祉サービスを奨励する民主的な政府を指します。半周辺国家(例:ラテンアメリカ)は、市民に低賃金と劣悪な福祉サービスを提供する権威主義的政府です。周辺国家(例:サハラ以南アフリカ、中央アフリカ、南アジア)は、労働者が生活できる水準をほとんど下回るような賃金しか期待できず、福祉サービスが存在しない非民主的な政府を指します。

周辺が、高収益の消費財を製造するのに必要な安価な労働力と原材料を中央(コア)と半周辺に提供するため、中央(コア)は、それらの高収益の消費財を自分たちだけでなく、半周辺市場や周辺市場向けにも生産することができます。言い換えると、歴史的にはいくつかの国家が属するグループを変えてきましたが(例:周辺から半周辺)、資本主義は、中央(コア)が高いレベルの消費と安全を維持する手段を提供する周辺地域を常に必要とします。したがって、依存関係と不平等は資本主義にとって不可欠であり、大幅に削減することはできません。

帝国主義の古典的理論のもう1つの影響力のある更新は、マルクス主義のネオ・グラムシ的要素です。アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci 1891–1937)のヘゲモニーの概念は、今日では帝国主義の概念よりも有用であると考えられています。それは2つのことを強調します。第1に、ある個人の集団(または国家の集団)の他の集団に対する支配もまた、イデオロギー的要因に依存します。言い換えれば、資本主義は歴史的に、また世界中でさまざまな形で経験されています。なぜなら、人々はさまざまな形でそれを理解する — したがって、それに同意する、あるいは抵抗する — からです。第2に、これらの関係を理解するために用いられる依存関係と集団(または単位)のタイプは、世界システム理論よりも多様で流動的です。したがって、資本主義は、強制および合意の手段を通じて再生産されるため、私たちの社会関係を支配します。この概念は、マルクスとエンゲルスが予測していたような、西ヨーロッパの教育され組織化された労働者が「連帯」し「鎖を取り除く」ことが、なぜ起きなかったのかを説明するために用いられました。ネオ・グラムシ的なヘゲモニー概念は、国境を越えた階級、組織、国際法が資本主義とその不平等を再生産する合意的な方法に焦点を当てています。大国が支配する国境を越えた資本家階級は、かつての時代のように古典的な帝国主義と植民地化という強制的な過程を通じて自らを押しつけるのではなく、リベラルな理想を普遍化する「グローバル市民社会」を​​形成します。

例えば、シンガポール、香港、韓国、台湾は、急速な工業化と1960年代から1990年代にかけての高い成長率のために、アジアの4つの虎として知られていました。これらの国々では、強力な支配的エリートが、ある特定のタイプの金融経済に同意しました。これはしばしば「ネオリベラル」モデルと呼ばれ、他の国がこの「成功」を真似しようとしたため、世界中で様々な度合いで根を下ろしました。しかしながら、グローバルなネオリベラリズムの支配にもかかわらず、広範な不平等や人権侵害が多くの社会の中で、あるいはそれをまたがる形で増加しています。ここから示されるものは、ネオリベラルのヘゲモニーは当初予測された成功にはるか及ばないものの、この認識された成功は、人々が力による脅しなしに資本主義に同意するように説得するため、資本主義の主要な推進要因の1つであり続けているということです。

IRにおけるマルクス主義のより最近の傾向 — 歴史社会学 — は、IRのより古典的な問題の一部へと戻ります。それは具体的には、資本主義への移行や植民地主義的・帝国主義的拡大の異なる瞬間に関連づけて、現代国家制度の発展を見るものです。それは、ヨーロッパ内で何が起きたかだけでなく、ヨーロッパを超えて何が起きたかをより詳しく見ていきます。さらに具体的には、1648年のウェストファリア条約を受けた主権国家制度の誕生に異議を唱え、代わりに近代的国際関係の重要な変化を定義するために、19世紀のより多くの社会・経済的プロセスに焦点を当てます。これは、マルクス主義とIR自体のより広い学問分野に見られるヨーロッパ中心的な仮定に取り組むために、学者たちがどのようにヨーロッパを超えた歴史を扱っているかを示しています。

要するに、マルクス主義は相互依存によって特徴づけられます。これについてのマルクス主義の用語は弁証法であり、それは、この章で取り上げたこれまでの概念が互いに関連している仕方を支持しています。マルクス主義にとっては、すべての概念が社会関係を反映していますが、カテゴリーはそれぞれ独自の命を持ち、しばしばそれらの社会関係を隠します。この概念を過度に複雑にしたり乱用したりすることは簡単に起こります。しかしながらそれは、世界を個々の部分だけではなく、全体として理解するための重要な出発点です。なぜなら「弁証法は世界中で起こるあらゆる変化と相互作用に焦点を当てる思考の方法なのです」(Ollman 2003,12)。

マルクス主義、移民、国境

移民へのマルクス主義のIRアプローチは、IRへのアプローチとして史的唯物論の重要性を示しています。第1に、マルクス主義者は国境の固定された側面を批判しています。なぜなら、国境は資源と労働へのアクセスを制限し制御することによって、人々の間の依存と不平等の関係を作り出すからです。一部のマルクス主義者は、国家が非市民を労働と資源へのアクセスや恩恵から除外しているやり方に対処するためには、市民権のグローバルな概念が必要であると主張しています。結局のところ、マルクス主義的視点からは、すべての国の人々は、資本主義と、彼らを分断しお互いに対立させる現代の国家制度とに反対するために団結し、人々はこの地位から自由になる(解放される)べきです。したがってマルクス主義者は、国境のことを、依存と不平等の関係、言い換えれば、誰が何をする権利を持つのかを不当に決定する固定物とみなします。第2に、私たちは、誰が移民であるか、そしてそのカテゴリーが何を伴うのかを決定するのは誰かを考える必要があります。例えば、迫害のために国を逃れた移住者であることは、亡命申請と受け入れ国での難民になるための国際法上の必要条件です。ほとんどの国家は1951年の難民条約に署名し、この定義に同意しています。したがって、この特定のタイプの移民であるという現実は、特定の条約とそれに同意する国家の意思に依存しています。言い換えれば、迫害された移民や難民のカテゴリーは相対的なものです。つまり、あなたの瞳の色が現実であり、他人が違う方法で決めることはできない、という意味の現実ではありません。

紛争、気候変動、雇用不足などに関連する貧困から逃れた人々は、しばしば経済的移民と呼ばれます。彼らの地位は、難民と同程度に明確な定義には依存しておらず、難民と同じ権利と機会につながるわけでもありません。より多くの経済的機会と比較的安全な政治環境を求めて、多くの人々がヨーロッパに向かっています。しかしながら、欧州レベルと国家レベルでの決定はますます国境の強化(または閉鎖)をもたらす結果となっています。なぜなら、経済的移住は人に自由な入国を認める十分な理由ではないと感じる人もいるためです。対照的に、受け入れ国によって必要とされる特定の技能を有する経済的移民であることは、正当性があるとみなされます。言い換えれば、「良い」経済的移民 — 国を越えて移動することが認められる人 — であることの「現実」は、移住する人間からはしばしば独立した要因に依存します。

マルクス主義は、私たちに移民を再考させ、国境を閉鎖することがなぜ、私たち全員が住んでいるシステムに関して社会的・政治的に盲目な政策であるかを示すような、独創的な切り口を私たちに提供します。実際、資本主義は領土的な境界と賃金労働を通じた社会変化という同時のプロセスを開始しました。主流のIRは、国内と国際との分離は固定され現実であるとすることにより、これらのプロセスを歴史的にも理論的にも区別しています。マルクス主義は、これが、人々の動きと国境の形成とを結びつける社会関係とプロセスを不明瞭にすると主張します。言い換えれば、国内レベルと国際レベルを分離することは、移住者であることが私たち全員が対象となる条件ではなく、特定の人々の制限であると考えることにつながります。重要なことは、それが、移民を第二級の人として扱うことを正当化し、その結果さらなる人種的・社会的不平等につながるということです。

人々の移動は資本主義のずっと前に起こりましたが、資本主義は国境の創出や経済的生産性と連動してこれらの移動を形作っています。資本主義の幕開けでの囲い込みのプロセスは、人々が狩りをしたり、食糧を集めたり、育てたりした土地から追い立てられることにつながりました。このプロセスには、羊を放牧したり、より集中的な農業の方法を開発するために、土地所有者が共有地を閉鎖または柵で囲むことが含まれていました。これは徐々に社会関係 — 人々が生き残り、繁殖できる方法 — を変えました。生きるための土地がなければ、人々は働く能力、つまりマルクス主義者が労働力と呼ぶものを販売しなければならず、しばしば家から遠く離れて働かなければならなりませんでした。人々はいろいろな理由で移動しますが、特になじみ深いのは、私たちの労働を売るために移動する必要性です。これには、田舎からその国家の都市中心部への移動や、ある国家から別の国家への移動が含まれます。言い換えれば、国境を越えているかどうかにかかわらず、この移動を引き起こすのは、働くという同じ必須の事柄なのです。資本主義的なシステムでは、働かずに生きることは難しく、働くということは、移動や、移動するために準備することを意味します。言い換えれば、理論上では、私たちはすべて移民です。これを認識することは、人々の地位を「良い」または「悪い」経済移民に固定することを含むような国境の閉鎖が、マルクス主義によって明らかにされた2つの幻想に基づいており、疑問視され、再考されるべきであることを意味します。第1は、国内と国際の区別です。資本主義は拡大しつつある国際的なシステムであり、経済的に超越できる限りにおいて、国境の存在を許します。第2の幻想は、人々のカテゴリー分けを、現実であり固定したものとみなすことです。資本主義はエリートが経済的に国境を越えることを可能にしますが、潜在力がある人が政治的に国境を閉鎖することも可能にします。したがってそれは、特定の人々(最も裕福な人)が、他人(最も裕福でない人)が自分たちの状況を変えようとすることができないように決定づけることを可能にします。

結論

より一般的に言えば、理論と知識の役割は、何が現実であり、何が幻想であるのかを明らかにすることです。史的唯物論 — マルクス主義を推進する理論 — は、人々が土地を変え、その上で物を作り出し、最終的には国家や国際機関のような政治制度を形成するためにその資源に依存しているという形の国際関係の理解を根拠にして、この助言を適用しようとします。マルクス主義は、人々や集団が国境を越えて相互作用し物を作り出す方法と、彼らが、世界中の物の生産と流通を管理し争うために、制度を通じて彼ら自身を組織している方法とに本質的に関心を持つことにより、IRの学問分野の発展にいくつかの進歩をもたらしました。より具体的には、近代の国境の建設は、資本主義の発展によって決定されるか、あるいは様々な方法でそれに結びついていると主張します。したがってそれは、私たちが経済的および政治的なシステムに帰する傾向がある自然的または必然的な特性に疑問を投げかけています。言い換えれば、あるシステムが人類の広範な道のりにおいて特殊で比較的短い歴史しか有していないために、私たちが最初に思っていたように現実ではなく、固定されてはいない場合、それが挑戦される様々な方法を想像し、マルクス主義者が望むような世界の富をより良く再配分するシステムに変容させることははるかに容易になるでしょう。マルクス自身は、哲学はしばしば世界を解釈することに重きを置きすぎており、重要な点はそれを変えることである、と主張しています。IRの理論としてのマルクス主義は、確かにその呼びかけに答えており、マルクス主義者であるということは、この理論のファミリーの中のバリエーションにかかわらず、常に世界についての考え方に挑戦することを意味しています。

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